54 父と子、師匠と弟子
まるで空が泣いているような冷たい雨が降り注ぐ夕暮れ、リュシエルは一人、フードを深く被りアルデア大通りの端を歩いていた。行き交う人々は少なく、皆、急ぎ足で通り過ぎていく。歩く度に足元から上がる水音は、考え事をするには些か不都合だ。それでも、リュシエルの思考には行き場のない憤りが消えず、居座り続けていた。
昨夜、地下牢からあの偽者のデルバートが逃げたのだ。それを助けた者は大胆にも異端審問院の地下牢に正面から入り込み、偽者を連れ出した。偽者を繋いでいた尋問室最寄りの詰所の儀侍兵たちは妙な香で眠らされており、そこから奪われた鍵束は尋問室の中に落ちていた。牢前の見張りや見回りの兵は悉く絶命させられており、その者たちは叫ぶ間もなく殺されたようだ。あの死にかけていた男がまともに動けたとは信じ難いが、現に、地下牢にはもうあの男はいない。
リュシエルは事態を知った時、すぐに懸賞金を掛けてでも捜索すべきだと主張した。何処から逃げたのかと調べるうち、そういえば水音を聞いた、という者がおり、他に脱出口も無いことから、地下を流れる川に飛び込んだのだろうという結論に至ったのだ。リュシエルは、もしかしたら侵入者は二人組だったのかもしれないと考えた。それなら動けない男を支えることもできただろう。堅牢な異端審問院から囚人を脱獄させるだけの能力を有した二人組――そう考えた時、リュシエルの頭には父である異端審問官ルードを殺した者たちのことが思い出されていた。これは大主教が仕掛けたことなのではないだろうかと思う。多くの秘密を知るあの男を我々から取り上げるために、再びあの二人組に仕事を依頼したのかもしれない。地下の川に飛び込んだのも、もしその過程であの男が死んだとしても構わなかったのかもしれない。川の流れ着く先は城壁近くの池らしく、もし無事に辿り着いていたなら、近くに住む者は彼らを目にしたかもしれない。
しかし審問院長ウォーレスは、公に捜索することを禁じた。理由は、魔女の公開処刑を目前にしていること、民衆を無闇に騒がせないためだという。リュシエルはそう決定したウォーレスを思い出し、苛立ちから生まれた溜息を吐き出した。巻き髪のファビウスを逃がしたままになっていることも、世間には公表されていないのだ。要は対外的に、また脱獄を許したことが恥ずかしいのだろう。勿論、少数での捜索は行っているが、やはり初動が鈍かったことが、完全に逃がしてしまった要因の一つだと思う。未だに池に死体が上がったという報告がないことから、闇夜に紛れ彼らは姿を晦ましてしまったのだ。
リュシエルは、侵入者を大胆かつ用意周到な者たちだと見ている。町に出た折、数日前にその池に死体が上がっていたという噂を耳にしたのだ。見つけたのは、教団が雇用している町の衛兵だったらしい。やはり今回の件は異端審問院だけで調査せず、他の機関にも協力を仰ぐべきだとリュシエルは思う。異端審問院だけで抱え込んでいては、得られた筈の重要な情報を取り漏らす可能性があるのだ。もしかすれば、その死体は侵入者が事前に川の流れ着く先を確認するためのものだったかもしれない。死体は貧民の中でも家族もおらず引き取り手もいない男だったらしく、安い酒で酔っ払い、足を滑らせ池に落ちたのだろうと安易に片付けられていたのだ。
リュシエルは今回の脱獄事件の対応において、異端審問院の上層部に強い失望感を抱いていた。父の仇かもしれない侵入者を異端審問院がみすみす逃す結果となり、更には総力を挙げて捜索することを禁じられたことは、リュシエルにとって異端審問院を見限るに相当する出来事だった。彼らを捕らえられていれば、あの娘に確認させることもできた。そうすれば、彼らの罪を明らかにし、父を死に至らしめた者たちを処刑することも、彼らを指示した張本人――おそらくは大主教――の罪を白日の下に晒すこともできた筈なのだ。
審問院長ウォーレスの外面を取り繕う及び腰には愛想が尽き、父の友人であった筈のジェイですら、今やリュシエルにとって頼りにできる存在ではなくなっている。ジェイは今回のウォーレスの対応を支持したのだ。彼には彼の考えがあるのだろうが、長期的に物を見る彼のやり方では、父の仇はいつまで経っても取れないだろう。取るつもりもないのかもしれない。最早過去の出来事として、彼の中では処理されているのかもしれない――そんな思いが、リュシエルの心を異端審問院の外へと向けさせていた。
大聖堂へと続く階段を上がり、リュシエルは風の吹きすさぶ丘に出た。冷たい雨風に耐えている門兵の許可を得て中庭に足を踏み入れれば、こんな時にも魔物に模した彫像が吐き出している水が、雨と混じり合っている。何故に魔物などをと腹立たしく思いながら、リュシエルはフードの下から暗い雲に覆われた空を見上げた。
リュシエルを悩ませている幾つかの問題の中には、地下牢にいる娘のこともあった。公開処刑は明日に迫っている。明日の三鐘を合図に、あの娘――カイは断罪の広場に引き出されてしまうのだ。
フードの裾から垂れる雨粒が、リュシエルにカイの頬を伝う涙を思い出させていた。偽者のデルバートが脱獄したことは、娘に偽者の逃走先を聞いても分からないだろうという理由でカイには伝えられなかったが、リュシエルにはカイがそれに気付いているように思えた。今朝、薄暗い牢内で目覚めたカイの顔には、安堵したような微笑みが浮かんでいたからだ。
「いつ、外に出られるの?」
そう、カイは聞いてきた。それが、自分が殺される日だと知って聞いているのかは、リュシエルはその時点では判断が付かなかった。
「……明日だ」
短くそれだけ答えると、ややあってカイの頬を涙が伝うのが見えた。ランタンの灯りに照らされた黒曜石のような瞳が、仄かな光を閉じ込め揺らぐ。
「じゃあ……、明日には空が見られる」
呟くようなカイの言葉を思い出し、リュシエルは込み上げた涙を堪えた。
カイは微笑んだのだ。寂しげで、哀しげな瞳を隠して。
あの娘は理解しているのだ。そして納得しようとしている。そのことを知り、リュシエルは娘が酷く哀れに思えた。
あの娘は、父ルードとの思い出話をよく聞きたがった。公開処刑の準備に忙しいジェイに代わり様子を見にいけば必ず、何か話してくれと言うのだ。まだ母親が生きていた頃に会いに来てくれた父との思い出が、カイに話すことで鮮やかな記憶になっていく気がしている。ルードを殺したと思い込んでいた予言の魔女に対する復讐心で、いつの間にか懐かしい父親の姿を見失っていたのかもしれない。忘れていた幼い頃の光景が脳裏に蘇っていくことに、驚くほどの安心感を覚えるのだ。オイルランプの灯りに照らされた羊皮紙に刻まれた文字の上を、父の節くれだった指がなぞっていく。父は来る度に新しい本を持ってきては文字を教えてくれ、優しい声で読み上げてくれたものだ。そんなことすら、自分は長い間、忘れていたのだ。
もし、もっと早く出会えていたら。
そんな考えが浮かび、リュシエルは首を左右に振った。今更だ、と思う。それでも、まだ希望はある。あの偽者は娘を置いて逃げたが、自分にはまだ娘を生かし父の仇を取る道が見えているのだ。
リュシエルは足を止め、視界に広がる雨脚を眺めた。足元に視線を落とせば、草花は濡れそぼり、その頭を垂れている。こんな時に庭を行く逸話があったなと、リュシエルはふと思い出していた。司祭の中で語られている教訓めいた逸話だったため、それについて教わった時は、自分には関係のないことと聞き流していたのだ。確か、悩むより行動すべきだというような、そんな話だったと思う。それでも、記憶を掘り起こせば逸話の名前だけは、明確に思い出せた。
「――ああ……、マカレンのワイン、か」
リュシエルは異端審問院に属するようになってから、他の組織について軽視するようになっていた。これはリュシエルだけでなく、他の異端審問院関係者もそうに違いない。異端審問院だけでなく、他の組織――教団や騎士団の連中も、きっと同じように考えている者が大半だとリュシエルは思う。人は、自分の属する組織を上だと考えたい、そういう存在なのだろう。しかし、他の組織を敵対的に捉える必要はないのだと、リュシエルは思い始めていた。対抗すべき存在であることは変わらないが、利用できる余地は充分にあるのだ。マカレンのワインの逸話が今のリュシエルの指針となるように、異端審問院が頼りにならなければ他に力を求めるべきだと強く思う。現に、隠されていた魔女の件で閉塞状態を突破したのは、リュシエルが手配した何処の組織にも属さぬ人間――暗殺者によるものだった。
この荒天は良い隠れ蓑で天啓だと、リュシエルは思った。大主教の息子に会うには、あまり人目に付かない方が良い。事が上手く運べば、ワインを傾けるのも一興だろう。
リュシエルは雨で煙る大聖堂を一瞥し、翼廊に繋がる教団本部へと、再び歩み始めた。
教団本部の三階の一室を、リュシエルは訪ねていた。娘の証言の裏付けを取るために日数を要したが、成果はあったのだ。その事が、これから持つ会談への意欲を高めている。丁度、五鐘の音が鳴らされ始め、いつもより傍近くで聞く大聖堂の鐘に、リュシエルは暫し聞き入った。
さすがに今から娘の処刑を延期させることは難しいかもしれないが、それでも彼――アルムの主教ヴェルグに大主教に次ぐ権力があると考えれば、僅かな希望は持てるだろう。大主教に命令され、ただ従っていただけだと言ったヴェルグは、事の真相を大主教に問うと言っていた。ヴェルグが真のアスプロスの主教としての心根を持ち合わせているのかは疑わしいが、彼が次代の大主教の座に最も近い場所にいることは確かだ。予言の娘だと知らなかったとはいえ、娘を塔に閉じ込めるなどという乱暴な行為に手を貸したことは事実であり、最大級の権力を持つ父親に屈したとも言える。ヴェルグという男に権力志向がどの程度あるのか――あるならばそれを刺激してやろう、とリュシエルは考えていた。彼だけでは荷が重いと言うならば、手を貸すつもりは大いにある。寧ろ、リュシエルにとってはヴェルグに動いてもらい、それを助ける形の方が、都合が良いのだ。自身が過去にしたように、ザラームのような者を独自に雇い動かすことにはリスクがある。ジェイに咎められたこともあり、今後そのような手を使うことは立場的に難しい。
大主教を異端審問官殺しに関与した罪で糾弾することができれば、父ルード殺しの解明への進展に繋がる筈だとリュシエルは確信していた。大人しくしている予言の魔女よりも、自らが出した触れを犯し、皆を欺いていた大主教の方が、民衆の憎悪と興味を引くだろう。ジェイによれば、大主教はあの娘に惨い虐待を繰り返していた形跡があるという。これまでは、捕らえた魔女――男であってもそう呼ばれている――を処刑台に送ることに躊躇いなど抱くことはなかった。彼らはリュシエルが知る限り、魔法を使って逃げようとし、命乞いをし、或いは恨み言を言いながら死んでいったのだ。しかし、カイは彼らとは違う。そうリュシエルは感じていた。長年リュシエルが思い描いてきた『父を殺した憎き魔女』とは、彼女はあまりにも掛け離れている。そんなカイをこのまま常法に則って処刑することに、どうにも納得いかない感情が胸にあるのだ。
扉前に立つ衛兵に名を告げれば、話を通してくれていたのか、すんなりとリュシエルは中へと通された。正面に見える鎧戸の窓が僅かに上げられており、そこから入り込む雨音が空間に飽和している。その前の執務机に、書き物をしているアルムの主教ヴェルグの姿があった。広げられた紙が幾つかあることから、おそらく職務中なのだろう。机上にある三本立ての燭台の灯りが、彼の周りを仄かに明るく照らし出している。机の端には、きっちりと整えられ積まれた本に帯が掛けられているのが見えた。
「――この雨の中を来られるとはな」
顔を上げずに声を掛けられ、リュシエルは濡れたフードを脱いだ。ここはアルシラに居る際の彼の居住用の部屋らしい。右奥に広がる空間があり、そこは灯りが少ないが、辛うじてベッドと、その手前には向かい合わせに長椅子が置かれているのが見える。床に敷かれている絨毯の色は、彼の白いローブの両肩に掛けられている帯の色と同じもののようだ。
「お会いいただき、感謝します」
そうリュシエルが言えば、ヴェルグが手を止めて顔を上げ、僅かに頷きを見せた。羽ペンを置いた彼に、眺めるように見られているのが分かる。
「一体何用なのかな、お若い異端審問官殿。私は見ての通り、暇ではないのだ」
ヴェルグの物言いは、異端審問院長を前にしていた時とは違う、若干乱暴に感じるものだった。しかしリュシエルはそれには怯まず、丁寧に名を名乗った。
「私は、貴方のお父上である大主教様のことを、お聞きしたく参ったのです」
「……父のこととは?」
「貴方は数日前に異端審問院に来られた際、大主教様に直接話を聞くと仰られました」
「――ああ確かに、そう言ったかな」
思い出したように、ヴェルグが軽く笑った。
「それで?」
「それで、とは……、貴方は大主教様から何も聞かされず――あの娘を塔に閉じ込めたと仰いました。あの後、大主教様は何と答えられたのですか」
リュシエルはヴェルグの表情の動きを見逃さないよう、蝋燭の揺らぐ灯りに照らし出された彼の顔を見つめた。ヴェルグの明るい胡桃色の瞳は、変わらず落ち着き払っているように見える。
「父は知らぬ存ぜぬの一点張りでね。小五月蠅い私は疎まれてしまったようだ。近く、アルシラを出なくてはいけないかもしれない」
「そう、なのですか」
そう言われれば、確かにこの部屋の外で、使用人と思われる者たちが忙しくしていた。布に包まれた絵画と思わしき物を運んだりしていたのだ。疎まれたためにアルシラを出るという話は本当なのだろう。情報が無いことに落胆はあれど、これは好機でもあるとリュシエルは思った。大主教とヴェルグの間に溝ができれば、その分、こちらに協力してもらいやすくなる筈だ。
気を取り直し、リュシエルは別の一件を口にする。
「では同じ頃の――二十年ほど前の異端審問官殺しについて、お聞きになられたことはあるでしょうか」
「……それもまた随分と昔の話だな。まだ私が未熟な十代の頃の話だ」
そう言い、ヴェルグが僅かに目を細めた。
「それが何か?」
「この事も、お父上からはお聞きになられておられないと?」
確認するようにリュシエルが問うと、ヴェルグのゆったりとした頷きが返された。
その尊大な促しを受け、リュシエルは続ける。
「異端審問官ルードは、予言の娘を捕らえ、アルシラへの移送中に殺害されました。当初は、当時世間を騒がせていた連続殺人鬼が起こした事件の一つだと、そう考えられていました。その殺人鬼が捕まり他領で処刑され、事は解決したものとされてきたのです」
「……違うのか?」
「ええ、娘がその殺害の様子を覚えていたのです。物乞いに扮した二人組だったと。そして彼らによって大主教の元へ連れていかれたのだと、そう証言したのです」
「――ほぅ」
興味を引いたのか、眉尻を上げたヴェルグが軽く頷いた。
「それで、リュシエル殿はその娘の証言のみで……父が関与したと言われるか?」
「いいえ、他にも証言を得ています」
自信をもって、リュシエルはヴェルグの疑わしげな視線を受け止めた。娘から詳しく話を聞いた後、リュシエルは部下に当時の殺害現場を再度調べ直させたのだ。物的証拠などはもう残っていないことは承知だったが、当時その周辺の村に住んでいた者たちはまだ生きている者もいた。今回、彼らから得られた情報の中には、娘の話を裏付けるものもあったのだ。
「酒場の老人が当時のことを覚えていました。聖地から来た二人組だということで、よく覚えていたそうです。その内の一人の腕には、特徴的な入れ墨があったと聞きました。このような……蝶のようなものです」
リュシエルは指で空間に模様を描いてみせた。部下が模写してきた資料は、執務室の引き出しに仕舞ってある。まだ誰にも見せてはいない。
「処刑された連続殺人鬼――ジェロブには、そのようなものがあったという記録はありません。それに、ジェロブには共犯者はおらず、事件は全て彼一人で行われたものでした。娘の話からも、老人の話からも、彼が審問官殺しに関わりがないことは明らかです。ですから、娘の証言にある大主教様の関与が濃厚であると、私は考えているのです」
「……ふむ」
僅かに、見つめてくるヴェルグの視線が冷えた気がした。おそらくは父親の関与を知らされ、父親に対する気持ちが揺らいだのだろう。そう結論づけ、リュシエルは更に続けた。
「私はどうしても、審問官ルードの仇を討ちたいのです。そのためには貴方の協力が必要不可欠なのです。二人組の男たちは、大主教様が雇った者たちだと考えて間違いないでしょう。私は彼らを捕らえるために、貴方の立場から得られる情報が欲しいのです。それに、あの娘は証人として生かしておきたい。貴方には大主教様を糾弾して騒ぎを起こし、明日の娘の処刑を取り止めさせてもらいたいのです。貴方が協力してくださるならば、大主教様に使われただけの立場であることを強調し、貴方にまで罪が及ばぬよう尽力いたします。これは貴方にとっても、悪い話ではないのではありませんか?」
リュシエルはヴェルグの答えを待った。彼は保身のために協力せざるを得ないだろうと思う。父親である大主教との関係が希薄であるならば、関係を断ち切り潔白であることを声高に訴えるべきだ。まさに彼の窮地に手を差し伸べているのだと、リュシエルは確信していた。
「……なるほどな」
ぽつりと呟いたヴェルグが、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「リュシエル殿。二十年も前の事件をそこまで暴き突き詰められるとは、素晴らしい手腕だ。その若さで有能な幹部が今の異端審問院にいるとは驚いた。私は、上に立つ者というのは部下を上手く動かす能力が必要だと思っているが、君には充分な能力があるようだ。もしかすると――あの塔を見つけたのもジェイ殿ではなく、君の手柄なのではないかな?」
「それは……ええ、実は、そうなのです」
正直に、リュシエルは答えた。思ってもみないヴェルグからの賞賛に、少し声が上擦ったかもしれない。
「やはり、そうか。ゆくゆくは君ほどの者が、審問院長にまで上り詰めるのだろう」
笑みを浮かべたヴェルグに見つめられ、リュシエルは少し面映ゆい気持ちで彼の視線を受け止めた。どことなく彼から感じる雰囲気が、柔らかくなったように感じられる。
「その男の入れ墨は、精霊信仰の紋章なのかもしれぬな」
「御存知なのですか?」
「私は土着の信仰の知識も、多少は持っているのだよ」
「それは、とても心強いことです」
主教であるヴェルグの方が、その辺りの知識は豊富なのだろう。彼が仇の捜索を後押ししてくれる――そう確信し、リュシエルは安堵した。
「そちらで話そう、リュシエル殿」
ヴェルグに促されたのは、右奥の長椅子だった。ヴェルグの行為は、彼が要求を呑むつもりであることを表わしているように思う。それが彼にとっての正しい道なのだと、リュシエルは内心で深く頷いた。
長椅子の間に置かれた低いテーブル上の燭台の灯りによって、椅子の背部分の丁寧な装飾が影を為している。それに暫し目を奪われていると、「奥に掛けていてくれ」と入口付近から声を掛けられ、リュシエルは慎重に腰を下ろした。
「何か飲むかね?」
「いえ、お気遣いなく……」
遅れてやってきたヴェルグに答え、リュシエルは顔を上げた。向かいの長椅子には座らず、リュシエルの背側に歩いてきたヴェルグに、左肩に手を置かれる。顔を見ようと彼を仰げば、見下ろしてくるヴェルグの目が優しげに細められた。
「配下の者に指令を出すのは簡単だ。だが、その者が過大な働きをするのは、本人の能力だけでなく指令側に強い圧力があるものだ。その圧力を生み出す執念を、君からは感じる」
「それは……審問官ルードは……、」
リュシエルは膝上で両手を握り締め、俯いた。
「私の父なのです」
そう言って再びヴェルグを仰げば、哀しげな彼の眼差しにぶつかった。
「隠されてはいましたが、母亡き後は父が私を引き取ってくれました。息子としてではありませんでしたが……それでも父は優しかったのです。父は私を従者にし、様々なことを教えてくれました」
「なるほど……では、彼はリュシエル殿の師匠ともいうわけか」
まるで宥めるように、ヴェルグの片手に肩をたたかれた。その僅かに込められた力が共感してくれているように感じられ、ヴェルグにも似たような感情があるのかもしれないと思う。
「……私にも、師匠と呼ぶ者がいるのだ」
そう言ったヴェルグの声は、これまでよりも穏やかに聞こえた。
彼の視線が、何処か遠くの空間を眺めるように虚空に投げられる。
「私の師は、常に感情を平静にと私に教えた。如何なる場合でも、冷静であれと。若い頃の私はそんな師の言葉を理解できず――そんなことは無理だとも思ったものだ。だが、師の教えに従って日々を過ごすうち、感情を抑えるのが常となった。普段でも相手に怒りを抱くことが殆ど無くなったのだ。今では、師の言っていたことも、理解できるようになった」
彼を見上げながら黙って聞き入っていると、ヴェルグの頬に優しげな笑みが浮かぶのが見えた。
「師に近付けている気がしているのだよ、リュシエル殿。父は昔からああでね。私は師を、本当の父のように思っているのだ」
「ヴェルグ殿……」
リュシエルはヴェルグの話を聞き、彼に親近感を抱き始めていた。自分が父を思うように、彼もまた彼の師を父のように慕っているのだ。彼とは分かり合えるかもしれない。これから良い関係を築いていけるかもしれないと、リュシエルは期待した。
その時、肩に置かれた手に力が込められたことを感じ取る。瞬間、右首筋に強い衝撃があった。
「――え……?」
何かが引き抜かれる感覚と痛みはすぐに無くなり、視界には勢いよく吹き出す赤い飛沫が見える。急激に四肢から力が抜けていき、自分がどうなっているのかが、よく把握できない。
「君の父上を殺したのは、私の師匠だ」
囁くようなヴェルグの声が、耳元で聞こえた。
「その実の息子は、この弟子によって死ぬ」
「……ヴェル、……」
ろくに声も出せず仰ぎ見た視界には、冷淡な視線を落としてくるヴェルグが見える。ただそれを驚愕して眺めるだけで、自身の剣柄に触れることもできない。
視界が回り、ヴェルグの姿が見えなくなった。目に映るのは、暗い天井だけだ。最早目を開けているのかどうかすら、分からなくなる。
ああ、私は死ぬのだ、と、リュシエルは奪われていく思考の中で呟いた。




