42 小さな願い
目を開けると、見慣れた薄暗い天井が見えた。窓から射し入る陽光で視界は広い。ベッドサイドの卓上には、光を失った月光石が置かれたままだ。
「今日のお加減はいかがですか? 奥様」
労るようなトレリスの声に、カリスは傍にやってきた彼女を見上げた。昨日よりは体が軽く感じられる。しかしまだ、どうにもすっきりしない心地だ。
起き上がろうとすると、トレリスが背を支えてくれた。カリスはトレリスを見つめながら、妙な感覚を覚える。何がおかしいのかは分からないが、何かが違うような気がするのだ。
「少し、失礼します」
そう言ったトレリスに、掌で額に触れられる。皺が刻まれた温かい彼女の掌を、カリスは心地良く感じた。
「ようやく熱が下がりましたわね。よろしゅうございました」
「十日ほどはかかったかしら……」
「そうですわね……最初にお倒れになられてから十七、八日ほどになりますわ」
「そんなに……?」
想像以上の日数経過に、カリスは深い溜息を吐いた。
高い熱のせいで思考は回らず、目が覚めては寝ての繰り返しだったのだ。回さなければならない案件が幾つかあったことに思い至り、カリスはトレリスを見上げた。
「馬舎の増築作業はどうなっているかしら。予算を出さなければならなかったわ。それに、ニコラス様たちを招く予定だった宴は? クリスティアンにおおよそのことは指示していたけれど、まだ予定が詰められていなくて……。食材の備蓄は足りている? 中庭のハーブの手入れは?」
「馬舎の予算は旦那様がお出しになられましたわ。ニコラス様との宴は中止になっております。まだ料理の食材を手配する前でしたし、奥様が臥せっておられるならその方が良いだろうとニコラス様も仰られて」
「そう……」
ニコラス・ターナーはクラウスの弟で、ナキサ侯爵領の主だ。クラウスと仲が良く、良い軍馬が仕上がったと言っては城を訪れる。ニコラスには謝罪の手紙を出し、そのうちにまた機会を作らねばならないだろう。
「あぁ、でもあの人のことだから――お金を使い過ぎてはいないかしら」
クラウスはその辺りも、豪快なのだ。
「その点はご安心なさってください、奥様。城代様がしっかりご提案なさっておられましたから」
「パトリックが? それなら大丈夫ね」
「ええ。旦那様はお暇になられると何を始められるか分かりませんから、多少忙しくしておいた方が良いのですよ」
そう言ったトレリスの頬に笑みが浮かんだ。
「いつもの奥様が戻ってこられましたわね。でももう少し、療養なさってください。こういう時は急に動いてはいけません。食材の備蓄はクリスティアンがグラントとマルクと話し合って買い付けておりますし、中庭のハーブは例年通りの作業を進めておりますから」
「さすがだわ、トレリス」
カリスは心の底から賞賛を送った。クラウスの前妻エマが病死してからずっと、トレリスがクラウスを助けて家政に関わってきたと聞いている。
「食事はまだ軽いものの方がよろしいですわね。いつもの温かいスープをご用意いたします」
「ありがとう」
部屋を出て行くトレリスを見送り、カリスは乱れた髪を掻き上げた。そうしながら、これまでの記憶を整理する。
あの夜、小箱に入っていた小さな蛇に気付かずに噛まれ、その後、倒れてしまったのだ。クラウスが呼んだ城付きの司祭による癒しと、毒にも詳しい薬師のお陰で、こうして無事でいられている。数日前に、塔にいるカイの様子を見てくるようシアンに指示したことは覚えているが、それからまた熱に浮かされてしまっていたようだ。カイの夢見が悪いと報告を受けた気がするが、情けないことに、今はどうしてやることも出来ない。
あの小箱については、クラウスが調べている筈だ。彼の手が空けば聞いてみなければ――そう思いながら、カリスは傍にある月光石を手にした。そういえば、クラウスが大量の月光石を輝かせたことを思い出す。彼らしい、豪快な行動だった。お陰で蛇を逃がさずに済み、他の者が噛まれることがなかったことが幸いだ。
今は綺麗に片付けられているが、光が消えるまで放置されていたに違いない。この城で月光石を使っているのは、この部屋とクラウスの部屋だけで、光らせるのを止める呪文を知っているのはカリスだけだ。塔にある月光石は、切れる頃にシアンに充填済みのものと交換させている。
また充填していかなければならないな――そう思いながら、カリスは手元の月光石くらいはと、魔力を集めようとした。
「――え?」
カリスの中で、徐々に違和感が確かなものになっていく。充填が出来ない。魔力が湧いてこない、いや、掴めないのだ。魔力を集中させようとしても、まるで手の平から砂が零れ落ちるように、保持することが出来ない。その事実に、カリスは大きな衝撃を受けた。
「まさか――!」
いつもと違うと感じたのは、このせいだ。そうカリスは確信した。いつも自然に感じることの出来ていた生物の放つオーラが、まるで感じられなかった。故に、トレリスを見て妙に思ったのだ。
カリスは焦りを感じながら、右手の指輪に触れた。その藍晶石からも、何も感じられない。本来ならば、繋がっている者――デュークラインの状態を感じることができる筈なのだ。いつからこうなっていたのだろうか? 倒れてから熱のせいで体調が悪く、満足な魔力の供給ができていなかったかもしれない。それに加え、完全に糸が切れた状態になっている。
カリスは危機感を覚えた。これは、デュークラインと連絡が取れないどころの問題ではない。
「――カリス。入るぞ」
ノックと同時に入ってきたクラウスの姿を認める。カリスはベッドから降りようとし、強い目眩を感じた。
「カリス!」
駆け寄ってくれたクラウスに抱き留められる。見上げれば、少し怒ったような顔があった。
「熱が下がったと聞いて来てみれば――、大人しく寝ていろ……」
そこまで言ったクラウスが、言葉を止めた。頬に大きな掌を感じ、心配そうなクラウスの表情に少し救われる。
「何かあったか?」
「魔力が使えなくなっています。充填しようとして……」
「そんなことはどうでも――、そうか」
合点がいったように、クラウスが呟いた。
「デュークラインか」
「ええ」
肯定すると、クラウスの眉が顰められた。
クラウスは、デュークラインとカリスの関係を知る数少ない人物の一人だ。デルバートを使って姿映しの秘術を行う際には、クラウスの許可をもらった。故に、この術がどういう状態で成り立っているのかも知っているのだ。
「あいつはどうなる?」
「暫くは持つでしょうが、分かりません。どれほど持ってくれるのか……」
デュークラインを完全に使役する段階で、魔導士ルーサーの元から持ち出したペンダントを使った。しかしそれは、ルーサーに最後まで手解きを受けたものではない。ルーサーから譲り受けた本を頼りに魔力の糸を紡ぐようにして、対となる指輪を作り上げたのだ。更に秘術を施す際も、本の記述を頼りにする他なかった。ルーサーが生きていれば、糸の切れた使い魔の状態も、彼の知識に基づいて教わることが出来たかもしれない。しかし、教えを請える師はもういない。
「食事で暫くは持つとは思いますが、確実に弱りはするでしょう。私と連絡が取れないと気付けば塔に戻るやも……」
「そうだな。シアンを行かせて、塔に戻っていれば回収した方がいい」
「そういたします」
クラウスの助言に、カリスは同意した。クラウスが少し考えるようにして、首を僅かに傾げる。
「シアンは、デュークラインの元の姿を知っているのか?」
「どうでしょう、知っているやもしれません」
塔でしか二人が接触する機会はないが、その際には何かしら話をしているだろう。そのやり取りは把握していないが、シアンが知っていてもおかしくはない。
「糸が切れた今――、デュークラインの姿がどうなっているのかどうか。突然元の姿に戻ってしまっているか、若しくは……錠が掛けられたように、デルバートの姿から元に戻れなくなっている可能性もあります」
「そうか……心配だが、取り敢えずは様子見するしかないな。お前の状態が一時的なものであれば良いが――今までこんなふうになったことはあるか?」
「いいえ、初めてです」
経験があれば、もう少し落ち着いてもいられたと思う。熱の後遺症で一時的なものであることを願うばかりだ。
「旦那様。あの小箱を置いたのは……」
「ああ、城の者ではないようだ。バートが、不審者を見ていた」
「バートが?」
カリスはオーガであるバートを思い浮かべた。愚鈍ではあるが素直で、基本的には大人しい男だ。高い位置からのバートの広い視界に入ったことを、不審者は気付かなかったのだろう。
「トレリスが、バートが不思議なことを言っていたことを思い出してな。よくよく聞き出してみれば、見たことの無い奴が中庭に入り込んでいたことが分かった。裏手の森から入り込んだのかもしれんな。生憎、どんな奴なのかはまでは、バートではな」
「ということは、あれは外からの侵入者が置いたもの……ということですね」
「そうだろうな。お前を狙ったのか、俺を脅迫するつもりなのかは分からんが。ともかく、あれから警備は強化している。何よりお前が無事で良かった」
「旦那様……」
クラウスに抱き締められながら、カリスは漠然とした不安を感じていた。魔力が使えないことがこれほど自分を頼りなく思うものとは、初めて知ったのだ。
クラウスの体が離れた時、ふと視界の端に糸車が入った。窓の傍の机端に置かれており、部屋のどこにいても見ることができるようにしているものだ。その糸車が、カリスは妙に気になった。
その時、トレリスが食事を持って戻ってきた。食欲をそそられる匂いに、体調が上向いていることを自覚する。トレリスがベッド脇のテーブルに食事を用意してくれている間も糸車の方を気にしていると、彼女がその方へ視線を向けた。
「最近は、少し早く回っておりますわね」
「――え?」
何でもないことのように発せられたトレリスの言葉に、カリスは大いに驚いた。
「そうか? 俺には分からんが」
「いいえ、確かに、少しだけですが」
はっきりとそう言ったトレリスの感覚を、カリスは信じた。と同時に、頭を悩ませる。糸車が早まることで示されるのは、どういうことなのか。そもそも、糸車の早さなど気にしたことがなかったのだ。
「ありがとう、トレリス」
「いいえ、奥様。何かあればお呼びください」
カリスは礼を言い、有能な彼女が部屋を出て行くのを確認し、再び糸車に視線を戻した。言われてみれば、少し早まっている気がしてくる。
「あれは、姿写しのための、だったか?」
「ええ。どういうことなのか調べなくては――」
そう言うと、クラウスに両肩を掴まれた。見つめてくる彼の表情は真剣なものだ。カリスは少し息を詰め、クラウスを見つめ返した。
「その前に、食事をするんだ。カリス。何より、まずお前が万全の体調に戻らねばならん。でなければ、何か分かったところで動く許可は出せんからな」
諭すように言われ、カリスはクラウスの提案を受け入れる他なかった。あれから、随分と心配をかけてしまったのだ。城の者たちにも、要らぬ心配をさせたことだろう。
「分かりました、旦那様。ですが、シアンは呼んでいただいても?」
「ああ、食事が終わる頃に来させよう」
そう言って笑んだクラウスに、もう一度軽く抱き締められる。
「気分が悪くなれば、すぐに誰かを呼べ」
「そういたします」
素直に返事をし、カリスは仕事に戻るクラウスをベッド上から見送った。
一人になって改めて、自らの両掌を見つめる。内にある魔力は微かに感じるが、やはりそれを表に出すことが出来ない。まるで何かに阻害されているかのようだ。あの小さな蛇の斑模様を思い出しながら、関連を疑う。もし、あの蛇に噛まれたことが原因ならば、標的は明らかに自分だと、カリスは思った。その目的が今、達成されているのだとしたら。魔導士の魔力行使が阻害されたことで最も影響を受けるのは、その使い魔だ。
「……デュークライン」
じわりと胸に押し寄せる危機感に、カリスは自らの掌を握り合わせた。
* * *
「……デューク?」
デュークラインに呼ばれた気がして、カイは目を開けた。上体を起こして辺りを見るも、月光石に照らされた見慣れた部屋に、求める姿は無い。日々強くなる不安に、カイは自身の体を両腕で抱いた。
夢を見るのだ。その光景は、起きた後も鮮明に記憶に残る。これまでとは違う、まるで記憶を塗り替えようとするかのような、現実味を帯びた夢だ。暗い牢に捕らえられているのは、過去と同じ。違うのは、一人の男が扉越しに会いにやってくるということだ。扉には上下それぞれに開閉する小さな窓があり、そこから見える男は満月の夜に塔に来る男だ。が、随分と若いように思う。彼らの会話内容は泡に包まれているようにぼやけて聞こえないが、白い布に包まれた何かを、いつも目の前に投げられるのだ。その白い布は、所々、赤く染まっている。それに手を伸ばしたところで、目が覚めた。いつもあの布に触れる前に、夢から覚めるのだ。あれに触れてはいけないと思う。とても恐ろしいものを目にする気がする。それでも、夢の中の自分はそれに手を伸ばすのだ。目を覚ましたくて、必死に抗う。それを助けてくれているのは、魘されていたと言って起こしてくれるルクだ。若しくは、今日のようにデュークラインに呼ばれた気がして目を覚ます。
「嬢ちゃん、起きた?」
ルクがやってきたことに気付き、カイは顔を上げた。
「うん」
そう答えれば、ルクが傍まで来て座り込む。
「今日は、早起きだ」
「うん、おはよう」
カイはそう言って微笑んでみせた。
ルクには、夢の話はしていない。ルクに話しても怖がらせるだけだからだ。数日前に来たシアンには少し話したので、彼から『伯母さま』には伝わっているだろうと思う。
「ねぇ、ルク。また、一緒にいていい?」
「いいぞ。椅子は、そのままだから」
「ありがとう」
あまりにも夢見が悪いせいか、あまり眠れている気がしない。気付くと夢を見ているような状態で、なるべく一人で居たくないのだ。だからこうして、カイはルクの傍にいるようにしていた。何かとルクは喋るし、外に近い場所にいれば、小妖精が来てくれることもあるからだ。
先に立って裏口へ行ったルクを追って、カイは毛布を羽織りベッドから降りた。足首の痛みはほぼ引いており、ゆっくり歩く分には問題なくなっている。外に出られるなら馬たちを遊ばせてやれるのだが、デュークラインの言いつけはまだ継続中だ。
開け放たれている裏口から出ると、風が緩やかに肌に触れた。暖炉の火のお陰で、仄かに暖かい。倉庫から乾燥肉や野菜類を出してきているルクを横目に、草地に敷かれた平らな石の上を歩いていく。外に近付けば、肌に触れる空気が冷たくなった。屋根のある半屋内の端に、背凭れのある椅子が一つ置かれている。元は暖炉の部屋にあった椅子だ。そこに、カイは腰を下ろした。空を見上げれば、今にも雨が降りそうに灰色の雲が垂れ込めている。そういえば、昨夜は雨が降っていたのだ。外の草地を見れば、しっとりと濡れている。
こうしていると、考えるのはここにいない者たちのことばかりだ。タオやエリュース、そしてサイルーシュやスバルが、元気でいてくれれば良いとカイは思う。あの不思議な光満ちた夜にタオたちと出会ったことで、自分の小さな世界は思いも寄らず広がった。彼らに会うまでは、こうして多くの誰かを思う機会などなかった。ただ過ぎゆく日々を、ぼんやりと眺めているだけだった気がする。言われるがまま痛みに耐えながら、時折触れてくる優しさに、縋るばかりだったのだ。
数日前にシアンには会えたが、カリスには会えなかった。何より願うのは、デュークラインの無事だ。これまで、デュークラインが倒れることなどないと思っていた。しかし見知らぬ男に殺されかけ、デュークラインに庇われ、彼が死ぬかもしれない可能性を身を以て知った。この体を両腕で抱き締めてくれていたデュークラインの体から徐々に生命力が奪われていくのを、見ていることしかできなかったのだ。あの時の絶望感を思い出すと、涙が込み上げてくる。彼を喪うことへの恐怖と、自分自身に対しての憤りに、胸を焼かれそうな苦しみを覚えるのだ。
デュークラインに言ったことは、心の底からの真実だ。ここから一生出られなくてもいい。彼が無事に戻ってきてくれさえすればいい。タオとエリュースも、危ないことなどせず、あの白い男に見つからないように遊びに来てくれるだけでいい。母親に捨てられた、こんな血に塗れた両手をした自分にとっては、それだけで充分なのだ。ここは唯一、自分が存在することを許された場所なのだから。
「嬢ちゃん、飲む?」
いつの間にか傍に来ていたルクが差し出してきた木製のコップを、カイは礼を言って両手で受け取った。仄かな林檎の匂いに、少し気分が和らぐ気がする。
「嬢ちゃん、今日は旦那の一番好きなもの、教えてやろうか?」
湯気の立つ鍋の中身を長い棒で掻き混ぜながら、ルクが言った。いつから始まったのか覚えていないが、ルクが料理をしながら、デュークラインについて話してくれるのだ。昨日は好きな色、その前は苦手な食べ物だった。好きな色は複数あるらしいが、酸味の強い檸檬は苦手らしい。
カイは林檎酒を一口含み、飲み込んだ。
「林檎でしょ? 前に教えてくれた」
「ああ、旦那、林檎好き。でも、もっと好きなもの、あるぞ」
「もっと?」
ここで食べている物を思い浮かべながら、カイは悩んだ。
「ルクの、焼き立てのパン?」
「ちがう」
「じゃあ――何度か伯母さまが持ってきてくれた、チーズのタルト?」
「サンボケード! あれも好き。でも、ちがう」
「うーん……」
更に悩んでいると、耳の端で雨音が聞こえ始めた。外を見れば、霧が立ち込めている。細い雨が足元の短い草を揺らし、頭上の屋根が遠慮がちに鳴り始める。湿気のこもった冷たい空気が、広い前庭にも満ちていることだろう。
その時、ふいにカイは異変を感じた。いつもは静かな森が、妙に騒がしい。そう思っていると、傍近くに小妖精たちが現れた。
「妖精さん」
釣り上がった緑葉のような瞳と目が合う。彼らが危険を口々に告げ、カイはそれを理解した。同時に、デュークラインたちは無事なのかと、胸に強い不安が押し寄せる。
「嬢ちゃん? なんて?」
ルクが不思議そうにやって来て、小妖精たちを見上げた。そんなルクにも彼らは警告するが、ルクは首を捻るばかりだ。
「あー! またおでを動けなくする気で……!」
「違うよ、ルク。妖精さんたちは、教えてくれているの」
カイは気持ちを落ち着かせるために、ルクの入れてくれた林檎酒をもう一口、飲んだ。
別れはいつも唐突だ。そう思う。母親は別れの言葉も言わずに消えた。スェルにもあれ以来会えず終いで、なんとなくだが、もう生きていないような気がしている。森を騒がせている訪問者の数は、少なくない。穏やかとは言い難い気配を纏い、すぐそこまで来ているのを感じる。スェルといた幻想の中から引き上げられた後から、以前よりも感覚が広がっているのだ。感じる気配の中には、デュークラインやタオたちはいない。
「ルク。よく聞いて」
赤い瞳を大きくしたルクに、カイはコップを持たせた。それから自身の首から、掛けていた革紐を抜く。ルクの牙が吊り下げられているものだ。それをルクの首に掛けると、ルクの目が更に大きく見開かれた。
「嬢ちゃ……?」
「ルクに、返すね。もうすぐ、ここに大勢の人が来るの。ルクは逃げて」
「嬢ちゃん! 嬢ちゃんも……!」
驚いたようにコップを落としてしまったルクが、両手で肩を掴んでくる。そんなルクに、カイは精一杯に強がって微笑んだ。
「今すぐ、ルクだけで逃げるの。この雨と霧が隠してくれるうちに。わたしは、行けないから」
「嬢ちゃん、」
カイが逃げられないことを思い出したのか、ルクが言葉を詰まらせた。
そんなルクを、カイは両腕を伸ばして抱き締める。
「今まで、ありがとう。ルク。もし伯母さまに会えたら、デュークやタオたちに会えたら、ありがとうって伝えてくれる?」
「……分かった」
ややあってくぐもった声が聞こえ、カイはルクから腕を解いた。
意を決したように、俯き気味のルクが雨の中に足を踏み出す。しかしすぐに足を止め、振り向いた。その顔は、泣き出しそうに歪んでいる。
「あきらめないで、嬢ちゃん。旦那、きっと嬢ちゃん、助ける」
「ルク」
「旦那は、林檎よりも、嬢ちゃん、好き」
思いがけない言葉が、ルクの口から聞こえた。
背を向けて霧の中に消えていくルクの姿を見送り、カイは指先で自身の唇に触れる。
「……うん」
いつもとは違った口付けの意味は、まだデュークラインから聞いていない。それでも、彼の眼差しに見た熱を、カイは信じたいと思った。
小妖精たちにも、彼らの言葉で逃げるように言い、カイは落ちたコップを拾い上げた。椅子から立ち上がり、それを台の上に置く。それから暖炉の火の弾ける音を聞きながら塔内に入ると、カイは裏口の戸を閉めた。
ベッドのある部屋に戻りシーツの下から手紙を取り出すと、藁を払い、一度胸元に抱く。デュークラインに気持ちを伝える勇気をくれた、サイルーシュからの手紙だ。これをこのまま手元に置いておけないことを、カイは理解していた。難しいことは分からない。しかし、傍で話される内容の全ては分からなくとも、自分といれば、皆に危険が及ぶかもしれないことくらいは分かっている。自分と関わりがある証拠など、何も残すべきではないのだ。
暖炉の前に立ち、カイは手紙を炎に焼べた。あっという間に、手紙は黒い染みが広がるようにして燃えていく。
踏み込んでくる人間は、すぐにこの命を絶つのだろうか? ルクは諦めるなと言ったが、祈る猶予も無いのかもしれない。ならばせめて、死ぬ時は、デュークラインへの想いを抱いたままの自分でいたい。
燃え盛る炎を見つめながら、カイはそう強く願った。