39 審問官からの依頼
ダドリー・フラッグは、階下からの騒めきを聞いた。それは丁度、大聖堂騎士団本部の建物内にある図書室で、奥から引っ張り出してきた古い本の頁を捲ろうとしたところだった。耳を澄ましてみれば、暴れるような物音は聞こえない。大声で喚き立てるでもなく、どこか遠慮がちな騒めきだ。足早に階段を上がってくるのは、下にいた兵士だろう。思った通りのタイミングで扉をノックされ、ダドリーは一呼吸おいてから応えた。
扉が開かれた音がし、まだ若い兵士の顔が書架の陰から現れる。
「ダドリー様。異端審問官の方が、ご面会を求めて来られておりますが……いかがいたしましょうか?」
「異端審問官か。袖の刺繍はどうであった?」
ダドリーは兵士に問い掛けた。それに対し、兵士が顔を青褪めさせる。見るのを忘れていたと言わんばかりに表情を固めた兵士は、素直に頭を下げた。
「……すみません。見ていませんでした」
「そうか」
ここに異端審問官が来るとは思っておらず、慌てたのだろう。そう思い、ダドリーは軽く兵士の謝罪を受け入れた。
「では、何人で来ている?」
「お一人です」
「うむ。通して構わぬぞ」
許可を出し、ダドリーは手元の本を閉じた。魔術について記述されている古代文字で書かれたその本を、執務机の引き出しに入れて仕舞う。
暫くすると、頭を下げて出ていった兵士が戻ってきたようだ。再びノックされ、ダドリーは「どうぞ」とだけ言った。扉の開く音がする。
「お連れしました。――どうぞ」
ダドリーへの報告と、異端審問官への促しを済ませた兵士の声の後、扉が閉まった音がした。薄暗い書架の向こうから、黒いローブを纏った男が姿を見せる。フードは下ろされており、ダドリーよりも十ほど若いその男の表情には、堂々とした落ち着きが見られた。その両袖には、彼らの象徴である聖なるランタンの刺繍が見える。十人いる幹部のうちの一人である証だ。
「ジェイ・リーガンと申します。ダドリー殿」
「儂に、何の用かな」
丁寧に挨拶を述べた男に、ダドリーは問い掛けた。こうして異端審問官が訪ねてくるということは、彼らの何らかの調査が行き詰まっている可能性があった。過去にも、魔術的なことに限らず、何かしら問われたことがあったのだ。もう一つの可能性は、ダドリー自身に異端の疑いがあるという告発だった。後者であれば、多くの異端審問官が訪れる筈だ。しかしその場合、事前に危険を知らせて来る者もいる。今回は、それが無かった。ダドリーは相手の様子を暫し窺い、自身に迫る危機ではないと判断した。
「ダドリー殿は、魔術的な知識も豊富だとお聞きしております。是非ともお知恵をお貸しいただきたいのです」
そう言ったジェイが、扉のある書架の方に僅かながら視線をやった。それを見ながら、ダドリーは彼に椅子に座るよう勧めた。
「その扉は遮音性が高くてな。声が外に漏れる心配はせずとも良い。それに、盗み聞きするような兵士は置いておらぬよ」
「それを聞いて、安心いたしました。では、お言葉に甘えて」
執務机前の椅子に腰を下ろしたジェイの視線が向かってくるのを受け止め、ダドリーは机上で両手を軽く組んだ。それを促しと察したのか、ジェイが静かに話し始める。
「ダドリー殿もお忙しい身なれば、単刀直入にお聞きします。特定の人物に化けられる魔物や魔術などを、知っておられるでしょうか?」
「ほう」
ダドリーは、数日前にエリュースから受けた質問のことを思い出した。それを表情には出さずに、ジェイを眺める。
「それに答える前に、何故そのような質問を持って来られたのか、その背景を聞かせていただけるかな?」
「それは……直ちには、お話し出来かねます」
ジェイが、質問をやんわりと拒否した。それを軽く受け流し、ダドリーは話を進める。
「やはりな。まあ、よい。で、その姿似についてだが、どの程度似ていると考えれば良いか?」
「どの程度、ですか」
次の質問に対しては、ジェイが質問の意図を測ろうとしている様子が窺えた。
「左様。瓜二つに似せる方が、当然、遠目にしか似ていると思えないものよりも難しいであろう?」
そう言ってやると、ジェイが納得したように僅かながら頷いた。
「ならば、まさに瓜二つと言って良いでしょう」
「ふむ。では、そういう魔物や魔術についての一般的な話を聞きに来られたのではなく――、具体的にそういう例に遭遇したようだな? 或いは、そういう存在を手にしているか」
「……ダドリー殿」
ジェイの表情が、強張ったように見えた。彼の灰色の瞳が、警戒の色を持ってこちらに向かってきている。それを、ダドリーは正面から受け止めた。
「儂に話を聞きに来るということは、こういう事だ。知識を単純に抜き出そうとするのは諦めた方が良い。これ以上話を続ければ、そちらの事情が垣間見えることになるが……、それでもまだ、続けたいかね?」
意向を問うように言葉を投げ掛け、ダドリーはジェイの出方を待った。
それほど待つことなく、ジェイが小さな溜息を吐き出す。ジェイの表情の強張りが、少しばかり和らいだ。
「……仕方ありませんな。我らには、こういう妖の知識が欠けています。貴方の知識に頼るしかありません。異端に近い知識ですが」
それでもちくりと刺してきたジェイに、ダドリーは声を立てて笑った。
「これは手厳しいな。しかし、異端に対するには異端の術も知らなければ危うい。そう言って、結局のところ、この儂を放免したのは異端審問院ではなかったか」
「だからこそ、こうして聞きに来ているのです。過去の借りを返すようなものだとは思えませんか?」
「借りか……。いささか押し付けられた感がないとは言えぬがな」
そう言いながら、ダドリーはジェイを見つめた。
見逃してやっている、という考えが、彼らにはあるのだろう。
「そもそもだ。こういう知識は儂に聞かずとも、魔導士たちに聞くべきなのではないのかな? ――ああ、そうか。彼らを半島から駆逐したのは、異端審問院のお力でもあったのだったな」
大主教が触れを出し、異端審問院が動いたのだ。あの悪夢のような虐殺を思い出すたび、ダドリーは心の底から腹立たしく思う。
ジェイの太い眉が、深く顰められた。
「ダドリー殿。口が過ぎますぞ。私が聞きたいのは異端審問院への批判ではない。貴方が力を貸すかどうかです」
怒りを抑えた口調で言ったジェイに、ダドリーは半ば感心しながら静かに息を吐いた。ここで怒鳴り散らすような愚かな真似はしないようだ。
「ふむ。力を貸すより他は無かろう。さもなくば、また昔のように、儂を異端の疑いで訴えかねないからな。それを正当に退けるのは可能だが、もう儂も歳だ。面倒は避けたい。死ぬまでに、まだまだ多くのことを知りたいのだ。異端審問院とやりあう時が勿体ない」
そう告げると、ジェイが満足そうに薄い笑みを浮かべた。
「では、お答えを」
ジェイに促されたダドリーは、机上で組んだ両手を離した。ゆっくりと、片手で自身の顎髭を撫でる。
「幾つかは考えられるが――、実際に見てみないことには、何とも言えぬな」
ダドリーは、この場での回答を避けた。ダドリーには、実物を見ないと判断を下すのは性急だという考えがあった。勿論、幾つかの推測を提示することは可能だ。しかし、稀な事態であれば尚更、自身で直接確認したいという気持ちがある。
ジェイの灰色の瞳が、僅かに細められた。
ダドリーは微笑んでそれを受け止める。踏み込むには危険な知識だ。しかし、ダドリーは知識のために、自らの命を危険に晒す性分なのだと自覚していた。それに、この秘密への接近は、自身の興味だけでなく、これを必要とするであろう存在への配慮でもあるのだ。
「――その偽者を、捕らえております」
ややあって、ジェイがそう、口にした。
「ほぅ。やはり、そうか。それがただの町民であれば、その場で何れか、あるいは双方を葬っていただろう。そうでないということは……」
「詮索は余計です。実際に、その目で確かめたいのでありましょう?」
思考を乗せた言葉を遮ったジェイに、ダドリーは笑んでみせた。
「なるほど、儂を受け入れると言うのか。ならば、こちらもその心意気にお答えしよう。しかし本格的に調べるには、書物や器具など、幾つか持ち込む物が要りようになる」
「それを運ばせる者は、手配します」
「いや、それには及ばぬ。従士を一人連れて行く。着いた先で確認せねばならない用件に、その者の補助が必要だからな。そこまでは、そちらでは用意できまい」
「……確かに。我らは異端には、通じておりませんので」
そう言われ、ダドリーは苦笑した。このジェイという男には、最後まで嫌味を言う気骨もあるようだ。
「今夜にでも来ていただきたいのですが、ダドリー殿のご都合は?」
「明日、伺おう。いつ頃になるかはまだ分からぬが」
「では、異端審問院に着かれましたら、このジェイをお呼びください。お待ちしておりますので」
明確に時を決めてこなかったジェイに、ダドリーは有難く頷いた。同時に、相手がこの案件にかかりきりだということを知る。
ジェイが立ち上がり、ダドリーも応じて腰を上げた。僅かに頭を下げ礼を示したジェイは、そのまま書架の向こうに姿を消す。扉が開く音がし、続けてそれが閉じる音がしてから、ダドリーは軽く息を吐いた。
「――さて……何やらきな臭くなってきたな」
ダドリーはエリュースを呼び出すため、図書室を出て兵士に声を掛けた。
* * *
「お前、古代文字は読めるな?」
騎士団の図書室に来た直後、エリュースはダドリーからの唐突な質問を受けた。この図書室の主に呼び出されたのだ。それはこれまで一度もなかった出来事だった。
「一応読めます、が」
質問の意図が見えなかったが、エリュースは答えた。
古代文字というのは、遥か昔、魔法王国時代に使われていたとされる文字であり、魔導士の術や結界士の転送円などに受け継がれている文字だ。大聖堂付属学校で習う神聖文字とはまた違う失われし王国の文字で、それを読める者は少ないと聞く。エリュースは古代文字の持つ、まるで模様のように連なる複雑な形や美しい音に魅力を感じ、この図書室で本を借りては勉強していたのだ。今では、大抵の古代文字は、そらで読み解くことができる。
「さっき、珍しい客人があってな」
ダドリーから異端審問官が来ていたと聞かされ、エリュースは驚いた。しかしそれが彼らからの調査依頼であり、『特定の人物に化けられる魔物や魔術』のことだと知ると、嫌な予感が先に立った。しかも偽者を捕らえているという。
「――もしかしたら……デュークライン、かもしれません」
エリュースはダドリーに、そう告げていた。
ダドリーから聞いた審問官の様子から、そうに違いないと思ったのだ。
「お前がこの前、少し話した男だな。塔で娘を護っていて……暗殺者から毒を受けた」
「ええ、そうです」
正確なダドリーの記憶に、エリュースは頷いた。彼がデルバートだとは、ダドリーにはまだ話していない。大主教の傍近くで動かなければならない彼に、万一にも不利益を齎さないためだ。しかし、彼を治療した際に違和感があったことは話している。それで、その違和感について幾つかの候補を挙げてもらっていたのだ。
「どんな男なのだ?」
ダドリーに問われながら手振りで椅子を勧められ、エリュースは素直に腰を下ろした。思ったよりも動揺しているのか、座ったことで自然と口から息が漏れた。
「デュークラインは……、魔女に従ってカイを護っているのです。でも、彼を見ていればすぐに、彼自身の強い意志でカイを護ろうとしているのが分かります。カイも、彼には特別の信頼を寄せているように思えます」
名を口にしたことで、今も塔にいるだろうカイのことを思い出す。もし、デュークラインが異端審問院に捕らえられたのだとしたら、カイが酷く悲しむだろう。と同時に、彼に課せられていた任務が頓挫することに、エリュースは危機感を覚えた。
「彼は塔の場所が暴かれる前に、塔の結界を解かせようと、アルシラへ戻っている筈なのです」
「解かせようと?」
分厚い本を書架から抜き出したダドリーが、訝しげな声を上げた。
「エリュース。その男は、このアルシラでは何者なのだ」
そう問われ、エリュースはもう彼に関しての情報を隠すことを諦めた。このダドリーにいつまでも隠し事ができるわけがないのだ。それに、捕えられているのがデュークラインならば、異端審問院に行けば知ることになる。
「デルバート卿、です。ご存知だと思いますが、大主教の侍従で、大主教の甥の……」
「それは――、確かに大事だ。なるほどな」
疑問が解けたかのように、ダドリーが声を僅かに上擦らせた。しかし、言葉で言うほどの驚きはなさそうだ。既に候補の一つとして考えていたからなのか、それとも事実をありのままに受け入れ、そこに感情を差し挟まない性分なのか。いずれにせよ、エリュースの真似できる芸当ではなかった。
「エリュース」
振り向いたダドリーと、目があった。真剣な眼差しに、エリュースは意識的に背筋を伸ばす。
「儂は明日、異端審問院で彼に会う。お前も連れていけるが……どうする」
そう問われ、エリュースは驚いた。
「行っても、良いのですか?」
「それはお前次第だな。儂に付いて異端審問院に行くならば、それなりの覚悟をしなければならぬ」
普段よりも硬い口調で告げられ、エリュースは息を詰めてダドリーを見つめた。
「異端審問官に捕らえられているということは、尋問を受けていると思っておいた方が良いだろう。良いか。捕らえられているのがお前の知る者であっても、絶対に、動揺してはならぬぞ。いや、心の内でだけなら良い。それを表に出すな。助けようなどと、余計な行動を取ってはならぬ。余計なことを喋ってもならぬ。もしお前がこれらを破った場合、お前のみならずこの儂の命も終わるのだからな」
「師匠……」
「まあ、正直なところを申せば、儂自身の命は構わぬ。知りたいことを知ろうとして命を落とす覚悟は、とうに出来ておるのでな。どうせさして長くない命だ。儂が気にしておるのは、お前の命の方よ。だがお前にとっては、儂の命が危ういと考えた方が効くであろう?」
ダドリーがにやりと笑った。
エリュースは即答出来なかった。命の危険を意識していながら、笑える余裕。それは、エリュースには無かったのだ。それにエリュースにとって彼の命を懸けさせることは、重すぎる責任を負うことでもあった。彼はアルシラの、延いてはこの半島の未来にとって、必要な知識人なのだ。加えて、同行したところで何も出来ないのであれば、行くこと自体が正しいことなのかどうかと、エリュースは悩んだ。
「俺は……、行くべきなのでしょうか?」
そう問えば、ダドリーが呆れたように鼻で笑った。
「そんなことは、儂は知らぬ。お前はその目で確かめたくはないのか?」
「師匠、」
「お前が決めることだ。全ての決断は、お前自身がすることなのだ、エリュース」
諭すように言われ、エリュースは、決断すべき局面は緩やかに訪れるものではないと知った。二人の命を懸ける決断を、今しなければならないのだ。
本当にデュークラインかどうかも含め、ダドリーの言うように、この目で確認するべきだ。そう、エリュースは思った。確かなことが分からなければ、次にどう動くべきかを決められない。こうして大なり小なり決断を繰り返しながら、人は進んでいくものなのだろう。より良い決断をするためには、普段からの心構えが必要だということなのだ。
「俺に、異端審問院に同行させてください」
エリュースは覚悟を決め、ダドリーに告げた。
頷いたダドリーが、豊かな髭に埋もれそうな口元に笑みを浮かべる。
「従士に化けろよ、エリュース」
「あ、そうか……、分かりました」
ダドリーは大聖堂騎士なのだ。それが司祭見習いを連れていては、確かに不自然に見えるだろう。ダドリーは従士を抱えておらず、何か用事を言いつけるのは、大抵はこの騎士団内に常駐している兵士たちだ。護衛が必要な場所に出かける場合は、彼が専属で雇っている傭兵たちを連れて行く。しかしそのことを、異端審問院は正確には把握していないだろう。従士の恰好ならば、タオに適当な理由をつけて必要な物を貸してもらえば何とかなる。そう思いながら頷くと、ダドリーに軽く肩をたたかれた。
「先程も言ったが、心の中でなら、どれだけ考えていても良い。お前なら問題ないな? 司祭や寮長などからの眠たい説教を、そうとは知られずに聞いている振りをしておるのだろう?」
「あはは……まぁ、そういうことも」
ダドリーの言ったことを否定せず、エリュースは苦笑いを返した。
そこで、はたとエリュースは気付いた。こうしてダドリーに呼び出され話をするくらいは、大体の場合は問題ない。しかし、いつ帰ることができるか分からない外出は、そう簡単にはいかない。しかもすっかり忘れていたが、明日は寮での当番日でもある。火の始末や夜の見回りなども含まれており、個人的な理由で放り出すわけにはいかない。かといって、異端審問院に行くダドリーの予定を変えられるわけもない。折角ダドリーが作ってくれた機会だというのに、これでは動けない。何か方法はないだろうかと思案しつつ、エリュースは無意識に下げていた顔を上げた。
「あの、師匠。実は明日は学校と寮の当番日で――でも、どうにかしてみます」
「そうか。学生は何かと面倒だな」
ダドリーが本を何冊も机に積み上げ、にこりと笑う。その笑みの理由が分からず、エリュースは返答に困った。
「エリュース。暫くの間ここには来られなくなるが、明日、儂と同行できるようにすることは可能だ、と言ったらどうする?」
「え! なら、お願いします!」
ダドリーの策が何かを想像する前に、エリュースは即答していた。彼なら、確実な策を用意するだろうと期待する。ここに来られなくなるという意味は分からないが、行くために必要ならば仕方がないことだと思えた。
「ふむ。ならば明日、学校が終わった頃に、お前を借り受けに行くことにしよう。ここで居眠りし――燭台を倒して大事な本を焦がした者に、儂自ら懲罰を与えるためにな」
「え、ええー!」
エリュースはあまりにも不名誉な策に、不満の声を上げていた。それでも、確かにそれならば、とも思う。学頭司祭も寮長も、どうぞご存分にと不届き者を差し出すだろう。暫く図書室に来られなくなるというのは、本を焦がした者がのこのこと図書室に入るなど、言語道断だからだ。
「行かぬのか?」
「絶対に行きます……!」
可笑しそうに、ダドリーが髭の下で笑っている。エリュースは彼の策を呑み込むことを決め、きっぱりと宣言した。