62 従士ゲリー
ゲリー・バーグルは一人、アルシラの東部にある商人通りを歩いていた。少し前に三鐘の音を聞き、久し振りに行われる魔女裁判が観られないことを心底嘆きながらだ。主である大聖堂騎士サイラスの言い付けで、小間物屋夫婦の話を聞いてこなければならない。どうせ面倒な話に決まっている、とゲリーは盛大な溜息を吐いた。この間は、末の娘が悪い男と会っているようだから何とかして欲しい、などといった相談だった。騎士さまに相談することかよと思う。サイラスの担当区域ではあるが、そういうことは地区内にある礼拝堂の司祭あたりに言えばいいのだ。こうして雑用を聞きに行かされる身になってみろ――そう憎たらしく思いながら、ゲリーは足元の小石を蹴った。
その時、ふと、ゲリーは妙な騒めきに気付いた。北の方から徐々に近付いてきているそれは、これまで感じたことのない不穏な空気を纏っている。突如、路地を抜けてきた子供が「空!」と叫んだ。
「空ぁ?」
視線を真上に上げれば、狭い道の両脇に重なり合うようにして立つ家屋の隙間から、晴天の青空が見えている。別に何でもないじゃないか、そう思った直後、ゲリーの視界から空が消えた。いや、北側から押し寄せた黒い雲に覆われたのだ。
騒めきの波が傍近くにまでやってきた。まるで何かから逃げるように、人々が駆けていく。その顔に見えるのは恐怖だ。慌てた様子で商店へ入り、戸を閉める者もいる。
「おいおい、何なんだよ」
ゲリーは僅かな不安を感じ、足を止めた。「魔物が出た!」という声が聞こえる。「神の怒りだ」「いや、魔導士の復讐だ」そんな様々な声が耳に飛び込んでくる中、ゲリーは剣柄に手を置きながらも「何が魔物だ」と言葉を吐き捨てた。このアルシラの城壁の内側に、魔物など入ってこられるわけがないのだ。もしゴブリンどもが襲ってきたとしても、先に襲われるのは外にある貧民街の連中で、更には城壁を護る衛兵たちがいる。もし外から襲われているのなら衛兵の加勢にいき、強さを見せつけてやるのも悪くない。
ゲリーが従士でいるのは、剣を振るうことが好きだからだ。故郷の町では、同年代で自分に敵う者などいなかった。ある時、盗人とやり合い、相手を斬り殺したことがあった。空腹に堪えかねたらしいが、そんなことは只の言い訳だ。しかしその際に町人を巻き込んでしまい、親に泣いて怒られた。立派に盗人を退治したのだから褒められこそすれ泣かれる意味が分からなかったが、とにかくそれが理由か、このアルシラの町へ有無を言わさず連れて来られたのだ。それで十年ほど前から、遠い親戚が嫁いでいる大聖堂騎士サイラスに預けられ、従士として雑用を言い付けられながら生活している。数年前に後輩ができたが、これがまた気に食わないガキだ。どういう伝手で入り込んできたのかは忘れたが、サイラスの娘に気に入られ、更にはサイラスの親戚だという生意気なエリュースとも仲がいい。しかもサイラスの家に部屋を与えられて住まわされている。親戚の家で居心地悪い思いをしている自分とは大違いだ。
ゲリーは東門の方へと歩き始めた。どうせ魔物が入り込んでくるとすれば、門からに違いない。そう思いながら進むうち、どうも周囲の様子がおかしいことに気付いた。普段は町中であまり見ないボロ布を着たみすぼらしい姿をした者たちが、あまりにも多く目に入る。しかも東門の方からこちらへと向かってきているような気がするのだ。木箱がひっくり返されたような大きな音が続けさまに聞こえ振り返れば、店先を片付けようとしていた商店の鎧戸が数人によって破壊されていた。その先ではボロを着た貧民街の者たちが、地面に転がった食べ物――パンや串焼きの肉や果実――に群がっている。
「おい! 何してる!」
そう叫んだ時には、辺りの店でも同様の騒ぎが起き始めていた。女の高い叫び声が聞こえ駆け付ければ、たまに酒場の給仕をしている娘が男に腕を掴まれている。嫌がる娘が殴られ、酒場の床に押し倒されたのを見て、ゲリーは両腕で男の肩に掴みかかった。そのまま男を娘から引き剥がすと、外へと投げ飛ばす。男は腰から地面に倒れたが、すぐに体を起こし向かってきた。腕っぷしの良さそうな男の拳を、ゲリーはなんなく避ける。バランスを崩した男は再び酒場の中へ飛び込む形で床に倒れた。
「てめぇ……! 邪魔すんな!」
「てめぇこそ、ここがどこか分かってんのか? 騎士団のお膝元のアルシラだぞ! 更にここらは騎士団随一の強者サイラス様の担当だ!」
ゲリーは握り締めた拳で男を殴りつけた。倒れ伏した男が反応しなくなったことに気付き顔を上げれば、酒場の若い娘が震えながら壁に背をつけていた。明るい髪色に映える大きな緑の瞳に涙が溜まっているのを見て、悪くないなと思う。
「へえ……」
立ち上がって顔を近付ければ、娘が怯えたように僅かに顎を上げた。
「あ、ありがとう、ございました」
「ああ、礼なら後でいいぜ」
軽く肩をたたいてやり、ゲリーは降って湧いた幸運に喜んだ。これが年増や婆や男ならげんなりしたところだ。
「さっさと隠れてろよ、何だか妙なことになってるぜ」
殴り倒した男の身なりからみて、貧民街の連中ではなく、それを生業としている強盗だな、とゲリーは思った。貧民街の連中ならば、せいぜい道に転がった食べ物を盗むくらいのものだろう。倒れた男を引っ張り上げると、意識が戻っているようだ。ゲリーはそのまま引きずるようにして、男を酒場の外に叩き出した。
「こ、コケにしやがって……! おい! こいつをやってくれ!」
よろめきながら地面に落ちた男が、よろよろと立ち上がると助けを呼んだ。そう時を置かず、ゲリーの視界に入っていた路地から、声に応じたように別の男たちが飛び出してくる。
ゲリーは舌打ちした。近くに仲間が居たようだ。考えてみれば、あの手の輩は群れないと行動できない臆病者たちばかりだ。何ら不思議ではない。
集まった男たちが叩き出された男の指差す先を見たことで、ゲリーは彼らと目が合った。三人増えて四人組だ。それぞれ棍棒や小剣など、立派ではないが一応武器を持っている。厄介な連中だな、とゲリーは思った。
貴族である騎士は、一対一の戦いを好むと聞いている。正々堂々、騎士道というやつだ。騎士の本来の意味である、騎馬に乗っての戦いも得意らしい。騎乗槍を使う競技会も開くくらいの熱の入れようだ。しかし、アスプロス教団における騎士格の存在として生まれた大聖堂騎士は、貴族の騎士とは大きく異なる。馬には乗るが、少なくともゲリーは、主たるサイラスが騎乗槍を使う姿を見たことがない。大聖堂騎士にとって馬はあくまで移動の手段なのだ。
戦い方も、戦争ごっこの貴族たちとは違う。元は教団を襲う異端者たちや、荒野を往く司祭から金品を巻き上げようとする不敬な盗賊たちを相手としてきた。人々を悩ませる魔物の退治も担当し、今では司祭達の警護よりそちらの任務が主になっている。だから正面から一対一で戦うなんて事に拘りはしないし、多対一での戦い方を訓練してきた。それ故にゲリーも、多数の敵を一度に相手にする厄介さをよく知っていた。
勝ち目を増やすためにも、ゲリーは酒場の中に後退し、周りに使えそうな物がないかと見渡した。大聖堂騎士の基本的な構えは、片手武器に盾だ。剣を吊して歩くのは簡単だが、嵩張る盾を普段から持ち歩くのは現実的ではない。だから当然今は、ゲリーも盾は持っていない。しかし、四人を相手にするには少しでも最良の装備に近づけなければならない。
盾を持たないのが日常である以上、突発的に発生する戦闘についての対策も、勿論考えられていた。手っ取り早いのが、もう一方の手に小剣を持つ構えだ。長い剣であっても相手の攻撃を止めるのは難しい。だから、小剣での受け止めは不可能だ。受け止めることには使えないので、その時の小剣は、払ったり突いたりして相手を牽制することに使う。しかしゲリーはこの小剣の使い方が苦手だった。他に使えそうな物を探し、ゲリーは荒らされた酒場を見回す。すると、襲われていた給仕娘から引き剥がされたと思われる前掛けが目に付いた。それを左手に引っ掴む。
「へぇ、騎士気取りの命知らずが居るのか?」
「調子の乗ったバカには世の中の仕組みを教えてやらないとな」
男たちの話し声が近づいてくる。
入り口で迎え撃つか? そうゲリーは考えた。そこでなら一対一の環境を作れ、数的不利は影響しない。
――いや、ダメだ。
ゲリーはその案を捨てた。確かに、一対一だとそれを四回繰り返したとしても負けはしない自信はあった。しかし、戦いの場をそこに留めて置くのは難しい。鎧も盾もない現状では相手の攻撃は基本避けるしかない。そうして跳び退いたところを前に出てこられると、荒れた店内での戦闘になる。店内は外に比べれば包囲されにくいように見えるが、それだけを見ていてはいけない。後ろに下がった時にガラクタで足を取られかねず、危険が高いのだ。椅子などを投げつけられる不利もあった。ゲリーがそのように試みてもその隙を攻撃されるだけだが、数の多い向こうは、ゲリーが相手にできない位置にいる者が椅子を持ち上げ、ゲリーを攻撃できるのだ。
ここは死地だ。
そう見極めると、ゲリーはすぐに外へと飛び出した。強盗たちは慌てていなかったのだろう、距離は半分ほど、五歩ほどの間にしか詰まっていなかった。これならまだやれそうだ、と思う。
「おっと。自分から跳び出てきやがったぜ」
「つーか、見ろよ。片手に布切れ持ってやがるぜ」
強盗たちが笑った。その隙を逃さずゲリーは駆け寄ると、先頭を歩いている一人に突きかかる。充分な間があった事で完全な不意打ちにはならなかったが、それでも驚いたのだろう相手の戦闘態勢は甘かった。しかし相手が怯えたように下がったため、突きは浅く、払い除けようとした腕を傷付けただけに終わった。
「い、痛ぇー!」
傷付いた男が悲鳴を上げた。よろめいて下がったその男を押し退けるようにして、後ろにいた別の男が声を上げる。
「くそっ! やりやがったな! おい、取り囲め!」
その指示で、その男がリーダー格だと分かった。傷つけた男には、もう指示に従う余裕はなさそうだ。持っていた小剣を落とすと、もう片方の手で傷口を押さえ、更に後ろに下がっていく。おそらく戦意を喪失したのだ。先ほど投げ飛ばした男も、指示を受けて散開しようとしているが動きは鈍い。痛めつけられた後なのだ、乗り気ではないのだろう。
なら、後は二人か。
ゲリーは勝機が見え始めたことに、乾いた唇を舐めた。
多対一の一人側に立った時、試みるべき最良の手は相手を分断することなのだ。
従士であるゲリーたちは、時間ができると自発的に武術の稽古をする。特にゲリーは剣の稽古が好きだった。それに、サイラスもたまに加わる。その際は、サイラス相手に従士二人で打ちかかる模擬戦をする事が多い。サイラスにとっても多対一の訓練のつもりなのだろう。しかし、この二対一の稽古でゲリーたちが勝ったことは一度もなかった。先輩従士のトバイアと組んだ時は、サイラスを追い詰めることはあるが、後輩のタオと組んだ時はすぐにやられてしまう。タオとの組がすぐ倒される理由をトバイアは、息が合っていないから、と説明してくれた。
「いかにサイラス様とはいえ、お前たちが同時に打ちかかれば、剣と盾でそれを止めざるを得ない。それをずっと繰り返し反撃の手を出させなければ負けはしない。サイラス様でも毎回、剣で相手の攻撃を止められる訳ではないのだから……」
言うは易く行うは難し、だ。分かっていてもなかなか上手くできない。少なくともタオと合わせられないのは、タオがトロすぎるせいだ。しかし、この経験があるお陰で、多対一で一人側に回った時に心掛けなくてはいけない事もゲリーは良く分かっていた。それは、相手に息の合った連携をさせないことだ。
ゲリーはリーダー格と思しき相手に斬りかかった。相手は身を引いて棍棒を振るう。間合いを確保しようというのだろう。多少は戦い慣れた者の動きだと思う。しかし、所詮は素人だ。動きに無駄が多い。
次のゲリーからの攻撃は、左手に持った前掛けだ。それを振ると、また応じようとした棍棒を絡め取る。強盗たちは布切れだと馬鹿にしたが、空いた手に長い布を持つのは立派な型の一つだ。推奨されているのはマントを持つことだったが、前掛けでも充分に間に合った。
「くそっ、何だこれ!」
悪態をつきながら、リーダー格の男が棍棒から前掛けを剥がそうと引っ張る。思った以上に相手の力が強く、このまま引っ張り合えば力負けしそうだ。しかし、それならそれで手はある。
抵抗した後、ゲリーは前掛けを手離した。その影響で相手はよろめく。そこを逃さず前に詰めると、ゲリーは剣で胸を突いた。確実な手応えがあった。更に押してから剣を引き抜くと、相手は胸を押さえながら後ろに倒れた。まずは一人だ。
ゲリーは左右から挟み撃ちにしようとしていた二人に視線を向ける。リーダー格の男と戦っている隙を突いて攻撃を仕掛けてこなかったことから分かっていた通り、既に二人の戦意は低下している。ここで一人に減らせば、相手がやるしかないと奮起したところで、一対一の形に持っていける。酒場で投げ飛ばした男の方の腰が引けていることに気付いたゲリーは、もう一人の男の方に狙いを定めた。
「うひゃあ!」
斬りかかろうとしていた男が悲鳴を上げた。そうなるのは予想していたが、ゲリーは相手の視線が気になった。相手はゲリーの顔すら見ていなかったのだ。ゲリーの後ろの空を見ているように思う。
――その手には引っかかるものか。
ここで後ろを振り返るような愚行をゲリーはしない。むしろ、ゲリーはこの手を使う方だった。さすがに今は効かないが、昔のタオは良く引っかかったものだ。
踏み込んで斬りつけると、相手はそれを下がって避けた。いや、それだけではない。持っていた小剣を投げ出し、背を向けて駆け出したのだ。ならばと、酒場で投げ飛ばした男を見れば、こちらは既に駆け出していた。最初に腕を斬りつけた男は、腰を抜かしそうになりながら、彼らを追うように逃げていく。
「なんだ、あっけなかったな」
ゲリーは彼らの遠くなる背中を眺めながら、溜息を吐いた。いずれは逃走するだろうとは思っていたが、これほど早いとは思っていなかった。リーダー格の男が倒れたことが大きいのだろう。呻き声がして見下ろせば、先程胸を突いた男が傷口を押さえて呻いている。仲間が逃げて行っているのに気を払う余裕すらないらしい。どのみち、もう長くはないだろう。
「後ろ!」
突如、女の声がした。遅れて、それが先程、酒場で助けた女の声だと分かる。その直後、背後でドスンと何か重い物が落ちた音がした。さすがにゲリーもこれには振り返る。
「な、なんだぁ?」
そこにあったのは石像だった。羽の生えた魔物の石像で、町のどこかで見かけたことのある物だ。どうしてここに、とゲリーは思い、すぐにその理由を理解した。石像が動いていたからだ。
「な、なんだぁ!?」
驚きから同じ言葉を繰り返し、ゲリーは後ろに下がる。石像の魔物は、ゲリーの居た場所へと片腕を振り下ろした。避けることはできたが、魔物の腕は地面を抉っている。
これが町の奴らが言っていた魔物か、とゲリーは剣柄を握り締めた。攻撃された事で、驚いていた気持ちがすぐに引き締まる。一旦振り返り、落ちていた前掛けを掴むと、絡んでいた棍棒を振り落とした。倒れている男からは離れ、ゲリーは石像の魔物と距離を取る。男につまずく危険があるだけでなく、最後の復讐とばかりにしがみ付かれると厄介だからだ。
石像の魔物はゲリーを追うように距離を詰めてくると、先程とは逆の手を振り下ろしてきた。しかし、その動きは遅い。今度も簡単に下がって避けられた。
――これなら、倒せるんじゃねえか?
想像もしていなかった出来事に多少動揺していたゲリーは、石像の魔物の動きの遅さに自分の優勢を感じた。
従士はいつまでも従士であるわけでもない。最高の成功はもちろん騎士に成ることだが、上が詰まっていてはそれは望めない。サイラスにもトバイアにも恩義を感じているゲリーは、さすがに死んで席を譲れとまでは思わない。だからと言って、ずっと従士として仕えるつもりもなかった。特に、トバイアへと代替わりした時には、それまでのサイラスの従士は先任の従士の下には就かないのが普通だ。
従って、従士の転身先はそれなりに道が開けている。読み書きと算術ができ、武芸に長ける従士は、実は引く手数多の存在なのだ。それらの転身先で最も人気があるのは、富める商人の用心棒か地方貴族の護衛だろう。大聖堂騎士との繋がりが持てる、という点も転身先から大きく評価されるところだ。いずれの場合も、単に要人を護る役目ではない。多くの場合、護衛隊を率いる立場になり、時には周囲を騒がせている魔物の討伐隊を指揮することもある。
この生き方はゲリーにとって好ましい転身先だった。いずれはそうなりたいと願っていたが、この石像の魔物を倒せば、すぐにでもサイラスが認めてくれるかもしれない。そう思うと、俄然やる気が出てきた。寧ろ、誰か別の者に手柄を奪われる前に倒さなくてはいけない――そう意気込む。
「俺に会ったのが運の尽きだったな!」
ゲリーは剣を構え、石像の魔物に斬りかかった。まずは飛び上がるようにして、頭部に剣を振り下ろす。しかしその反動が想像よりも強く、ゲリーは剣を取り落としそうになりながら痺れる腕を擦った。
「硬ぇな。なら――」
次に、ゲリーは蒼く光る目を狙った。少し外したが、顔も硬いことが分かる。跳ね返されたと同時に太い腕を振るわれ、ゲリーは少し焦ってそれを避けた。これほどまでに剣が通用しない相手に、どうしたら良いのか必死で考える。思い付いたのは、剣より破壊力のある鈍器を使うことだ。この場でそれが手にいれられそうな場所は、鍛冶屋だろう。敵に背を向ける機会がほぼ無かったゲリーだったが、今回ばかりは「一時撤退しよう」と思った。堅い体を叩き割れる武器を手に入れてから、再戦だ。
ゲリーは左手に持っていた前掛けを、魔物の振り上げられた腕に投げ付けた。それが運良く、魔物の鉤爪に引っ掛かる。絡み付いた布を引き裂こうとしている魔物を後目に、ゲリーは勢いよくその場を駆け出した。
あんな魔物を相手にしてられねぇ! そう思いながら駆ける中、背後に大きく羽ばたく音が迫る。追いつかれる焦りを感じた直後、腹の辺りを何かに強く掴まれた感覚があった。
「は、――離せ! 離せええ!」
腕や足を暴れさせるも、魔物はびくともしない。気付けば地に着いていた足が、地面を離れている。
「は……? え?」
混乱しながら視線を周囲に向ければ、下方へと一気に遠ざかる町並みが見える。左を見れば異端審問院のある北の丘が、右には大聖堂の丘だ。恐怖の余り剣を手離してしまい、ゲリーは自らの体を掴む魔物の手にしがみ付いた。
「サイラス様に叱られる……ッ」
戦いにおいて武器を落とすことは、その時点で負けだ。そう、サイラスに言われてきた。落としてしまうなら、革紐を使えと。しかしゲリーは頑として革紐を使ったことがなかった。どうしても「そんな格好悪いことができるか」という考えが無くせず、そんなものは必要ないと高を括っていたのだ。
ふいに、もう一つの手にもぎ取られるようにして、しがみ付いていた両腕が剥がされる。叫び声を上げる間もなく、ゲリーは宙に放り出された。
引き攣った喉から一瞬出た叫びは、すぐに途切れる。下からの冷たい風で眼球や頬が痛く、視界に迫ってくる町並みは逃げてはくれない。事あるごとに口酸っぱく苦言を言いながらも面倒を見てくれていた、サイラスやトバイアの顔が思い出される。
「畜生……ッ」
ゲリーは歯を食い縛り、強く目を閉じるしかなかった。