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35 密やかな牙

「デュークラインさんに――いや、デルバートさんか。の宿舎しゅくしゃってどこなんだろう。エル、場所知ってる?」


 自室のベッドに腰掛けながら、タオは床に胡坐あぐらをかいて座り込んでいるエリュースに声を掛けた。背中をベッドにもたせ掛けながら、彼が眠たげに顔を上げる。窓の羊皮紙を通した外からの光が、顔にちらつき眩しそうだ。


侍従じじゅうの宿舎か? 入ったことはないけど、前を通ったことはあるぞ。で、あいつに何か用か?」

「用ならあるじゃないか。ハンさんに会って話したことを報告しなくていいのか?」


 今朝方の話を忘れているとは思わなかったが、タオはエリュースの物言いに納得がいかなかった。そんなタオを笑い飛ばすように、エリュースの口から溜息が吐かれた。


「暗殺者を雇ったのが、異端審問官だろうって話か?」

「そうだよ。あの後、言ってただろ? ハンさんが、『知らない』じゃなくて、わざわざ、『関わりのないことだ』って言ったのは、暗に肯定しているんだって」

「ああ、言ったさ。でも、異端審問官かもしれない話は塔でも出ていたし、別に新しい情報でもない。特定の人物が知れたわけでもないんだ」

「それは、……そうか」


 確かにそうだ、とタオは素直に納得をした。


「これ以上、ハンを追及することは出来ないからな」

「うん……。分かってるんだけど、本当に落ち着かなくてさ……」


 こうしている間にも、カイに何かあったらどうしようと思う。カイが傷付くのを、もう見たくないのだ。

 そう思っていると、足元に座っているエリュースに腕を軽く叩かれた。


「あの塔が暗殺者に知られたのは、何故なぜだと思う? 考えられるのは、俺たちか、デルバートが付けられたってことだ」

「付けられてる気配はなかったよ?」


 エリュースの言葉に反論じみて答えると、彼が自身の顎に指先を触れさせながら溜息を吐いた。


「いいか、タオ。直接後を追ってきていなくても、足跡や、何らかの痕跡を頼りに、離れた状態から追われることもあるだろう。お前は怪しい気配を見逃さない自信があるんだろうが、上には上がいることを常に念頭に置いておくんだ」

「わ、分かった」


 丁寧に説明され、タオは彼の言う通りだと考えを改めた。おごりそうになっていた気持ちをたしなめられ、少し恥ずかしく思う。

 エリュースが顔を上げ、少し困ったように眉尻を下げた。


「俺だって、お前と同じだ。カイが心配だよ。だからこそ、今は不用意にデルバートに会うべきじゃない。あいつはあいつで動いているだろうしな」

「うん」


 大主教の傍近くにいるデルバートは、それこそ神経を擦り減らしながら行動しているのだろう。彼の邪魔になるようなことはすべきではない。それはタオにも、よく理解出来ていた。


「デルバートさんは、どう動くんだと思う?」


 エリュースなら分かるかと思い問うと、エリュースの口角が僅かに上がった。


「俺なら、大主教にカイが襲われたことを報告する。それが一番、手っ取り早いからな。でもこれは、大主教が証拠隠滅しょうこいんめつはからなければの話だ」

「証拠隠滅って――、まさか、カイを殺すってこと?」

「ああ。塔を暴かれても、そこに娘がいなければ問題にはならないだろ。だから、そうさせないように、デルバートによる大主教の誘導が必要になる」

「そう、か――」


 デルバートも、すでにこのアルシラに戻ってきているはずだ。彼を動かしている魔女カリスならば、今のデルバートの状況を知っているだろうか。進捗しんちょく状況が分からないことが、とてももどかしい(・・・・・)のだ。

 

「俺たちにも、まったく進展がないわけじゃない。ハンと話したお陰で、気を付けなきゃならない相手も分かったしな」

「異端審問官だね」

「ああ。もし何か見掛けても、今は異端審問官やつらに目を付けられるような行動はつつしんだ方がいい」


 エリュースが言うのは、理由の如何いかんを問わずということなのだろう。

 カイを助け出す前に自分が捕まっては元も子もない。サイルーシュにまで手が及ぶことも避けなければならない。

 タオは改めて気を引き締め、うなずいた。



* * *



 ――その頃、半島南端のカークモンド公爵領では。

 寒空の下、女中頭トレリス・グリーンが腰に両手を当てながら、城の南塔から少し離れた中庭に立っていた。巨大なオーガが、塔の上に木材等を持ち上げている。オーガの背丈は、背の高い大人の三倍ほどだ。

 木材を壊さないよう慎重に腕を上げて振り返ったオーガに、トレリスは大きく頷いてやった。


「ひ、ひえぇぇ……トレリス様、あれって、あれって……オーガですよね!?」


 後方から上がった叫びに近い声は、雇われて間もない若い女中だ。腰を抜かさず立っているだけでも、まし(・・)な方だとトレリスは思う。


「バートですよ」

「オーガじゃないですかぁ!」

「バートと呼びなさい、ケイリー」


 ぴしゃりと言い放つと、まだ十代の若い女中――ケイリーが口を閉じた。こういう反射神経が悪くないなら、まだ教育する価値はある。


 トレリスは目を細め、塔の上にいる男たちを眺めた。鋸壁のこかべの隙間から見えるのは、長年ここで働く者たちだ。上げた木材を使って、あの上に日除けのための屋根が作られようとしている。


「どうして屋根なんて作るんです?」


 疑問を口にしたケイリーに、トレリスは振り返らなかった。バートが粗相そそうをしないか、見ておくのも仕事の内だからだ。


 バートはオーガだが、『(ひず)み』の侵蝕が浅い。人間だった頃の記憶はほとんど失われているが、人の言葉を僅かながら理解できる知能は残っている。ゆえに、こうして軽作業を言いつけることができるのだ。

 

 五年ほど前、森に出るオーガを退治しに出掛けていったクラウス――このカークモンド公爵領の当主――が、このバートを連れ帰ってきた。昔から犬や猫や人を拾ってくるような人物だったが、城で長年働いている者たちも、さすがに驚いた。が、話がわかる(・・・・・)相手とわかると、すぐに慣れた。ゴブリンを拾ってきたこともあったからだ。


「あそこからは海も町も山も見えて、眺めが良いのです。奥様が雨の日でも景色を楽しめるようにと、旦那様が指示なさったのですよ」

「へぇー!」


 感心したように声を上げるケイリーに、トレリスは眉をひそめた。


 丁度、十六、七年前の今頃だ。当時二十四歳だったクラウスが、一人の女と犬を一匹、拾ってきたのだ。ノイエン公爵の城に数日滞在して狩りを楽しんできたかと思えば、そんな思わぬ土産みやげだった。一人息子を残して妻が流行はやり病で亡くなった後、再三の縁談も断っていたクラウスが、何処どこの誰とも分からぬ女を連れ帰ってきたのだ。その時からトレリスは、彼女がクラウスの妻になるだろうと予測していた。周囲から反対されることは目に見えて分かっていたが、それを押し通し説得してしまうのがクラウスだ。クラウスが彼女に惚れていることは、赤子の時から世話を焼いてきたトレリスには一目瞭然いちもくりょうぜんだった。クラウスは見目麗みめうるわしいとまでは言わないが、目鼻立ちがはっきりとしており、筋肉質な体格で男らしい。そのくせ、夏の緑葉のような瞳には、いつまでも少年のような純粋さが見られる。出掛ければ、いまだに何かしら土産をくれる優しさもあるのだ。そんなクラウスが本気で愛を語れば、なびかない女はいない。そう、トレリスは思っている。


「旦那様って、お優しいんですねぇ!」

「ええ、そうですよ。だから、あなたもここに居るのです」


 市場で行き倒れた少女を見つけたのは、クラウスだった。城に連れ帰るよう従者に指示し、食事を与えたのだ。帰るところがないと言った少女を雇うとクラウスから聞かされ、頼むと言われれば頷くしかない。「またか」とあきらめがつくほどには、クラウスからのこういう頼まれ事に慣れている。丁度、数日前に女中が一人、結婚のために城を出たため、ケイリーのための寝床はあった。クラウスが拾ってきた人間は、全て城で面倒を見ているわけではない。それでも城に置く場合は、先行きのことまで世話してやらねば、というのが、クラウスの考え方だ。

 

「旦那様の御恩を忘れず、精進しょうじんするのですよ」 

「はぁい!」


 元気すぎるほどの返事が、隣から上がる。

 トレリスは、やれやれと首を振った。


 バートが振り返り、一歩、二歩と近付いてくる。隣にいたケイリーが短い悲鳴を喉の奥で上げたのが分かったが、トレリスはそれには構わずバートが近付いてくるのを待った。


「終わったかい?」


 仰ぎ見るバートは、以前見たことのあるオーガよりも人間らしさが残っている。口の両端はけ、鋭利に変形した歯がき出しになってはいるが、それで人を食べるようなことをバートはしない。クラウスの言いつけを、よく守っているのだ。より強い者に従うという本能が働いているのだろう。人より魔物や動物の方が、その傾向が強いのだと思われる。


「とりのす」


 バートの呟く声が、耳に届いた。


「おちた」


「あがった」


 バートが口にする単語は、意味がないことが多い。それでもバートが、バートらしくあろうとしているのかもしれないと思う。


 空を飛ぶ鳥を目で追い始めたバートの注意を引くため、トレリスは軽く咳払せきばらいをした。視線を落としてきたバートは、められ待ちの子供のようにも見える。


「ご苦労さま、バート。小屋に戻っていて良いですよ」

「ごはん」

「もう少し後で、あげましょう」


 この城の裏に当たる庭の端には、バート専用になった小屋がある。元々は貯蔵庫の一つだったのだが、バートに扉を破壊されたのをそのままに、彼に明け渡したのだ。オーガにも心理的に(ねぐら)というものが必要なのかもしれない。日が暮れる前になると、自分から小屋に入っていくバート見ていると、そう思う。


「すごい……、通じてる……」


 ケイリーを見れば、ゆっくりと歩いていくオーガを、口を開けたまま見送っている。


「ケイリー、厨房ちゅうぼうに行きますよ」

「は、はい!」


 そんなケイリーに声を掛け、トレリスは彼女をともなって厨房に向かった。




 厨房に入ると、暖かさに身を包まれた。見渡せば、夕食の準備が着々と進められている。複数ある全てのに火が入れられており、鍋の煮えるくつくつとした音や、野菜を切る小気味よい音、肉や魚を大きな刃で叩き切る音に混じり、時折、まきが弾ける音がする。料理長の元、数十人の男たちがそれぞれの持ち場で働くのだ。ケイリーは興味津々の様子で、辺りを見回している。


「こんなにたくさんの食材、見たことないです! 量もすごいんですね……」

「ここで働いているのは大勢ですからね。あなたも今日は色々な人に会ったでしょう」


 この城には、クラウスとカリスがそろって不在の際に一切いっさいを取り仕切る城代じょうだいのパトリックや、執事しつじのクリスティアン、それに大勢の召使いたちがいる。彼ら全ての食事が、この厨房で作られるのだ。


「あれ、あの子は見習いですか?」


 ケイリーが見ているのは、厨房の端で野菜の皮をいている少年だ。刃の持ち方が危なっかしい。


「ええ、あなたより二か月ほど早く入ったのですよ」

「へぇー。あれなら私の方が上手うまいかも」

「数日もすれば、あの子も上達するでしょう」


 野菜の皮むきや肉をさばくのが格段に上手うまかったといえば、思い出されるのはゴブリンだ。クラウスが二十代の頃、狩場から拾ってきたゴブリンで、おそらくは親が殺されたために行き場を失った子供だった。まさかゴブリンまで、と当時は驚いたものだ。クラウスがある程度(しつ)け、トレリスも面倒を見た結果、綺麗好きで料理好きのゴブリンらしくないゴブリンに育った。なまぐせはあったが、こと料理に関しては覚えが早かった。威勢の良い割には臆病おくびょうなところがあるが、元々の愛嬌あいきょうのある性格で、厨房で彼を嫌う者はいなくなった。むしろ可愛がられていただろう。今は城を離れているが、いずれは戻ってくれば良いのにと思う。


「新しい子かい? トレリス」


 声をかけてきたのは、元料理長のグラントだ。杖が必要なほどの高齢だが、弟子達にまだ教え足りないという理由で、よく厨房にいる。今の料理長は、このグラントが選んだ弟子の一人で、料理をするのが大好きと言ってはばからないマルクだ。ゴブリンのルクと誰よりも早く仲良くなり、ルクがここを離れることを人一倍残念がっていた人物でもある。


「ほんとだ。また旦那様が拾ってきたんですか」


 そう言って寄ってきたのは、現料理長マルクだ。珍しいことでもないため、いつものことかという表情を、彼もしている。


 トレリスは彼ら二人に、ケイリーを紹介した。今朝けさから教えた通りに、ケイリーが挨拶あいさつを済ませる。話を聞くところによると行商人の娘らしく、旅の途中で夜盗に襲われ、彼女だけが生き残ったらしい。運が良いと思うと同時に、夜盗に見付からずに隠れていた彼女の我慢強さと、襲った夜盗の程度が低かったことが重なったのだろう。


「トレリスさんにしかられたら、ここにおいで。何か甘いものをあげよう」

「えっ! ありがとうございます!」

「うん、元気が良いのはいいね。頑張って」

「はい!」


 マルクと並び、グラントも楽しげに笑っている。歓迎の言葉を受けて、ケイリーも嬉しそうだ。


「このトレリスはな、ノイエン侯にも礼儀作法を教えたんじゃぞ」


 懐かしそうに、グラントが目を細めた。

 ケイリーの目が、不思議そうにまたたく。


「ノイエン侯って?」

「ノイエン侯爵デルバート様じゃよ。よくこのすみで泣いておったのぅ。親元を離れてお寂しかったのもあったろうなぁ。甘い菓子を口に入れてやると、それはもう可愛らしく笑ったものだ」


 グラントの話を聞きながら、トレリスもデルバートを思い出していた。ただし、トレリスが思い浮かべたのは幼いデルバートではなかった。十二年ほど前、クラウスが突然連れ帰ってきたデルバートだ。


 建設現場で偶然見つけた、とクラウスは言ったが、彼が両腕でかかえてきたのは、およそデルバートには見えない男だった。暗い髪色のはずが、色が抜けてしまったように灰色がかり(・・・)、光の加減で銀色にも見えた。身長も記憶よりずっと伸びていた。目を閉じている男には、デルバートの要素が何も見当たらなかったのだ。それでも、ベッドの上で目を開けた彼の瞳は、見覚えのある藍色だった。


 デルバートは戦争の後遺症で記憶を失っており、一人で歩くことすら難しかった。しゃべることも出来ず、昔に教えたはずの作法も何もかもを失っていたのだ。建設現場でどう働いていたのかをクラウスに聞けば、よくは分からないが数日前から体調を崩して寝込んでいたようだ、とのことだった。たまに町をふらつくことのあるクラウスに偶然見つけてもらえるとは、本当に運の良い男だと思う。

 

 デルバートが帰ってきたことは城の者たちにとっても喜ばしいことで、彼らはひまを見つけては、彼の元に行って話をした。そうするよう、クラウスが言ったからだ。少しでも記憶が戻るようにとの、配慮はいりょだったのだろう。クラウス自身も足繁あししげく彼の部屋にかよい、昔の話をしていたようだ。


 日が経つにつれ体調面が上向いたのか、デルバートは一人で動けるようになった。トレリスは一から教え直すつもりで、彼に接した。彼の真面目な性格は変わっておらず、むしろ昔よりも己に厳しくなったのかもしれない。徐々に言葉を取り戻すと共に、月日が経つにつれ、彼にデルバートらしさを感じるようになった。昔のことを少し思い出したと言って、語ってくれることもあった。一人でも暮らしていけるように教えておいてくれとクラウスに言われ、ノイエン公の城に戻らないのかと疑問に思いながらも、料理から掃除の仕方まで教え込んだ。ゴブリンのルクが先輩(づら)をしてデルバートに接することがあったが、彼がルクに対して暴言を吐くことはなかった。結局、クラウスに剣を教わり直したデルバートにルクが負けることで、二人の関係は逆転したのだ。


「お元気にしていらっしゃるのかねぇ、デルバート坊ちゃんは」


 そう呟いたグラントに、マルクが困ったように笑った。


「坊ちゃんって年じゃないでしょう。デルバート様は俺と同い年で、四十しじゅうを超えてるんだから。怒られますよ?」

「お前だってわしから見れば、まだまだ坊ちゃんじゃ。それに、坊ちゃんはこんなことで怒ったりはせんのじゃよ」


 自信たっぷりに言ったグラントの顔は、嬉しそうに緩んでいる。デルバートの話をすることが、彼にとって嬉しいことなのだろう。


「デルバート様は林檎りんごを焼いたのがお好きなんだよ。君にも今度食べさせてあげよう」

「わあ!」

「記憶が無くても舌が覚えてる、グラント直伝の林檎菓子だ。小麦粉を固めて容器にして、林檎を入れて焼き上げるんだよ。生で食べるよりも林檎の甘みが増すんだ」


 そう言って微笑ほほえむマルクを見ながら、トレリスは彼がデルバートだと認めた日を思い出していた。記憶を失ったせいか表情がとぼしかったデルバートが、その林檎を食べた瞬間、頬を緩めたのだ。それは自然とそうなったと思われる『美味おいしい』表情で、そばにいたトレリスもよく覚えている。


「ではそろそろ旦那様がたがいらっしゃいますから、給仕きゅうじの仕方を学ぶのですよ」

「はい!」


 今日何度目かの元気な返事が上がり、トレリスは「もう少しだけ静かに」と、ケイリーに言い付けた。



* * *



 南方に位置する塔の上で、カリスは建てられた屋根の下から海を眺めていた。四つの柱だけで支えられている日除け屋根で、壁が無いため風通しが良く、四方を展望することができる。今では潮風の匂いにも慣れたものだ。海に至るまでには町があり、人々の生活を垣間かいま見ることができる。じゅくした果実のような太陽が海の向こうに沈みゆき、町が赤く染まる光景は美しい。そしてその赤は、カイの夢の中で見た光景を呼び起こす。スェルの髪のような、赤だ。


 後ろからおおうように柔らかく抱き締められ、カリスはその人物――クラウスを仰ぎ見た。大きな体に包み込まれ、温かい。優しい笑みを浮かべた彼の頬に、カリスは掌で触れた。夕陽を浴びたクラウスの短い毛先が、金の輝きを帯びている。


「どうかしましたか。旦那様」

「お前があまりにも美しくてな。捕まえておきたくなった」

「まぁ」


 可笑おかしんで声を零すと、クラウスが更に笑みを深くした。


「屋根をありがとうございます。これで雨の日も景色を楽しめますわ。全て覆わずにいてくださいましたから、空も楽しめますわね」

「お前に喜んでもらえて何よりだ」


 そう言った後、クラウスが僅かに瞳を陰らせた。


「心配か?」


 その言葉を発したクラウスこそ、心配してくれているのだろう。そうカリスは思った。


 クラウスに出逢ったのは、ノイエン公爵領だった。このような夕暮れ時に、森の端を歩いていた時だ。スェルの死に絶望し、復讐ふくしゅうを誓うも、行く当てもなく彷徨さまよっていた時だった。野犬が複数の狼と争っている場面に出会でくわしたのだ。


 カリスは、しばらく様子を見ていた。野犬は勇敢ゆうかんにも狼たちを噛み殺し、勝利したのだ。しかし野犬も、その場に倒れた。近付いてみれば、野犬にはまだ、微かにだが息があった。


 カリスは腰をかがめ、野犬を見下ろした。見つめ返してくる瞳には、まだ生への渇望かつぼうが見えた。復讐ふくしゅうすがり、生きようともがく自分とかさなる気がした。この勇猛ゆうもうな野犬を死なせるのは惜しい。そう思ったカリスは、野犬を助けることにした。持っていた残り少ない水薬ポーションを傷に掛けてやると、蒼白い光が野犬の傷口で弾けた。その時、野犬に意識を集中していたカリスは、近付いてきたクラウスに気付かなかった。気付いた時には、馬から降りたクラウスが傍にかがみ込んでいたのだ。


 「お前の犬か?」と、クラウスが言った。

 それに対し、内心慌てていたカリスは動けずにクラウスを見つめていた。野犬の体には、まだ少し蒼白い光が残っていたのだ。『浄化』対象の魔導士だと気付かれた――そう、カリスは思った。これまで細心さいしんの注意を払ってきたというのに、終焉しゅうえん唐突とうとつに訪れるものだ。目の前の男をよく見れば、体格が良く帯剣をしていた。服装から貴族だと思われたが、飾り用の剣ではないのだろうと、カリスは観念するしかなかった。魔法の詠唱には、時がかかる。この至近距離では逃げることも不可能だった。


 しかし次にクラウスが起こした行動は、罰の悪そうな顔をして笑みを浮かべることだった。「驚かせて済まない」そう言い、クラウス・ターナーと男が名乗った。それがまさかカークモンド公爵だとは、その時カリスは想像もしなかった。名を聞かれ、カリスは正直に名乗った。今更、偽名ぎめいを言ったとて意味のないことだったからだ。


 クラウスの両腕が野犬をかかえ込んだかと思うと、彼はその重さを感じていないかのように立ち上がった。当然、血が上等の衣服をよごしたが、彼にそれを気にする様子は全く見られなかった。驚いて見上げていると、クラウスが大きな口を開けて笑った。


「この犬ごと、俺のところへ来い。カリス。約束する。異端審問院に引き渡したりは絶対にしない」


 そのクラウスの言葉で、彼が確実に分かっていて(・・・・・・)誘っていることが分かった。カリスにはそれを拒否する選択肢はなかった。連れられた先でどんな目に合うのかと思えば、恐怖も感じた。それでもカリスは平静を装って立ち上がり、クラウスの瞳を真っ直ぐに見つめたのだ。彼の目が優しさを帯びていることに気付き、心底驚いた。あんなふうに見つめられたことなど、遠い過去にしかなかった。



「――カリス?」


 クラウスの呼び掛けに、過去を思い起こしていたカリスは微笑みを彼に向ける。


貴方あなたは本当に、物好きなお方」

「否定は出来んな」


 笑ったクラウスに、カリスも笑みを深めた。

 何もかも承知したうえで、このカークモンド公爵は手助けをしてくれているのだ。このカークモンド領が、アスプロス教団の本拠地アルシラから遠く離れていること。そしてクラウス自身の『面白おもしろいか、そうでないか』を判断の基準にする性格のお陰だろう。


「そろそろ夕食が始まるぞ。そら、かねが――」


 クラウスが言った直後、城の礼拝堂から五鐘ごしょうの音が鳴り響き始める。いで、町の聖堂の鐘のも、夕焼けの空を震わせていく。


「鳴ったな」

「貴方の腹時計には、感服かんぷくいたしますわ」

「……鳴ったか?」

「ええ、こうしていると、よく聞こえます」


 いとおしさを込めて腕を伸ばし、カリスは肩口に寄せられているクラウスの髪を撫でた。甘えるように、頬に口付けられる。


「何があっても、お前を護る」

「あなた……」


 ここまで巻き込んでおきながら、やはり何かあれば捕まるのは自分だけで良いと思う。

 クラウスの言葉に、カリスは小さく微笑むにとどめた。




 

 夕食を済ませた後、カリスはトレリスをともなって自室へと戻ってきていた。廊下には等間隔に灯りがあるため、トレリスが持つオイルランプでこと足りた。しかし、扉を開けて踏み込んだ室内は、闇のように暗い。


 カリスは入ってすぐの棚に置いてある月光石がっこうせきを二つ手にし、光らせた。蒼白い光が闇を押し退け、数歩先までは視界が利くようになる。その一つを掌に乗せたまま進み、カリスはガラス窓の傍の机上に、月光石がっこうせきを置いた。窓の向こうは真っ暗闇で、空を覗き込んでも月も見えない。窓を開けて手を伸ばせば触れられるほど近くにある樹木の葉すら、古代より受け継がれてきた月の光の影に隠れてしまっているようだ。

 

 夫であるクラウスの部屋は、隣だ。廊下とは別の扉で繋がっている。この部屋に入る許可を与えているのは、クラウスを除けばトレリスだけなのだ。トレリスにはここに来た時から何かと世話になった。余計なことを喋らない彼女は、この部屋で魔導具を目にしても問い掛けたりはしない。常にゆっくりと回転している糸車を見ても、不思議そうに見つめたり、ましてや触れたりもしない。当時は周りの反対の声も聞こえていただろうに、彼女からは何か言われたことはなかった。ただ熱心に、公爵夫人としての立ち居振る舞いや、礼儀作法を教えてくれたものだ。そのうち、クラウスのする仕事を手伝うようになると、完全に公爵夫人として扱われるようになった。


「奥様。ここに置いておきますよ」

「ありがとう、トレリス」


 手元に置かれたのは、マルドワインの入ったコップだ。クラウスがたまに飲む時に、一緒に飲むことがある。今夜は冷え込むため、トレリスに頼んでおいたのだ。そういえば、エリュースがこのワインのことを言っていたな――。そう思い出しながら、カリスは椅子に腰掛けた。甘さとスパイスが入り混じった香りを楽しみながら、マルドワインを口にする。


 彼らは、もうアルシラに着いているだろう。デュークラインからの報告――アルシラでは彼のまいである宿舎の部屋に置いた水盤すいばんを通して話している――では、大主教を動かすにはもう少しときが掛かりそうだということだった。エリュースたちからの報告は、まだないとのことだ。慎重にことを運ばねばならないため、かすわけにはいかない。それでも、塔に居させておくしかないカイのことが、カリスは気掛かりでならなかった。


 カイのための薬を、また作っておかねばならない。そうカリスは思い立った。師から教わった知識を元に作った、丸薬がんやくだ。魔力を込めて作るあの薬は、今のところなんとかカイの病状を抑えることが出来ている。実際に見てはいないが、あの塔の不衛生な地下牢で長年過ごしたカイの体は限界に近かったのだろう。今以上の薬の研究を進めているが、やはり知識が足りない。事が治まれば、他に生き延びた魔導士を捜すことも検討した方が良いのかもしれないと思う。

 

 トレリスが出て行ったことを確認してから、カリスは机の引き出しを開けようとした。その時、月光石の光の端に、小箱があることに気付いた。見知らぬ小箱だ。少し赤みがかった木に綿密めんみつな模様が彫られたもので、大きさは片手で持てるほどのものだ。トレリスはさっき何も言っていなかったので、クラウスが置いたのだろうか? そう思いながら、カリスはそれを片手で持ち上げた。


 その時、隣の部屋からのノック音が聞こえた。カリスは小箱を手にしたまま、ベッド向こうの扉を見る。クラウスがこうしてカリスの部屋に来ることは、珍しいことではない。


「どうぞ」


 そう答えながら、カリスは意識せずに小箱のふたを僅かに上げていた。その瞬間、鋭い痛みが指先に走る。


「ア……ッ!?」

「――カリス!?」


 上げた声を聞き取ったのか、クラウスが扉を開けて駆け込んできた。突然の痛みに小箱を手放したカリスは、痛む手を掴みながら原因を探す。


「どうした!?」

「何かに噛まれたようです。その小箱に……」


 傍にやってきたクラウスにそう言うと、彼が辺りを見回した。月光石がっこうせきがあるとはいえ、原因を見つけるには明るさが乏しい。


「あれを使うぞ」


 そう言うや否や、クラウスがカリスのいる机の引き出しを開けた。そこには、充填じゅうてん済みの月光石がっこうせきが詰め込まれている。それを両手で掴めるだけ掴んだクラウスが、豪快に床に叩きつけた。転がり散った幾つもの月光石がっこうせきが、一斉に光を放つ。それにより、部屋の隅々まで見えるほど明るくなった。


 明るくなった室内を見渡したクラウスと共に、カリスも原因を探す。部屋は閉ざされているため、外に逃げてはいないだろう。そう思っていると、大きな衝撃音に心臓が跳ねた。見れば、クラウスが自身の片足で何かを踏み付けたようだ。


「こいつか」


 忌々《いまいま》しげにクラウスが靴を床ににじった。彼が上げた足の下に見えるのは、頭部を踏み潰された小さな蛇だ。手の平ほどしかない体長の蛇で、黒と褐色かっしょくまだら模様が毒々しい。


「誰かいるか! 治療師と司祭を呼べ!」


 クラウスが声を張った。

 すぐに扉の向こうから返事が聞こえ、慌てたような足音が遠ざかっていく。


「大丈夫か? 取りえずこっちで座っていろ。動き回らない方がいい」

「ええ……」


 クラウスにうながされ、カリスはベッドに腰掛けた。隣に座ったクラウスに肩を抱かれながら、噛み傷を見られる。


「あの蛇を知っているか?」

「いいえ、初めて見る蛇ですわ。あの小箱に入っていたようなのです」


 そう言うと、クラウスが眉をひそめた。

 小箱は蓋が開いたまま、床に横倒しになっている。


「貴方からかと思ってしまって」

「いや、俺ではない。となると……、誰かがこの部屋に入り込んだか」


 クラウスの言葉を聞きながら、カリスは油断していたことを悔やんだ。あの蛇に即効性の毒牙があれば、今頃は殺されていたかもしれないのだ。


「痛みはどうだ?」

「そう、ですね。噛まれた瞬間ほど痛くは――」

「カリス?」


 心配そうなクラウスの顔に覗き込まれる。それに微笑ほほえみ返す余裕を、カリスは一瞬にして失っていた。急激に血の気が引いていくのが分かる。


「――カリス!」


 クラウスにかかえられたことを感じながら、カリスはどこか遠いところで、クラウスの声を聞いた。




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