43 暴かれた塔
フードの下から、ジェイは古びた塔を視界に収めていた。立ち込める霧の中、樹々が一切生えていない短い草地の奥に見える塔は、森を背負いひっそりと建っている。降り始めた雨が、森の樹々の葉を鳴らし始めた。
ジェイがアルシラを出たのは十日ほど前だ。異端審問院長ウォーレスに許可を得、予言の魔女の捕縛のために小隊を率いてこの地にやって来た。ここに至るまでの旅路ではそれなりに事は起こったが、結果的に難なく辿り着くことが出来た。峠で盗賊を返り討ちにし、丘で襲おうとしてきた狼は火で追い払ったのだ。
極秘に動く必要があるため、この小隊はジェイを入れて審問官三名、儀侍兵七名で構成されている。馬車が辛うじて通れる石畳の道があったことは幸いだった。お陰で、檻馬車も近くで待機させることが出来ている。
アルシラで捕らえているデルバートの偽者は、常にこの森に居られたわけではない。とすれば、あの偽者以外にも魔女の傍に誰かがいてもおかしくはない。そう考えていたジェイは、森から草地へ足を踏み出すことを容易に考えはしなかった。
「ギレル、兵を四人連れて周囲に罠が無いか調べてくれ」
「承知しました」
ギレルに指示を出すと、彼は兵士を迷うことなく選び、速やかに傍を離れていった。ギレルは『浄化』前からの経験が豊富な男だ。ジェイは彼を、こうした機会には必ず連れてきていた。部下の中では最も年長の審問官であり、無口だが実直な男で信頼に足るからだ。
傍に残したロディと残りの儀侍兵と共に、ジェイは木陰で雨をやり過ごすことにした。塔を見れば、上部は壊れているようだが、湖側に建物が増設されている。その屋根に見える煙突からは煙が上がっており、中で火を使っていることは明白だ。自分たちが来ていることに気付いているだろうか? そう考え、ジェイはどちらでも良いと思った。どちらにせよ、逃がすつもりはない。
暫くすると、周囲を調べていたギレルたちが戻ってきた。
「何らかの結界が張られています。この草地を囲むようにして結界士の杭が打たれていました」
「魔物避けのものか?」
「いえ、魔物避けでも病避けでもないと思われます。杭にその印がありません」
さすがにギレルは、結界士の杭の特徴についても知っている。
ジェイはギレルに頷いた。
「ならば、感知のためのものかな」
「その可能性が高いかと」
この結界に踏み入ると魔女に感知される仕組みならば、今更気にすることもない。ジェイはそう判断した。
「塔へ行くぞ。馬車も来させろ」
そう言えば、ギレルが誰よりも先に草地に足を踏み出した。やはり何事も起こらない。それを身を以て証明した彼に促され、ジェイも兵に指示し後に続いた。
塔の正面には、扉があった。アカンサスの葉を模した鉄の補強がされており、ギレルが押しても動かないようだ。鍵が掛けられているのだろう。兵の三人を裏手に行かせ、ジェイは扉前に立った。剣帯に下げた剣を抜き、常套句を発するために息を吸い込む。
「異端審問院である! この塔は既に包囲している。大人しく縛に就きたまえ!」
辺りに響き渡る自身の声を聞きながら、ジェイは塔の中の気配を探った。大きな反応は無い。中で息を潜めている可能性はあるが、塔は至って静かなものだ。
「ジェイ様」
裏手から兵の一人が戻ってきた。
「あちらから中へ入れるようです。戸に鍵穴は無く、錠前も掛かっておりません」
「ではそちらから行こう。お前はここで見張っていろ」
儀侍兵を残し、ジェイは裏手へと向かった。小さな池の傍を通り、屋根のある台所らしき場所に足を踏み入れる。驚くことに整頓された小綺麗な空間で、暖炉の火によって暖かい空気がフードの中にまで入り込んだ。中央の台の上には蓋をされた鍋が置かれており、微かに玉葱と香辛料の香りが辺りに漂っている。明らかに、少し前までここで調理していた者がいるのだ。
奥に進めば、兵たちが示す片開きの扉があった。ギレルが木製のそれを静かに押しただけで、扉は奥へと誘うように開く。
振り返ったギレルの表情からは警戒が解けていない。ジェイが頷いて促すと、ギレルの手がそのまま扉を押し開けた。兵を護衛に二人付け、後は塔周りを警戒させることにする。そうして、ジェイもロディと共に塔の中へと踏み込んだ。
暗い塔内は、微かに血の臭いがしていた。特に入ってすぐの部屋だ。先に見える部屋が仄かに明るいため、敢えて灯りを使わずにそこを抜ける。灯りのある部屋の光源は、暖炉とランプだった。先程いた台所の暖炉と背中合わせになっているらしく、その燃え盛る炎が周りをぼんやりと照らし出している。テーブル上には皿状のオイルランプが置かれており、それに照らされている椅子は三脚もある。
「ジェイ様」
ギレルの呼び掛けに、ジェイは隣の部屋へ向かった。そこで目にした光景に、息を呑む。青白い光に包まれるようにして、一人の娘がベッドの上に座っていた。浮かび上がっている白いローブは、まるで聖職者のもののように見える。本物のデルバートが話していた通り、短い髪は灯りに照らされて尚、闇のように黒く、ジェイは剣を持つ手に力を込めた。
光源となっているのは丸い石で、かつて押収したことのある月光石だと分かった。魔導士が創ったとされる、古代魔法王国時代の遺物だ。一部の主教や貴族たちの間では未だ使われていると聞くが、今では表立って使う者はいないだろう。魔導士でない者が充填するには専用の器具が必要らしいが、結界士でも出来なくはないそうだ。勿論、異端の物として、審問院では一切使用されてはいない。それが煌々と光を放っているということは、この娘が充填しているのかもしれない。
ジェイは改めて娘を見つめた。想像していたよりも弱々しく、それでいて稀に見るほどに美しい。怯えたような表情をして、両手を胸元で握っている。一見無害に見える娘を前に、ジェイは静かに息を吸い込み吐き出した。
「今からお前を捕縛する」
ジェイがそう言った直後、ギレルが動いた。娘に近付き、腕を掴んでベッドから引きずり下ろす。ギレルに床に縫い付けられた娘が、両手首を背中に捻じ上げられ短い悲鳴を上げた。横からロディが魔力封じの枷を娘の手首に嵌める。鉄枷は短い鎖で繋がっているため、娘の左右の手首はほぼ完全に背で固定された状態となった。
「灯りを」
そう言い、ジェイは剣を鞘に収めた。ロディが火を灯したランタンを持ってくる。それを娘の顔に近付けさせ、ジェイは娘の傍に片膝をついた。髪を掴み顔を上げさせると、怯えた黒い瞳が見える。確かに予言の魔女で間違いはない。
「名は?」
質問するも、娘からの返答はなかった。泣くのを堪えているかのように娘の眉根が寄せられ、拒否の意思を示すかのように娘の唇が引き結ばれる。この状況下で歯向かう姿勢を見せた娘に、ジェイは小さく溜息を吐いた。
「私は気は長い方だが、質問には素直に答えた方が良い」
髪を離し、ジェイは娘のローブに手を掛けた。途端、娘が顔を上げて身を捩る。しかしジェイは構わず肩口を引き下げた。その右鎖骨部分に見えたのは、焼き潰されたような痣だ。ジェイは眉を顰めた。隣から覗き込んでいるロディの、驚いたように息を詰めた気配がする。娘の向こう側に膝をついているギレルが、その痣部分がよく見えるよう娘の体を仰向けた。
「ルードの手紙にこのことは……」
「無かったな。とすれば、ルードから逃げた後か」
ジェイは小剣を取り出した。それで娘のローブの胸元を切り裂くと、そこに更に広がった焼印が表れる。まるで拷問の痕だ。ローブの裾を捲り上げると右足首に包帯が見え、それを解くとそこにも火傷痕があった。そう古くはない。
「ふむ……」
胸の焼印に触れると、娘の体がびくりと震えた。皮膚の引き攣れから推測すれば、随分と昔に付けられたものなのだろう。円形の焼印の文字が読み取り辛くなっているが、指先でなぞれば、確かに神聖文字であることが分かる。何のためのものなのかは分からない。単に戒めのためなのか、若しくは別の意図があったのか。どちらにせよ古いものの筈だが、妙に傷痕が生々しい。
「治せるか? ロディ」
隣で顔を強張らせているロディに問うと、彼が微妙な表情をした。
ロディは元司祭の異端審問官だ。癒しの力を持っており、剣の腕は立たないが旅路の際には重宝している。
「完全にとなると私の力では……。ですが、その痣の部分くらいなら」
「それで良い」
頷くと、ロディが腰に下げた袋から聖水の小瓶を取り出した。それを娘の焼かれた痣部分に掛ける。途端、娘が大きく身を震わせた。
「いや……、お願い、それはやめて」
「治してやろうと言うのだ。怖がることはない」
ロディの宥める言葉にも、娘は首を振るばかりだ。ロディの白く光る手が、娘に触れようとする。その時、ジェイは濡れた娘の肌が赤らもうとしていることに気付いた。
「待て」
ロディの掌を、自身の手の甲で遮る。そうしながら、ジェイは顔を上げた娘の瞳から零れ落ちる涙を見ていた。
「ジェイ様?」
「なるほどな。そういうことか」
ロディに手を完全に引かせ、ジェイは娘の焼印に触れた。仄かに白く発光しているそれは、暫くすると光が消えていく。
「あの光で焼かれているのか?」
そう問うと、娘が小さく頷いた。
「私は予言の魔女であるお前をいずれは処刑するつもりでいる。だが悪戯に傷付けたりはせぬ。大人しくしていればな」
殺すことを宣言しても、娘が泣き喚くことはなかった。寧ろ安堵したかのように、涙に濡れた顔に僅かながら微笑みが浮かぶ。
「ありがとう……」
ジェイは意外な言葉に驚いた。どこか幼く感じる娘が、言葉を正しく理解できていないのではないかと疑う。
「殺されるのが怖くはないのか?」
思わずそう聞くと、娘が滲むような笑みを浮かべた。
「こわいけど……、わたしじゃなくなる方が、もっとこわいの。わたし一人が殺されて済むなら、それでいいの」
娘の言った言葉に、ジェイは決意のようなものを感じた。信じられないことに、本気で言っているように思う。滅多な事では揺らがない自信があるジェイは、一瞬、憐憫の情を抱いたことを無視しなかった。目の前の脆弱極まりない娘に対し、ある種の危険性を見出す。牢に捕らえているデルバートの偽者が頑として口を割らないのは、この娘のために違いない。周りにいる部下たちの顔を見ずとも、動揺しているのが伝わってくる。部下たちが娘と接する機会は、最小限に抑えた方が良いだろう。
「ギレル、兵を三人連れていっていい。周辺を探れ。ロディは塔内を調べろ。後の者は塔の警護に就け」
皆に指示を出した後、ジェイは娘の細い体を抱き上げた。ベッドの上に座らせてやり、傍にあった毛布を前から被せ背中まで回してやる。少し不思議そうな表情を見せた娘から、ジェイはすぐに手を離した。
「私はジェイ・リーガンという。お前の名を答えよ。答えれば、お前のよく知っている男のことを教えてやろう」
「よく、知っている……?」
僅かに眉を顰めた娘が、不安げに表情を曇らせた。
「デューク、のこと?」
「デューク? そんな男は知らんが……それともそれは――デルバートのことか?」
はっとしたように目を見張った娘の顔が青褪めた。どうやら、あのデルバートの偽者は、娘に違う名前を名乗っていたらしい。とすれば、デュークというのが本当の名前か。いや、間者であれば、これも偽名ということなのだろう。
「その男なら異端審問院で捕らえている。強情に口を割らずにいたから誉めてやるといい。予言の魔女のためになど理解し難いが――」
そう言った途端、娘の気配が変わった気がした。涙が伝い落ちた口元が、戦慄く。
「デュークは……、デュークに、何をしたの? デュークを傷付けたの? デュークにひどいことをしたら、許さないんだから……!」
膝で躙り寄ってきた娘の行動に、ジェイは驚かされた。真っ直ぐに向かってくる娘の感情に呑まれそうになりながらも、両腕で娘の体を壁に押し戻す。顔を上げた娘が、何かを堪えるように小さくしゃくり上げた。視線を逸らすようにして俯き、双肩を震わせる。震えている体から毛布がずり落ち、裂いた胸元の焼印が露わになった。
「……カイ」
掠れた声が、ジェイの耳に届いた。
「カイ?」
「予言の魔女、なんかじゃない。わたしは、カイなの。カイなの……!」
悲しげに訴える娘が、本格的に泣き出し始めた。ジェイは意識的に、自身の感情の動きを止める。そうしながら、再び娘の体を毛布で包み込んだ。娘が声を震わせながら、小さく『デューク』と口にしている。肌を焼かれるような仕打ちを受けておきながら、この娘にとってデルバートの偽者は、恐怖の対象ではないらしい。
「――カイ。デュークとやらは、まだ生きている」
そう言うと、娘の顔が上がった。泣き腫らし赤らんだ目が、縋るように見上げてくる。
ジェイは一歩下がり、娘との物理的距離を広げた。
「塔の調査が終わり次第、お前をアルシラに連れて行く。『デューク』も、そこにいる」
「アルシラ……」
聞き覚えがあるのか、娘が言葉を繰り返した。その時、部下が帰ってくる足音がした。振り返れば、兵士が一人、部屋に入ってくる。その顔は、何かを見つけたと思われるものだった。
「ジェイ様。転送円を発見しました。塔正面の、そう離れていない場所です」
「ほぅ」
塔を囲む結界があったことを考えると、結界士の絡む転送円があってもおかしくはない。本物のデルバートが見た夢では、大主教はこの塔に来ていた。転送円を使っていたと考えれば、秘密裡に旅など出来ない大主教がここに来られる説明がつく。
ジェイは転送円の確認に行くため立ち上がった。転送円と聞いて考え至ったのは、ここにいた何者かが自分たちに気付いて逃げており、援軍を連れてくる可能性だ。
「ロディ、娘を見張っていろ」
隣の部屋にいたロディに言い置き、ジェイは先導に立った兵士の後に続いた。
湿った草地に出れば、魔物に襲われにくいように近くに寄せた檻馬車が見えた。そこに繋がれた馬が、足元の草を食んでいる。空を見上げればまだ厚い雲に覆われて太陽は見えず、ジェイはそのまま兵士の後を追った。
案内された転送円は、兵士の言うように石畳の近くにあった。ギレルは他を探索しているらしく、姿が見えない。樹々に囲まれた長い雑草が円形に短くなっており、それを囲むのは黒く塗られた結界士の短い杭だ。一見ただの囲みだが、杭をよく見れば印が刻まれている。月に星が三つ、更に内側にも記号が見えた。これは結界士固有の印なのだ。
ジェイは腰に下げた袋の一つから、メダルを取り出した。くすんだ銀色のこのメダルは、師から受け継いだ遺物だ。この転送円が使われてからそう経っていなければ、残された魔力に反応して温もりを帯びる。ジェイはメダルを掌に乗せて翳すも、何も変化は感じられなかった。
「ジェイ様!」
一人の兵士が、少し息を荒くして駆けてきた。何かあったようだ。
「もう一つ、転送円を見つけました。裏手から少し離れた場所にあります。ギレル様がそこに……」
「これと同じ結界士のものか?」
「それは――……」
言葉尻を窄ませた兵士に、ジェイは内心で溜息を吐いた。
儀侍兵にする質問ではなかった、と思う。
「案内しろ」
「は、はい!」
慌てて先導する兵士の後を、ジェイは足早に追った。
樹々の隙間にひっそりと敷かれている転送円の傍には、ギレルが屈み込んでいた。確かに塔からは少し離れており、まるで塔に来る者から隠れる意図があるかのようだ。
「杭の印はどうだ? ギレル」
「波のような線に葉のような印が見えます」
「ならば、二つは別の結界士のものだな」
そう言うと、ギレルも頷いた。
「塔を囲む結界の印はどうだったかな」
「月に星三つです」
「では、あちらが大主教の使うものか? となればこれは……」
転送円にメダルを翳し、ジェイは魔力の残り香がないことを確認した。この転送円も、少なくとも逃げ出すためには使われていないということだ。
「ふむ……」
ジェイは杭を見下ろしながら思考を巡らせた。これは、今はもう使われていない転送円なのかもしれない。若しくは大主教の他に別の者――大主教が感知していない――が塔に来るためのものなのかもしれない。あのデルバートの偽者に関わる者だとすれば、王都と繋がっている可能性もある。結界士の能力の程は詳しくないが、余程の能力者であれば、イェラーキ山を越えた王都からでも飛んで来られるのかもしれない。
ともかくも、突然に敵が現れる危険性はないだろう。そう、ジェイは結論づけた。おそらく塔にいた者はその足で逃げたのだ。
「ギレル。この転送円を見張れ。誰かが飛んでくれば、それが誰であろうと捕らえるのだ。念のため、もう一つも兵に見張らせろ」
「承知しました」
ギレルに指示を出し、ジェイはもう一度晴れ間の見えない空を仰いでから、塔へと足を向けた。
* * *
宛がわれた部屋で、シアンは六つの杭を円形に打ち立てた中央部に立っていた。足元は一見ただの板張りの床だ。しかしシアンには、自らが描いた古代文字の連なりが見えていた。
これは半島南端に位置するカークモンド公爵城内のこの部屋から、半島中央部のノイエン公爵領の塔までを繋ぐ転送円なのだ。これを設置する際は酷い苦労をしたものだ――と、シアンは感慨深く思った。繋ぐ地点双方の杭の状態を等しいものに保たなければ、離れた空間を引き合わせることは出来ない。よしんば繋がったとしても、決して安全とは言えないのだ。シアンとしても、これほど離れた場所に円陣を敷くことは初めての試みだった。慎重に慎重を重ね、六回も旅を繰り返したのだ。一本の杭を立てては、その状態の感覚を掴んだまま目標地点に赴き、杭を立てた。針と糸で布を縫い繋げるようにして、六本の杭を立てて円を完成させたのだ。これは公爵夫人と共に飛ぶという前提の元、万に一つも失敗が許されない仕事だった。もう一度同じ事をやれと言われれば、躊躇してしまうだろう。
扉をノックされ、シアンは入室を許可した。入ってきたのは、明るい金髪をいつものように首元で纏めた少年だ。少年――シドはタオたちよりも少し年若く、結界士の家系であり、シアンの弟子としてこの城に住んでいる。半島における結界士は総数が少なく、貴重な技術を絶やさないためにと主人から弟子を宛がわれるのが常なのだ。この城には元々お抱えの結界士――ルドウェン・ダートがおり、シアンは四年ほど前、余剰の結界士としてカリスたっての希望で迎え入れられた。カリスから誘われた時は、ノイエン公爵に仕える父親を師としていたため無理だろうと思っていたが、カークモンド公爵自らノイエン公爵に申し入れをしたらしい。父親に弟子がシアン以外にもいたことからノイエン公爵に許され、シアンはカークモンド公爵に召し抱えられることになった。周辺の魔物や病避けの結界を張っているのはルドウェンであるため彼は殆ど城には居ず、シアンが彼と顔を合わせる機会は少ない。
「あ! 今度こそ連れていってくださいと言ったではありませんか!」
不貞腐れた顔をして近付いてきたシドの不服を、シアンは軽く笑って受け流した。
「そうは言っても、まだあなたは半人前にもなっていませんからね。私が帰ってくるまでに渡した本を読んでおくこと。まだ読めていないのでしょう?」
「う……」
図星なのか唇を突き出して黙ったシドに、シアンは微笑んだ。
本来ならば連れていって勉強をさせた方が良いのだろうが、まだそうできる段階ではない。何より、この案件に関わらせたくないのが本音だ。しかし転送円を扱える結界士を育てることは自らに課せられた使命であることを、シアンは自覚してもいた。
「遅くとも明日の夜には帰りますよ。奥様が緊急で飛ぶようにとの仰せなのです。そうむくれないでください」
「何か、あったのでしょうか?」
聡く聞いてくるシドに対し、シアンは緩やかに首を左右に振った。
「踏んでいますよ、シド。体半分を失くしたいのですか?」
「あ! す、すみません!」
慌てたように、シドが後ろへ飛び退いた。
これは口酸っぱく言い聞かせていることだ。空間を捻じ曲げて繋げる転送円は、円筒状の空間をそのまま入れ替えてしまう。故に、転送中に円を跨ぐなど決してしてはならないことなのだ。
「では、後を頼みましたよ、シド」
「はい。いってらっしゃいませ、シアン様」
転送円に充分な魔力を注ぎ、シアンは円陣を起動させた。足元で青白い光が古代文字を描き始め、月の神の力が満ちていく。視界が光に覆われた次の瞬間には、シアンの目の前には森が広がっていた。
少し前まで雨が降っていたのだろう。辺りの樹々の葉や幹が濡れており、湿った森の匂いがしている。光が収まった円陣から足を踏み出せば、草地が微かな水音を立てた。途端、木陰から黒いフードを被った人物が現れる。
「――えっ」
シアンは驚き、次いで慌てた。後退して逃げようとするも、背後には二人の兵士らしき男たちが現れる。転送円を再度起動させて逃げることは出来ない。再び安全に起動させるための充分な魔力が、飛んだ直後には残っていないからだ。
シアンは逃げ場がないことを悟った。この転送円は見張られていたのだろう。
「――異端審問官、ですか……」
既に塔は押さえられているのだろうとシアンは思った。デュークラインならいざ知らず、護身用の小剣しか身に着けていない自分には、彼らを倒す手立てはない。異端審問官は剣を抜いており、明らかにその腕も体格も相手に分があることは間違いないだろう。自分の命運もここまでかと、シアンは異端審問官に対し、軽く両手を広げてみせた。
塔に連れていかれたシアンが目にしたのは、部屋のあちこちに置かれたランタンの灯りと、更なる二人の審問官だった。通ってきた台所にルクの姿はなく、暖炉の部屋にもいないようだ。
「離れた方の転送円に飛んできた男です」
乱暴に背を押されカイの部屋へ入れられると、無理矢理に膝を突かされた。両手を後ろ手に縛られているため、床に落ちたような体勢になる。なんとか顔を上げると、ベッド脇に移動させたと思われる背凭れのある椅子に腰掛けた一人の審問官と目が合った。ランタンの灯りに照らし出されている彼の灰色の瞳には、貫禄のある落ち着きが窺える。フードを外している彼の風貌を見る限り五十歳は超えていると思われ、膝上で軽く組まれた手に掛かるローブの袖に見える刺繍は、幹部を示すものだ。
彼から視線を切り、シアンはカイを探した。その姿をすぐに異端審問官の後方のベッド上に見つけ、ひとまずは無事であることに安堵の溜息を吐く。カイの体は毛布に包まれており、壁を背に座り込んでいる状態だ。その強張った表情から、緊張と不安でいっぱいになっているのが分かる。シアンはそんなカイを安心させるべく微笑んだ。いつもベッド脇の卓上に置かれている月光石の光がないと思えば、上から布が掛けられているらしい。傍に置かれたランタンの灯りに掻き消されているのだろう。
カイが今、名前を呼んでこないのは、デュークラインにそう躾けられたためだ。それはシアンにとって、有難いことだった。名を知られれば、そこから結界士の父親に辿り着かれるかもしれない。彼は息子が禁忌に関わっているなどは知らない。いざとなればノイエン公爵が父親を護ってくれると期待しているが、異端審問院に目を付けられることは何よりも避けるべきことなのだ。
「お前も大した男だな。この場で娘に構う余裕があるとは」
感心したように言った異端審問官に、シアンは視線を戻した。
審問官は探るような眼差しで眺めてきている。
「お前はあの男の――デルバートの偽者の仲間か?」
「……偽者?」
そう問い返しながら、シアンはデュークラインの状態が最悪のものになっている可能性を考えた。カリスの話では、デュークラインとの糸が切れてしまっているのだという。それが影響したかどうかは分からないが、偽者という言葉が出てきたのだ。彼は異端審問院に捕らえられているとみてよいだろう。まだ、生きていると思いたい。
「お前の名は?」
ジェイ・リーガンと名乗った異端審問官に対し、シアンは名乗ることを無言で拒否した。瞬間、固いもので背中を突かれ悶絶する。一瞬、息が止まるかと思ったが、意識的に咳き込むことで必死に堪えた。こんなふうに痛みを与えられたのは生まれてこのかた初めてのことだ。顎を立てて視線を上げれば、片手を軽く挙げているジェイが見えた。
「もう一度聞く。お前の名は?」
「答え、られません……!」
「強情を張っても余計に苦しむだけなのだがな」
痛みを覚悟して拒否するも、やはり与えられる衝撃はきつ過ぎるものだった。散々打たれた挙句、耳の端で剣が鞘から抜かれる音がする。ひやりとした瞬間、カイの泣き声が上がった。
「やめて、もうやめて……! ルクを殺さないで……!」
必死さが窺えるカイの発した名前に、シアンは驚いて顔を上げた。ジェイに訴えかけるために動こうとしたのか、カイが前のめりに倒れ込む。そんなカイを、ジェイが覗き込むように見下ろした。
「おねがい……、おねがい、ルクを許して……」
涙混じりのカイの声が、懇願するように続く。
ややあって異端審問官の小さな溜息が聞こえた。
「家名も言えるか?」
「……エバンズ」
カイが答えた家名を聞き、シアンは唇を噛み締め顔を伏せた。数日前に来た際、カイに本を読んでやったのだ。そこに出てくる英雄の名前がアイル・エバンズだった。今も何処かの山の頂に棲むという竜に闘いを挑み、結果的には友となった男の物語で、カイはこれを甚く気に入っていた様子だった。登場人物の名前を覚えていたのだろう。この自分を助けるために、慣れない嘘を吐いてくれたのだ。
信じたのかは定かではないが、ジェイが上体を起こし振り向いた。その視線はシアンの傍にいる審問官に向かっている。
「ロディ、塔の調査は済んだか?」
「はい。はっきりと大主教の関与を示すものはありませんが、香辛料など高価なものが多く見られます。その娘のローブも、庶民が手に入れられるものではないでしょうな」
「魔女に白いローブ、か」
ジェイが少し俯き気味に考える仕草を見せた。が、すぐにその顔が上がる。
「空はどうだ」
その質問をシアンは不思議に思ったが、彼らの中ではそうではないらしい。聞かれるのが当然のように、傍にいる審問官が隣の部屋にいる兵士に声を掛け、外に見に行くよう指示した。裏手から外に出たと思われる兵士が、暫くして足早に戻ってくる。
「日が差しています」
その報告を聞くなり、ジェイが立ち上がった。
「では、院長に現状を報告する」
ジェイの言葉を聞き、シアンは更に不思議に思った。彼らは魔道士とは違い、魔術を忌み嫌い使わない筈だからだ。
「娘と共に、この男も連れていく。向こうで存分に話を聞こう。出立の準備を」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌ててシアンは声を上げた。先程までの疑問など、一瞬でどうでもよくなる。驚いたようにジェイに見下ろされるが、シアンは構わずに続けた。
「貴方がたは、周囲に結界があることを知っているのですか!」
「知っている。あれは侵入者を感知する――」
「違います!」
シアンは真っ向から否定した。
「あれは、その子の焼印に反応するのです。あの結界を解かねば、その子を外に連れ出すことは出来ません」
「それを信じろと?」
「貴方がたは、その子を生きたまま連れて行きたいのでしょう。結界に触れさせれば、その子は傷付く。無理に出そうとすれば死んでしまいます」
「お前は解けぬのか?」
「あれは私の流派の印ではないのです。誰のものかを調べるようにも、そもそも公にされるものでもありませんので……」
真偽を見極めようとするジェイの瞳とぶつかりながら、シアンは必死に訴えた。
「私だって、連れ出せるものなら、さっさとこのような所からその子を連れ出しています! 大主教が無慈悲にその子を甚振るのを見ていたいなどとは思いません……!」
発した言葉は、周囲の審問官たちに少なからず届いたように思えた。ジェイも思うところがあるのか、カイに視線をやり、それから再びシアンを見下ろしてくる。
「お前が大主教とは違い、この娘を大事にしていることはよく分かったが――、確かめないわけにはいかぬ」
「なんですって!?」
反論しようとした瞬間、背中から強く床に押し付けられた。剣の鞘と思われる長く硬いものが背骨に当たっている。シアンは痛みと苦しさで、上げたくもない呻き声を上げていた。その時、微かなカイの怯えた声が耳の端に聞こえた。なんとか視線を上げれば、ジェイがカイを毛布ごと抱き上げようとしている。それを止める術が無く、シアンは縛られた両手を背中で握り締めた。
「カイ……!」
「騒ぐな。確かめるだけだ」
そう言い、カイを抱き上げたジェイの姿が視界から消えていく。シアンは固唾を呑み、いずれ聞こえてくるかもしれない悲鳴を想像し、唇を噛み締めた。
待っている間が、酷く長く感じられた。押さえつけられる苦痛からは解放されたが、慣れない痛みで体が悲鳴を上げている。裏手から戻ってきた固い足音に気付き、シアンは仰ぎ見るようにして顔を上げた。
そこにはカイを抱いたジェイの姿があった。カイの細い指が、ジェイの胸元を握っている。その手に、火傷は見られない。見上げていると、ジェイの静かな視線が落ちてきた。
「先に結界を解く必要があるのは真実のようだ。娘に怪我はさせていない」
ジェイのその言葉に、シアンは胸を撫で下ろした。意外にも、カイをベッド上に戻すジェイの動作は丁寧なものだ。
「ギレル、ロディ、少しの間ここを頼む」
カイの両手を拘束して再びジェイが立ち去り、シアンはカイを仰ぎ見た。ぼんやりとしてくる視界に映る、心配そうに見つめてきているカイに微笑む。
カイの傍に行きたくとも、もう体が動かなかった。このまま死んでしまった方が良いのだろうかと思う。しかしカイの目の前で死ぬわけにはいかないと、シアンは思い直した。それなりには慕ってくれているのだと、自負しても良いだろう。それに、残してきた未熟な弟子のこともある。
「ルク……!」
カイが自分を呼ぶ声がする。それに「大丈夫」と答えることも出来ず、シアンは意識が遠のいていくのを止められなかった。