53 都の地下の暗き路
デュークラインはふと騒めきを感じ、目を開けた。知らぬ間に暫し眠っていたようだ。顔を上げ、変化の無い暗闇を眺める。気のせいだったのか、いつもよりも静かにすら感じられる。牢番が歩く音も話し声も聞こえてこない。
この胸にある焦燥感のせいかもしれない――とデュークラインは深い溜息を吐いた。カイの処刑の日まで後何日なのだろう。初めてカイが小妖精の光に包まれて現れた日から、確実に四日は経っている。四日前のあの日に、カイはここに連れて来られたのだろう。カイに触れられることで、その存在を近くに感じられたからだ。あれからカイは同じようにして三度、現れた。一日ごとにカイの姿を見、仄かに温かい掌や唇で触れられる度に、カイが生きていることに安堵している。拷問を受けている様子は見られず、あの異端審問官の言葉が嘘で無かったことが、何より今は有難い。
その時、デュークラインは 向けられる視線に気付いた。扉を見れば、覗き穴の蓋が開かれており、そこから誰かが中を覗き込んできている。
「やあー、こんばんは」
軽い印象の声が、静かな空間に密やかに響いた。扉向こうから掛けられたその声に、デュークラインは驚く。聞き覚えのある声だ。その後すぐに覗き穴の蓋が閉められ、声の主は見えなくなった。
暫くすると、ふいに両腕が僅かに下がった。これは、常に両腕を頭上に吊っている鎖が、外から緩められたことを意味する。鎖は更に緩められていき、デュークラインは完全に下ろされた両手を石床についた。膝元に落ちている鎖を掴み、次に起こることに備える。
鍵を弄っているような金属音が聞こえ始め、それが止むと、軋み音と共に扉が開いた。松明が点された廊下を背に、誰かが一人、立っている。その男を、デュークラインは知っていた。女主人が『人ではなく魔人かもしれぬ』と評したスバルだ。
「うわっ、臭っ! ひどい臭いだねぇ、入るのを躊躇うくらいだよ。僕は鼻が良いからさあ」
そう言いながらも、松明を手にしたスバルが牢内に踏み込んでくる。軽い足取りで傍近くに来た彼を、デュークラインは警戒を解かず見上げた。眺めるようにして見下ろしてくるスバルの目が、僅かに細まる。
「ふーん、思っていたより元気そうじゃない」
「……何をしに来た」
「何をって、決まってるじゃない。助けに来たんだよ。まあ、僕としては麗しの姫君を助けたいんだけど、あっちは怖い人がたくさんいるからね。ま、その分、こっちが手薄になったわけだけど。で、仕方なく、麗しの姫君は諦めて、薄汚れた黒騎士で妥協したわけ」
「カイの居場所は?」
スバルの口からカイの名を聞き、デュークラインは鎖を握り締めた。長年ここと同じような不衛生な地下牢に閉じ込められていたせいで、カイの体は病に蝕まれているのだ。それだけでもカイの容態が心配でならないというのに、自分のために無理な魔力行使をさせてしまっている。可能ならば、今すぐにでも助け出してやりたいのだ。
「僕の話聞いてた? ここより深いところで、危なくて近寄れないんだよ。君は他人の心配をしている場合じゃないよね? はい、手枷を前に出して。開けてあげるよ」
スバルの右手が、掴んでいる鍵束を示した。彼によって松明が石床に置かれたため、デュークラインは鍵穴が見えやすいようにして両腕を差し出す。その左横に膝をついたスバルが、枷の鍵穴を確認するように指先で触れた。
「鍵束って、持ち運ぶのには便利かもしれないけどさ、どの鍵が正しいか見つけるのは面倒だよねぇ」
十数本は束になっている鍵束の中から、スバルによって鍵が一つ一つ試されていく。「うーん、違うな」と呟き首を傾げるスバルを見ながら、デュークラインは彼の行動の真意を読み切れないでいた。これまでスバルはカイのために花畑まで少年たちと出掛けたり、盗賊相手に手を貸してくれたりもした。しかし積極的にこちらの事情を知ろうとはせず、傍観するような姿勢を見せ、塔から去ったのだ。それなのに、こうして危険極まりない異端審問院の地下牢にまでやって来て、枷の鍵を開けようとしている。
「何故、助けてくれるのだ」
疑問のまま問えば、スバルが眉尻を上げて笑った。彼の視線は枷に落とされたまま、指は次の鍵を摘まんでいる。
「ははっ。愚問だね。もし、その答えが君が気に食わない理由だったらどうするの? 僕を襲う? まさかね。元気な君ならまだしも、動きもままならない状態じゃあ無理だよね。殺されるのがオチだよ。だったら、助けられずにここに居座る? だけど、君にはするべきことがあるんでしょ?」
「ああ、カイを助け出す」
「そうだね。今すぐには無理だけど、ここを出られたら、その可能性は無ではなくなるよね。なんなら、それも手伝ってあげてもいいよ」
驚くべきスバルの発言に、デュークラインは彼の横顔を見つめた。願ってもない申し出だ。実際にスバルの腕前を見たことはないが、任せた盗賊たちを斬り伏せ塔に戻ってきたならば腕は立つ。何より、今ここに立てるだけの能力があるのだ。
「……信じていいのか?」
「まさか!」
スバルの視線と共に、間髪入れずに否定のような言葉が返った。
デュークラインは意味が分からず、眉を顰める。それを受けたスバルが、可笑しそうに笑う。
「僕は自分の事すら信じられないのに、他人に信じてなんて無責任なことは言えないよ。ま、納得したら、無駄口を叩かず僕に任せておきなよ。……えーと、大きさ的にはこれかもしれないな」
枷に視線を戻したスバルの横顔を、デュークラインは半ば諦めながら眺めた。おかしな男だと思う。それでも、今はこの得体の知れない男を頼る他ない。
「お!」
スバルの感嘆の声と共に、鍵の開く音がした。長い間デュークラインの両手首を拘束していた枷が、木の板と共に膝元に落ちる。
「はい、開いたよ。足枷は自分で外してね」
立ち上がるスバルに鍵束を渡され、デュークラインはそれを掴んだまま、自由になった両腕をゆっくりと動かした。凝り固まった体は痛みを訴えているが、開放感には勝らない。鉄球の付いた足枷を外せば、完全に拘束から解放された。
スバルの意図がどうであれ、解放されたことは事実だ。そのことについては、デュークラインは素直に感謝した。問題は、この後だ。
「……武器は?」
「さっきみたいな事を言ったから、後ろから襲われないように渡したくはないんだけど……渡さなくても自分で見つけちゃうよね。外の死体から取ればいいよ。その前に、死体をこの部屋に入れておいてね。僕は鎖を元に戻しておくから」
あっさりと『死体』と口にしたスバルは、やはりこちら寄りの者だとデュークラインは思った。未だ騒ぎが起こっていないということは、叫び声も上げさせずに殺したということだ。その技術に関しては自分より上だとデュークラインは思った。
「それこそ無駄ではないのか? 早く立ち去るべきだ」
デュークラインはスバルに続き、牢を出た。狭く長い廊下には、燃えている松明によって作り出された暗い影が、揺らぎながら伸びている。その影に覆われるようにして数人の牢番が倒れており、彼らは一様に絶命させられているようだ。その死体の首から流れ出ている血液は、デュークラインの足先にまで来ている。
「さあ、どうだろ。でも、外から見た時に鎖がいつもの位置にあって扉が閉まっていたら、中に君がいると考えるんじゃないかな。いつもの見張りが立っていなくてもね。見張りは厠に行ってるかもしれない、って考えるよね。きっと、いきなり君が脱走しているなんて考えないよ。松明があるとはいえ暗いから、人間の目じゃ、血にもすぐには気付かないだろうしね」
「……なるほどな」
ここまで忍び込んできただけの知恵はある。そう感心ながら、デュークラインは視界に入る多くの扉を眺めた。中には囚人がいるのだろうが、声を上げる元気のある者はいないようだ。
「さて、そっちはよろしくね」
そう言って離れたスバルが、扉から少し離れた壁に設置されている滑車を回し始めた。デュークラインの腕を吊っていた鎖に繋がる太いロープが、徐々に巻き取られていく。今頃は、石床に落ちていた鎖が上がっていっていることだろう。
デュークラインも自分の仕事に取り掛かった。腰を曲げて死体の両腕を掴み、牢内に引きずり込む。離れた場所に倒れている者は担ぎ上げ、見える範囲の死体は全て片付けた。ついでに小剣を取っておく。仕上げに牢の扉を閉め、デュークラインは仄暗い廊下を振り返った。松明の炎が、完全に闇に浸食されるのを必死に留めているようにも見える。
ここは表とは真逆の裏側だ、とデュークラインは思った。陽の当たる表の白く輝く路では、聖職者たちが香炉を手に厳かに歩んでいる。一方その地下では、このような暗い路が横たわっているのだ。アルシラの民の中には、その存在を知っている者もいるだろう。しかし実際を知っている者は少ないのだと思う。デュークラインは魔導士の使い魔として、時には大主教の侍従として、裏で働くことが多かった。故に、聖地であるこの都に暗い部分が存在していることをよく知っている。しかしそんなデュークラインであっても、未だに緊張を強いられる場所でもあるのだ。
微かな鼻歌が聞こえる。
振り返れば、まるで緊張感なく軽い足取りで戻ってくるスバルがいる。
デュークラインは出会った当初から彼に感じていた妙な気持ち悪さの正体は、これなのだろうと思った。スバルにとっては、表も裏もないのかもしれない。彼はまるで陽の当たる見晴らしの良い丘を散歩しているような軽々しさで、この暗い路に立っている。
「どうしたの? 僕の顔に何か付いてる?」
「いや、……よく私の場所が分かったな。……エリュースが?」
スバルに問い掛けながら、デュークラインは思い出していた。エリュースならば、一度ここに来ていた。この姿を見ても平静を崩さなかったあの聡い少年ならば、正確に場所を覚えることもできただろう。
スバルが、楽しげに片方の口角を上げた。
「そういうこと。――じゃ、出よっか」
それに対し頷くと、スバルがふと不思議そうな視線を向けてくる。その眉間には、珍しく皺が寄せられている。
「……にしてもさ……、絆が切れてるわりには元気だよね。てっきり、極小の蝕みたいになっているかと思ってたのにさ。これじゃ、魔力が吸い取られる心配はないなぁ」
「蝕?」
「うん。蝕って、こう……池の底に穴が開いちゃって、周りの水がそこから漏れ出ているようなものだったでしょ? 君はきっと魔力が枯渇して、魔力の渦の底みたいなものになっているのかなーと思ってたんだけど」
思い出すかのように視線を上げながら話すスバルに、デュークラインはスバルが蝕を体験していることを知った。
「僕は魔力を吸い取られないように対処できたけど、周りの草木が枯れていくのはどうにもできなかったねぇ……」
デュークラインは黙って聞いていた。デュークラインは、蝕を知らない。まだ生まれていなかったからだ。互いの見た目とは異なり、スバルの方が長く生きてきたことが分かる。
「んんー?」
下方から勢いよくスバルに顔を近付けられ、デュークラインは思わず仰け反った。すぐに離れたスバルが顔を顰める。
「臭くて良く分かんないな。……まあ、いいや。僕は魔導士じゃないし。――あ、そうそう、」
追求を諦めたらしいスバルが、思い出したかのように声を上げた。
「水といえば、この聖都の地下に川が流れているのは知ってる?」
「川? いや……」
そう返した時、デュークラインは上で騒ぐ音を微かに捉えた。スバルを見れば、彼も気付いたのか視線を音がする方へ向けている。
「ああーやっぱり見つかったか。一応、上の死体は見つからないように隠してきたんだけど、しっかり隠せるだけの余裕はなかったし、そもそも見回りがいない、って異変がその内に気付かれるだろうなあ、とは思ってたんだよね。……だから、来た場所からは帰れません!」
向き直ったスバルが、元気よく宣言した。
「ま、思っていたほどじゃなくても、やっぱり弱っている君の体じゃ、僕が来た方法で脱出できるとは思えなかったから、どのみち無理だったんだけどね。というわけで、こっちこっち」
さっさと歩き出したスバルに誘導され、デュークラインは彼の後を追った。異端審問院の地下は思ったよりも広く、入り組んでいるようだ。その廊下を足早に歩いていると、確かに水音がしてきた。
「ほら、聞こえるでしょ? 本当は匂いもする筈だけど、その体臭じゃ鼻も利いていないかな」
スバルの言う通りのため反論できず、デュークラインは「ああ」とだけ返した。その内に、僅かながらの水の匂いをようやく感じ取る。
脇道に逸れた曲がり角の向こうには、暗い空間が広がっていた。水が勢いよく流れていく轟音が壁や低い天井に反響しているが、水面は闇のように暗い。手前の石壁に燃える松明が掲げられていることから、牢番たちはよくここに来るのだろう。川に下りる階段があり、それは途中から水に吞み込まれている。
「ほら、着いた。ここが川。ここの連中は、井戸じゃなくてここから水を汲めるから便利だって話してたよ。つまりは、下水じゃなくて上水だね。この都は住みにくく思うくらい綺麗好きなところがあるけど、今回に限っては、しっかり上水と下水を分けてくれている習慣に感謝だね」
「……どういうことだ? 脱出するのではないのか?」
「うん、そうだよ? そこに飛び込むの。君にとっては体も洗えて『一石二鳥』だね。下流の人にとっては汚水を流すのと同じだから、見つかったら罰金刑だぞ。アハハ」
可笑しそうにスバルが笑った。
デュークラインは暗い川を見下ろし、先の見えない暗闇を眺める。闇の中でも視界は利くが、その程度にも範囲にも限界がある。
「この川は外に通じているのだろうな?」
「うん。なんていう名前か知らないけど、ちゃんと城壁内の池に繋がってるみたいだよ」
「……繋がっているのがわかっただけでは安全とは言えない。水は通れても、人が通れるとは限らんぞ」
「あ、それについては大丈夫。ちゃんと確かめた後だから。上流から死体を流して、池に着いたのを確認してるんだ。まあ、だけど、死体だからねぇ。人が通れるだけの空間があるのは保証してくれているけど、外に出るまで息が続くかは保証してくれないよね。……いや、川に放り投げた時には未だ息があったかなあ。まー、虫の息じゃ一緒か。いずれにしても、君も普通の人と同じようには息をしてないんだから、弱っていても息は長く続くでしょ?」
スバルの返答は、デュークラインにとっては充分なものだった。
そう遠くない距離で、人の騒ぎ立てる声が聞こえ始める。隠した死体に気付かれ、侵入者がいること、更には脱走したことが発覚したのだろう。
「あーあ、そろそろ近づいてきたよ。どうするの? ここであいつらに刺されて死ぬのか、息が続かなくて死ぬのか、二つに一つだよ」
スバルに問われるまでもなく、デュークラインは取る行動を決めていた。この弱った体では溺れ死ぬ可能性が無いわけでは無い。それでも、ここで再び捕まるか殺されるかされるよりは、カイを救える可能性があるのだ。それがたとえ僅かな希望であっても、今はこれに縋るしかない。
「――ふん。それなら死ぬ選択しかないだろう」
デュークラインは階段上から暗い川へ飛び込んだ。思ったよりも早い水流に、身を任せる他はなくなる。視界も利かない中、今はただ生き延びることだけを、デュークラインは自分自身に誓った。
* * *
「おお、やっぱり踏ん切りがいいねぇ」
迷うこと無く川に飛び込んだデュークラインの姿は、あっという間に水流に呑まれ見えなくなった。そんな暗い川から視線を外し、スバルは近付いてくる騒がしさに目を細める。
ここから逃げたということは、いずれは異端審問官にばれるだろう。この川が何処に繋がっているのかを知っている者もいるかもしれない。捜索の手が早まれば早まるほど、あの死に損ないの使い魔が見付かる可能性も高まってしまう。
スバルは階段を下り、冷たい水に足先を浸した。
彼が意外にも動ける状態だったことは予想外だったが、幸運でもあった。少年の言葉を借りれば、正に世界神のお導きというやつだ。あの様子では、彼は無事に池に辿り着くだろう。
「ま、……何れにせよ、君もやがて死ぬんだけどね」
皆が生きようと足掻くが、人も魔物も何れ死ぬ。それが早いか遅いかは、世界神から見ればほんの一瞬の差異でしかないだろう。
水音を立てず川に入ったスバルは、その流れに逆らわず身を任せ、目を閉じた。
* * *
大主教領アルシラの高い城壁を囲むように並び立つ粗末な小屋群は、一つの町のようですらあった。木材や藁を使って組まれた家屋は、城壁の中のものとはまるで違う町のものだ。城壁内の民に貧民街と蔑まれるこの町は、今は深い夜の闇に覆われていた。それでも、城壁には松明が掲げられており、ペレ・ルス聖堂の司祭が施してくれる僅かなオイルと火種のお陰で、崩れかけているような町の中でも、灯りが消えることはあまりない。そんな灯りの一つを小屋に掛けた布の隙間から眺めながら、巻き髪のファビウスは薄い布に包まっていた。もう数か月、こうして息を潜めているのだ。ここの連中は見知らぬ者が紛れ込んでいても、あまり気にはしない。見知った者も長くいるとは限らない場所なのだ。現に、ここで前に住んでいた者は、もうこの世には居ない。
ファビウスは自らの顔に触れた。引き攣れた皮膚を、指の腹で撫でる。異端審問院の捜索から逃れるため、自ら火で顔を焼いたのだ。悶絶する苦しみだったが、今では雨の日に少し痛む程度で落ち着いている。
異端審問院に捕らえられたファビウスは、その内に処刑される筈だった。組織の仲間によって異端審問院の地下で爆破騒ぎが起こされ、その騒ぎに乗じて辛くも逃げ延びたのだ。噂によれば、異端審問院によって組織は壊滅に追い込まれたらしい。多くの同胞の血が流された。それは血を欲する神の慰みにはなっただろう。それでも身を寄せられる場所を失ったことは、ファビウスにとっては痛手だった。そしてこうしてこの身が生き延びていることは、神が更なる血を欲しているということを意味する。
ファビウスは、異端審問院が計画している催しのことを知っていた。明後日には魔女の公開処刑が、城壁内の断罪の広場で行われるらしい。調子に乗った異端審問院め、とファビウスは口元を歪めた。嘲りと憤りが常に胸にあるが、それはファビウス自身に向けられたものでもあった。異端審問院の連中を血祭にあげてやりたい気持ちはあれど、その方法まではまだ思い付いてはいない。だが必ず仕返しをしてやらねば、気が済まない。
「……今に見ていろ」
もう何度口にしたかしれない言葉を発し、ファビウスは頭から被った毛布を強く握り締めた。