57 予見されし呪い
「デューク……!」
デュークラインが倒れる様を、カイは目の当たりにしていた。こちらへ歩んでこようとしていた彼が体勢を崩し、振り向き様に何者かに刃物で襲われたのだ。背中から倒されたデュークラインの呻き声が確かに聞こえ、彼の胸から引き抜かれた刃に彼の血を見た。持ち上げられて見えたデュークラインの顔に表情は無く、瞳からは生命の光が急速に失われていく。僅かに開かれた薄い唇の端からは赤い血が伝い落ちており、再び地に落とされた彼の体はぴくりとも動かなかった。
「いや……、デューク、デューク……! いや! いやぁ……!」
カイは目の前で起こったことを受け入れられなかった。何度呼び掛けても、デュークラインは反応しない。これまではどんな小さな声であっても応えてくれていた男が、これほど叫んでも応えてくれない。
わたしのせいだ。
わたしが我が儘を言ったから。彼に殺されたいなんて、彼の腕の中で死にたいなんて願ってしまったから――。
顔を上げれば、デュークラインを刺した男と目が合った。満足そうに口元を歪めた男の嘲笑いが見える。それを見て、カイの悲しみは怒りに変化した。これまで感じたことのない強い感情に、体の内側で火が燃え上がるように感じる。デュークラインを殺した男が憎い。それにも増して、結果的にデュークラインを死に至らしめた自分が、何より憎い。
デュークラインは、色の無い世界に鮮やかな色を与えてくれた人だった。この名前を呼んでくれる彼の声が、好きだった。彼の温かで優しく大きな掌が好きだった。あの手で、髪や頬を撫でられるのが好きだった。彼の太い腕に頭を預けて眠るのが好きだった。怖ろしい夢を見ても、眠るまで頭や背中を撫でていてくれた。彼の胸に抱かれれば、いつだって安心できたのだ。その内に長く離れて過ごすことが多くなったが、それでも、彼は変わらず優しかった。
決して名前を呼んではいけない時もあったが、その時は彼は別人なのだと自分に言い聞かせた。そう思い込まなければ、生きていられなかったからだ。初めてあの怖い男が塔にやって来て、去った後、痛みで霞む視界に見えたのは、彼の苦しげな顔だった。今にも泣き出しそうな、あの表情を見た時、あぁこの人は本当に優しいのだと思った。懐かしい気がする夜の空のような瞳を、ずっと見ていたいと思った。あの真摯な瞳を見る度、闇の中から引き上げられる気がしたのだ。この人のためになら、痛みにも耐えよう。この人が生きて耐えることを望むなら、限界まで生きよう。この人のためにならどんな目に合っても良いと、そう、思っていた。確かにそう、思っていた筈なのに。
カイは男に掴まれている両手の枷を外そうと、藻掻いた。しかしすぐに男に組み伏せられてしまう。強い力に抗えず、デュークラインの元へ行くことができない。
「その髪はファビウスだ! そいつを捕らえろ!」
傍にいた男が叫んだ。
倒れているデュークラインを足蹴にしている歪んだ顔の男が、楽しげに笑いながら周りを取り囲む兵士に小剣を向ける。太陽の光を受けて光るその刃は、何をおいても失いたくなかったデュークラインの血で濡れている。
「あああ……ッ」
カイは耐え難い痛みに呻いた。
体よりも、胸の奥が引き裂かれそうに痛い。ああ何故、ひっそりと彼と生きることすら自分には許されないのか。それならばいっそ、全てを焼き付くせば気が済むのか。この身ごと。
『――ならば力を貸してやろう』
ふいに、頭に直接語り掛けられるような声が聞こえた。低いその声は知らない男のものにも、自分自身のもののようにも思えた。
痛みで朦朧とする中、導くように声が響く。
『お前の大事な男を殺した奴らに、どれほど愚かなことをしたのか思い知らせてやるがいい――』
そうだ――とカイは思った。この枷が外れたなら、彼を殺した男をこの手で殺してやりたい。その後はわたし自身を殺そう。すぐにデュークの元へ行けるように――!
強くそう思った瞬間、カイは自らの内に異変を感じた。闇の底へ引きずり込まれるような感覚に襲われる。抗おうとするも、抵抗を許されない。耳元で囁かれるような低い声に、身動きが取れなくなる。誰かに対する呪いの言葉が、体中に流れ込んでくるのを感じる。それは胸の奥に抱き抱えていた想いにまで到達し、優しい記憶までも知らない光景に塗り替わっていくのだ。自分のものとは違う憎しみが加わり、混ざり合い、膨れ上がる憎悪を止められない。自らの急激な変化に、カイは混乱し、恐怖に慄いた。
気付けば、いつか夢で見た暗い牢内にいる。体は幾つもの鎖に繋がれ、目の前には血のついた白い布に包まれた何かがある。意思に反してそれに手が伸び、布を捲ると、そこには切り落とされた血塗れの手首があった。ほっそりとした女の手だ。
カイは息を詰めた。セリュエスの手だ。一瞬確かにそう思った。すぐに、そんな名前は知らないと否定する。顔を上げれば、牢の覗き穴から誰かが見ている。それは、夢で見たことのある男だ。若い頃の、塔に来ていたあの男だ。そう認識した時、更に憎しみが増幅するのを感じた。その男に、知らない名前で呼びかけられる。
「ち、がう……っ、わたし、は、――……」
頭に霧がかかったように、言葉にしようとした名前が、思い出せない。思い描いた愛しい者の顔が、霞み、見えなくなっていく。
「わた、し、は……っ」
こんなことは望んでいなかった。ただ、彼への想いを抱いたままでいたかっただけなのに――。
娘は自分が自分で無くなる感覚に、震える体を丸め、叫んだ。
* * *
デュークラインは、泣き叫ぶカイを観ていることしかできなかった。カイが何かに抗うように首を左右に振り、異端審問官に乱暴に組み伏せられるのを、ただ眺めているしかなかった。体に深く刺し入った刃は内臓を傷付けたのだろう。弱った体ではもう、指先すら動かすことができない。この手を求めている哀れな娘を、抱き寄せてやることができない。声を出そうとして零れるのは湧き上がる血だけで、愛しい娘の名を呼ぶことすら叶わない。
――四年ほど前、この腕の中で黒曜石のような瞳を見た時、デュークラインは素直に美しいと感じた。痩せ細り、肌は荒れ、細く長い髪は絡まり櫛も通らない状態の娘だったが、その瞳は無垢で汚れの知らない宝石のように見えたのだ。思えばあの瞬間から、あの娘に魅了されていたのかもしれないと思う。
それでも最初の内は、与えられた仕事の一環だという認識だった。娘の世話には本当に苦労したため、それで人間の情のようなものを感じるようになったのだろうと思っていた。しかし次第に離れている間も娘のことを考えることが多くなり、気付けば娘のことを考えていることが常になった。塔へ帰る度、この胸に縋る娘の姿に安堵し、娘が頼る腕が自分のものであることが、何より嬉しく感じていたのだ。少年たちと出逢い、少女のようだった娘が急速に成長していくことには、戸惑いもあった。しかし、表情が豊かになり、言葉数が増え、その瞳に思慕を宿すようになった時には、既に自分は娘を愛していたのだ。
自分を呼ぶ声が聞こえる。カイが泣いている。それを宥めてやることが、もうできない。
デュークラインはどうしようもない無力さを嘆いた。結局最後まで、自分はカイを傷付けるのか。カイの小さな願いすら叶えてやれず、挙げ句、カイを再び闇の中へ沈めようとしている。美しい黒曜石の瞳が狂気じみた色を帯びていくのを、止めてやれない。
――カイ。
デュークラインは声に成らない声で、カイを呼んだ。
この名が自分のものだと理解した時のカイの涙を、未だはっきりと覚えている。まだ表情は乏しかったが、嬉しそうに笑ったのを確かに感じた。女主人から与えられた藍晶石のペンダントはデュークラインにとって命と同等に大切な物で、その宝石から、デュークラインは大事にしなければならない娘をカイと呼ぶことにしたのだ。その切っ掛けは些細なことで、ただ名前がないと不便だったからに過ぎない。カリスは安直なと不満そうだったが、カイが認識したことで定着してしまった。カイには母親が付けた本当の名前があっただろうか? 今更ながら、そんなことを思う。
どうかカイを救ってやってくれ、と、デュークラインは強く願った。塔に来た少年たちが思い浮かぶ。カイを外の世界に触れさせた彼らの声が、何処か遠くで聞こえる気がする。
デュークラインは聞こえなくなったカイの泣き声に自責の念を抱きながら、重い瞼を閉じた。
* * *
「やばいぞ……!」
エリュースが隣で叫んだ瞬間、タオはその場を駆け出していた。まだ何が起こったのか分かっていないように動かない観客を掻き分け、倒されたデュークラインの元へ向かって階段を下る。儀侍兵が取り囲む場所に辿り着き、彼らを押し退ければ、意識を失っているようなデュークラインの姿が見えた。その彼を踏みつけたまま小剣を翳している男に対し、タオは迷わず剣を抜いた。
「その足をどけろ!」
勢いのまま剣を振るえば、意表を突かれたのか、赤い巻き髪の男が慌てたように飛び退いた。目が合った男の顔は焼け爛れているが、何処かで見たことがある気がする。そう思っていると、男が思い出したかのように笑った。
「なんだ、またお前か。つくづく縁があるよなあ?」
「お前は――」
「収穫祭で私を牢にぶち込んでくれた従士だろう?」
そう言われ、タオはようやくファビウスを思い出した。では何故今、牢にいないのだと思う。彼が逃げたという話は聞いていない。
「直ちに巻き髪のファビウスを捕縛せよ!」
強い支配力のある声が聞こえ、それに圧されたかのように儀侍兵たちが動いた。ファビウスに縄が投げられ、数人がかりで引き倒し縛り上げる。それでも歪んだ笑い声を零すファビウスが、タオには不愉快極まりなかった。
「タオ!」
遅れてやって来たエリュースが、すぐにデュークラインの傍に膝をつく。タオも剣を収め、彼の傍に寄った。エリュースの両手がデュークラインの体に触れる。脈を確かめるように首筋に手を当て、衣服を剥ぎ傷口を確かめているようだ。
「エル、容態は……っ」
問えば、エリュースの眉間の皺が深まった。その時、儀侍兵たちの剣が自分たちに向けられたことにタオは気付いた。傍にはいつの間にか見知らぬ異端審問官が立っている。この儀侍兵たちは彼の護衛なのだろう。落ち着き払った様子に見えるその男の太めの眉は、深く顰められていた。
「お前たちは何者だ? デルバート卿は……死んだのか」
「いいえ!」
その言葉に不快感を覚え声を上げる前に、エリュースの声が上がった。
「微かですが、まだ息があります! 私は司祭見習いで、多少心得があります。私が傷を治します!」
「癒しの技を?」
「使えます!」
エリュースがそう答えると、相手の異端審問官が許可するかのように頷いた。
「勇敢だな。この観客の中には他にも司祭はいるだろうに」
異端審問官の言葉を聞きながら、タオはその場に屈み込んだ。デュークラインの顔面は蒼白で、未だ胸から血が流れ出ているように見える。彼が異端審問院に捕らえられたと聞いてから、久し振りに見る姿だ。どうやって逃げてきたのかは分からないが、こうまでしてカイを救おうとした彼は、本当にカイを愛しているのだと思う。
民衆の騒めきが身近に起こり、タオは顔を上げた。兵士に護衛された異端審問院長の姿が、割れた民衆の間から現れる。眉を吊り上げた審問院長の顔は、怒りと困惑に満ちていた。
「離れろ! その者は偽者なのだ! 手当てなどする必要はないのだぞ!」
そう異端審問院長が叫んだ時には、既にエリュースの両手は白い光を帯びていた。彼は集中状態に入っており、審問院長を相手にする気はないようだ。業を煮やしたのか審問院長が伸ばした片手を、タオは立ち上がり、腕を出すことで遮った。
「お前は何者だ!」
「聖堂騎士の従士タオ・アイヴァーです。治療の邪魔はさせません!」
今すぐ傷を塞がなければ、デュークラインが危ない。それに、この状態のエリュースを護るのは自分の役目だと、タオは自覚していた。
格下の者に制された怒りからか、審問院長の顔が紅潮し、眉が吊り上がる。
「従士の分際で! これは騎士団による侮辱、越権行為であるぞ!」
強く宣言され、今度はタオが半歩下がらざるを得なかった。自分一人の責めならば、甘んじて受ける覚悟がある。しかし大聖堂騎士団全体に迷惑が掛かるとなると話は別だ。まして今の自分は、主であるサイラスに謹慎を命じられている身なのだ。
「まあ、良いでしょう。ウォーレス院長」
背後から宥めるような声が届いた。審問院長がそちらを向き、タオも振り返る。彼に声を掛けたのは、先程エリュースと言葉を交わしていた審問官だった。
「ジェイ……!」
「その者が息を吹き返したならそれはそれで、我々には聞きたいことがありますからな」
「むっ……」
審問院長は明確に同意しなかったが、それは体面を保つためのようだ。聞かれたくない話なのか、傍に寄って続きを小声で話し合う二人の様子に、タオはとりあえずこの場は止められたらしいと判断する。安堵し、エリュースの様子を確認しようと振り返る途中、もう一つの心配事がタオの心を突き動かした。カイのことだ。
助けなくては、という思いが再び頭をもたげ、タオは思わず剣の柄に手を伸ばした。それに反応したのは、審問院長と話している異端審問官だ。ジェイと呼ばれていたその審問官が顔に警戒の色を浮かべ、片腕を審問院長の前へと伸ばす。それで我に返ったタオは、握りかけていた柄から手を離した。審問院長の暗殺と誤解されては困る。さすがにそう勘違いされると、タオでも大聖堂騎士団全体に責任が及ぶことを重々理解できていた。頭を下げて害意が無いことを示しつつ、タオは上目遣いで舞台の様子を確認する。そこにはやはり、異端審問官に押さえつけられているカイの姿があった。
デュークラインが命がけで生み出してくれた混乱を利用し、カイが逃げてくれたらという願望があったが、全く理論的では無いことはタオ自身、分かっていた。カイは拘束されているのだ。もし自由の身であったとしても、この場から逃げられる体力などカイに有りはしない。いや、自由の身であれば、逃げずにデュークラインの元へ駆け寄ってきているだろう。どのみち、カイは助かりようがないのだ。
ふとタオは考えさせられた。離れた場所で押さえつけられていたカイであれば、こちらも半ば諦めがついていた。あれほどの酷い扱いを見ていられず止めさせようとはしたが、これ以上の苦痛を与えられることなく殺されるのであれば、それがカイにとってせめてもの救いとなるのかもしれない。ここに来るまでも、この苦しい胸に、そう言い聞かせ続けてきたのだ。だが、手の届く範囲にまで来たカイを再び処刑台に連れて行こうとする行為を、このまま諦め、見捨てられるだろうか?
タオは両手を強く握り締めた。従士としての正しい答えはすぐに分かった。しかし心と頭の下した答えは、正反対のものだった。その時が来てしまった時、心が勝つか頭が勝つか――いくら考えても、二つの答えがタオの中で鬩ぎ合う。
……迷い。そう、タオが迷っている時、異変が起きた。小さな異変だ。
カイを押さえつけていた異端審問官が急に身を起こし、カイから離れた。縮み上がっている両手は、まるで炎に触れて火傷することを恐れているように見える。その変化はすぐに、更に大きな変化へと移行した。最初タオは何が起きているのか理解できなかった。砕け散る破片――それがカイの両腕を拘束していた枷だと、砕け散る瞬間を見ていた筈のタオは遅れてそれを認識した。
「――えッ」
タオは驚き、顔を上げた。その動きに釣られたのか、異端審問官と審問院長も舞台を向く。その様子はもうタオの意識の端にあり、それ以上の認識はタオにはできなかった。
緩慢な動作で起き上がったカイが、幽鬼のようでいて危なげなく、その場に立ち上がる。
「カイ……?」
黒い瞳は仄かに紫色の光を帯びており、涙の跡が見える彼女の頬に、可笑しげな笑みが薄く浮かんだ。
――カイじゃない?
そうタオは思った。あの時に見たカイのように感じる。暗殺者を砕き、デュークラインを殺そうとした時と同じだ。
「我は……」
そう、聞こえた気がした。カイの声は掠れていた。それで聞こえにくかった筈なのに、タオは違和感を覚えた。カイの姿をしたカイではない存在、という違和感だ。
「貴様っ!」
カイから一度離れた異端審問官が、腰に下げていた棍棒を振り上げた。が、それは振り下ろされずに空中で制止する。カイの右手が、彼に向けられている。次の瞬間、審問官の腕が破裂した。辺りに鮮血が飛び散り、異端審問官は棍棒と共にその場に崩れる。
舞台を見下ろす客席のあちこちで一斉に悲鳴が上がった。同時に急激な流れも起きる。民衆が逃げようとしているのだ。
「ば、馬鹿な!」
「まさか……」
審問院長と異端審問官がそれぞれ呟くように言った声が聞こえたが、痺れたように感覚が鈍くなっているタオの頭では、どちらがどちらの発言だったのか区別ができなかった。
「ええい、何をしておる! その娘を取り押さえろ! いや、この場で斬り捨ててしまえ!」
怒りの交じった発声に、タオの意識もぴしゃりと叩かれた。審問院長の命令だ。勿論、タオにはそれに従うつもりも義務もない。しかし儀侍兵たちは別だ。それを心配し、タオは彼らを見回した。見れば、彼らはすぐに動けない様子だった。驚きと、おそらく怯えからだろう。その時、審問院長の隣にいた異端審問官――ジェイが広げた片手を挙げた。その身振りは、彼の指揮下にないタオにもはっきり分かった。「待て」の指示だ。
「正解だね。今、近付くと危険だよ」
後方から聞き覚えのある声がした。振り向き、タオは驚く。
「スバルさん!?」
「やあ」
挨拶するようにタオに小首をかしげると、スバルの視線は舞台へと向かった。タオも今、最も気になるのはそこだ。
「凄まじい魔力だね。高密度の魔力を体内に送り込むとああなるんだね。初めて知ったよ」
いつものようにどこか違う観点の言葉だ。そこにスバルらしさを感じたタオだったが、同時に何かいつもと違うという感覚もあった。
「一体、何が――」
「君は分かっている筈だよ。心が拒否しているだけだ」
スバルが舞台を見据えたまま言った。タオは、確かに自分の中に答えがあるのを分かっていた。しかし、それを真正面から見据える前に、カイから言葉が発せられる。
「我は……、我はウィヒト。ウィヒト・アーゼオンなり」
その宣言に、それまでショック状態で動けなかった観客たちも逃走に加わった。数少ない出入り口に群衆が押しかけ、観客席は大混乱に陥る。本来その整備に携わる筈の兵たちも大きな奔流の前には成す術もない。最前列にほど近いタオたちは、その騒動の外側に位置していた。
「やはり、降臨したのか……いや、させてしまったのか……ッ」
異端審問官が苦々しく言ったのをタオは意外に思ったが、そう感じた理由を掘り下げる余裕はなかった。すぐ近くまでやって来たスバルに、脇腹を肘で小突かれる。
「ほら! この混乱をすぐに収められる人物がいるとしたら、君しかいないぞ騎士見習い」
「え?」
「大衆の面前で、ウィヒトの復活は成された。ここで、前みたいに君がお姫様を取り戻せれば、彼女はウィヒトの呪いから解放されるよ!」
そう言われ、タオは背中を這い上がるぞくぞくとした感覚を覚えた。これまで、エリュースやカリスはカイの呪いが発現しない方策を探り、努力していた。しかし、呪いが発現した後で取り戻すという荒い方法は、その呪いを解く事にもなるのだ、と初めて理解したのだ。そう教えてくれたスバルに畏敬の念を覚えたその時、タオは先程掴み損ねた違和感が何かに気付いた。スバルの目はいつもどこか楽しんでいるような捉えどころのない光を湛えていたが、今は真剣な眼差しで、ギラギラと怖いぐらいに輝いているのだ。
後ろを振り返れば、審問院長が踵を返し、観客席の階段を上り始めていた。出入り口に向かっているのではない。人のいなくなった移動しやすい空間を進んでいるようだ。危険な舞台から遠ざかろうとしているのだろう。
「――うん」
タオはスバルに向き直り力強く頷くと、舞台へと上がった。
陽光が降り注ぐ中、血に塗れたカイが倒れた審問官の傍に立っている。
「カイ!」
タオは腹の底に力を込め、カイを呼んだ。カイであってカイでない存在が顔を上げ、視線を向けてくる。その冷たい眼差しは、やはり今までの優しいカイのそれとはまるで違う。それでもタオには、先程本人が名乗ったように、大災厄を起こした魔導士ウィヒトだとは思えなかった。断じて、納得はできなかった。
「カイ、目を覚まして! 君はそいつに操られているんだ。前みたいに、そんな奴を追い払って――」
「そなたは……」
カイではない存在に声を掛けられ、思わずタオは言葉を詰まらせた。見据えられただけで、今まで感じたことのない息苦しさを感じる。カイから、圧倒される雰囲気を感じるのだ。或いは、魔法に疎い自分でさえも感じられるほどの強い魔力を当てられているのだろうか? そう考え、脳裏に腕を吹き飛ばされた異端審問官の姿が浮かび、タオは自分の足が震えそうになるのを必死で堪えた。
「宿主の魂に強く訴えかけるものを持っているな。前回は、宿主の魂をしっかりと掴む前にそなたの声に突き飛ばされ、支配を手放してしまったが……そういう邪魔が入ると分かっていれば、もう二度と同じ手は食わぬ」
タオは思わず唾を呑み込んだ。カイの声であっても、発声の仕方から喋り方まで違う。威厳すら感じられるその声と向けられる視線に、タオは知らず足を後退させていたことに気付いた。
気付けば、スバルがタオの横に並んでいる。その目はタオを向いておらず、ウィヒトと名乗った存在に向けられていた。
「ウィヒト様。貴方の望みはどこに?」
「無論。セリュエスを殺し、私を陥れたメルヴィン・クィーダの首だ」
これまでとは違う衝撃が辺りに走った。叫んで逃げ惑っている民衆にはそんな余裕はないだろうが、舞台近くで話を聞いていた者たちには聞こえたのだろう、言われた内容に混乱している声が後方で上がっているのが聞こえる。
「大主教様が陥れただと? どういう意味だ!」
勇敢にカイの姿をしたウィヒトに声を掛けたのは、最前線で指揮を執っている異端審問官ジェイだった。すぐ傍にまで近付いてきている。
「大主教……。そうであったな。奴は偽りの階段を上り、聖杖を手にした。……蝕を起こしたのは奴だ」
先程以上の動揺が広がったのをタオは感じた。タオもその一人だ。体験こそしていないが、ウィヒトが蝕の術を使い、半島の大半を巻き込む大災害を引き起こしたことは知っている。その復興にも尽力したと伝えられる大主教が寧ろその原因だと言われても、正反対の内容を俄かに受け入れられはしない。
「戯言を! 蝕を起こせるのは魔導士共の秘術だ。大主教様に起こせる筈がない!」
「その通りだ。奴が、我に起こさせたのだ。セリュエスの命を盾に。だが奴は、既にセリュエスを殺していた」
今度の衝撃は、さすがに異端審問官からの問いも止めさせるものだった。ジェイの太い眉が、考え込むように顰められる。目の端に見える者たちが信じられないという顔をしている中、意外にもジェイは冷静に話を受け止めているようにタオには思えた。
「我は愚かだった。奴の野心を見抜けずに、何の保証もない取引に応じてしまった。その愚行が、我らだけでなく、同胞までもを破滅に追いやってしまったのだ」
自然と視線の落ちていたカイの頭が持ち上がる。その目には燃えるような怒りが光を放っていた。
「故に、我は今こそ復讐を果たす。メルヴィンを引き裂き、奴を裁けなかった教団も討ち滅ぼしてくれる」
カイが一歩前に動いた。舞台を囲んでいた儀侍兵たちが、気圧されたように一歩下がる。しかしタオは動けなかった。隣にいるスバルも下がらなかったが、動かないのか動けなかったのかは分からない。
「メルヴィン、姿を見せろ! 八つ裂きにしてくれる!」
ウィヒトの叫びに、観客席の上方から悲鳴のような声が返される。審問院長だ。
「だ、大主教様は居られぬ! ここには居らぬのだ!」
「ふーーっ!」
カイがまるで襲い掛かろうとする前の獣のように息を吹いた。やや前屈みになり舞台を見回すと、ゆっくりと背筋を伸ばす。
「ならば、ここには用はない……!」
そう言うと、カイはふと脇に視線を落とした。
「まだ息があったか。丁度良い」
カイが屈むと、倒れていた異端審問官の首を掴んだ。細い女子が大の大人の男を片腕だけで吊り上げる異様な光景に、タオは再び湧き上がった唾を呑み込む。審問官の体は片腕が捥げている状態だ。儀侍兵たちが、更に包囲を緩めた。
「――暗き領域に住む忠実なる獣よ。この贄の魂を糧とし、血肉を喰らい、我が命に応じよ……!」
タオも理解できる言語でカイが言葉を綴った直後、死んでいたと思っていた異端審問官が急にもがき始めた。どうやら気を失っていただけのようだ。すぐにタオは、気を失ったままの方が良かっただろうにと同情した。異端審問官の体が大きく震え、開かれた口から言葉にならない金切り声が上がる。天を仰いでいた彼の頭から体を切り刻むようにして空間が捻じ曲がり、暗い歪みが大きく口を開けた。黒い渦が天にまで届き、晴天の空に雷鳴を閉じ込めた暗雲が立ち込め始める。散り散りに吸い込まれていく血と肉片が跡形もなく呑み込まれると同時に、その歪みから異形の魔物が現れた。
タオは凄惨なその光景に吐き気を覚えながら、現れた怪物を見上げた。絵で見たことのある獅子のような頭に、蒼く燃えるような目だ。鋭い牙を持つ大きな口が開かれたかと思えば、地響きのような唸り声が上がる。グエル・ウルフのものとは桁違いの恐ろしさだ。魔物が纏う瘴気の突風に煽られ膝をつけば、魔物の背にある蝙蝠のような羽が大きく広がりを見せていた。すぐにタオの頭に、相当する魔物の名前が浮かぶ。
「ガーゴイル?」
口にした直後に、タオは自信がなくなった。ガーゴイルは大聖堂の雨樋像としても造られている羽の生えた魔物だが、石像のガーゴイルは二枚の羽に二本の腕だ。しかし、今、目にしている魔物は、羽も腕も四つある。
「の元になった魔物だろうね」
スバルがタオの呟きを引き継ぐように言った。
「たぶん、マヴロスの領域ではああいうのが下僕として存在しているんだろうね。かつてマヴロス自身か、その使徒があれを出したことがあって、その姿だけが石像として伝え作られたんじゃない? だって、四本より二本の方が作りやすいからね。で、その術が魔導士狩りの時でさえ使われなかった理由がさっきはっきりしたね。生贄が必要だから、後世にはうまく伝わらなかったのさ」
スバルの言葉を聞きながら、タオは複雑な気持ちになっていた。カイを痛めつけているのを見た時には殺したいほど憎いと思っていた相手ではあったが、ただ殺されるだけよりも質が悪い凄惨さだ。
人の背丈の二倍ほどの大きさがある魔物の出現に、混乱はさらに過熱した。最前列にいるタオたちはその混乱に巻き込まれはしなかったが、事態の変化に行動が付いていかない。その間に、カイの姿を借りたウィヒトは魔物の背を上り、肩に跨った。魔物の四枚の羽が羽ばたき始める。
飛んで行ってしまう――そう気付いた時には、タオは突進していた。ただ単にカイの体を持って行かれるのを阻止したかったのだ。そのために魔物を攻撃しようと剣を抜いた。しかし間合いに入る前に、魔物の二本の腕が左右から振り下ろされる。
「――しま……っ」
――間に合わない。
突進した勢いが切れておらず、後ろには跳べない。剣で止めようにも片方しか止められない。いや、おそらく、あの大きさと勢いでは止め切ることは不可能だろう――一瞬の内に、タオはゆっくりとした感覚の中でそう冷静に判断できていた。次に確実な死がやって来ることさえ、タオは分かっていた。
が、強い衝撃と共に、時間が急に元のように動き出した感覚があった。気付けば、仰向けに倒されている。胸を激しく突かれたように、息ができない。
「そなたには死んでもらっては困る」
目を開ければ、カイの右掌がこちらに向かって伸ばされていた。
「宿主の魂が壊れてしまいかねないのでな。もう暫く、我が完全に掌握するまで大人しくしておれ」
タオは激しく咳き込んだ。息が少し戻ってくると、今の自分が押されて助かったのだとわかる。エリュースの衝撃波のようなものがぶつけられたのだ。
「ま、待て……」
絞り出した声は届かず、四枚羽の魔物はカイを乗せ、暗い空へと舞い上がる。その姿は広がる暗雲に溶け込むようにして、タオの視界から消え去った。




