49 主教ヴェルグの訪問
ノイエン公爵領にある森の塔を発ってから十日目、リュシエルたちは大主教領アルシラに入っていた。途中の町や村では檻に掛けられていた覆いが、ジェイの指示で外されている。檻の中の娘を見れば、毛布に包まったまま辺りの光景に目を奪われているようだ。街並みや遠巻きに見える人々を興味深そうに眺めている様は、まるで初めてのものを見るかのように思われる。そんな娘の横顔に、ふと悲しそうな陰りが見えた。
「わたしを、怖がっているの……」
独り言のように零れた娘の言葉を、リュシエルは檻の傍で捉えていた。
そうだろう、と思う。アルシラの民が目にしているのは、アスプロの代弁者のような存在である大主教が『禁忌』と定めた姿をした娘なのだ。
「彼らを見てやるな、カイ。怖いなら目を閉じているといい」
そう声を掛けると、振り向いた娘と目が合う。娘の頬に悲しそうな微笑みが浮かんだ。
父ルードの殺害を否定した娘に対し、リュシエルはあれから娘の名を呼ぶことにしていた。ジェイに倣った形ではあったが、リュシエル自身、娘への嫌悪感が薄れたことは確かだった。夜ごとに魘される娘を起こすのは檻の傍近くで休むジェイだったが、三日目からはリュシエルが自ら檻の中に入った。塔での長い生活もあり、ジェイが疲労している様子を見かねたためだ。それは娘から父親のことを聞き出す良い機会にもなった。
亡くなる直前の父親の様子を娘から聞けたことは、リュシエルにとって嬉しい誤算だった。亡き母や自分を見捨てなかった父親に違わない姿だったのだ。ルードは優しかった、と娘から告げられた時、不思議と胸の奥に凝り固まったものが解れた気がした。と同時に、この娘に暗殺者を差し向けたのだと思うと、我ながら勝手なことだと思うが――娘が殺されなくて良かったと思う。
差し向けた暗殺者は、あの偽者に斬られたのだろう。牢で手紙のことを聞いた偽者の反応からして、彼はザラームを認識していたからだ。
異端審問院に戻れば、審問院長にこの娘の処刑の延期を申し入れするつもりでいる。ウィヒトの予言が本当であれば脅威であることは確かで、リュシエル自身、それを阻止するためにも魔女を殺さねばと意気込んできた。しかしいざ娘を目の前にしてみれば、想像とは真逆の大人しい娘だ。ジェイはまだ疑っているようだが、祖父母を殺したとは到底信じ難い。父ルードはおそらく状況証拠だけで手紙を書いたのだろう。わざわざ『疑い』と書き記したのは、ルード自身の中にもそれを否定する気持ちがあったのかもしれない。それならば、予言自体が疑わしいもののようにも思われる。
ルードを殺した犯人が娘でない以上、リュシエルにとって重要なことは真犯人を捕らえることだった。事件から随分と年数が経っていることから、それが難しいことは承知している。しかし今は証人がいるのだ。最後に父ルードに接触していた、この娘がいる。それまでに処刑されては困るのだ。真犯人を探し当てた時、それを証明する存在がいなければならない。拷問で自供を引き出したとて、それで胸が晴れるというわけでもない。父ルードの仇だという確証が欲しい。
「デュークのいるところに、行くの?」
澄んだ青い空を見上げ、目を細めた娘が呟いた。
「――ああ」
近付いてきた異端審問院の門を見れば、黒衣の儀侍兵が両脇に待ち受けている。
リュシエルは冷たい檻に手を掛け、娘に答えた。
「処刑を延期して欲しいだと?」
審問院長ウォーレスが、驚いたように手元の書類から顔を上げた。何を言っているのだと言わんばかりのウォーレスに対し、リュシエルははっきりと肯定の返事をする。
「審問官ルードを殺害したのは、あの娘ではなかったのです。別領で処刑された連続殺人鬼でもありません。物乞いを装った二人組の男なのです」
リュシエルは娘から二人組の特徴を聞き出していた。記憶が古く、そもそもの情報量が少ないが、貴重な手掛かりをやっと手にしたのだ。リュシエルには諦める選択肢は無かった。大主教がこの件に絡んでいることは確かなのだ。雇われた者だったとしても、大主教を捕らえれば明らかになることは間違いないだろう。
「あの娘は唯一の証人です。審問官を姑息な方法で殺した犯人を野放しにはできません」
リュシエルは力を込めて訴えた。しかし返ってきたのは、ウォーレスの拒否の仕草だった。
「予言の魔女を処刑にと声を上げていたお前が、今更何を言うのだ」
「それは……っ」
「それに、その娘の証言が正しいと何故分かる。助かりたい一心で嘘を吐いたのではないか?」
「そのような娘ではありません!」
リュシエルはきっぱりと否定していた。少し気圧されたように目を瞬かせたウォーレスが、首を左右に振り大仰に溜息を吐き出す。
「魔女に魅入られたか……?」
ウォーレスのその一言に、リュシエルは激昂した。両手を執務机に強く突く。
「私は決してそのような!」
「――落ち着け、リュシエル。外まで聞こえているぞ」
突然後方から掛かった声に、リュシエルは振り返った。そこには、いつの間に扉が開けられていたのか、ジェイが入ってきていた。窘めるように太い眉を顰めている彼が傍にやって来る。
「おお、ジェイ。娘の様子はどうだ?」
「今は、大人しくしています」
助かったとばかりにジェイに視線を向けたウォーレスに、リュシエルは苛立ちを抑えながら一歩、執務机から離れた。
「それで……、処刑の延期でも頼んでいたか」
図星を指され、リュシエルはジェイを見る。ジェイから向けられる眼差しに哀れみを感じ取り、リュシエルは答えられず両手を握り締めた。
「お前の気持ちは分かる。あの娘の言うことは嘘ではないと私も思う。だが、公開処刑の日は七日後と既に決まっているのだ。サムソンやレナードも、今頃はこちらへ向かっているだろう。今更、お前の一存で取り止めることはできぬ」
「では……! このまま忘れろと言うのですか!」
リュシエルは強い失望感を抱いた。ジェイは父ルードの友人であった筈だ。これまでも手を差し伸べてくれ、ここまで引き上げてもくれた。共にルードの仇を取るのだと思っていたのに、裏切られた気持ちになる。やっと、真相への糸口を掴んだのだ。正に、これからの筈なのだ。
「忘れろとは言っていない、リュシエル。だが、固執するのはもう止すのだ。真犯人を捕らえられたとして、ルードはもう戻らぬ」
「ジェイ――」
ジェイの口から発せられた父親の名に、リュシエルは噴き出そうとしていた怒りを胸元で強く押し留めた。ジェイもルードのことを忘れてはいないのだと理解する。彼はどうにもならぬと、自らと自分に言い聞かせたのだろう。
「大主教を糾弾するのは容易いことではないが、審問院長も動かぬとは言っていない。ジョナス殿の証言から今回の責任追及はできる。まずはそこからだ」
ジェイが続けた言葉に、ウォーレスが頷いた。
「処刑は明日、教団関係者と周辺の地域の民へ告知する。カークモンド公がデルバート殿を連れて戻られるのも近いだろう。ジェイに取り仕切らせる故、軽率な発言は慎むのだ」
カークモンド公爵のことがウォーレスの口から出たことで、リュシエルは本物のデルバートが地下にいないことを思い出していた。本物のデルバートをカークモンド公爵に渡してしまったことについては、仕方のないことだと思っている。公爵からの申し出を拒否するほどの、本物をここに留め置き続ける理由はないからだ。逆に本物だとの証を得るためにデルバートを護衛し連れていく手間が省けた。それに万一デルバートが戻ってこなくとも、それはリュシエルにとっては最早大きな問題では無くなっている。偽者のデルバートこそ、大主教を糾弾するために必要な者なのだ。娘が処刑されてしまえば、あの偽者は喋るだろうか? そう一瞬考えたが、リュシエルは否定した。
その時、扉を叩く音があった。ウォーレスが許可すると、儀侍兵が姿を見せる。
「アルムの主教様が審問院長に面会を求めておられます」
「来たか……」
主教が訪ねてくることが分かっていたかのように、ウォーレスが溜息を吐いた。
「リュシエル、結界士のジョナス殿を奥の客間に連れて来てくれ。ジェイ、同席を頼む」
「分かりました」
アルムの主教といえば、大主教の息子だ。予言の娘を隠した人物でもある。そんな人物が自ら乗り込んでくるとは、一体どういうことなのか――。
リュシエルは主教の訪問を訝しく思いながらも、ウォーレスの指示を承知した。
結界士のジョナスを連れて客間に入れば、審問院長ウォーレスとジェイが一人の客を前にしていた。現大主教メルヴィンの息子であり、枢機卿の一人でもあり、ジョナスの雇い主でもあるヴェルグ・クィーダが、奥の椅子に腰掛けている。眩しいほどに白いローブの肩から下げられている帯は赤く、銀糸の縁取りや見事なシア・フォスの刺繍からは彼らの権力の強さが現れている。こうして間近で見るのは初めてのことだが、瞳の色は違えど、父親によく似た顔立ちをしているとリュシエルは思った。
「――ジョナス」
ヴェルグの視線が上がり、リュシエルの隣にいる結界士に向けられた。
「ヴェルグ様……」
ジョナスが彼の名を呼び、頭を垂れる。その声は強張っており、彼が緊張状態にあることは明らかだった。
リュシエルは、ヴェルグの正面に座っている審問院長ウォーレスの斜め後ろに控えた。ウォーレスの隣に座っているジェイも同様に、ヴェルグの様子を冷静に眺めているように見える。
「何度か書面を送った通り――」
そう、ヴェルグが切り出した。
彼の落ち着いた胡桃色の瞳からは感情が窺いにくく、リュシエルは警戒を強める。全くもって、ヴェルグの意図が読めないのだ。
「私の結界士を断りなく連れて行かれては困るのです、審問院長殿。早々に連れて帰らせていただきたい。彼に任せている仕事が途中で止まってしまっており、困っているのです」
「それは――こちらにも正当な理由があってのことなのです」
審問院長ウォーレスが意外にも、毅然とした態度でヴェルグに答えた。娘が手元の牢に入ったことで、安堵した部分があるのだろう。
「ではその理由とやらをお聞かせ願いましょう。その者は私にとっては大事な結界士なのです」
ヴェルグからの促しに、ウォーレスがジェイの方を見る。それに対しジェイが頷き、ヴェルグへとジェイの視線が向けられた。
「ヴェルグ殿。我々は異端に与した疑いでジョナス殿を捕縛したのです」
「――異端?」
驚いた様子を見せたヴェルグを、リュシエルは訝しんだ。彼こそジョナスを使い塔に結界を張った人物だと、ジョナス本人から聞いているのだ。
「しらを切るおつもりですか? 貴方こそが彼に結界を張らせたのでしょう。予言の魔女を我々から隠すために」
ジェイが単刀直入に切り込んだ。ジョナスは謂わば使われただけの男だ。その彼を使ったヴェルグが自ら異端審問院に飛び込んでくるなど、リュシエルには不可解極まりなかった。ヴェルグの表情を窺えば、眉尻が僅かに上がっている。それは、ジェイの話を疑いながらも驚いているように見える。
「……予言の? そういう噂は耳にしたことがありますが――生憎、私は詳しくはないのです」
「お父上からお聞きになっておられるのでは?」
「父は秘密主義でしてね。お教えいただいてもよろしいですか?」
そう言って予言の詳細を促したヴェルグに、ジェイがウォーレスの了承の頷きを得てから『予言』の文言を口にした。それを聞いたヴェルグの目が、驚きに次いで可笑しむように細められる。
「まさかあの子供が」
信じられない、と言うように、ヴェルグの口から乾いた笑い声が零れた。
「まさか、とは?」
「確かに私は子供を塔に閉じ込めましたよ。随分と昔に、そこにいるジョナスの手を借りて、父の言う通りにね。また父の悪い癖が始まったのだと……何せ私には詳しい事情など話さぬもので」
ヴェルグを見ているジェイの横顔が、僅かに強張ったように見えた。彼もヴェルグの言葉に嫌悪感を抱いたのだと、リュシエルは思った。
「本当に予言の魔女だとは知らなかったと仰るので? 黒い髪と瞳は分かりやすい特徴でしょう。アルムの主教ともあろう貴方が、禁忌とされた容姿を認識していなかったとは言いますまい?」
「……布で包まれた子供を渡されただけですよ。わざわざフードを取って見るようなことはしません。知らない方が良いこともあるのだと、私は幼い頃より知っていましたからね」
ヴェルグの瞼が僅かに下ろされた。彼の言葉尻には、淡々としていながらどこか物憂げな悲しみが感じられる。呆れたような笑みがヴェルグの頬に薄く浮かび、リュシエルは意外な彼の様子に見入った。
リュシエルは彼と父親の関係性が気になった。異端審問官とは違い、大主教を含む主教や司祭は婚姻を認められている。ヴェルグは自分とは違い周囲に隠されて育ったわけではないだろう。それでも彼らの関係性は希薄なのかもしれない。それ以上に複雑な感情が大主教に向けられている。そんなふうに感じられる。
「ジョナス殿」
ジェイがジョナスに問い掛けると、ジョナスの双肩が大きく震えた。
「その場にいた貴方はどう思われる? 貴方はヴェルグ殿に指示されたと言われたが」
「そ、そうですが――思い返してみれば……ヴェルグ様も私と同様に大主教様に指示されたとも……。そうです、あの場では……子供の容姿を確認した者はおりませんでした」
「そうなのか? だが確か数か月前に、大主教様と彼を塔へ飛ばしたと言っていた筈では?」
「そ、それは――、その……」
ジェイの疑問に対し、ジョナスが言葉を濁し口を閉じた。ヴェルグを見れば、彼は動揺した様子もなく軽く頷く。
「ああ確かに、父は数か月前に娘に会っている。私は父に言われ外で待っていただけだ。あの時は無理を言って悪かったな、ジョナス。お前の都合もあっただろうに」
「い、いえ……ッ、と、とんでもございません」
恐縮したようにジョナスの体が跳ね、縮こまった。腹の前で手を握り合わせ、彼はヴェルグを窺うように見ている。
「貴方様はあの時、わ、私の命を、救ってくださいました」
「そのようなことも、あったかな……」
ジョナスを眺めるようにして見ているヴェルグが、呟くようにそう言った。
リュシエルは彼らのやり取りを見聞きしながら、これまで考えもしなかった方向に道が開ける可能性を見出していた。このヴェルグという男が大主教に使われていただけならば、彼は偽者のデルバートと同様に、大主教を糾弾できる情報を持った証人と成り得るのだ。
「審問院長殿」
ヴェルグが、ジェイではなくウォーレスに向かって声を掛けた。ヴェルグの頬からは、先程までの仄かな笑みが跡形もなく消えている。
「ジョナスの件は分かりました。そういう事情があるならば、私に許可なくジョナスを連れていったことは仕方ないでしょう。ジョナスで無ければ、あの結界は解けませんからね。ただ、ジョナスの命は助けてやってください。貴重な結界士なうえ、巻き込まれただけの者なのですから」
「ヴェルグ殿――」
「これ以上のことは、父から聞いた方が良さそうです」
そう言って立ち上がったヴェルグに、ジェイが言葉――おそらくは彼の行動を止めようとする――を呑み込んだことが分かった。リュシエルも驚きながら、ウォーレスに見送られるヴェルグの背を見つめる。大主教を問い詰め、彼は真実を得るのだろうか。その時、ヴェルグはどう動くつもりなのだろう。
ヴェルグが出て行き、ウォーレスが困惑したように頭を抱えた。
「本当に彼は何も知らないのか? とすれば首謀者は大主教一人だということなのか……?」
「全て鵜呑みにはできません。それに大主教が失脚すれば――彼が次の大主教になる可能性もあります」
ジェイが言った言葉に、リュシエルは密やかに可能性を確信に変えていた。ヴェルグという男は利用できるかもしれない。完全に信用することはできないが、彼の力を借りれば娘の処刑を延期することもできるかもしれず、彼こそルードを殺した真犯人を捜し出すための鍵となるかもしれないのだ。
「とにかく今は七日後に備えるのだ。リュシエルも、良いな?」
「……承知しました」
ウォーレスに応え、リュシエルは内心を隠しながら頭を下げた。




