55 処刑の朝
まんじりともせず、タオは朝を迎えていた。とうとう、今日の午後に公開処刑が行われるのだ。昨日の雨が嘘のように、窓を塞いでいる羊皮紙が、陽光を含み明るく輝いている。
タオは起き上がることもできず、両手で顔を覆った。サイラスに事情を話した後、暫くして彼から謹慎を命じられたのだ。それは二十日もの期間で、従士としての仕事は与えられないと言い渡された。その分の給金は出ない。タオは当然のこととして、その懲罰を受け入れた。カイのことで頭がいっぱいで、仕事など手につかない様子を見られたのだろう。それからは家の中のことを手伝うことは許されたが、無断で外出することもできなくなった。エリュースには、この数日は会えていない。サイルーシュからは「エルなら、ああは言っても何かしら考えるわ」と言われている。それを頼りにしていたが、もう今日が、カイが殺される日だ。
昨夜、サイラスから外出禁止の命が解かれた。広場に行っても良いし、リタイに居る母親に会いに行っても良いとも言われた。「姉が殺されるのを観ろと言うのですか」と、タオは口にしていた。鬱々とした気持ちが、行き場のない憤りが、タオの中で収まり切れなかったのだ。黙ったサイラスの表情を見て、タオは発した言葉を後悔し、「すみません」とだけ伝えた。サイラスがこの不義理をした従士の気持ちを慮ってくれていることは充分に感じたものの、彼がカイを見捨てる選択をしたことは事実なのだ。
タオは自分自身が情けなかった。
サイルーシュのためにもお前は絶対に勝手に動くなと、エリュースに言われている。自分一人で動いても結果的にカイを助けられず、カイのためにならない――自分の力量不足も含め、タオは頭では理解していた。しているが、平静でなどいられる筈がないのだ。あのサイルーシュより小さく頼りない体の姉が、異端審問官によって皆の前に引きずり出される。生きたまま火炙りにされようとしているのだ。それを、どうすることもできない。
今日、公開処刑が行われることは、アルシラ内外に広く知らされているらしい。サイルーシュによれば、数日前からアルシラに入ってきている人々が多くいるそうだ。衛兵団も町の警備を強めているらしく、公開処刑で浮き足立った民が争いを起こしたり、それに乗じて盗みを働くような輩を出さないためだろう。
タオはゆっくりと上体を起こし、大きく溜息を吐き出した。涙が自然と零れてしまう。拭っても拭っても、溢れてくる始末だ。
扉が遠慮がちに叩かれ、タオは顔を上げないまま短く声を返した。暫くするとサイルーシュがそっと近付いてくる気配がし、何も言わずにその胸に抱き締められる。感じる柔らかさと温かさが、今は少し辛い。この温もりはカイに与えられるべきなのにと思う。
「……ルゥ、神様って本当にいるのかな」
「タオ」
「いるなら、どうしてカイを助けてくれないんだろう」
本気で、タオはそう思っていた。敬虔な助祭だった父フォクスが何者かに殺され、今は姉が殺されようとしている。幼い頃より信じてきた神というものの存在が、最早タオには分からなくなっていた。
「タオ……。アスプロ様にはきっとお考えが……カイを苦しみから救ってくれようとしているのかもしれないわ」
「死んだら、カイは救われるの?」
顔を上げてサイルーシュを見れば、彼女の頬が濡れている。タオは瞬時に後悔した。彼女こそ、カイのことを想っていない筈がないのだ。
「ごめん。ほんとに俺、どうかしてる」
「いいの、いいのよ、タオ」
再び、サイルーシュに抱き締められる。彼女が泣いているのを感じ取り、タオはサイルーシュの背に両腕を回した。震える体を抱き締める。
「……一緒にいてくれる? ルゥ。何もできなくても、せめて傍にはいてあげたいんだ」
それが友達として、弟として、今の自分にできる精一杯のことだと思う。
サイルーシュが頷いてくれたのを感じ、タオは彼女を抱き締める腕に力を込めた。
* * *
「大主教様が?」
サイラスは騎士団本部の執務室で、オルダスから驚くべき報告を受けていた。大主教の護衛任務に就いていた彼によれば、大主教が今朝方、アルシラを出たという。
「確か、今日の公開処刑に参加する予定ではなかったか? 一体何処に何用で?」
「いや、招待はされたものの、まだ返事はしていなかったようだ。行き先を尋ねたんだが、所用ですぐ戻ると言い切られてしまえば追求も止めることもできず……。護衛に就こうにも、我々も急にアルシラを出るのは無理だからな。まぁこれで、こちらが広場の警備をする必要はなくなったというわけだが」
そう言ってオルダスが小さく溜息を吐いた。
「お一人でか?」
「いや、奥方とヴェルグ様が一緒だ。確か使用人もいたな。近くの別荘地にでも行くのかもしれない。衛兵も連れていたし、大丈夫だとは思うが……」
「それにしてもこんな時に……?」
サイラスには、どうも妙な具合だと思われた。タオの話では、閉じ込め隠していた娘は大主教の娘だという。それが真実ならば、自らの娘を見殺しにして沈黙しているということだ。予言が阻止された後には、必ず大主教の罪を明らかにしてやらねばならない。それが、不幸な娘に対するせめてもの償いだ。
「間者の件もある。準備が整い次第、大主教様の迎えに出た方が良いだろう。団長は何と言っている?」
「貴方と同じことを」
「そうか……」
このまま大主教が雲隠れしてしまうことはないのだろうか? その懸念をサイラスは抱いた。大主教は騎士団が娘に関する情報を掴んでいることを知らない筈だ。しかし異端審問院はどうか。彼らも大主教を糾弾する用意があり、大主教もそれを知っているとしたら。家族ごとアルシラを出て戻らない可能性もある。
「オルダス。なるべく早く、準備を整えるんだ」
大主教を逃がすわけにはいかない。
サイラスはオルダスにそう促し、鳴り響き始めた大聖堂の鐘の音に、両手を握り合わせた。
* * *
昨日の雨が嘘のように晴れている。
デルバートは常歩で歩かせている馬上から空を見上げ、晴れやかな青色に目を細めた。昨日は激しい雨のせいでアルシラに向かうことができず、町の宿に足止めを食っていたのだ。
隣で芦毛の馬に乗っているのはカークモンド公爵クラウスで、彼がわざわざ船に乗せ連れてきただけはある、見事な軍馬だとデルバートは見惚れた。クラウスはこの馬にモムジと名付け、大抵の場所に伴っているらしい。デルバートの騎乗している馬は、イズリーンの港で借りたものだ。従兵たちは徒歩で、後方の二頭立ての箱馬車を護衛する形を取っている。平でない道に翻弄され揺れる箱馬車の中にいるのは、クラウスの妻と女中頭であるトレリスだ。港に停泊中の船には、クラウスの騎士が船員と共に残っている。
半月ほど前、同じ道を逆に辿り、デルバートはクラウスの船で故郷に戻っていた。それは、デルバートにとって新たな試練の始まりでもあった。ノイエン公爵夫妻はこの本物の息子であるデルバートに対して、戸惑いを隠さなかったのだ。十年もの間、息子と信じて接してきた者が偽者だと言われ、同じ顔の男が現れたのだ。その余裕も無かったのだろう。デルバートは父母に必死で説明し、長い間連絡もしなかったことを深く謝罪した。しかし公爵夫妻がデルバートを受け入れるまで、数日を要したのだ。それはデルバートにとって想定内ではあったが、自らが招いた騒動に改めて後悔を覚えることとなった。
そしてようやく息子と認めてもらった矢先、父フレイザーの元へ、アルシラの異端審問院から通知が来たのだ。それは魔女の公開裁判が行われるという知らせであり、出席を促すものではなかった。しかしそれを知ったクラウスが、彼の妻を伴いアルシラ行きを決めたのだ。元々アルシラに戻るつもりだったデルバートは、それに同行する形を取った。
デルバートはアルシラの方向に視線を向けているクラウスの横顔を、なんとはなく眺めた。夢には彼が出てきたこともあったが、その頻度はとても低い。古い記憶にあるクラウスよりも年を取ったと感じる横顔を見ていると、それほどの長い間、彼らから離れていた事実を実感させられる。
「魔女の公開裁判に、クラウス様は奥方様とご出席を?」
公開裁判には、処刑が付き物だ。そのことを知っているデルバートは、クラウスがそれに興味を示したことを不思議に思っていた。間に合うように船を出す準備をし、ノイエン公爵領のウォルシー港を出てきたのだ。しかしこのままでは、公開裁判が始まるという三鐘には間に合わないかもしれない。そう、デルバートは心配し始めていた。
「そのつもりはしているがな」
そう言ったクラウスに、焦る様子は見られない。まるで遅れても構わないというふうにも取れ、デルバートはクラウスの考えを読み切れなかった。
クラウスの今の妻であるカリスという女性は、昨日は雨脚を恨めしげに見ていた。それを宥めるように肩を抱いていたクラウスは、余程あの妻を大切にしているのだろう。小姓としてクラウスの元にいた時には、彼の先妻は既に死去していた。故に、貴族としての立ち居振る舞いを含む様々なことは、今回同行している女中頭のトレリスに指導を受けたのだ。なかなか再婚なさらない、と周りが心配していたこともあり、噂で再婚したと聞いた時には、デルバートは我が事のように安堵していた。
カリスのことに考えが及び、デルバートは疑問に思っていることをクラウスに問うべきか迷った。クラウスの妻カリスも、夢で見たことがあるのだ。黒髪の娘を優しげに胸に抱く姿を、朧げながら覚えている。今回の裁判対象である魔女は、黒い髪と瞳を持つ娘だというではないか。あの辺境の村では叔父の出していた触れのことなど知らなかったが、夢で見ていた娘は正にその容姿をしていた。あの夢が現実のものだと仮定すれば、自分の偽者であるあの男も、クラウスの妻も、大主教である叔父も、あの娘に関わっていることになる。異端審問院があれほど夢の話を執拗に聞いてきたのも、娘のことを知りたいがためだったのだろう。おそらくその娘が異端審問院に捕らえられ、殺されようとしているのだ。もしかしたらクラウスはその娘を助けるつもりで――。
「どうした、デルバート」
見つめていたのに気付いていたのか、クラウスが振り向いた。その表情は、少し困ったように笑んでいる。
「馬上で考え事をしすぎると落とされるぞ」
「は、はい。すみません」
デルバートは咄嗟に謝り、手綱を握る手に力を込めた。
「今後のことか?」
それで悩んでいるのか、とクラウスに問われ、デルバートは自身の問題を思い起こすことになった。船でも悩みすぎ、一旦脇に置いていた問題だ。これは、偽者の自分と自分の家族に関わる大きな問題なのだ。
「私の偽者は……、随分と父母に気に入られていたようでして」
「なんだ、嫉妬か?」
「いえ、そういうわけでは……」
誤魔化すように笑えば、クラウスからのそれ以上の揶揄いはなかった。
「私は昔から堅い父とそれほどよく話す息子ではありませんでしたし、母からの過度な期待も私には重かったのです。勿論、愛情を感じていなかったわけではありませんでしたが……、息苦しさもありました」
「ああ」
知っている、と言外に言ったクラウスに、デルバートは笑みを返す。クラウスには、お見通しだったのだろう。
「それでも老いた父や母を実際に目の前にすると……どうにも」
夢で見るのとは違い、彼らの老いを嫌でも感じたのだ。堅かった父は幾分か丸くなり、母も最後には穏やかな笑みで抱き締めてくれた。長い間離れていたこともあり、まだ若く意固地になっていたところもある自分の気持ちも、気付かぬうちに解されていたらしい。家族を持ち、親の気持ちというものも、それなりには理解できるようになっている。涙混じりに名を呼ばれ、懐かしい温もりに包まれた時、自分のしてきた親不孝が嫌というほど身に染みた。
「戻ってこいと言われました。私はそれに、すぐに返事ができませんでした」
「……そうか」
クラウスの静かな相鎚に、デルバートは小さく頷きを返した。未だに答えは出ていない。自分の決断が周りに多大な影響を与えることを考えると、自分の思いだけを優先させることはできない。父母には既に遠縁から迎えた養子がおり、彼の描く人生設計も既にあるだろう。
「私が戻ればルシアーノが……彼にも妻や子がいます。彼らの人生を弄ぶような真似はしたくないのです」
「だが、お前の子らにも、選択権はあろう」
そう言われ、デルバートは俯いた。確かに、クラウスの言う通りだと思う。妻のアミルのこともある。自分には彼女や子供たちを捨てることなどできないが、子供たちが望むなら貴族として生きる道も示してやるべきなのだろうか。しかしそれは茨の道かもしれない。
「取り敢えず、こうなったら孫の顔くらいは見せてやるのだな。まずは、お前の妻とよく話すことだ」
「ええ……、そうですね。その通りです」
クラウスからは、戻った方が良い、とも、そうでないとも言われなかった。そのことはデルバートにとって、これは自身――スペンス家の問題なのだと改めて自覚を促されるものとなった。まず行うべき行動を示されたことにより、僅かながら気持ちが落ち着いた気もする。今すぐには答えの出ない問題であり、今すぐには答えを出さなくとも良い問題でもあると、そう思えた。それよりも気になることが目の前にあることも確かだ。
「それで、クラウス様。その、私の偽者のことなのですが……」
「どうした?」
少し眉を顰めたクラウスに、デルバートは意を決して続けた。
「処刑は免れないのでしょうか」
「……驚く質問だな」
言葉通りの、クラウスの表情が返ってくる。
「自分に成り代わって周りを騙していた男を許してやるのか?」
「そのことなのですが……、父や母から、偽者の私のことを聞きました。侍従の仕事の傍ら、ひと月に一度ほどは顔を見せ、父の仕事を手伝い、母の話し相手をしていたそうです。悪い話は聞きませんでした。父は、まるで私の代わりを務めてくれていたようだった、と」
「フレイザー様がそのようなことをな……」
感慨深そうに、クラウスが呟いた。
「思い返せば、地下牢で顔を合わせた時――、あの者は私を前に、何の言い逃れもしませんでした。自分こそは本物だと訴えもしなかったのです。もし、あの者が王都の間者などではなく、ただ親不孝な私の代わりになっていただけならば、私はあの者を殺すには忍びないのです。私に取って代わり父の跡を継ぐつもりすらなかったようですし……」
一体何の目的で、という答えも、はっきりとは分からない。しかしデルバートは一つの仮説を立てていた。自分の偽者は、処刑されようとしている娘を護るために、この姿をしていたのではないかというものだ。大主教である叔父に近付くには、甥であるデルバートの姿は効果的だっただろう。クラウスの妻とも関わりがあることを踏まえると、あの偽者はクラウスとも関わりがあると考えるのが自然だ。クラウスが黙っているのは、おそらくは自分を巻き込むことを避けているのだろうと思う。そういえば自分も夢の話をクラウスに打ち明けてはいないのだった、とデルバートは気付いた。
「随分と寛容なことだが――、お前が許そうが許すまいが、異端審問院にとっては教団を欺いた罪人だ。人ではなく魔物かもしれんぞ?」
「魔物……それはまた、優しい魔物もいたものですね」
デルバートはふと、昔に出会った狼犬を思い出していた。自分の言葉を理解していたようなあの不思議な狼犬も、もしかしたら魔物の類だったのかもしれない。
「審問院長には私から話してみます。どのみち、あの偽者の私とは話をしたいと思っていますので」
あの者から話を聞けば、ただの夢か現実なのかがはっきりする。娘を虐待していたことが現実ならば、叔父を許すことはできないとデルバートは思った。そうだ――、と思い至る。あの娘を助けようとしているかもしれないクラウスも、叔父のしていたことを知っているのかもしれない。
「まぁ、気の済むように好きにしろ」
そう呆れたように言いながらも笑みを浮かべたクラウスの視線が、再びアルシラの方へと向けられた。やはり彼がこれ以上急ごうとする様子はない。アルシラでの魔女裁判を実際に見たことはないため、まだ急ぐ必要はないのかもしれない。それに実際問題として、これ以上馬車の速度を速めることはできない。
夢で見た黒髪の美しい娘が、本当に危険な魔女なのかどうかは分からない。異端審問院がそう言うのなら、そうなのかもしれない。叔父の出した触れを否定することは、アスプロを否定することになるのだろうか? そう考え、デルバートは首を左右に振った。これは異端審問院による印象操作の可能性もあるだろう。もし、あの娘が無実であったなら、きっと何らかの形でアスプロが救ってくれる筈だと信じている。この命を救ってくれたように、アスプロは癒しを与えてくれる神であり、愛と守護の神なのだから。
「ええ、そういたします」
与えられるべきところへアスプロの手が届くことを。
デルバートはもう一度澄んだ空を見上げ、そう願った。
* * *
ジェイは、異端審問院長の執務室にやって来ていた。今日の断罪の広場での公開処刑の準備は整っているが、昨日の夕方からリュシエルの姿が何処にも見当たらないのだ。そのことを報告する前に、ウォーレスから大主教についての話があった。出席を促していたが、返事が無いまま大主教が姿を晦ましているというのだ。
「まさかこのまま逃げるつもりでは?」
堂々とアルシラを出て行ったことは、大聖堂騎士団から報告があったらしい。大主教が出席することに合わせて騎士団の配備をするつもりでいたが、その必要性が無くなったという報告だ。何処に行ったかという文言は無く、いつ戻るとも書かれていない。
「娘を隠していた塔を暴かれたことに怖れをなしたのかもしれないな」
「これが終われば、自分に矛先が向くことを予測してのことでしょう。すぐに捜索すべきです。もしどこか貴族の城にでも逃げ込まれれば、手を出し辛くなります」
「そうだな、そうしよう。戻ってきているサムソンに任せることにする」
ウォーレスの指示に、ジェイは頷いた。サムソンは今でこそアルシラを離れた町を拠点としているが、長年アルシラで腕を振るった男だ。若いリュシエルにとっては口五月蠅い老人の一人のようだが、それなりの能力はある。大主教のことは彼に任せておけば良いだろう。
「院長。実はリュシエルのことなのですが……」
ジェイはウォーレスに、リュシエルが昨日の夕方から戻っていないことを伝えた。
「彼がこれほど執務室を空けることなど、これまでありませんでした。儀侍兵も姿を見ておらず、何処に出掛けたのかすら……」
「リュシエルは再三、処刑の延期を訴えていたからな。大方、臍を曲げて雲隠れしているのではないのか?」
「……そう、でしょうか」
ウォーレスの考えに、ジェイは「そうだ」と思えなかった。小さな違和感が、後の大きな騒動の徴候であることは有り得ることだ。以前、ある村で起こった暴動の前も、ほんの小さな違和感を覚える出来事があった。そしてそのせいで僅かながら警戒していたからこそ、審問官が数人殺される事態となった暴動でも、ジェイは生き延びることができたのだ。あれ以来、ジェイは些細な変化を見逃さないよう心掛けている。
リュシエルが戻らないことは、ジェイにとって些細とは言い難い事だった。確かにまだ若い彼は、娘に情が沸いていただろう。あれほど憎んでいた魔女が予想外に純粋な娘であったことも、その原因なのだろう。しかし今回の公開処刑を乗り越えることで、彼も異端審問官として成長する筈だとジェイは思っていたのだ。
娘にとって最期の夜となる昨夜に、リュシエルが娘の元に行っていないことも、ジェイの違和感の一つだった。彼は毎夜魘される娘を見守り起こしてやることに、使命めいたものを感じていた様子だったからだ。もしかしたら、リュシエルは夜には戻るつもりだったのかもしれない。彼の身に何かが起こった可能性も無いわけではない。
「そのうちに出て来るだろう。どのみち、今はリュシエルの捜索に人手を割ける余裕はない。まずは、今日の公開処刑を無事終わらせることだ」
「ええ、……そうですね」
ウォーレスの意見は尤もなものであり、ジェイはそう返答するしかなかった。自分の手の者の一人に町中を捜索させることくらいしか、今はできそうにない。後で戻ってきたならば、きつく叱ってやらねばならない。何にせよ、警戒すべき状態であることは確かだ。
「私はタリムと共に一足早く広場に行っておるぞ。お前は娘を頼む」
タリムというのは、今日の公開裁判と処刑を取り仕切ることになった審問官だ。ジェイと同じく幹部の一人であり、数日前に急遽ウォーレスがジェイから担当を切り替えた男で、ジェイはそのことについて苦々しい思いを抱いていた。
「承知しました」
娘にとっては長い最期の一日となるだろう。
胸に生まれている表現し難い感情を表には出さず、ジェイはウォーレスの指示に答えた。
* * *
「時間だ」
硬い声と共に、大きな手が差し出された。デュークラインのものと似て非なる掌だ。カイはそれに両手を預け、手の主であるジェイを見上げた。ランタンの灯りを受けた彼の表情からは、感情が削ぎ落とされたような印象を受ける。しかし彼の視線は真っ直ぐに向かってきており、それは彼の中にある強い意志なのだろうと思う。
力強く引き上げられ、カイはふらつく両足に力を込めた。ジェイに頼るように上体を預ける形になったが、ジェイに振り払われることはなく、もう片方の手で腰を支えられる。
「外に出るの?」
そう問えば、短い肯定が返った。抱き上げられ、カイは大人しくジェイの胸元に収まる。その温かさにカイは目を閉じ、頬を寄せた。
デュークラインに抱かれているのだと思おう。そうカイは思った。消えない不安も、恐怖も、悲しみも、何処かへ行けば良いのにと思う。この胸には、デュークラインへの想いがあれば良いのだ。母と思っても良いと言ってくれた、カリスたちが罪に問われず、タオたちも無事でいてくれればそれで良いのだ。デュークラインの手でこの命を終えられれば、そして彼の胸の中で眠れたら――そんなことを思いもした。ここを訪れるのがリュシエルではなくデュークラインであったなら、今すぐこの命を奪ってくれと願っただろう。しかしカイはそんな穏やかな死を諦める境地に至っていた。自分の我が儘で、デュークラインを危険な目には遭わせたくない。彼が死ぬかもと恐怖する、あんな思いはもう二度としたくない。
カイは頭に触れた掌の優しさに、込み上げた涙が零れるに任せた。何故自分だけがと、思わなかったわけではないのだ。記憶を取り戻し、甦り、増幅した憎しみは、確かにこの胸に存在している。それでも、カイはカイでいたかった。デュークラインのことを思うたび胸に生まれる温かさを、失いたくはない。時には身を切るような悲しみも覚えたが、それを憎悪にはしたくない。
肌に、冷たい風が触れた。
目を開ければ、いつの間にか外に出ている。周りにはジェイと同様の黒いローブ姿の男たち――塔にジェイと共にいた者もいる――が歩いており、牢の外にいた兵が更にその周りに付いているようだ。
カイは兵たちの隙間から、人々の顔を眺めた。この町の民なのだろう。引き攣った顔をした者や、驚いているような顔、初めて会う筈なのに憎い者を見るような顔もある。その者が振り上げた手には石が持たれており、隣の者たちに取り押さえられているようだ。生きているだけで憎まれる姿をしているのだなと思いながら、カイはジェイの胸元から彼を見上げた。そのジェイの後ろに、青い空が見える。
「空……」
「きれい」
カイは塔の庭から見上げた空を思った。あの場所で過ごした最後の四年ほどは、本当に幸せな時だったのだと思う。
高い壁に沿う建物に入ると、一変、視界は暗くなった。しかし周りの石壁にはランタンが多く掛けられており、そこに待ち受けるようにして立っている者たちがよく見える。ジェイよりも年老いた男の前で降ろされ、カイはジェイの傍に立った。
「――ウォーレス院長」
「ご苦労だったな、ジェイ。時間通りだ。もうすぐ三鐘が鳴る。滞りなく進めるのだ」
「……承知しております」
ジェイと話しているローブ姿の男は、ジェイよりも立場が上のようだ。そんな彼はカイと目を合わせようとはしない。それを感じ取ったカイは彼には構わず、辺りの人々を見回した。黒衣の者たちはいるものの、その中にはリュシエルの姿がない。彼の長い金髪はタオの髪に似て美しく、いつもフードから出ているためすぐに彼だと分かるのだ。
「リュシエルはまだ戻っていないのか?」
「ええ」
「そうか……。……本当に困った奴だ」
男の言った言葉に、ジェイの返答はない。それらのやり取りを耳の端で聞き、カイは残念に思った。彼のことは最初こそ怖いと感じたが、よく傍に居てくれ、よく話してくれた。ローブの胸元を慣れた手付きで縫い合わせてくれたのも彼だ。彼が話す彼の父親の話は興味深く、自分にはいない父親の存在を想像させてくれるものだった。彼の優しい父親の話を聞くのが、寂しい日々の楽しみでもあったのだ。リュシエルの父親を思う顔を眺めるのも好きだった。
「こちらへ」
奥へと自分を促すジェイの袖を掴み、カイは彼を見上げた。
「リュシエルに、伝えてもらってもいい?」
そう言えば、ジェイの太い眉が僅かに顰められる。構わず、カイは続けた。
「直接言いたかったんだけど、無理みたいだから……。ありがとうって、伝えて欲しいの」
奥に行くにつれ、大勢の声が聞こえ始めた。それは大きな歓声で、渦のようにも感じる強い感情の波だ。震える両手を胸元で握り合わせ、カイは叫び出しそうな苦しさを堪えた。おそらくあの怖ろしい渦の中で、自分は殺されるのだ。
ジェイの返答がなく再度見上げれば、眉を顰めたまま、彼は頬を強張らせていた。
「……ジェイも、ありがとう。約束を守ってくれて」
「……ここからは、護ってやれぬ」
「うん……。痛いのを我慢するのは、慣れてるの。でも、なるべく早く殺してくれると、嬉しい」
笑みを浮かべようとして、涙が零れたのが分かった。ジェイの手が頬に近付いたが、触れられることなく指が握り込まれる。その下げられた手で、手枷に縄が掛けられた。
「――これがリュシエルの言っていた予言の魔女か?」
そう言って縄をジェイから奪ったのは、初顔の男だった。その男の顔には、塔に来ていた嫌な男に似た表情が浮かんでいる。
「魔女は美形に限るな。これなら甚振り甲斐がある。お前も余計なことを言わなければ良かったものを」
「タリム、」
「余興も無しに火炙りなど、飢えた民衆が納得する筈がなかろうが」
反論しないジェイを見上げようとして叶わず、カイは縄を強く引かれるがまま外に踏み出していた。眩しいほど明るい外は広く、高い石壁に囲まれている。左手側には圧倒されるほどの人々の姿があり、口々にこちらに向かって何かを叫んでいるようだ。押し寄せてくる彼らの感情の渦が、ただただ怖ろしい。
「あっさり死ねるとは思わないことだ。存分に泣き叫んで彼らを喜ばせてやるといい」
男の声が、耳元で聞こえる。
カイは迫り来る恐怖に、自由にならない両手で胸元を握り締めた。