30 繋がる過去
翌朝、タオは微かな物音で目を覚ました。背にしている壁向こうから、暖炉の火が爆ぜる音が聞こえる。月光石に照らされた室内を見渡すと、同じ壁際の奥にいるカイは昨夜見たままの状態で眠っており、ベッドの傍らに寝ているエリュースも、あちらを向いてまだ眠っているようだ。スバルの姿は無く、入口を挟んで向こうに空の寝床だけがある。
タオは部屋から這い出し、暖炉の部屋を覗いた。そこには誰もいないが、裏手からは食欲をそそる匂いが漂ってきている。ルクが働いていることを考えると、やはりもう朝なのだろう。
後方からの呻き声に振り返ると、ベッド上のデュークラインが動こうとしていた。
「デュークラインさん……!」
タオは慌てて立ち上がり、彼に駆け寄った。上体を起こしたデュークラインの顔色は随分と良くなっており、開かれた瞳には、彼らしい力強さが戻っている。
ベッドの傍で寝ていたエリュースが、眠そうな目を擦りながら起き上がった。
「お。どうだ? 気分は」
「カイは?」
開口一番、デュークラインが問いを発した。その眼差しは真剣そのもので、タオは眠っているカイの姿が彼に見えるよう、立ち位置を移動した。
カイをその目で確認したのだろう、デュークラインの表情に僅かな安堵が浮かぶ。
「眠っているのか」
「あれからずっと、眠ったままなんです」
「ずっと?」
デュークラインの眉間に、皺が寄った。
ベッドから降りようとした彼が、上体をふらつかせる。それを両手で支えたタオは、エリュースの呆れたような溜息を聞いた。
「無茶すんな。あんたが頑丈なのは分かったけど、昨夜は本当に大変だったんだ」
お陰でくたくただ、と、立ち上がりながらエリュースがぼやく。
そんな彼を見上げたデュークラインが、少しばつの悪そうな顔をした。
「本当に、感謝する。エリュース。タオ」
「分かってくれりゃあいいさ。カイも、疲れているんだろ。とにかく、あんたはしっかり食べないとな」
「ああ……」
エリュースの言葉に同意したような相槌を口にしながらも、デュークラインのカイに対する心配は減っていないらしい。顔にかかる長い前髪を掻き上げ、髪を後ろに結い直しながらも、その視線は再びカイに向けられている。カイが目を覚まし、彼の名前を呼ばないことには、彼は安心できないのだろう。
「でも、安心しました。貴方が起き上がれて」
「タオ」
「本当に、良かったです」
今にも死んでしまいそうだったデュークラインと、こうして言葉を交わせていることを嬉しく思う。
その気持ちを伝えると、デュークラインの頬が僅かながら緩んだように見えた。
「そうだ、昨夜あれから、カリスさんが来たんだ。また今日来るらしいぞ」
エリュースが欠伸を噛み殺しながら言った。
「来られていたか……」
「タイミング良く、な」
エリュースの意味有りげな視線が、デュークラインへと向けられる。それを受けたデュークラインが、溜息を吐くようにして軽く笑った。
「やぁ、おはよーう!」
入口から軽い足取りで入ってきたのは、スバルだ。タオが挨拶を返した隣で、片手で頭を抱えたエリュースが、おざなりに手を振る。
「朝から元気な奴だ……」
「あったかくて、寝心地が良かったからねぇ」
エリュースの態度も意に介さない様子で、スバルが楽しげに笑った。
「あれ、黒騎士さん、もう起き上がれちゃってるの? さすがだねぇ」
「……お前にも、礼を言う。スバル」
デュークラインがそう言うと、スバルの目が楽しげに細められた。彼の口角が大きく上がる。
「スープとパンが出来たってさ。それと、あの魔女とお付きが来たよ」
そう言い、スバルが暖炉の部屋の方へ首を傾けた。
暖炉の部屋で、タオは昨夜と同じように、エリュースの傍らに立っていた。スバルはベッドの部屋側の椅子に、暖炉に近い椅子には杖を持ったカリスが座っているが、彼女の傍にシアンはいない。ベッドに移動させたカイの様子を見ているように言われ、彼は今、隣の部屋だ。
少し前、カリスが部屋に入って来てすぐに、カイがまだ目を覚まさないことを彼女に伝えた。その時彼女は、表情を少し曇らせたように思う。それからデュークラインに昨夜のことを詳しく話すよう彼女が言い、彼が話す内容をタオも聞いた。カリスは眉を顰めながらも冷静に聴いている様子だったが、タオは彼が語った事実に衝撃を受けた。あの暗殺者だという男を、あのような残虐な方法で殺害したのが、カイだと言うのだ。
確かに、あの時のカイの様子はおかしかった。当初、デュークラインは自分が始末したと言っていたが、カイを庇おうとしていたのだろう。タオ自身、あの光景を見て恐怖に慄いていたのだろうと思いたかったのだ。
デュークラインは今、入口側の椅子に座っている。昨夜の様子を見ていては、タオには彼の状態が万全とは思えなかった。それでもこうして席に着いていることが、彼とカリスとの関係性を物語っているように思う。
カリスが食事が終わるまで待っていてくれたお陰で、腹は満たされている状態だ。しかも体がぽかぽかと温かいような、不思議な感覚がある。スープには彼女が持参した食材も入れられていたらしく、滅多に食べられないのだとルクが言っていた。滋養に良い薬草らしい。独特の匂いがしたが、味はそう悪く感じなかった。カイが起きれば食べさせなくては、と張り切っていたルクは、今は台所の方にいる。
カリスがデュークラインの方に視線だけを向け、口火を切った。
「暗殺者を雇った者の見当は付くか?」
「いえ、暗殺者は依頼人のことを明言しませんでした。ですが、私がいると知ってなお襲ってくるということは、彼の仕事には期限があったと考えられます。それが昨夜ならば、予言のことを知っている人物ではないかと」
デュークラインが出した答えに対し、カリスが少し考えるように彼から視線を外して頷いた。
「そうだな。ならば限られる。異端審問官か、教団幹部か……一番濃厚なのは審問官だろうな。組織として暗殺者を使うことは考えにくい。個人が雇ったものか……。調べてみなければ分からぬが――エリュース」
カリスが、エリュースに呼び掛けた。
「そなた、異端審問院の情報を持っておったな。誰から聞いた?」
昨夜、エリュースが異端審問院がしようとしている儀式について話したからだろう。生贄の話は否定されていたが、もしカイが予言の娘だと言うのなら、既に生贄にされていると言って良いのではないか。そうタオは思っていた。
「それは……」
言い淀んだエリュースに、カリスが続ける。
「その者を利用すれば、更に有用な情報を手に入れられるかもしれぬ。暗殺者を雇ったのが異端審問官ならば、それを突き止め、その者を黙らせればよい。暗殺者からの報告を待っているのだとすれば、今暫く猶予がある筈だ」
「その考えには、同意します。俺にはアルシラにある程度の伝手がある。ただ、その伝手を上手く使えるのは俺自身です」
エリュースがそう言うと、カリスの片方の眉尻が僅かに上がった。
「そなた自身で動くと、そう言うのかえ?」
「はい。ただ――、それにはまず、貴女の事情をお聞かせ願いたい」
はっきりとした口調で、エリュースが言い切った。彼の視線は真っ直ぐにカリスに向かっているようで、その両手は軽くテーブル上で重ねられている。カリスの事情は確かに知りたかったことで、タオもカリスの顔を見つめた。オイルランプの灯りを受けて鮮やかに見える彼女の緑色の瞳は、正面のエリュースに注がれている。
「そなたたちは、あの惨状を作ったあの子を助けるために、命を懸けられると? 私に加担するということは、教団を相手にすることになるということを、理解しているか?」
「カイはデュークラインを助けただけで、留まった。それが彼女の意思でしょう。であれば、彼女を助けるのは、友人として当然のことです。それに、相手にするのは教団ではなく、大主教と異端審問院です。俺はアスプロスの司祭見習いとして、大主教のやり方には異議がある。カイにしている仕打ちは大主教にあるまじき非道な行為で、とても看過できるものではありません」
エリュースの語る言葉を聞きながら、タオは心の中で大きく頷いていた。確かに驚きはしたが、この剣で敵を殺すことと何も変わりはしないのだ。無抵抗のカイをいたぶっていた大主教たちを思い出すと、抑えがたい怒りが込み上げてくる。あんな男は今すぐにでも、大主教の座から引きずり下ろすべきなのだ。それと同時に、そんなカイを助けず、無抵抗を強いていたカリスたちのことが、タオにはやはり理解できなかった。
「先程も言った通り、俺にはアルシラに少しばかり人脈がある。貴女がカイを護るというならば、貴女を手伝うこともできましょう。ただそれには、貴女のやろうとしていることに、納得をしたいのです」
カリスが黙ったまま、緑の瞳を細めてエリュースの言葉を聞いている。
タオは口を挟まず、彼らを見守った。向かいのデュークラインを見れば、彼はカリスの方を注視しているようだ。スバルはといえば、あまり興味がなさそうに、椅子に背を預けている。
「――いいだろう。ただし聞いたからには、後戻りはできぬぞ」
「分かっています」
エリュースの返事から、彼の覚悟を感じ取る。タオは両手を握り締め、ようやく微笑みを浮かべたカリスを見つめた。
「あ、そういうことなら」
緊張感の漂う空気の中、スバルの場違いに陽気な声が上がった。
「僕は席を外しておくね。妖精さんでも探しておくから。なぜか僕の近くには寄って来てくれないんだよねぇ」
そう言うと、スバルが席を立った。それを止める声はない。彼が部屋を出ていくのを見ていたタオは、カリスが話し始めたことで、そちらに意識を戻した。
――妹の話をしてやろう。
そう、カリスが言った。
「妹の名は、スェルという。温厚で、心優しい子でな。同じ魔導士に師事していた。スェルは、どちらかといえば、薬を作ることに秀でておったな。だが、二十七年前、私とスェルは共に村を逃げ出した。師であった魔導士が命懸けで、逃がしてくれたのだ。似たようなことは、同じ時期に多く起きていた」
「今の大主教が始めた、『浄化』ですね?」
確認するように言ったエリュースに、カリスが「そうだ」と答えた。
「その逃亡中に、私はスェルと離れてしまった。追われるうち、はぐれてしまったのだ。私はスェルを探した。隠れながらの捜索は、なかなか進まなかった。スェルも上手く隠れていたのだろう。周りの者とも上手く付き合い、溶け込めていたのだろう。だから私は、半ば安心もしていたのだ。別れてから九年が経った頃、私はようやくスェルの居場所を見つけた。ノイエン公爵領の町の施療院で働いていると聞き、私は会いに行った。だが、スェルはいなかった。スェルの婚約者だという者に聞けば、薬草を採りに村に行ったきり、会えていないのだという。村の者に尋ねてみれば、教団関係者に連れていかれたというのだ。あの子供に関わったせいだと、村人は言っていた。急いでアルシラに向かうと、魔女たちが処刑されると知った。妙な胸騒ぎがして広場に行くと、魔導士とは思えない女たちの中に、スェルがいた。民衆の前で酷たらしく火炙りにされて……スェルは死んだ」
カリスの瞳には、静かな怒りがこもっているように見えた。それは当然だ、とタオは思った。逃げ延びた魔導士たちは、皆そのような感情があるだろう。突然、理不尽な虐殺にあったのだ。魔導士には見えない女たちのことも気になった。魔女として処刑された者の内、そうでなかった者も含まれていたということなのだろうか。
「もしかして、あの子供、というのは、カイのことですか?」
エリュースからの問いに、タオは驚きつつもカリスの答えを待った。
「そうだ」
肯定したカリスの口から一つ、小さな息が吐き出された。
「私が調べたところ、スェルは村でカイに会っている。そこで、カイに何らかの秘術を使った。それは確実だ。カイからは、微かにスェルの気が感じられたからな。あの子は薬草から薬を作る他に、精神に働きかける術を好んで学んでいた。施療院でもそれを見つからない程度に使って、患者を癒やしてやっていたのだろう。本当に、あの子は昔から優しい子だった……」
そこまで言ったカリスの眼差しは、ほんの僅かながら優しげに細められている。彼女にとってスェルがどれほど大切な家族だったか、タオは胸の痛みを覚えながら感じ取っていた。
「村人は、血だらけの子供を抱いたスェルを見たそうだ。村には異端審問官が、家畜殺しの調査に来ていた。その時は審問官に子供を引き渡すことで、連れて行かれはしなかったらしい。スェルもまさか審問官と遭遇するとは思わなんだろう。だがその数日後、教団関係者が話を聞きたいとのことで、スェルは連れて行かれたのだという。村では、その子供が祖父母を殺したと専らの噂だった。子供が生きていたことの方にも、驚いていた。産婆に金を渡し、死産を装っていたらしい。これまで姿を見た者はほぼいなかったようだ。おそらくカイはずっと、家の奥に閉じ込められていたのだろう」
タオは両手を握り締めた。カリスの話には驚くばかりだが、信じられない部分もある。
堪らず、タオは口を開いていた。
「その噂は――、カイが祖父母を殺したというのは、本当なんですか? どうして――」
カイを思い出して頭に浮かぶのは、無垢な微笑みなのだ。昨夜のことは、デュークラインのためだった。では祖父母を殺すとは、どういう経緯があったというのだろう。リタイで居た頃は、近所の老人たちにもよく可愛がってもらった。その中には偏屈な者もいたが、殺すという選択肢など頭に浮かんだことも無い。
カリスが驚いたように眉を上げ、怒っているようにも可笑しんでいるようにも見える表情で、溜息を吐いた。
「そなたは余程、大事に育てられたらしいな」
「え?」
タオは意味が分からず、問い返した。揶揄されたようにも感じ、一瞬、軽い不快感を覚える。しかしカリスからの視線に鋭さが増したのを感じ、タオは息を詰めた。
「あの娘は、ずっと閉じ込められておったのだぞ。不義の末に身籠った娘が禁忌の子供を産んだのだ、ディーナの両親も村で身を潜めて暮らしていたことだろう。その憂さが元凶である娘の子供に向かったとて、不思議ではない。生まれ持った身に余る魔力が祖父母を砕くことになったのならば、魔力制御を知らぬ子供故の感情の爆発が原因であろう。それを容易く誘発するのは、強い憎しみや恨みだ。無論、あくまで私の想像に過ぎぬがな」
「そんな……」
幼いカイが置かれていた境遇を思い、タオは胸が張り裂けそうに辛く思った。子供は皆、愛されるべきなのだと、そう言っていた父フォクスの言葉を、彼の優しい微笑みと共に思い出す。
ベッドの方を見るも、シアンの影でカイの顔を見ることはできない。
「なら――」
冷静に思えるエリュースの声が、静かに響いた。
「貴女の目的は、妹の復讐ということですか。それならば何故、大主教を殺さないでいるのですか」
エリュースの問い掛けに、タオは驚いた。大主教を殺す、という言葉の意味の大きさに、唾を呑み込む。
「彼を殺す機会は、俺が知る中ですら、ありました。それに、大主教の侍従であるデルバート卿という手駒がありながら、貴女は彼を生かしたままだ」
エリュースがそう言うと、デュークライン――デルバートが僅かに視線をカリスに向けた。
確かに、とタオは思った。あの満月の夜も、デルバートは大主教を斬らなかったのだ。もう一人いたことが、抑止力になったとは考えられない。彼ならば、二人纏めて斬ってしまえただろう。それに、サイラスが言っていた。いつだか、刺客から大主教を護ったことがあったのだと。
そんなことを考えていると、カリスの指輪が嵌められた指が、テーブルを軽く小突いた。
「そなたは、予言を知っていると言ったな?」
カリスの問いに、タオはエリュースを見る。彼は僅かに、頷いた。
「正確な文言をご存知ならば、教えていただけますか」
エリュースが問い返せば、彼を探るように、カリスの目が細まった。
「『我らがソラドゥーイル、偉大なマヴロスが惣闇の娘を寄越す。その娘が二十四になり私を呼ぶ時、私は戻る。この血塗られた教団を燃やし尽くすだろう――』」
「それが、ウィヒトの予言……。カイは、二十四に、」
「昨夜、なった」
その期限か、と隣でエリュースが呟くのが聞こえた。
「私は、大主教をただ殺すのでは飽き足らぬのだ。偉大な大主教のまま、死なせるわけにはいかぬ。そのために、この男がいるのだ」
カリスの視線が、デルバートに向けられた。それを受けたデルバートの表情に、変化はない。
「この男のお陰で、よくよく大主教のことが知れた。あの男は子供を異端審問官から奪い取り、密かに塔に閉じ込め隠していたのだ。酷い有様だった……そうだな?」
カリスの促しに、デルバートがその藍色の瞳を陰らせた。彼の視線が、こちらに向けられる。
「私がカイを見つけたのは、およそ四年前だ。大主教と共にこの塔に来た。この塔には地下室があって、牢になっている。その奥に、カイはいた」
タオは、瞬きした際に零れてしまった涙を片手の甲で拭った。四年前までというなら、それまでずっと、カイは牢にいたことになる。そんなに長い間、気の遠くなるような時間を、カイは牢で過ごしたと言うのだ。信じられないほど酷い話だと思う。閉じ込められる場所が変わっただけで、カイの境遇は実質、生まれてから何も変わっていないではないか。ただ関わる人間が変わり、増え、少しばかりましになっただけだ。
「カイは足枷など役に立たないほど痩せ細っていた。面倒を見ていた筈の番人は、大主教を前に大慌てで頭を地に擦り付けていた。禄に食事も与えず放置していたその男は、その場で私が斬った。カイが辛うじて生きていたため、大主教はカイの世話を私に命じ、私はそれを受けたのだ」
淡々と話すデルバートには、何ら感情は見えない。その瞳は虚空を映しているようにすら思える。
語られた当時のカイの様子を想像し、タオは怒りと哀しさで爆発しそうな胸元を片手で押さえた。エリュースのテーブル上に組まれた両手を見れば、先程とは異なり力が込められているのが分かる。自分がなんとか自制していられるのは、傍にいるエリュースが冷静でいようとしてくれるからなのだと、タオは思った。
「何故、大主教はカイを生かして? 予言の娘は処刑されてきた筈では?」
エリュースからの問いに、デルバートが彼に視線を向けた。
「理由の一つは、予言の回避だ。これまでの経緯で、予言の娘は殺しても、次の娘が何処かで生まれることが分かっていた。異端審問院は、その都度見つけて殺せば良いとの方針だったが、大主教は違う。だから、カイに癒しの光で傷付くよう焼き印を入れ、秘密裏に塔の牢へ閉じ込めていたのだ。予言の娘が息さえしていれば、次は出ない。生かしたまま予言の年を越えられれば、予言そのものを打破できる、そう考えたのだろう」
「なるほど……。確かに、合理的な考えではある」
納得したように言ったエリュースが、今度はカリスに顔を向けた。
「だから貴女は、異端審問院から隠されているこの状態を維持するために――大主教を今、殺さないことにしたというわけですね。予言を回避するために」
「予言が成就して、滅ぶのが教団幹部に留まるとは考えにくいのでな。信徒含めての――この半島全体の災厄となるだろう。あの蝕が再び起こされるのは避けねばならない。あれは、我々から力を奪う恐ろしい禁忌の術のうえ、精霊力を枯渇させ、広い範囲で飢饉を引き起こす。それに……」
カリスの視線が、カイの部屋の方へと向けられた。
「スェルはカイを救おうとしたに違いない。スェルによってカイが無力化されていたからこそ、大主教もカイを生かしておくことにしたのだろう。祖父母を殺すほど暴走していたならば、村ごと殺していてもおかしくはないからな」
「でも、だからって――、」
タオはカリスに対し、沸いた疑問を胸に留めておけなかった。
「カイが傷付けられているのを、このまま黙って見ているんですか? カイが二十五になるまで、ずっと?」
「タオ……!」
窘めるようにデルバートに名を呼ばれたが、タオはカリスを見つめ続けた。
自分を見ている彼女の緑の瞳は、今は冷たい光を湛えているように見える。
「予言を回避するためには、致し方のないことなのだ。大主教がカイを生かしている理由の二つ目は、カイに対する異常な執着にある。あれは、痛がり苦しむ様に興奮を覚える性癖だ。正妻に対してはできぬようだがな。奴の女癖の悪さは、教団幹部の内では知られた話らしい」
「そんな……」
「カイが二十五になり、予言を回避できれば、カイはただの哀れな娘となり得る。予言に踊らされ、我が子を閉じ込め虐待していた大主教には、少なからず批判が起きることだろう」
カリスの話したことに、タオは納得しかけ――、大きく首を振った。
「ちょっと待って下さい! 世間に晒されるカイの気持ちは……!? あの体の傷も、少なくとも誰かには晒させることになるのでしょう!?」
好奇な目に晒されて、どれだけカイが傷付くだろう。平気でいられるとは、とても思えない。
更に言い募ろうとし、腕をエリュースに掴まれた。彼の顔はカリスに向けられたままだ。
「カイが、大主教の子供と、言いましたか?」
厳しい響きを伴ったエリュースの言葉を聞き、タオはそういえばと思い返す。我が子を、と確かにカリスは言ったのだ。椅子に深く座っていたエリュースの背が、背凭れから離れている。
カリスが、その紅い唇で可笑しげに微笑った。
「そうだとも。カイは、大主教とディーナ・カトルとの間にできた子供だ。大主教がカイを隠す理由の三つ目だな。教団の長である大主教の子供が予言の娘だなどと、大主教であることの資質どころか、異端と見なされ大主教の座から引きずり落ろされるが必定」
「……ということは、」
そう言いながら、エリュースの視線がデルバートに向かった。
「あんたにとっては、カイは従妹ってわけか。それでカイを助けようと? 叔父を裏切ってまで?」
そう言ったエリュースに対し、デルバートは沈黙したままだ。エリュースがカリスに顔を向けると、彼女の目に鋭利な光が宿ったように見えた。
「全てを知ろうなどとは思わぬことだ、エリュース。知らぬ方が良いこともある」
「でしたら、彼が裏切らないという保証は?」
間髪入れずに放たれたエリュースの問いかけに驚き、タオはデルバートを見た。彼の表情には、やはり何の感情も現れてはいない。
「ある。だが理由は、お前たちが知る必要はない」
カリスが言い切ったことに、タオは当然だろうと思いながらも安堵した。彼が裏切る可能性など、考えたこともなかったからだ。カイを身を挺してまで護った彼が、今更裏切るわけはない。
エリュースの背が、椅子の背凭れに落ち着いた。納得をしたのか、エリュースはそれ以上言うつもりはないようだ。
「さて――、私の目的は話したぞ。エリュース」
カリスの強い視線が、エリュースに向けられる。
タオはエリュースの返答を待った。彼の答えは、おそらく最初から決まっているのだ。
「当面、カイを護るという目的は一致しています。それに今回、ここが襲われたということは、貴女の計画も立て直す必要が出てきた筈」
エリュースの発した言葉に、カリスが薄い笑みを浮かべた。
「その通りだ。ここが襲われたということは、もう安全な場所とは言い難い。カイが二十五になるまで待つなどと、悠長なことは言っていられなくなった」
カリスの視線だけが、デルバートに向けられた。
「デュークライン。この結界を敷いた結界士の居場所は分かるか?」
「いえ、それは私には……。ヴェルグから聞き出さねばなりません」
「ではお前には結界士の方を任せる。結界さえ解かせられれば、カイを連れ出せる故な」
「は。早急に……!」
右手を左胸に当て、デルバート――デュークラインが僅かに頭を下げた。
二人のやり取りに、タオは胸を撫で下ろした。結界が解かれたならば、カイは外に出られるのだ。これ以上、大主教にいたぶられることも無くなるに違いない。それは何よりのことだと思う。それまでにここが暴かれないよう、デュークラインが言ったように早急に、暗殺者を送り込んできた相手を探し当てなければならない。
探し当てる――と考え、タオはふと、カイの母親のことを思った。サイルーシュから聞いたのだ。カイは泣きながら、ずっと母親を呼んでいたのだと。もし結界が解かれるならば、もし母親が生きているならば、二人を会わせることも可能かもしれない。
「あの……」
タオは遠慮がちに、カリスに声を掛けた。
「カイのお母さんは、生きているんですか?」
「ほぅ、やはり、気になるのか?」
意外にも、カリスが笑みを浮かべた。少し考えるような様子を見せた彼女が、幾分か抑えた声でシアンを呼ぶ。不思議に思っていると、ベッドの傍で背を向けていたシアンが、その静かな一言だけで振り向いた。
「カイは、まだ眠っておるかえ?」
その問いかけに、シアンがベッドのカイを振り返る。そして再び振り向き、ゆっくりと頷いた。
カリスが、デュークラインに目配せのように視線を送る。それを受けたデュークラインの眉根が寄せられ、彼の口から小さな溜息が吐き出された。
「カイの母親は、お前の母親だ」
「……え?」
タオは、何を言われたのか分からなかった。デュークラインが言った言葉を、自分の中で繰り返してみる。
「え? ――え?」
それでも訳が分からない。
「エル、母さんが――カイの、って……」
「そう、言ったな」
宥めるように右腕を叩かれ、タオはエリュースを見た。迷いの見られない、いつも堂々と前を向いている彼の強い眼差しに、不思議な安心感を得る。まだ理解はできていないが、焦ったり怖れたりすることはないのだと思えた。
「ロイ・アイヴァ―が、ディーナ・カトルだという根拠はあるのか? ディーナはどうやって生き延びた? 異端審問院の調べは家族にまで及ぶ筈だ。予言の娘の母親が、解放されたとは思えない」
「その場で捕らえられていればな」
デュークラインが発した声に、タオはどこか冷たさを感じた。彼の伏せ気味の視線は、自分の向こうで眠るカイに向けられている気がする。
「ディーナは、ノイエン公爵夫人――私の母へ助けを求めていたのだ。だからカイが村で事を起こした時、ディーナはその場にいなかった。元々、ディーナをあの村へ置くよう弟――大主教から頼まれ、手配したのが母だったらしい。あの女性は、昔から弟には甘いようだ」
「弟の浮気相手の後始末もする、か?」
エリュースがそう言うと、デュークラインが軽く息を吐くように笑った。
「ずっと隠してきた子供が家畜を殺したことで、慌てたのだろう。カイのことを相談にきたディーナを、母は城で保護した。それから叔父へ――大主教へ知らせが行き、最終的に大主教がディーナを手元に保護したのだ。大主教としては、彼女を放置しておくことはできなかったのだろう。己とのことを他で喋られては困るからだ。一時入れ揚げたディーナを惜しんだのか、大主教は彼女を秘術で石化し、ほとぼりが冷めるのを待つことにしたのだそうだ」
「石化、だって?」
エリュースの訝しげな声とほぼ同時に、タオもそう声を上げていた。
母ロイも、石化していたと、父からの手紙にあったのだ。
「四年ほど前……、当時の異端審問院長オヴェリス・タウクが老衰で死んだ。彼は、行方不明となったカイやディーナの行方を精力的に追っていた人物だった。彼が亡くなったことにより、異端審問院は一時、統制が乱れた。カイを探す手も緩まった。そこで大主教はこれ幸いと、石化したディーナの術を解こうとした。石化している間は、年は取らないらしいからな。当時のままのディーナを、蘇らせようとしたのだろう」
デュークラインの話を、タオは混乱したままの頭で聞いていた。
「だが、ディーナはいなかった。三月に一度、大主教の元へ報告が上がっていたのだがな。監視をしていた男は逃走した後だった。私は大主教から命じられ、その男を追った。見つけて吐かせれば、ディーナは石化してたった一年ほどで、何者かに石化を解かれ連れ出されていたことが分かった。その男は、金欲しさにずっと偽の報告を上げていたのだ」
「確かにロイさんは、フォクスさんと出会う前の――石化される前の記憶がない。だがそれだけで、」
「大主教の部屋に、ディーナの肖像画がある。私はお前たちの素性を調べる際に、お前たちの家族も確認している。ロイ・アイヴァ―の顔もこの目で確かめたのだ」
「そう、か……」
エリュースの反論は、それ以上続かなかった。
話し合いはここまでとばかり、カリスが静かに立ち上がる。硬い靴音を鳴らしながらカイの部屋に入っていくのを、タオは纏まらない思考のまま眺めていた。小さな溜息が聞こえてデュークラインを見れば、彼は眉間に皺を寄せたまま目を閉じ、両腕を組んでいる。まるでこれ以上の質問を拒否しているかのようだ。
隣の部屋から、カリスがデュークラインを呼ぶ声が聞こえた。それに反応し、腰を上げた彼についてベッドの方へ向かう。カイが起きたのかと思ったが、予想に反してカイの目はまだ閉じられたままだ。
カリスの手が、カイの顔から胸元へ翳されていく。その慎重さの見られる動きに、タオは妙な不安を覚えた。
「ただ眠っているのでは……なかったか」
ややあってカリスの発した声には、僅かな緊張感があった。




