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40 地下牢

 五鐘ごしょうが鳴った後の夕闇の中、ダドリーに持たされた数冊の本と道具が入った荷物をかかえ、エリュースは異端審問院の前に立っていた。大聖堂や騎士団の建物と比べても遜色そんしょくのない大きさだ。高い塀に囲まれているため、今までそんな印象はいだかなかった。こうして入口にまで近付いたことがなかったのだ。


 さほど大きくはない入口の両開き扉の脇には、儀侍ぎじ兵――異端審問院は所属する兵士をそう呼称して区別しているらしい――が立っていた。くぐってきた門のところにもいたが、防具の下は黒い衣装でフードをかぶっており、教団が雇用している兵士とは様相が違う。どうやら異端審問院は、教団が雇っている兵士を使ってはいないらしい。


「では行くぞ、ルース(・・・)

「はい」


 ダドリーにうながされ、エリュースは気を引き締めて彼に続いた。この名前は、ダドリーがつい先程決めてくれたものだ。身に着けた剣帯には、ダドリーが貸してくれたソードを下げている。慣れていないため歩き辛く、タオたちはいつもこんな状態なのだとエリュースは感心していた。ダドリーを見れば、さすがに彼はソードを下げて歩くことに慣れた様子だ。図書室ではソードを外しているとはいえ、やはり彼はれっきとした騎士であるのだと、改めて認識する。


 入口の扉の両脇の壁には、火の灯ったランタンが掛けられていた。ダドリーが儀侍ぎじ兵に話し掛けると、特に驚く様子も無く、待っているように言われる。ジェイという審問官が、話を通していたらしい。


 しばらくしてジェイと名乗る審問官ともう一人が現れ、エリュースは彼らを認識した。もう一人の審問官はリュシエルと名乗り、エリュースは彼に見覚えがあった。収穫祭の折、断罪の広場を取り仕切っていた男だ。エリュースは被っていたフードで更に顔を隠そうとうつむいた。リュシエルは覚えていないかもしれないが、もし覚えられていれば厄介だ。幸運なことに、異端審問院と大聖堂騎士の双方にとって、こうしてフードで顔を隠すことは暗黙の了解だった。彼らはダドリーを迎え入れたことを知られたくなく、ダドリーとしても異端審問院に入る姿を見られると面倒だということだ。


 エリュースはフードの下から彼らの着るローブを観察し、幹部(みずか)らダドリーの元へ来ていたことを知った。


「どうぞ、こちらへ」


 ジェイにいざなわれ、エリュースはダドリーの後を離れないようにしながら、初めての異端審問院に踏み入った。廊下の壁には等間隔にランタンがかかげられている。これほどまでに、屋内でランタンが多用されているのは珍しい。魔をあぶり出すランタンの聖なる光が、異端審問院の象徴であるがゆえだろう。その薄暗がりを歩く中、別の審問官とれ違うこともあった。彼らの全身を覆うローブは、まるでランタンの光が生み出す影のようだ。


「のぅ、ジェイ殿」


 先を行くジェイに、ダドリーが呼び掛けた。


「まずは、背景を確認しておきたいのだが」

「……分かりました」


 そう言われることを多少なりとも予測していたのか、ジェイの返答はそう遅れることはなかった。そのまま廊下を進むと、突き当りには扉があった。その両側には、表にいたのと同じ儀侍ぎじ兵が立っている。その手前にある右手側の部屋を、ジェイが押し開けた。


「では、こちらで」


 室内は暗かったが、リュシエルによって壁に掛けられたランタンに火がけられていく。中央に置かれた机上にはオイルランプが置かれ、互いの表情が見えるほどには明るくなった。椅子は机の奥と手前に一つずつだ。当然、奥にはダドリーが座り、エリュースは荷物を机の端に置かせてもらい、その傍に控えた。異端審問官の方はジェイが腰を下ろし、リュシエルは立ったままでいるようだ。


「まず聞いておきたいのは、その者を偽者だと判断した理由だ」


 ダドリーがそう問うと、ジェイの太い眉が微かに動いた。


「二つの同じ顔――いずれかが正しく、もう片方がいつわりと考えるのは簡単だ。しかし、どちらが偽者だと判断するのは難しい」

「……単純な論理です。偽者は偽者について語らず、本物が偽者を示したからです」

「いや、嘘つきが先に正直者を嘘つき呼ばわりする例はよく耳にするが?」


 指摘するように、ダドリーが言った。

 対するジェイが、表情を変えずに続ける。


「それは、嘘つきが存在するとばれた(・・・)後の事でしょう。発覚していない時点では、偽者が存在するとは気付かれないよう、自然に振舞うものではありませんか?」

「……ふむ。なるほどな。それを鵜呑うのみにするのはいささか軽率けいそつだが、まずの足掛かりとしては悪くない」


 軽くうなずきながらダドリーがそう言った時、ジェイの斜め後方に控えていたリュシエルが動いた。ジェイの隣に踏み込んできた彼が、やかな表情でダドリーを見下ろしたのだ。


「さすがに、過去に数度の異端審問をくぐり抜けたお方ですね。ご高説こうせつ痛み入ります」


 リュシエルの言い方は、嫌味が込められているのがよく分かるものだった。エリュースはそんな彼に嫌な気分になったが、ダドリーを見れば、彼は面白そうな目をしてリュシエルを見上げている。


「ほう。そちらのお若い方は、年寄りの態度が大きいと気になっておるようだな。こちらは別にそのつもりはない。ただ事実を述べただけなのだが」

「事実、ですか。……ここが騎士団ではなく、異端審問院であることも事実です。もう少し、異端審問院に敬意を払われた方が良ろしいのではありませんか? さすれば、例えば異端の術が使われたかどで、騎士殿が審問に掛けられるという事件も起きないことでしょう」


 リュシエルの言った言葉は、ダドリーに向けられたおどしに他ならなかった。しかしそれを受けても、ダドリーの姿勢は変わらない。ふふふ、と口元から笑みをこぼしてさえいる。


「なるほどな。異端審問院以外の権威に触れる機会に慣れておらぬと見える」

「私を愚弄ぐろうするおつもりですか……!」


 ダドリーの言葉がしゃくさわったのか、リュシエルの細い眉が吊り上げられた。そこでようやく、黙って成り行きを見ていたジェイがリュシエルを見上げた。


「リュシエル。控えろ」

「いえ、控えるべきは別のお方ではないでしょうか。ここがどこであるのか、それを彼は明確に意識すべきです」


 年上の幹部であろうジェイの言葉に反論する形で、リュシエルが更に攻撃的な言葉を発した。随分と頭に血が上っている様子だ。そんな若いリュシエルに対して、ダドリーがわざとらしく(・・・・・・)困ったように笑んだ。


「そうか。この身なりも原因なのだろうかな? 大主教のようにおごそかさがなければ、騎士団長のように威厳いげんもない。ただのしなびた老人だからこそ、気にさわるのかもしれぬのぅ」


 豊かな顎髭あごひげを片手で撫でながら、ダドリーが続ける。


「だが、儂が過去五回の異端審問からのがれられたのは、威厳や力によるものではないぞ。騎士という身分は、確かに、ただちに罰せられなかった理由ではある。だが、最も重要な要素は知恵と知識だ」


 ダドリーの片手が顔の横に上げられ、その人差し指が彼自身の頭を軽くたたいた。その仕草を見てか、対するリュシエルの眉が深くひそめられる。ダドリーの意見に納得している様子は、微塵みじんも見られない。


「例えば、わしは先の異端審問院長オヴェリスの秘密も知っておる」


 リュシエルに反論を許さず、ダドリーの言葉が更に続けられた。

 意外にも興味を引かれたのか、リュシエルの眉間のしわが僅かに緩む。


「……オヴェリス様の、秘密? 何なんです」


 おそれ多いとは思わないのか、リュシエルには答えを求めることを迷う素振りはない。エリュースはそれを見ながら、彼の異端審問院に対する忠誠心は、口で言う程には高くないのだろうと推測した。 


「彼は……、出臍でべそだったのだよ」


 ダドリーが真剣な口調で発した『秘密』に、エリュースは驚いた。リュシエルを見れば、彼も驚いた様子を見せ、いで考え込むような顔付きになっている。どうやら彼の中では、明らかになった秘密が持つ意味を真剣に考えているらしい。その様子をじっと見ながら、エリュースは込み上げてきた笑いをこらえた。これはダドリーの冗談なのだ。未だ考え込んでいるリュシエルを見て、タオ並みに素直で真面目な奴だ、と思う。


「――リュシエル」


 一つ、小さな息を吐いたジェイが、リュシエルに声を掛けた。思考のふちから戻ってきたようにジェイを見たリュシエルに、ジェイが静かに言い放つ。


「お前は今、揶揄からかわれているのだ」

「……えっ」


 一瞬、驚いたような顔をしたリュシエルの機嫌が、急降下したのが分かった。怒りを露わにした彼の手が、剣帯に下げた剣柄ヒルトを掴む。その瞬間、ジェイの制止の手がその手にかざされた。


めておけ、リュシエル。このダドリー殿を相手にするのは、まだお前には早かったということだ」


 僅かに眉間にしわを寄せたジェイが、リュシエルに退室を命じた。渋々といった様子で退室したリュシエルに、エリュースは同情しなかった。ダドリーをただの老人と舐めてかかった当然の結果だからだ。


「彼の無礼をお許しください」

「いや、結構。なかなか素直な人物のようだ。あの若さで幹部に上るとは、随分と功績を上げたとみえる。強い目的意識があるのではないかな?」


 リュシエルのことを推測し始めたダドリーに、ジェイが小さな咳払いを返した。


「話を戻しましょう、ダドリー殿。後で分かることですから申し上げておきますと、この渦中かちゅうの人物はデルバート卿なのです。本物の彼は、丁重に保護しております」

「なんと……! まさか教団の中枢に属する人物とはな。しかし彼をすでに捕らえているとは、よほど確信があるのだな? 大主教が黙ってはおらぬだろう」

「その件につきましては、貴方あなたに関わりのないことです。こちらで適切に対応しておりますので」

「ふむ。まぁ、良かろう」


 問いそのものを拒否したジェイを、ダドリーが気にする様子もなく受け入れた。


 大主教に本物を会わせる前に偽者だというあかしが欲しいのだろうか? そうエリュースは考え、それを否定した。彼らはすでに確信を持ってデュークラインを捕らえているのだ。彼らの中では、本物は本物で揺るぎないはずなのだ。となれば、すでに大主教に本物を会わせたのかもしれない。そこで受け入れられなかった可能性はないだろうか? それで、更なる偽者だという証を求めて、ダドリーの元へ来たのかもしれない。


「では、本来の質問をしよう。先程話したことは、状況証拠に過ぎぬことだ。異端審問官として、貴殿らはそれだけでは動かぬだろう? 本物が本物であるという証拠は何だ?」


 ダドリーが口にした問いは、彼自身の経験からのものだろうとエリュースは思った。もし異端審問院が状況証拠だけで動く機関ならば、ダドリーはすでに過去の異端審問で処刑されていたかもしれないからだ。


「記憶ですよ」


 ジェイが答えた。


「片方は多少記憶が戻ったかのように見せてはいるようですが、先の戦争以前の記憶を喪失しており、もう片方には本物の記憶があります。これは立派な証拠でありましょう?」

「ふむ、なるほどな」


 納得したかのように、ダドリーが一つうなずいた。それを受けてか、ジェイの口元に笑みが浮かぶ。


「本物のデルバート卿を保護したのは、何日前か?」

「八日ほど前、ですが……」


 ジェイの答えが、質問の意図を掴み切れていないような様子で返された。エリュースも、ダドリーの質問が僅かに流れかられたように感じたため、内心で首をひねる。


「なるほど。それでは、異端審問院はかなりの駿馬しゅんめをお持ちのようだ。まるで魔法・・の馬と言えるほどの」

「――え?」


 ジェイの声がいぶかしげに上がった。


「あるいは、その前にうそがあるか。……ジェイ殿。その記憶の証拠は第三者に確認を取ってこそ意味がある。そうであろう?」

「あ、……」


 エリュースは、ダドリーの質問の意図に気付いた。頭の回転が速いと思われるジェイも、気付いたのだろう。気圧けおされたように口をつぐんだまま、言い逃れをしようとはしないようだ。エリュースは二人のやり取りを間近で見聞きし、さすがはダドリーだと感服した。デルバートの記憶が正しいものだと対外的に証明するには、彼の父母に聞くのが最も一般的で確実な方法だ。しかしこのアルシラからノイエン公爵領におもむき、更に公爵に会うまでには時を要するだろう。そして話をし、再びアルシラに帰ってくるまで、どう考えても八日では足りない。ゆえに、ジェイの言ったことには嘘があるということなのだ。


 うつむき加減に、ジェイの口から息が吐き出された。観念したかのように顔を上げた彼が、口を開く。


「……夢を、見るのだそうです」

「夢、とな?」


 ジェイの言った言葉は、この場では不思議に思えるものだった。


「ええ、夢ですので、曖昧あいまいぼやけて(・・・・)いるものです。ですが、四年ほど前には、大主教をその手で救った夢を見たのだと」

「ほぅ」


 興味深そうに、ダドリーが自身の顎髭あごひげを撫でた。


「確か、大主教が暗殺者に襲われたことがあったな」

「まさにその時の夢です。大主教の侍従として、暗殺者である女を斬った……」

「女?」

「ダドリー殿がどう聞き及んでいるのかは存じませんが、多くの者は男であると認識しております。それをデルバート殿は女の容姿まで覚えていました。その時の状況も、記録に残っている通りです」

「ふぅむ」


 うなるようなダドリーのうなずきがあった。


「これは面白おもしろい。本物のデルバート殿は、偽者の見た光景を夢に見ていたということか」

「そういうことになります。それで我々は、何らかの異端の魔術によるものではないかと疑っているのです。魔術を使われたことによる呪いのようなものではと。このようなことを我々に話すことも含め、保護したデルバート殿を総合的に見て本物だと判断しました。夢の話(ゆえ)、確実ではないと言われればそうですが、偶然の一致とは言いがたい証拠と言えましょう」


 ジェイの語った夢の話に、エリュースは恐怖に近い驚きを内心にかかえていた。ダドリーの挙げた候補の内の一つ、『姿写しの魔術』だとすれば、何らかの魔術的繋がりを持って姿を写し取っているということなのだろう。その弊害へいがいとして、デュークラインの記憶の一部が夢として本物に流れているということなのかもしれない。ジェイが『夢を見る』と言ったことから、それは一度だけではないと考えられる。とすれば、カイのことも夢に見ているだろう。そしてそれは、異端審問院が欲してやまない予言の娘の情報だ。


「なるほどな。非常に有用な情報だ、ジェイ殿。礼を言おう。ますます会うのが楽しみになったぞ」


 満足そうに頷いたダドリーが、おもむろに椅子から立ち上がる。それを助けて彼の椅子を引き、エリュースは本をかかえ直した。ダドリーはひとまず、ここでの話を終えるつもりのようだ。


「では、ご案内しましょう」


 ジェイも応じて立ち上がり、ダドリーを扉へとうながした。


 



 案内されたのは、不快なにおいのする暗い地下の奥だった。松明たいまつに照らし出されている錠前付きの扉の覗き穴は塞がれており、警備の兵が二人、扉横に立っている。解錠したジェイにちらりと視線を送られた気がしたが、エリュースはその意味が分からなかった。何か妙な動きをしたかと不安になったが、ジェイは微かな笑みを浮かべただけだ。


「灯りを付けさせますので、お待ちを」


 ジェイに指示された二人が、松明たいまつを手に暗闇に入っていく。それを眺めながら、エリュースはじわりと胸に訪れた不安を感じていた。このようなみじめで暗い、牢と言ってよい場所に閉じ込められているという事実は、異端審問院が偽者判定をくつがえす気などないということなのだ。


 壁に設置されている松明たいまつに火が移されていくと、次第に視界が利くようになってきた。じりじりと松明の焼ける音が静かな空間に響き、揺らめく炎によって人の影も色濃く伸びている。彼らが中から出てくると、ジェイがランタンを手に牢内へ踏み込んだ。


「どうぞ」


 うながされ、中へ入っていくダドリーの後にエリュースも続いた。


 ジェイが奥に進んでいき、手にしていたランタンを壁の取っ手に掛ける。その灯りに浮かび上がった人物をの当たりにし、エリュースは声を上げそうになった。石壁に鉄のかせと鎖で両腕を拘束され、膝を突かされた一人の男がいる。首が項垂うなだれており顔は見えないが、血がこびり付いた灰銀色の髪と男の体格から、それがデュークラインだとエリュースは確信した。両足首にもかせが見え、重そうな鉄球が鎖で繋がれている。万一にも逃げられないようにと、足を使われて反撃されることを怖れてのことだろう。どれほどむち打たれたのだろうか。衣服は破れ、肌が露出している部分もあり、全身が血塗ちまみれだ。かすれたような微かな呼吸音が、かろうじて彼が生きていることを知らせてくれている。


「これが、十年もの間、我々をあざむいていた男です。まだ顔は綺麗なままですよ」


 ジェイが慣れた手付きで項垂うなだれている男の髪を掴むと、乱暴に顔を上げさせた。微かな(うめ)き声と共にあらわになった男の顔に、エリュースは息を呑む。


「これはまた、派手にやったものだ」


 あきれたような声を出しているダドリーは大した演者だと、エリュースは思った。それとも本当に全く動じていないのかもしれない。デュークラインの顔は確かに傷つけられてはいないが、その顔色の悪さと消耗し切っている表情から、死が彼の隣にまで来ているように感じられる。あの堂々とした態度が印象的なデュークラインの変わり果てた姿に、エリュースは本を持つ両手指に力を込めることで、冷静にとみずからに言い聞かせていた。


「リュシエルが少し、やり過ぎてしまいましてね。何せ、一言も喋らないようですので」


 そう言ったジェイが、デュークラインの顔を更に上げさせる。さらされた彼の首元には、何かでめられたと思われる赤い筋が幾つも見られた。


 ふと、デュークラインの表情に反応が見られた。あかりに照らされ、眩しさと複数人の声が聞こえたためだろう。閉じられていたまぶたが、僅かに引き上げられる。そこに細く見えた藍色の瞳には、まだ希望は捨てられてはいないように思えた。目が合うも、デュークラインの表情は動かない。しかし彼が再びまぶたを閉じたことで、エリュースは彼に認識されたことを悟った。


「もう、良いぞ。ジェイ殿。これほどの状態でも変化を保っていられるとは、思ったよりも見事な術のようだ」


 ダドリーが声を掛けた瞬間、ジェイの手がデュークラインの髪から離される。再び項垂うなだれたデュークラインが咳き込み、彼の膝元には吐き出された赤黒い血が落ちた。


「どうしてもこの姿を解いてもらえないのですよ。元の姿に戻っていただきたいのですがね」


 そう言いながら、ジェイが口元を僅かにゆがめた。

 隣では、ダドリーがデュークラインを観察するように眺めている。


「ルース。その上の本のアビゴールの章を」

「はい」


 ダドリーに指示され、エリュースはその場にかがみ、本と荷物を足元に下ろした。その中で一番分厚い本を開く。そこには古代語で書かれた文字がつらなっており、その内容に目を通したエリュースは少し眉をひそめた。その間にダドリーによって持ち込んだ蝋燭ろうそくに火がともされ、デュークラインの周りに立てられていく。

 途端、儀式めいた雰囲気になった。


「古代語ですか? 彼は読めるので?」


 本をのぞき込んだジェイに見られ、エリュースは純粋に驚いていると思われるジェイに対し、恐縮したように頷いてみせた。


「さすがはダドリー殿の従士ですな。しかも、血も見慣れているようだ」


 感心したように言ったジェイに、ここに入る前に見られていたのは心配されていたからなのだと、エリュースは知った。悪い人物ではないのだろう。ただこれが、彼にとっての仕事だということなのだ。


「この呪文を試してみよう。上から読み上げてくれ」

「分かりました」

「少し、待ってください」


 ジェイに制止され、エリュースは息を詰めた。


「すみません。この者の変化は解いて欲しいのですが、もし魔術的なものではない場合は……、ただの変化の魔物であれば、解いてもらっては困るのです。この者からは聞きたいことが山ほどありますので」

「いやいや、知ってのとおり、わしは魔導士ではない。今から試すのはまじないに過ぎぬ。術など解けぬが、反応で確かめられるやもしれん」


 ダドリーの説明に、ジェイは少し安堵あんどしたように一歩下がった。


「それでしたら、お願いいたします」

「――では、ルース」


 言われるがまま、エリュースはそれを読み上げ始める。ジェイが口を挟まないということは、古代語が分からないのだろう。本当に分からないであってくれとエリュースは願った。何故なぜならこれは、変化の魔法を解く呪文などではない。古代語で書かれた、おそらく水薬ポーションの作り方だからだ。もしかすると料理の本かもしれない。途中から、ダドリーの声も重なってきた。彼は何故なぜかこれを暗記しているらしい。それらしい抑揚よくようをつけて発声しているダドリーの鉄の心臓に、エリュースは心底感嘆しながら読み上げを続けた。


 鍋に入れる多くのハーブの名前を、ゆっくりと発音していく。エリュースはようやく少し落ち着いてきた中で、血塗ちまみれのデュークラインを見つめた。ここに繋がれているのが、もしタオであったなら。そう考えただけで、エリュースは身震みぶるいしそうになった。


 もし、この場に共にタオがいたら。そうも考え、エリュースは心の中で首を振った。タオならば、目の前のデュークラインの状態を見てこらえられるとは思えない。まず間違いなく助けようとするだろう。あのカイが虐待ぎゃくたいを受けた夜とは、状況が違うのだ。この場だけなら、タオは押さえられるかもしれない。しかし騒ぎはすぐに伝わるだろう。ここは異端審問院の地下の奥で、頑丈な扉が外界とを遮断しゃだんしている。常に見張りがおり、監視の目は多いのだ。出口をふさがれ、追い詰められるだろう。いくら想像しても、タオに勝ち目はない。


 この場にタオがいなくて良かった。そう、エリュースは心底思った。そして悟る。このような状態にまで追い詰められては、いけないのだ。


 この最悪の状態からデュークラインを救出するには、今の自分には足りないものが多い。エリュースは、そのことを理解した。必要なものの一つは、ある程度、強引にことを運ぶだけの権力だ。そう考え、大主教が彼を救う可能性について思う。有りるかもしれない。しかし本物がいるのだ。それでも、秘密を知る彼を放っておけるだろうか? そう考えて一瞬希望が見えた気がしたが、エリュースはすぐに打ち消していた。異端審問院が彼を返すわけがないのだ。人であれ魔物であれ、大主教の秘密を知る者だ。これほど執拗しつように彼を責めていることから考えて、単に本物のデルバートのためにしていることではないだろう。ジェイが夢のことを言い渋ったことから、夢にはカイも大主教も出てきていたに違いない。異端審問官は、真実を知っている。後は掴むだけの状態なのだろう。これは、カイの居場所を吐かせ、大主教を追い落とすための拷問ごうもんだ。デュークラインの目にまだ希望が見えたのは、自分が吐かなければカイが無事でいられると考えているためだろう。そう気付き、エリュースは改めて、デュークラインの血で汚れた彼の膝元を見つめた。


 大主教を当てに出来ないならば、デュークラインを救うために必要なものは、あの暗殺者のような能力だ。警備の者に感知されずに異端審問院に忍び込むことが出来れば、気付かれないうちに彼を救い出せるかもしれない。あるいは連れ出すことは難しくとも、デュークラインを今の苦しみから解き放つという救い方はできるかもしれない。そう考え、エリュースはスバルを思い浮かべた。神出鬼没で身が軽く、戦うこともできる。塔で別れてからアルシラでも見掛けないが、どうにかしてスバルを捕まえ協力させられないか――。彼は動かないとしても、何らかの手助けは見込めるかもしれない。エリュースは、見つけたこの小さな希望のために、忍びこむために必要と思われる情報を記憶しておくことを決めた。元々周りを観察しておくくせはあるが、人にものを頼む際の情報となれば、ましてや命を懸けさせるとなれば、間違いなく正確でなければならないからだ。


 古代語の詠唱が終わり、エリュースはダドリーを見た。難しい顔をし、まるで吟味ぎんみするようにデュークラインを眺めている彼の心の内は分からない。平らな本を下敷きにした紙には、ダドリーに持たれた羽ペンの先によって、デュークラインの様子が書きしるされていく。


「ジェイ殿。彼の所持品はどこかに保管しているのか?」


 所持品、とダドリーが言ったことで、エリュースはデュークラインのペンダントと指輪のことを思い出した。よく見れば、今の彼の体にそれらは見られない。衣服が破られた胸元にも、爪を剥がされた右親指にもだ。


「ええ、勿論です。武器と一緒に、保管庫に」

「では、それも調べたい。魔術には道具を必要とするものもあるのでな。滅多に見られぬ貴重なものかもしれぬ」

「いいでしょう。貴方あなたが得た知識が、我々の役に立つのであれば。では、ここはもうよろしいので?」

「ああ」


 ダドリーが、ついていた膝を叩いて立ち上がる。エリュースは急いで足元に広げられた数冊の本を閉じ、重ねて持ち上げた。


「あまり長くいると朝が来そうでな。わしが出した答えは、所持品を調べてからにしよう」

「ではご案内を」


 ジェイが、デュークラインの傍の壁に掛けられていたランタンを手にした。彼とダドリーの後を、エリュースは追う。気取けどられてはいけないため、振り返ることは出来ない。暗闇に取り残されていくデュークラインを背中の向こうに感じながら、エリュースは観察を始めていた。扉の形状と仕様、鍵の保管場所、この部屋は入口から何番目の扉なのか、警備の者の位置や数など、こうして歩いて得る地下の様子だ。


 かかえた重い本の陰から、気付かれないよう辺りを観察する。そうしながら、エリュースはジェイとダドリーの後に、ゆっくりと続いた。



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