31 引き留めるもの
「どういうことですか?」
タオは不安を感じながら、カイの寝顔を見つめた。彼女の顔はベッド脇の月光石に照らされて蒼白く、まるであの満月の夜の、虐待を受けた後のように、生気を感じさせてくれない。
「カイ……!」
デュークラインの声が、カイを呼んだ。その声は、少し震えていたように思う。
彼の骨ばった手指がカイの頬や髪に触れていくのを、タオは祈るような気持ちで見つめた。彼の存在を彼女に知らせようとしているような、そんなふうに思える。それでも、カイには微かな反応すら見られなかった。
「カリス様」
説明を求めるように、デュークラインがカリスの名を呼んだ。床にドレスの裾を広げているカリスの視線は、カイの寝顔を見つめたままだ。
「……スェルの封印は解けた筈だ。なのに、カイを全く感じられぬとは……」
独り言のように、カリスが呟いた。
カイを感じられない。タオはその言葉が、いやに怖ろしく感じた。
「どういうことなんです!?」
タオはカリスの言葉にもどかしさを感じ、再度、問い掛けていた。エリュースに窘められるようにして片腕を持たれたが、この荒げた声でカイが起きてくれるなら、それでいい。
カリスを見つめていると、彼女の口から一つ、静かな吐息が吐かれた。
「何らかの障害が起きたのか、若しくは開いた筈の檻に自ら入ったか……。どちらにせよカイは、こちらの声の届かぬ場所におるようだ」
「じゃあ、このままだと死んじゃうんじゃない?」
「えっ」
ふいに聞こえたスバルの声に、タオは顔を上げた。いつの間にか戻ってきていたスバルが、ベッドの頭側からカイを覗き込んでいる。
「スバルさん……、今なんて、」
「ん? 難しい話が終わったみたいだから、お姫様とお話しようと思ったんだけどなぁ」
顔を上げたスバルが、少し困ったように笑った。
「そうじゃなくて、カイが死んじゃうって?」
「うん、このままじゃ餓死するでしょ」
スバルの視線が、カリスに落とされる。それを感じたのか、彼女が頷いた。
「カイはそのつもりなのかも知れぬ」
「そんな……! どうして――」
「記憶が戻ったから、ですか」
隣のエリュースから発せられた声は、強張っていた。彼のこんな声を、これまで聞いたことはない。
「おそらくはな。私は、起きた時のカイの状態こそ心配しておったのだが――」
「魔力の暴走が起こると?」
「蓄積された怒りや憎しみや恨みが解放されたなら、それが呪われしウィヒトを呼ぶことになるやもしれぬ。そう考えていたのだ。だが、この子はそうではないらしい」
カリスが、杖を手にした。その磨き上げられた木製の杖の先が、蒼い光を放ち始める。
タオは不思議なその光を、ある種の期待を込めて見つめた。魔女だというこの女性ならば、なんらかの魔術でカイを起こせるのではないか――そう、思う。
「何か、方法が?」
エリュースが問うと、カリスがカイを見つめたまま微笑みを浮かべた。
「微かだが、スェルの気配を感じる……」
カリスの言葉に反応したように、彼女の後ろに控えているシアンが小さく「スェル」と口にした。胸元で、両手が握り締められている。
「私は今からカイの中へ深く潜る。その間は、デュークライン、」
「は」
カリスに呼び掛けられたデュークラインが、主に対する忠誠を示すように返事をした。彼には、カリスが口にせずとも彼女の指示することが分かっているらしい。
カリスの左手が、カイの頭に翳された。彼女の右手に持たれている杖は、真っ直ぐに立てられている。彼女が唱え始めた聞いたことのない言葉が、淀みなく続いていく。
固唾を呑んで見守る中、カイを見つめていたカリスの目が閉じられた。
* * *
どこまでも落ちていく感覚の中、カリスは杖を持つ右手に力を込めた。目の端で見上げれば、杖の先に灯る蒼い光の筋が、天へと伸びている。
カイの精神の中は暗く静かで、まるで月のない夜のようだ。カイの気配を全く感じられず、それでいて、誰かを拒む気配もない。
カリスは今まで、これほど深く人の精神の中へ潜ったことはなかった。下手をすれば戻れなくなる可能性もあるからだ。外にいる体は無防備となり、この中にいる間は魔法も使えない。それでも、カリスは潜ることに躊躇いはなかった。
カイの存在を知ったのは、妹が処刑されてから四年目、処刑の経緯を突き止めた時だ。大主教の命令でスェルは捕えられ、時折行われていた魔女裁判――教団側は魔導士という呼び名を避けていたようだ――に組み入れられてしまったのだという。最後にスェルを見たのは、アルシラの断罪の広場で焼かれる姿だった。どれほど、あの場で全員殺してやろうかと思っただろう。そう出来なかったのは、怒りで爆発しそうな感情を抑えたカリス自身の冷静な部分だった。まず如何に不意を突いたところで、広場の者たち全てを焼き尽くすことは無謀な試みだった。守り手の居ない魔導士は脆い。復讐を遂げるまでに打ち倒されるだろう。それよりも、何年かかってでも確実な復讐をと、焼け爛れていく妹を見て誓ったのだ。
三人目の予言の娘が処刑された話が無いことから、何処かで生かされている可能性を考えた。大主教メルヴィンの娘であろう子供は、彼を失脚させる重要な駒だ。子供の行方をデュークラインに探させているうち、カリスはノイエン公爵領に廃墟となった遺跡があることを思い出していた。師である魔導士ルーサーから教わったことのある、半島内の魔力溜りの一つだ。同時に、そこは大主教の姉が嫁いだ領地でもあると思い至った。
デュークラインにそこを探させると、森の奥に結界が張られた塔の遺跡が発見された。しかし、カリスはデュークラインを結界内に踏み込ませなかった。おそらくは塔の中に子供がいるのだろうと確信はしていたものの、今侵入しても得られるものはないと判断したのだ。下手に結界内に入り、もし結界士や大主教に察知されては厄介なことになる。張られている結界が、どのような仕様になっているのかを、その時のカリスには知る術がなかった。無知な者には一括りにされがちだが、カリスの使う術と結界士の張る結界は、大きな隔たりがある別物だ。直接手は出せなかったが、大主教によって保護されているならば異端審問院に見つかる心配はないだろうと思い、カリスは静観することを決めた。ただ、大主教が今後もその子供を生かしておくのかどうかに加え、その他の彼を追い落とす情報などを得るため、もっと大主教の傍近くに寄る方法を思案したのだ。デュークラインから娘と接触したと報告を受けたのは、それから十一年も経った冬の日だった。
死にかけていた娘の姿は、未だに目に焼き付いている。二十歳の筈なのに、そうは見えない発育の悪さ。痩せ細り、骨の浮き出た小さな体だった。栄養の行き届いていない髪に艶はなく、それでいて伸びた細い髪は絡まり櫛も通らない。十一年前に助け出していればと、確かに一瞬、そう悔いた。娘に触れた時、微かにスェルの残り香のような気配を感じた。やはりスェルはこの子に出会い、そのせいで捕らえられ、大主教によって殺されたのだと、そう確信した。この子供に出会わなければスェルは死なずに済んだのだとも思った。それでも結局、大主教の娘には、恨む気持ちは持てなかった。スェルが秘術を用いてまで救おうとした子供だ。回復していく娘を見守る中、あのような母親ではなくこの腹に宿っておればと、思ったこともある。カイは復讐のための重要な駒の一つであり、同時にスェルの残した大切な形見でもあるのだ。
カリスは夜の海に漂うような、小さな箱を見つけた。白く輝くその箱には、隙間が無い。しかし、カリスは躊躇いなく左手で箱に触れた。この中に、スェルの微かな気配を感じるのだ。まるで導いてくれているようなそれに、カリスは目を閉じた。この閉じられた箱の内側は、更に深いカイの奥底なのだろう。瞼の裏に、眩しいほどの赤い夕焼けが見える。疎らな樹々が葉を鳴らし、幹を染め、緩やかな風が吹いている。その中で座っているスェルを見つけた瞬間、カリスの視界はスェルのものとなった。
カリスは赤く染まる林を、言葉無く眺めた。美しい夕陽だと思う。まるで、自分よりも赤毛に近いスェルの髪色のようだ。時折風が強く吹き、散った葉が舞い上がる。手に、持っていた杖は無い。そのことについて、カリスは焦らなかった。
自身の膝の上には、こちら側を向いて頭を預けているカイが目を閉じている。今は滑らかな指通りの良い黒髪に、カリスは撫でるように掌で触れた。
「美しい光景だな、カイ」
そう声を掛けると、カイの双肩が僅かに震えた。
「……伯母さま?」
目を開き、ゆっくりと視線を上げたカイの目尻には、涙の跡が見える。驚いた様子のカイが、ややあって微笑みを浮かべた。
「どうして、こんなところに……? これも夢なの?」
「夢ではないぞ。お前を迎えに来たのだ」
前髪を撫で上げてやると、カイの微笑みが滲むように深まった。
「行けません。わたしは、このまま眠るべきだから」
カイの発した言葉に、カリスは彼女の決意を感じ取った。それでも、それを許してやろうなどとは、微塵にも思わない。
「何故、そう思うのだ?」
優しく問いかけると、カイの細い眉尻が下がる。今にも泣き出しそうに、漆黒の瞳が揺れた。
「思い出したの。伯母さま。わたし、山羊も人も、殺したの。触れなくても砕けるの。おかあさんは、わたしを捨てて逃げた。仕方ないの、わたしが悪い子だから。生きていちゃいけなかったから。だから、ここで眠るの。もう誰も殺さないように」
「カイ……」
カリスはカイの自虐的な考えを聞き、眉を顰めた。出来得る限り、この娘を慈しんできたつもりだ。そう頻繁には会えずとも、スェルの子供のように、我が娘のように、大事に扱ってきたつもりなのだ。
だが、とカリスは思う。大主教がこの娘の心を壊そうとするのを、見逃してもきたのだ。いつだったかデュークラインが、大主教を殺す許可を求めてきたことがあった。その時は一蹴したが、こうしてカイの言葉を聞くと、さすがに胸の痛みを無視することはできない。
「カイ、お前は優しい子だな。お前をあの男の好きにさせていた私を、恨んでも良いのだぞ?」
心のままに問えば、カイが起き上がろうと身動ぐ。その動作を両手で支えてやりながら膝を突き合わせると、涙に濡れた漆黒の瞳で見つめられた。
「伯母さまには、伯母さまの理由があるんでしょ?」
「それで、納得できるのか?」
「わたし……、伯母さまも好きなの。伯母さまの胸元は、スェルと一緒だもの」
そう言ってカイが、泣き顔のまま笑う。
カリスは、そんな健気な娘を抱き寄せた。何故、と思わなかったことはないだろうに、それを口にできない子供が哀れでならない。出来るなら、思い切り我が儘を言わせてやりたいとさえ、カリスは思った。
「伯母さまは、わたしのこと……怖くないの?」
胸元で問われ、カリスはカイの頭を片手で撫でながら笑ってやった。
「怖いものか。私は昔お前を止めたスェルの姉で、魔導士ルーサーの弟子だぞ。お前が多少暴れたところで、抑え込んでくれるわ」
実際にそう出来るかはともかく、カリスはきっぱりと言い切った。ルーサーに全てを教わることは叶わなかったが、自分なりに努力してきたつもりだ。
「じゃあ、わたしがカイでいる間に、殺してくれる?」
「なにを……」
カリスは言葉を詰まらせた。
胸元から顔を上げたカイの頬に、儚げな微笑みが浮かぶ。
「わたしは、わたしで無くなるのが怖い。時々、わたしの声じゃない声が聞こえるの。あの時のわたしのことが、分からないの。気付いたら、この手を、デュークに向けてた。デュークに……」
涙が、漆黒の瞳から零れ落ちていく。自らの手で手を戒めるように握り締め、カイが声を震わせた。
その肩を再び抱き寄せ、カリスは考えを巡らせる。
カイが言っているのは、タオとデュークラインから聞いた『暗殺者を砕いた後』のことなのだろう。まるで別人のように見えたと聞いている。それがカイでなく誰かであったことは確かだ。もしそれが予言を遺した魔導士ウィヒトならば、マヴロスの力によってカイの中に降りたのだろうか? 予言にある『ウィヒトを呼ぶ』とは、その身にウィヒトを降ろすということなのではないか――。そう、カリスは思い至った。
「カイ」
カリスはカイの背を撫でて宥めながら、娘の名を呼んだ。
「お前は強い子だ。デュークラインを、殺させなんだ。カイ、お前が止めたのだぞ」
「わたし、が……止めた?」
驚いたように顔を上げたカイの濡れた瞳が、瞬かれる。
そんなカイに、カリスは微笑んだ。
「お前は、カイだ。過去を思い出しても、お前がカイであることに変わりはない。そうであろう? 心を強く持つのだ。そうすれば、誰もお前にとって代わることは出来ぬ」
「わたしは……わたしでいられる?」
「そうだ。お前が、そう望む限り」
カリスはカイの両肩を優しく掴んだ。涙ぐんだ瞳を見つめ、見つめ返してきた視線を包み込む。
辺り一面の赤い夕焼けはいつの間にか、星が散りばめられた夜の空に変化していた。
「それに、お前を待っておる者たちがいるであろう? デュークラインもエリュースに治療されて無事におる。タオもエリュースも、お前が目を開けないと、いつまでもどうにかしようとするような子らだ」
「あ……」
夜の空に浮かぶようにして、ウィスプのような光の玉が生まれた。そこに見えるのは、タオとエリュースの姿だ。覚えのない場面であることから、これはカイの中にある思い出なのだろうと、カリスはそれらを眺め見た。
漂う光の玉が、増えていく。自分はまだ会ったことのない、栗色の長い髪の娘が楽しそうに笑っている。彼らとの出会いは、まさに運命的な、カイにとっては必要不可欠なものだったのだと、カリスは確信していた。カイから見た、自らの姿も見える。デューラインがカイに向けている表情を、真面に見るのは初めてだ。
カイが、彼らの名を口にしている。その目からは涙が伝い落ちていく。
近付いてきた光の玉には、賑やかそうにじゃれ合う少年たちの姿が見えた。美しい花々を手に、花冠を作っている。デュークラインから報告を受けてはいるが、カイは想像以上に楽しんだのだろう。映る彼らの様子から、カイの弾んだ気持ちが伝わってくるようだ。知らず自らの頬が緩んでいたことを、暫くしてカリスは自覚した。
その光の玉から、小さな光が飛び出してきた。驚いてよく見れば、きらきらと光を撒き散らしながら飛ぶ小妖精たちだ。
「妖精さん……!」
カイが、嬉しそうに彼らを呼んだ。
カリスは驚きながらも、彼らがカイに触れる様を見つめた。彼らの世界は、もしかしたら夢の世界と近い位置にあるのかもしれない。
気付けば、足元の暗闇に、光を内包したような生命力溢れる花々が生まれていた。それらは風に乗ったかのように、一気に広がっていく。あっという間に、まるで花畑の中にいるような状態になった。
「お前を待っているのは、人だけではなかったな」
カリスは感嘆を込めて、カイと共に花畑を眺めた。
「おかあさんも……笑ってくれるかな。これを見たら」
ぽつりと呟かれたカイの言葉に、カリスは埋もれそうな花畑から立ち上がった。見上げてきたカイに、両手を差し出す。
「お前が嫌でなければ、私を母と思ってよい」
「伯母さま……」
微笑みかければ、零れる涙もそのままに、カイが喜色を浮かべて笑んだ。
両手に触れてきたカイの手を、掴んで引き上げる。顔を上げると、すぐ傍に扉が現れていた。
「戻るぞ、カイ。皆が首を長くして待っておる」
そう声を掛けると、カイが涙を拭いながら頷いた。