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51 消えゆく灯火

 日が暮れた頃、エリュースはサイラスの家に向かっていた。タオから話を聞いたサイラスに、自分からも謝罪しておかねばと思ったからだ。


 大聖堂の丘をくだり、石畳の大通りに出る前に道をれれば、大聖堂騎士団の関係者の多くがきょを構える区画に出る。辺りはすでに暗いが、空を見上げれば煌々(こうこう)と輝く月が見えた。星が散りばめられた夜の空は、カイの瞳のようだ。異端審問院の何処どこに居るのかは分からないが、せめてデュークラインが繋がれている牢よりはまし(・・)な場所にいて、拷問ごうもんなど受けていないことを祈る。


 大聖堂騎士団が出した結論は、様子見、だった。ダドリーによれば、娘を巡って対立する意見が出たりもしたらしい。大主教に憤慨ふんがいする者や娘に同情する者もいたらしいが、予言が現実に起こりる可能性が皆無かいむでない以上、異端審問院がおこなおうとしている公開処刑を止めることはできないということだ。それについては、エリュースは納得するしかなかった。これまでもそうして、罪無き赤子が殺されてきたのだ。


 公開処刑が終わった後、騎士団長は大主教に責任追及をするらしい。予言の娘が処刑されることは仕方の無いこととする――その時が止まったような(・・・・・・・・・)考え方が、エリュースには腹立たしかった。しかしカイを知らない彼らからすれば、カイはどうあっても危険極まりない存在なのだろうとも思う。大主教のいる大聖堂も、異端審問院も、大聖堂騎士団も、カイを救う手になってはくれない。


 エリュースは手の内に、どの程度使える駒があるのかを確認することにした。まずは、塔に時折訪れていた魔導士カリスだ。魔法を操る彼女であれば、不可能と思えることも可能になるかもしれない。だが、それを判断できる知識がエリュースには無かった。魔導士が半島から姿を消し、二十五年以上が経過しているのだ。魔法・・の力を知る者は、若者の中にはいない。それ以外に、エリュースには懸念けねんする点があった。あの魔導士はおそらく貴人だ。正体が発覚すれば命を奪われかねない魔導士が、安全な身分を捨て、おおやけの場でカイを助けに出てこられるとは思えない。そのつもりがあれば、今に至るまでに動けたはずだからだ。少なくとも、タオが相手の正体を知らず、大主教に殺意をいだいた時に、機会はあった。しかし彼女は結果として現状維持を選んだのだ。彼女の真意は計り知れないが、それゆえに、ここで表に出てくる可能性は低い。もし出てきたとすれば、それは別の騒動――もしかすれば戦争――が始まる可能性もあった。それは好ましいことではない。


 この絶望的な状況で、公開処刑に引き出されたカイを奪還だっかんしようとこころみる者がいるとすれば、それはデュークラインだけだろう。その最後の駒も、今は地下牢に繋がれている。どうにかして解放できたとしても、彼自身のむごい状態を考えれば使えるとは思えない。もちろん、タオに頼むのはもってのほかだ。頼まなくとも向こうから「なんとかできないか」と言ってくるほど、やる気が充分なのはわかっている。だが、エリュースは親友の幼馴染おさななじみに死ぬ可能性が高い――むしろ生還することが奇跡であるような――試練を与える気はなかった。タオ本人がそれを望んでも、だ。そういう意味では、自分も騎士団の幹部たちと同じなのだと、エリュースはみずからを嘲笑ちょうしょうした。カイに言ったことに嘘偽うそいつわりはなく、大切な友人だと思っている。彼女は生きるべきだと思うし護ってやりたいと思うのも真実だ。それでも、無実の娘の命よりも、優先して護るべきものがある。


 手の内の駒は、もう無いに等しい。

 エリュースは首を左右に振った。ダドリーの、それぞれにとっての幸せ、という考えが頭に浮かぶ。カイが死ぬしかないのであれば、せめて彼女にとって、最良の環境で見送ってやりたい。決して、無知な民衆から呪いの言葉を投げつけられ、生きたまま火にくべられて殺されるべきではない。デュークラインと共に、静かにその生涯を終えられたなら、彼女にとって――幸せな最期になるだろう。


 エリュースは、まなじりに浮かんだ涙を拭いた。それが幸せだと感じるであろう、娘の不憫ふびんさに同情したのだ。


 一方で、デュークラインは最後までカイを護って戦って死ぬだろう。そう考えると、二人にとって幸せな最期は成立しない。カイはおそらく、デュークラインに見守ってもらって、あるいは共に死ぬ道を望むだろう。しかし、デュークラインは絶対にカイより先に死ぬ道しか選ばない気がする。


 ここでも出ない答えに、エリュースは溜息を吐いた。気付けば、サイラスの家の前に着いている。エリュースは気持ちを切り替え、扉をノックした。出てきたのはサイラスの妻であるジョイスだ。いつも笑顔で迎えてくれる彼女だが、さすがに今日は神妙な顔をしている。


「おじさんはいますか?」

「二階にいるわよ。ルゥも呼ばれたみたいだけどねぇ……」


 ジョイスがエリュースを中へ招き入れながら、心配そうな表情を浮かべた。それを見て、エリュースは奥に見える階段の上を見上げる。


「ちょっと行ってきます。多分に、俺にも関係あるんで」

「ご飯は食べていくかい?」

「んー、おじさん次第かな……」


 サイラスが筋を通すということを大事にしていることを、エリュースは知っていた。みずからの従士であるタオが彼に相談や報告なしに動いていたことは、彼にとってはひどい裏切り行為だろう。たとえそれが結果的に大聖堂騎士団にとって有益なことであってもだ。


 会議では、おそらくダドリーがかばってくれている。タオの事を守ってくれるように頼んだからだ。それでも、おそらくサイラスにとって『筋を通さなかった』タオを無条件で許すことは、彼の信条に反するだろう。最悪は従士を辞めさせられることだ。そうなれば、エリュースがタオの面倒を見るつもりではいる。金銭的に支える余裕などはないが、今までアンセル司祭経由で受けていた魔物退治を仕事にすれば、やり繰りできないこともないだろう。


 タオは、うまくいけばサイラスの跡を継げるかもしれない、とエリュースは考えていた。席次せきじで言えば、トバイアが筆頭だ。しかし彼には領主となる兄がいて、いずれはその補佐に戻るつもりもある、という話をしていたのを聞いていた。実際には、騎士になれば兄の領地に戻らなくても中央アルシラから色々できるので、そのまま順当に騎士になるつもりだろう。しかし、タオにはサイラスの娘であるサイルーシュとの仲、という強みがあった。義理の親子となれば、絆は強くなる。トバイアなら、そこを察して身を引いてくれる可能性があった。ゲリーも席次ではタオより上の従士だが、才覚の無さと素行の悪さからタオの相手にはならない。そこは心配していなかった。


 この、前途あるタオの未来をふさいでしまったかもしれない、という自責の念をエリュースは感じていた。勿論もちろん、塔の一件は、きっかけはエリュースだったが、その後の行動はタオ自身が選んで進んできたものだ。そういう意味では、タオはみずからの責任だと、エリュースを責めることはないだろう。しかし、エリュースにはそれを止める選択ができたはずだった。いずれはサイラスからの信頼を失うという問題に直面する可能性を認識しながらも、深く考えずにいたのだ。それは、タオが許してくれても、自分ではあやまちだったという後悔は消せない。


 エリュースはそんなことを考えながら二階への階段を上がった。サイラスの部屋の扉を叩こうとして、中からの知った声に手を止める。


「お父様が反対したって、私はタオと一緒になるわよ!」


 ――ああ、そうきたか。

 そう、エリュースは思った。おそらくは、タオとサイルーシュの婚約が破棄されたのだろう。父親であるサイラスにしてみれば、知らない内に娘を危険にさらしていたタオを許せるはずもない。しかしこれで不義理をした従士に対する制裁をしたことになる。


 エリュースは扉をノックし、名を告げた。

 許可を得て部屋に入ると、そこには長椅子に腰掛けたサイラスと、その前の椅子に並んで座っているタオとサイルーシュがいた。驚いたような顔をしたタオと、来るのが分かっていたかのようなサイラスの表情の違いに、エリュースは一つ咳払いをする。


「おじさん、今まで黙っていて申し訳ありませんでした」

 

 それだけ言い、エリュースはサイラスに深く頭を下げた。


「……もういい、エリュース。大方おおかたのことはダドリー殿から聞いた」

「はい」


 顔を上げれば、サイラスの少し困ったような表情が見えた。うながされ、サイラスの隣にエリュースは腰掛ける。その際に彼の横顔を見て、エリュースは、サイラスも年相応にけているのだなと感じた。エリュース自身が大人になってきたように、サイラスも、エリュースが子供の頃に少し怖かった堅物という印象がやわらいでいる気がする。このサイラスでも年を取り丸くなったのだ、と少し感慨深くさせられた。

 

 低いテーブルを挟んだ向かいに座っているサイルーシュは、両手を膝の上で握り締めうつむいている。そんな彼女をタオが心配そうに見ている。


「お前も知っているだろうから、言っておく」


 サイラスにそう切り出され、エリュースはサイラスに視線を戻した。


「二人の婚約は破棄した。ただし、タオは従士に残す」


 サイラスの言葉に、エリュースはただ頷いた。二人が婚約していたことは幸運だったかもしれない。サイラスにとってタオは腕の立つ従士であり、許せないが手放すには惜しい人材なのだろう。それでも、大聖堂騎士になれる可能性は限りなく低くなったことには違いない。


 タオとサイルーシュの仲については、エリュースは心配していなかった。タオが身を引く可能性はあるが、サイルーシュがそれを許すはずもない。はとこ(・・・)であるサイルーシュとの付き合いは、タオと彼女よりも長いのだ。


「あの娘のことだが……」


 そうサイラスが言った時、タオの表情が硬くなった。その隣で、サイルーシュの顔が上がる。


「騎士団の決定では、異端審問院のやることに手出しはしない。王都の動きを警戒しつつ静観することになった」

「そんな――ッ」


 タオの失望の声が上がった。青褪あおざめた表情から、彼がいかに騎士団に期待をいだいていたのかがうかがえる。それが打ち砕かれ、彼の中で絶望感がふくらんでいるのが見て取れる。


「あの娘のことは、諦めてくれ」


 サイラスの発した硬い言葉に、エリュースは彼を見た。彼の横顔には苦悶くもんが浮かび上がっている。彼自身、騎士団の決定に全面的に賛成しているわけではないようだ。


「お父様! カイは友達なのよ!?」


 すぐさま、サイルーシュの非難するような声が上がった。


「それにタオのお姉さんなの! カイは何も悪くないのよ! とっても健気で優しい子なの!」


 彼女の訴えに、隣にいるタオが今にも泣きそうな顔をした。タオはサイルーシュに全て話していたのだろう。


「ルゥ、あの娘は予言の、」

「お父様は……! 私の髪や瞳が黒ければ、同じように見捨てるの? 仕方が無いって思うの?」

「ルゥ――」


 サイラスが言葉に詰まったように眉をひそめた。


「カイはずっといじめられてきたの。でもあんなに優しいのは傍にいた人たちのお陰だわ。その人たちとも引き離されて、カイが可哀想よ……。もし予言通りになるとしたら、きっと私たちがカイを見捨てたせいなんだわ」


 サイルーシュの言葉は、エリュースにとっても強く胸に迫るものだった。彼女の言う通りかもしれないと思う。カイに必要なのは、不安定な彼女の心を安心で包み込んでやることだ。彼女を愛している者たちがいることを、彼女に伝え続けてやることなのだ。それなのに、状況はカイを追い詰めていくばかりで救いにならない。それが心底憎らしい。


 サイラスを見れば、顔を強張こわばらせながら目を閉じていた。サイルーシュの言葉は、彼にも響いているのだろう。それでも彼が決定をくつがえさないことを、エリュースは知っていた。サイラスの正義感は定められた法を遵守じゅんしゅするというたぐいのものだからだ。


 サイラスの頭が、下げられる。その姿に、エリュースは驚いた。タオたちの動揺も感じられる。


「許してくれ。これは騎士団としての決定だ。あの娘は助けられない」


 サイラスの発した言葉は重かった。大聖堂騎士団の一員として、騎士団の決定に従う彼の姿勢は間違ってはいないとエリュースは思う。それに、彼にも護るべきものが明確に存在している。それは教団であり騎士団であり、彼が大切にしている家族だ。サイラスを非難などできるわけもない。


「お父様……」


 父親のこんな姿を見るのは初めてなのだろう。サイルーシュが押し黙った。そんな彼女が隣のタオを見て、迷う素振りもなく彼を抱き締める。タオがサイラスに何か言うことはなかった。ただ一点を見つめるようにし、込み上げる感情をこらえているように見える。


 エリュースはタオが一人で無謀なことをするのではないかと懸念した。そこはサイルーシュに抑えておいてもらわねばならない。彼女なら分かっているだろうが、念押しは必要だ。


「エリュース」


 サイラスに呼び掛けられ彼を見ると、顔を上げた彼と目が合った。強く見つめてくる瞳に、彼からの懇願こんがんが表れている。


「無茶なことは考えてくれるなよ」


 そう言われ、エリュースは彼から視線を外すことなく頷いてみせた。

 


* * *



 デュークラインは名前を呼ばれた気がして目を開けた。重たい首をなんとか上げれば、いつもの暗闇が広がっている。食事の時以外は灯りがともされていないからだ。聞こえたと思った声は、入ってくる前の兵士なのかもしれない。


 いつだったか、もうろくに動けなくなってから、両手のかせが一枚の木の板に埋め込まれた形状の物に変えられた。それは鎖に繋がれ、この両腕を常に頭上に吊っている。鎖は天井付近から壁を伝い、途中から太いロープが結わえられ室外へと伸びているようだ。いつも松明たいまつを持った兵士と食事を持った者が二人で入ってくると、膝元へ食事を置く。そして一番近い壁に松明を差し込み、出ていくのだ。それから手枷に繋がるロープが緩められる。


 デュークラインは、自らが生きえの状態だと自覚していた。おそらくは女主人カリスに何かあり、更にペンダントまで奪われ、完全に魔力供給が絶たれている。散々拷問(ごうもん)を受けた体は、食事の際に指を動かすことすら苦痛をともなう。それでも、今は離れている娘のことを思えば、生き延びることを諦めるわけにはいかなかった。与えられる食事から得られる僅かな活力で、かろうじて命を繋いでいる。


 ――カイはどうしているだろうか。


 それだけが、デュークラインの気懸かりだった。あの暗殺者からの手紙によってカイの居場所は知られたのだ。あれからカイは異端審問官に捕らえられただろう。あの憎らしい結界は解かれたのだろうか。ひどいことをされてはいないだろうか。一人で泣いてはいないだろうか――。


 何故なぜあの娘があれほど苦しまねばならないのか。そう思えば思うほど、デュークラインはカイに苦しみを与える存在全てが憎かった。そこにはデュークライン自身も含まれている。初めて大主教がカイに手を上げたのは、カイがこの名を呼び、少しは懐いてきたと感じている頃だった。瘦せ細った体が僅かながら生命力を取り戻し始めた頃だ。大主教におびえ、助けを求めるように伸ばしてきたカイの手を、デュークラインは捕らえ逃げ場を失くした。あの時の驚きなげき悲しむ瞳を、今も覚えている。優しくしてくれていた者からの突然の裏切りに、カイの目は『何故なぜ』と訴えているように見えた。涙を零しながら、それでも全ての言葉を呑み込んだカイは、あの時壊れたのかもしれないと思う。大主教が去った後、カイはこの自分に微笑ほほえんだのだ。この頬に触れ、この名を呼んだのだ。


 にじんだ視界に、ふと微かな光がちらついた。

 デュークラインは眉をひそめ、闇を見つめる。何もない目の前の空間に現れたのは小妖精ピクシーだった。こんな町の牢内で見るはずのない姿に驚いていると、複数現れた小妖精ピクシーたちが、円状に広がっていく。闇を押し退のけるようにして作られた彼らの円の光は淡いもので、彼らの羽ばたきによってゆらゆらと揺らいでいる。その円から音も無く現れたカイの姿に、デュークラインは驚いた。願望が具現化されたような不思議な心地のまま、小妖精ピクシーと同じような淡い光に包まれているカイが、泣きそうな顔で両手を伸べてくるのを眺める。その手に頬を包み込まれ、仄かな温かさを確かに感じ、デュークラインは息を呑みカイを見つめた。


 カイの小さな唇が、音無く、しかし確かにデュークラインの名を呼んだ。そのまま顔を寄せられ、口付けられる。恥じらうようなつたないそれを、デュークラインは驚きつつも受け入れた。両手が拘束され上に吊られている状態では、カイを抱き寄せることが叶わない。それが実にもどかしい。


 カイからの口付けが深くなった。それに応えようとした時、そこから流れ込んで来る魔力に気付く。慌てて離れようとするも、カイがそれを許さなかった。それに加え、あろうことか枯渇こかつした飢餓きが状態の体が、デュークラインの意思に反してカイの魔力を欲し、吸い取ろうとしてしまう。


「こんなことをしたらお前が――、」


 カイの唇が息継ぎのためか僅かに離れたすきに、デュークラインはカイに止めるよう伝えようとした。しかしデュークラインの口は、カイによって再びふさがれる。

 

 弱っている四肢に魔力が徐々に満たされていくのを、デュークラインは感じていた。カイから与えられる魔力は温かく――むしろ熱く感じるほどだ。


 しばらくすると、カイの唇が今度はゆっくりと離れた。両頬に触れていたカイの手が、頬を撫でるようにし、顎先から離れていく。細い指先が完全にデュークラインから離れると、淡いカイの姿が更に闇に溶けていきそうに揺らめいた。思慕を宿した瞳に見つめられ、胸の奥が更に熱さを増す。どういう方法を取っているのかは分からないが、カイに全く負担がないわけではないだろう。そうまでしてこんな自分を救おうとするカイが、ひどく哀れで、いとおしい。


 デュークラインはカイに腕を伸ばそうとし、頭上で鎖の鳴る音を聞いた。かせを力を込めて破壊しようとこころみるも、かなわない。本来の主人でない者からの魔力だからなのか、そもそも全身に受けた傷がえてはいないからか。本来の力を取り戻せるには至っていないのは分かる。黒曜石オブシディアンのような瞳から涙が零れ落ち、少し痩せた頬を伝うのを、ただ見ていることしかできない。


 カイの唇が、再び音無く言葉をつむいだ。それを読んだデュークラインは、込み上げる涙をこらえ切れなかった。嗚咽おえつが、自らの喉からせり上がる。


『デュークが殺して』


 そう、カイは言ったのだ。

 泣きながら微笑みを浮かべたカイが、闇に抱かれるようにして溶け込んでいく。


「カイ……!」


 名を呼ぶも、カイが消えて行くのを止められない。完全に姿が見えなくなった時には、小妖精ピクシーの光の円も消え失せていた。空中に漂う光の粉が残り香のように舞うばかりだ。それも、徐々に消えていく。



「……カイ……ッ」


 暗闇に戻った視界は、僅かにゆがむのを無視すれば、目を覚ました時と同じものだ。閉まったままの扉に、開く気配はない。だが夢ではない、とデュークラインは確信していた。デュークラインの唇には確かに、仄かな温もりが残っているのだ。


 死ぬことでしか救われないと、そう娘に思わせた者たちが憎い。娘の小さな願いすら叶えてやれない、この不甲斐ない自分も腹立たしい。


 零れる涙をぬぐうこともできず、それは膝元の石床を濡らしていく。

 デュークラインは嗚咽混じりの溜息を吐き出しながら、もう一度、娘の名を呼んだ。


 

* * *



 リュシエルは地下牢に降りてきていた。娘がまたうなされてはいないかと気になったのだ。ジェイは公開処刑の最終準備のためにまだ仕事中で、リュシエルは久し振りにベッドで眠ることを諦めていた。


 ランタンを手に松明たいまつともる暗い廊下を進んでいると、手前にある儀侍ぎじ兵たちの詰め所から笑い声が聞こえてくる。儀侍ぎじ兵といえども監視の目が無ければ気が緩むものだなと思いながら、リュシエルはそこに近付いた。


「――あの女を見たか?」

「俺は見たぞ。ありゃあ滅多に見ない上玉だ。処刑前に一度くらい……」

せよ。あんなのを無理矢理やったら夢見が悪い。それにジェイ様に言われてるだろ。絶対に手を出すなって。あの人がわざわざ釘を刺してきたんだぞ」

「なぁに、バレやしないって――」


 聞こえてくる下卑た会話に、リュシエルは溜息を吐き出した。詰め所の開けられている扉を、軽く拳で小突く。驚いた兵たちの顔がみるみる青褪あおざめていくのを、リュシエルは冷ややかに眺めた。


「リュシエル様……! こ、こんな夜更けに――」

「気が緩んでいるようだな。また(・・)脱獄されるようなことになれば、貴様たち全員の首が飛ぶぞ」

「そ! それは、はい! 万全の体制で警戒をしております」


 牢番をになっている儀侍ぎじ兵の中でも年配の者が、直立して答えた。


 収穫祭からしばらくした頃、この地下牢の壁が破壊されたのだ。高い丘上に立つ異端審問院の地下は、崖の斜面に繋がっている。そこを爆発させ破壊したのは、異端の技だった。禁じられた魔法ではないか、と一部の民が怯えたが、そうではないのを異端審問院は知っていた。異国で開発された火薬という道具があるのを、異端審問官たちは知っていたのだ。少量であれば、使用した記録も残されている。本来なら取引されていないそれ(・・)を利用したのは、やはり異端の集団だった。その騒ぎにじょうじて逃げた罪人の中には、巻き髪のファビウスがいた。どうやら彼を助けるために、彼の所属する組織が起こしたことらしい。異端審問院はすみやかに動いた。逃げた罪人を捕らえることに加え、異端を信仰する組織の隠れ家を見つけ出したのだ。首謀者や信者を捕らえ処刑することで、あの事件は落ち着いた。しかし、巻き髪のファビウスだけはいまだ見付かっていない。


「例の娘はどうしている。食事はしたか?」


 そう問うと、若い兵士が顔色を曇らせた。


「食べるように言いましたが、眠っているようで……」

「……牢を開けろ。様子を見たい」


 眠っている、と聞き、リュシエルは不穏なものを感じた。あの娘はずっと、眠ることを怖がっていたのだ。うなされればすぐに起こしてやるとなだめてやって、ようやく目を閉じるような状態だったのだ。


 鍵を持った兵士に続き、リュシエルは暗い廊下を足早に進んだ。




 娘の牢は偽者を繋いでいる尋問室よりも、更に深く奥まった場所にある。黴臭かびくささと湿気がひどく、牢番すら近付きたがらない場所だ。孤立したその牢の手前には、三人の儀侍ぎじ兵が立っていた。近付く灯りが見えていたのか、直立して迎えられる。


「開けろ。ジェイの許可は得ている」


 そう言えば、彼らは道を開けた。

 牢の扉は他よりも分厚く頑丈に作られている。それが音を立てて開けられた時、リュシエルは血のにおいに気付いた。牢内に置かれたランタンの火は消えてしまったのか、暗い視界に娘の姿は見えない。


 リュシエルは灯りのいたランタンを手に、迷わず牢内に踏み込んだ。部屋の端でうずくまるようにして毛布に包まっている娘を見付ける。それは一見、寝ているようにも見えた。振り返れば、扉の下部に設けられた穴から入れられた食事には、手が付けられた形跡がない。


 娘の傍にランタンを置き、リュシエルは娘を抱き起こした。そこに見えた蒼白な顔面に、息を呑む。唇に血が付いていることに気付き、伏していた床を見れば、娘が吐いたと思われる血が広がっていた。


「おい! しっかりしろ!」


 頬を軽くたたいて声を掛けると、娘のまぶたが僅かに上がった。うつろな眼差まなざしは、何処どこか遠くを見ておりリュシエルを映してはいない。


「ジェイを呼べ! 娘が血を吐いたと伝えろ!」

「は、はい!」


 儀侍ぎじ兵に指示し、リュシエルは娘の額に触れた。驚くほどの熱さに、このまま死んでしまうのではないかと焦りを覚える。塔でいた時も旅路でも、こんな娘の様子は見なかったのだ。


「……デューク……」


 涙を流しながら、娘があの男の名を呼んでいる。体の前で拘束したままの両手首からも、血が流れ出ているようだ。気付かない内に、枷が傷付けていたのかもしれない。


「死ぬな! カイ……!」


 そのあまりにも哀れみを覚える様子に、リュシエルは思わず脆弱ぜいじゃくな体を抱き締めていた。



* * *



 儀侍ぎじ兵から報告を受けたジェイは、尋問室で偽者のデルバートを前にしていた。最近ではここに近付きたがらない者が増えたと聞いている。妙に体が重くなるだの頭痛がするだのといった訴えが上がっているらしいが、その真偽は分からない。今のところ、ジェイは地下牢独特の臭気以外は、特別な不調を感じてはいなかった。あれから大聖堂騎士ダドリー・フラッグからの連絡は無く、未だこの男の正体は分からないままだ。


 繋がれたまま項垂うなだれている男の顔を上げさせランタンを近付けると、眩しそうな藍色の瞳が見えた。目元が少し腫れ、涙の跡が見られる男の様子に内心驚く。しかし今は別の問題をかかえているため、えてジェイはそれについて触れなかった。


「娘が血を吐いた。対処法があるなら教えてくれ」


 そう率直に問えば、男の眉が深くひそめられた。娘が捕らえられている状況を察したのだろう。


「塔の棚にあった丸薬がんやくは」


 男の口から初めて、明らかに娘との関わりを示唆しさする言葉が発せられた。


「押収している。今はエイルマー助祭が調査中だ」


 塔で見付けた物の内、調査が必要と判断したものは全て持ち帰ってきている。瓶に入っていた丸薬もその一つだ。

 男がほんの少し、安堵したように息を吐いた。


「それを一粒なんとかして飲ませろ。ただし、絶対に誤嚥ごえんさせるな」

「分かった」


 答えを聞き、ジェイはすぐにきびすを返す。そこへ背後から引き留めの声が掛かった。


「ジェイといったな」


 呼び掛けられ振り返ると、男の仄かに光を帯びたような瞳と目が合った。一瞬、背筋に寒気が走る。死に掛けていた男に僅かながら生気が戻っているようにすら感じられ、ジェイは両手を握り締め、男の言葉を待った。


「せめて最期の時までは、護ってやってくれ。……頼む」


 男が発したのは、娘への配慮を懇願こんがんするものだった。これまで命乞いを一切しなかった男からの言葉に、彼が娘にいだく想いの強さがうかがえる。


「……そのつもりだ」


 ジェイは平静を意識的に保ちながらそれだけ答え、自分を見つめたままの男に今度こそ背を向けた。



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