29 失われていたもの
視界が、白い。
カイは座り込んだまま、ぼんやりと虚空を眺めていた。ここはどこなのだろうと思う。確か、自分を庇ってデュークラインが殺されそうになったのだ。
そこまで思い出した瞬間、頭に鋭い痛みが走った。赤い色が、脳裏をちらつく。
「いや……っ」
――怖い。
カイは頭を抱えて蹲った。
何か、見た気がする。何か、思い出した気がする。
「デューク……っ」
顔を上げ、視線を巡らせ、カイはデュークラインを探した。しかし何処を見ても、デュークラインがいない。
代わりに視界に現れたのは、扉だった。
カイは、その光景に見覚えがあった。たまに夢で見るのだ。起きた時は忘れているが、夢で見るたびに思い出す扉だ。となれば、これは夢なのだろう。きっとすぐにデュークラインかルクが起こしてくれる――そう、カイは少し安堵した。
しかし、すぐにいつもとは違うことに、カイは気付いた。いつもは両開きの扉に、鉄の板が斜めに交差して打ち付けられているのだ。それが、無い。
妙な不安が高まり、カイは早く夢から覚めることを願った。頭痛は酷くなるばかりで、痛みの間隔が短くなっている気がする。熱が出ている時のように、頭がぼんやりとしている。閉じた瞼の裏に若い女の顔が浮かび、カイは確かな見覚えと懐かしさを感じた。
「――おかあさん……?」
そう呟いた瞬間、扉が音も無く、内側に僅かに引かれた。そこから、暗闇のような黒い液体が流れ出る。それは徐々に開かれていく扉の向こうから、溢れ出るかのように流れ込み、白い床を染めていく。
足元がすっかり黒い液体に浸かり、カイは体を震わせた。逃げようとしても、足が動かない。纏わりつくような嫌な感覚の液体に呑み込まれていく恐怖に、デュークラインの名を繰り返し呼ぶ。それでも、返ってくる声は無い。
「デューク……! わたしを、呼んで……っ」
カイは必死に、頭上に手を伸ばした。黒い液体は顔にまで上がり、口や鼻を塞いでいく。自分の中に流れ込んでいくのを感じる。
薄れゆく意識の中、カイは視界が黒く塗り潰されていくのを、ただ見ているしかなかった。
* * *
暗闇に満ちた部屋で、幼子は座り込んだまま、ぼんやりと虚空を眺めていた。何の変化もない闇の中でも、薄っすらと扉の形が見えている。その扉が時折開くことを、幼子は知っていた。
幼子は体中に痛みを感じていた。気を失う前に、たくさん殴られたせいだ。口の中は血の味がしている。いつもいつも、大きな体の祖父が、何かを喚きながら殴るのだ。抵抗すると長引くので、幼子は大人しくしていることを学んでいた。もう数え切れないほど、繰り返されたからだ。
ふと、視界の端で何かが動いた。小さな鳴き声が聞こえる。
幼子は体を起こし、這うようにしてその方向へ向かった。頭が壁に触れ、手を伸ばして触れる。その手の甲に、動くものが触れてきた。それは鳴きながら、壁の向こうへ消えていく。幼子は、それを追いかけようと穴を広げようとした。すると緩くなっていたのか、穴の上部の板が外れた。それを横に立て掛けると、幼子は興味の引かれるままに、穴を潜った。
抜け出した先は、幼子にとって別世界のようだった。同じ闇の中でも、全く違う。風を感じることすら、草木の匂いを嗅ぐことすら、高い空を見上げることすら、幼子にとっては初めてのことだったからだ。見上げた空に浮かぶ丸い月を、幼子は暫く、ただただ眺めた。
誰かの笑い声が聞こえ、幼子は声のする方へと向かった。柵を潜り抜け、灯りの漏れる家の扉に、這い上がるようにして顔を近付ける。隙間から覗けば、複数人の姿が見えた。それは、幼子が初めて見る『他の家族』の姿だった。
幼子は食い入るように、その光景を眺めた。
何故、彼らは皆、楽しそうに笑っているのだろう。
何故、眠たそうな子供たちの頭を撫で、微笑んでいるのだろう。
何故、自分は殴られているのだろう。
何故、あんなふうに、優しく微笑まれたことがないのだろう――。
子供が、自分を抱く者に向けて『おかあさん』と呼んだ。そうすると、呼ばれた母親が嬉しそうに笑う。その光景が、徐々にぼやけ、揺らいでいく。気付けば幼子の頬は、溢れる涙で濡れていた。胸が苦しくて、泣き過ぎて頭がぼんやりとする。体だけではなく、体の奥の方が、張り裂けそうに痛い。
自身の気持ちを言葉にして伝える術を、幼子は持っていなかった。生まれた時からこれまで、一方的な言葉を投げつけられてはきたものの、会話を殆どしたことがなかったためだ。言葉の発達を促すために優しく頻繁に話しかけられるような、そんな甘やかな記憶を、幼子は持ってはいなかった。食べ物を与えてくれる女が一人、自分を抱きながら泣くだけだ。
体中を巡る吐露出来ない感情を、幼子は持て余した。泣きながらその場を離れ、どこをどう歩いたのかは分からない。泣き喚くことさえ許されてこなかった幼子は、その哀しい思いを何かにぶつけることでしか消化出来なかったのだ。
体中に浴びた液体は、温かかった。まるで誰かに抱き締められたように、幼子は感じていた。それは、いつも自分の口の中で味わうものとは違っていた。それが『甘い』ものだと知るのは、随分と後になってからだ。
幼子は、目の前に倒れている山羊の体に触れた。自分がしたことに対する驚きはあったが、恐怖はなかった。温かな体に、身を預ける。心地良い眠気に誘われ、そのまま幼子は意識を手放した。
眠りから覚めると、いつもの闇の中でいた。凍り付くような寒さに、幼子は震えた。体中が濡れており、床も濡れている。指を舐めてみても、あの甘い味はしなかった。
扉が開き、足音を立てて大柄な祖父が入ってくるのを、幼子は見上げた。向けられる怒りの感情を、理解は出来なくとも怖ろしく感じた。その後ろにいるのは、こちらを見ようともしない祖母だ。
「この魔女め! とんだことをしてくれた! マティを黙らせるのに苦労したぞ!」
足蹴にされ、幼子は凍えた体を折り曲げた。
「逃げた方が良くないかね、お前さん……、礼拝堂にでも駆けこまれたら――」
「そんなことができるものか! こんなものを放っていけば、村人にすぐに知られる。異端審問官に追われたら最後――」
「怖ろしい――、どうしてこんな怖ろしい子があの子から産まれたの。こんな子が産まれなければ、息を潜めて生きることもなかったのに……」
恐怖に歪んだ祖母の顔を、幼子は眺めていた。いつも泣いている母親と同じように頬を濡らしている様を見て、二人は似ていると、初めて思った。
「ずっとアスプロ様に祈ってきたわ。それなのに、私たちの祈りが足りなかったとでも言うの……!」
泣き崩れた祖母の恨みがましい目と、目があった。初めて真面に見た祖母の瞳は、ランプの光を含み、まるで透けているように見える。
「殺せるものなら、とっくに殺しているのに……!」
吐き出すように祖母が口にした言葉を、幼子は声に出さず繰り返した。『殺せるもの』というのは、何なのだろう。先ほど外で耳にした言葉は、何だっただろう。
二人の奥の扉が、再び開いた。
弱々しく高い女の声が、暗い部屋に入り込む。
「お父様、お母様……、マティさんがまた……」
「足元を見やがって……! 全部お前のせいだからな! お前がこんなものを産むから――」
「やめてあげて、この子は悪くないのよ!」
「そうやってお前が甘やかすから、こんなことになるんだ!」
そう言い合いながら、二人は扉から出て行く。それを見ながら、幼子は覚えたばかりの言葉を思い出していた。
「――おかあ、さん……?」
幼子はうまく発音出来てはいなかったが、駆け寄ってくる足音があった。触れてくる手の温もりで、それが母親だと分かる。
「なんて言ったの……今」
扉は開かれたままで、その向こうの灯りが彼女の体で遮られている。陰になった彼女の表情は、見ることが出来ない。
「おかあさん」
幼子は、言葉を繰り返した。
傍に膝をついた母親に、両腕で抱き上げられる。
「ああ……アスプロ様……!」
唯一抱き締めてくれる母親の声が、震えている。
また泣いているのだ、と幼子は思った。何故か、いつもより強く抱き締められている気がする。
「どうして……山羊を殺したの?」
消え入りそうな声で、母親が言った。
幼子は、答えられなかった。それが何を指しているのか、分からなかったからだ。
「ころした?」
「お前が殺したのは、隣のマティさんが飼っている山羊よ。その手で、砕いてしまったでしょう? 山羊は死んで、動かなくなったでしょう?」
あれが殺すということなのだと、幼子は知った。
冷たい水滴が顔に落ちてきて、視線を上げる。間近に悲しみに暮れたような悲壮な表情を見て、幼子は強い罪悪感を覚えた。
「本当に可哀そうな子……。ごめんなさい、ごめんなさい……っ、お前をこんなふうに産んでしまって……、殺してあげることも出来ないなんて……」
震える声が零す言葉が、幼子には痛く感じた。よく分からないが、母親が酷く悲しんでいることは分かる。それが自分のせいであることも、幼子は感じ取っていた。
「せめて人だけは、人間だけは、殺さないで。人間というのは、私やお前のことよ。お前の呪われた血のせいだとしても、人間だけは……お願いよ――」
母親の涙混じりの声は、それ以上は続かなかった。
泣き崩れる母親に抱き締められながら、幼子はその両腕で温もりに縋った。
「おかあさん、ごめんなさい」
自然と、口から言葉が出ていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
繰り返しているうちに、母親の涙が移ったかのように涙が出てきた。
どのくらいそうしていただろう。顔を上げた母親を見上げると、灯りに照らされた悲しげで優しげな微笑みが見えた。
「食べ物を持ってくるから、待っているのよ」
母親に離され、幼子は寒さに手足を引き寄せて丸まった。苦しい体の奥の痛みに、幼子は耐え切れなかった。母親が泣いているのを見るのは、何故だか辛いと感じるのだ。
それからずっと、幼子はじっと暗闇で横たわっていた。体の奥の痛みは引いてくれず、それは次第に酷くなっている気さえした。扉の隙間から漏れ入ってくる僅かな灯りだけが、時の経過を知らせるだけだった。
このまま目を閉じていれば、いつか楽になれるかもしれない。そう幼子は思った。母親が泣くなら、もう外になど出なくてもいい。山羊も殺したりしない。だから、もっと会いに来て欲しい、と幼子は思った。あの泣き顔を見るのは辛かったが、母親に会えない時間の方が、幼子にとっては悲しかったのだ。
数日が経った頃、突如冷たさを感じ、幼子は跳び起きた。いつかと同じように、体中が水浸しだ。目の前には、桶を持った祖父が、怖ろしい形相で立っていた。
「また抜け出して殺したのか! それも何頭も……!」
――違う。
そう言いたかったが、言う前に殴られ、口の中が切れた。以前抜け出た部屋の隅を見れば、大きな穴が開いている。それを幼子は呆然と見つめた。
右足を取られ、きつく縄で縛られる。それは縄元の壁から短く、排泄のための桶にも届かない。
抗議する間もなく、扉は閉まった。暗くなったために今は目が利かないが、誰が、どうやって壁に穴を開けたのだろう。
訳が分からないまま、幼子は襲ってきた眠気に意識を手放していた。
次に目を覚ました時、口の中で味がした。あの山羊の血と同じ味だ。両手を見れば、濡れている。舐めると、やはりあの味がした。右足首に、縛られている感覚はない。胸の音がいやに大きく聞こえる。それに混じって、体の奥の痛みに取って替わろうとするものに気付く。
――いやだ。
そう思い、幼子は両手を抱くようにして丸くなった。
頭の中で、自分のものでないような声が聞こえるのだ。それはまるで時折やってくる祖父が発しているような、怖ろしい感情の渦だ。
「おかあさん、おかあさん……っ」
助けを呼ぶことすら知らず、幼子は母親を呼んでいた。
床が揺れるほどの足音が近付き、幼子は目を開けた。随分と眠っていた気がする。目の前にいるのは祖父母だ。祖母の持つ松明が、部屋をいつもより明るくしている。
「審問官はいつ?」
「もうすぐそこまで来ているそうだ。司祭が家畜の不審死を届け出ていたらしい」
「じゃあ早く逃げないと!」
「その前にこれを始末する。生かしていたことが知れたら、ただでは済まないぞ」
二人の会話を聞きながら、幼子は怯えた。いつもとは違う様子に、不安を煽られる。とうとう殺されるのだと、幼子は思った。自分が、山羊を殺したように。
それでも殺される前に、幼子は彼らに聞きたいことがあった。何故、今まで自分はここでこうしていたのだろう? それは明確な疑問として、ようやく幼子の中で言語化されたのだ。
「いままで、殺さなかったのは、どうして?」
幼子は知りたかった。
どんな答えを期待しているのかは幼子の中で明確にはなっていなかったが、殺される前に聞きたいことはそれだけだった。
幼子が喋ったことに対して驚いたような祖父が、傍まで来て膝をついた。
「殺せなかったのだ……!」
吐き捨てるように祖父が言ったのを聞いた時、幼子は胸の内に確かな喜びを感じた。しかしそれは、束の間のことだった。男が顔を顰めながら、「殺し損ねていたんだ」と続けたからだ。
「今日こそは死んでくれ。ディーナが泣かなければ、さっさと殺していた筈だったんだ。それなのに、いつもいつもお前はしぶとくて――まるで何かが憑いているみたいに……」
男の腕が伸ばされ、その両手が首に掛かった。その太い指が首に食い込む強い圧迫感に、幼子は呻いた。
悲しい。
痛い。
苦しい。
様々な感情に揺さぶられながら、幼子は泣いていた。
ディーナというのは、母親の名前だろうか。母親が、今までこの人たちを止めてくれていたのだろうか。それは少しでも、わたしを――。
「おかあさ、おかあさん……!」
幼子は、母親を呼んだ。
何度も、何度も。
それでも、母親の声は聞こえなかった。
「ディーナは、もういない。出て行ったんだ。お前も、私たちも捨てて、出て行ったんだ!」
怒鳴り声に、胸を抉られる。
『捨てて、出て行った。』その言葉に体の中が焼かれそうに痛い。
急激に意識が遠のく。あの時の夜空の下に放り出されたような感覚になった瞬間、幼子は意識を失っていた。そしてすぐに、目を開く。幼子には、必死に首を絞めている男の顏がはっきりと見えていた。驚いたような男が首から手を離し、喉を引き攣らせて掠れた悲鳴を上げる。腰を落としたまま震えを大きくしていく男に、幼子は笑った。
「どうして逃げるの? わたしを殺したいんでしょ?」
何故だか可笑しい気分だ。
さっきまで威勢の良かった男が、ぶるぶる震えて泣きそうになっている。
幼子は立ち上がった。体の痛みはあったが、他人事のように感じた。体の奥だけが、引き裂かれそうに痛いままだ。
「お、お前は、やはり――」
「――死んでちょうだい! お前は化け物よ……!」
男の声を遮るようにして、松明を持っていた筈の女が飛び込んできた。その手には女の掌分ほどの刃物が持たれている。それが自分の胸に突き刺さろうとしている。それを見て、幼子は自らの掌を女に向けていた。
彼らに対しては、怒りと恨みがあった。それをもう一人の自分は認めようとせずに、ただ眠ろうとしたのだ。何故こんな目に合わなければならないのだという疑問から目を逸らし、『おかあさん』が泣かないようにという願いだけで、眠ろうとしたのだ。
目の前で、女と男が弾けた。山羊の時よりも多い鮮血が、体中に降り注ぐ。肉片が頬に張り付き、幼子はそれに触れた。
「あたたかいんだ……」
手にしたその温かさが、幼子には不思議なもののように思えた。あれほど冷たかった人間の中身も、山羊と同じく温もりを与えてくれるものだったことに驚く。
胸の内で、自分の中のもう一人が、泣き叫んでいる。それが頭の中に響き、割れるように痛い。
女が落とした松明の炎が、壁や床に燃え広がりつつあった。幼子は血の海を渡り、記憶のある限り初めて、扉の向こうに踏み出した。初めて見る他の部屋を眺めながら、開け放たれている外への扉を抜ける。
外も、赤く染まっているように幼子には見えた。夕陽が辺りを染め上げていたのだ。人の姿は見えず、幼子はただ歩き続けた。どうしようもなく、叫び出したい衝動に駆られる。その衝動のままに、幼子は村外れまで来ていた。
「――あなた……どうしたの?」
突然声を掛けられ、幼子は驚いた。何かをしていたらしい女が一人、こちらを見ている。傍には大きな籠が置かれており、草を摘んでいたようだ。
どうしようかと思う間もなく、女が駆け寄ってきていた。夕陽のように、赤い髪だ。それに目を惹かれ、幼子は暫し女を見つめた。
向けられる土と同じ色の瞳にも、自分に対する怯えや恐怖はあったかもしれない。それでも哀しみが湛えられた真っ直ぐな瞳に、幼子は見入った。膝をつき、取り出した布で、顔や体に付いた血を拭ってくれる。
頬に温かな手が触れた時、幼子は口を開いた。
「あなたも、おかあさんなの?」
「いいえ、違うわ。私はスェルと言うの。あなたのお母さんはどこにいるの?」
問われ、幼子は村の方向を指さした。
「もう、いいの」
自分自身に対して、幼子は答えた。あの女にとって自分は要らなくて、そうしたら後はもう、どうでもいいのだ。この体中に渦巻いて行き場を求めているものを、何処かでぶちまけてしまいたい。いっそ、あの女が止めろと言っていたことをしてやろう。全ての人間を殺してしまおう。自分を殺そうとした人間と同じ人間なのだから。この女も、きっとすぐに逃げ出すだろうから。そうなれば、また、もう一人が泣いてしまうから。
幼子は、片手をスェルと名乗った女に向けていた。しかしその手を真正面から包み込むように触れてきた温もりに、目の前の女を砕くことが出来ず留まる。
「いけないわ。その力は、今のあなたには大きすぎる。感情のままに使ってはいけないのよ」
そのまま抱き締められ、温かさに包まれた。
あの女と同じ、温かさだ。
「名前は、言える?」
間近で微笑まれ、幼子はどう反応して良いのか分からなかった。頭が割れるように痛い。一瞬にして、幼子は意識を失っていた。
気付いた幼子は、女に寄り掛かっていた。思い出したかのように、体が痛みを訴え始める。目に映る知らない光景、そして知らない女に抱き締められていることに、幼子は戸惑った。
「――だれ?」
幼子は、自分を抱き締めている女に問いかけた。
女は驚いた様子を見せたが、すぐに笑みを浮かべ、「スェルというのよ」と答えてくれた。
スェルの微笑みが、母親の顔と重なる。その微笑みが、恐怖に歪んだ祖父母の顔に塗り潰されてしまう。足元に見た、血塗れになった姿が思い出され、自分がやったことだと幼子は理解した。
「スェル」
幼子はスェルに両腕を伸ばし、抱き付いた。
「殺して」
「わたしを、殺して」
幼子は、その言葉以外を知らなかった。もしかしたら自分は、母親を追っていって、殺してしまうかもしれない。それは幼子にとって、とても怖いことだった。
「あなた、そういう時はね、助けて、って、言うのよ……」
両頬を両手で包まれ、幼子はスェルの言葉を聞いた。母親のように涙に濡れた顔は歪んでいたが、スェルの瞳は目を逸らすことなく自分を見ている。そのことを、幼子は『嬉しい』と思った。
「今まで頑張ったのね。限界まで頑張ったのね。心が壊れてしまうまで、こんな小さな体で」
幼子は、泣いていた。やはりこのまま殺されたいと思う。母親と同じ温もりに包まれたまま、眠ってしまいたいのだ。
「スェル。たすけて。わたしを、殺してしまって」
「いけないわ。生きるの。生きていればきっと、良い出会いもあるわ。今は眠りなさい。あなたを辛くしている気持ちは、今は忘れて。心を休ませるの」
「こころ?」
「そうよ、心はとても大切なものなの。あなたが、あなたでいるために」
スェルに抱き締められたまま、彼女が呟く言葉を幼子は聞いていた。抑揚のある不思議な言葉は、まるでしなやかな布のように連なり、体の中に入り込む。それらに、頭や胸を包み込まれていくように思えた。何もかもが、分からなくなっていく。
「スェル――」
幼子は、女の名を呼んだ。
彼女の温もりが、次第に遠く離れていく。それが完全に断たれた時、視界が白く染まった。
* * *
元の白い部屋で、カイは立っていた。あの黒い液体は消えている。扉を見れば、奥へ引かれ開いたままだ。ああ、あの黒いものは私の中に戻ったのだと、カイは自身の両掌を見下ろした。思い出した記憶の中の赤い血が、手を染めている。指先から滴る血が、白い床に落ちて跳ね、赤い色を広げていく。
カイはそれを見つめていた。
自分の中には、魔物がいる。自分では制御出来なかった、自分自身だ。
両手から滴る血もそのままに、カイは扉に向かって歩き始めた。扉の向こうには、未だ闇が横たわっている。その手前で、カイは足を止めて扉に触れた。
こうして魔物が戻っても、不思議と今はカイでいられている。その理由を、カイは分かっていた。デュークラインやルク、カリスやシアンの顔が思い浮かぶ。タオやエリュース、サイルーシュ、そしてスバルのことを思う。彼らがこの心を、温かいもので満たしてくれたからなのだ。
皆に会いたい。
そうカイは願った。それでも、また何かの拍子に、自分の中にいる魔物が暴れ出すかもしれない。そう思うと、カイは自分自身が怖ろしかった。
母親の泣き顔を、思い出す。この魔物が外に出れば、またあの人は、酷く悲しい顔をして泣くのだろう。母親だけでなく、他の皆も、あんな風に泣かせてしまうのかもしれない。もしかすれば、皆のことも、殺してしまうかもしれないのだ。
スェルと別れたあの時から今まで、与えられたものは温かなものだけではなかった。どれだけ拒否の声を上げても、聞いてもらえない悲しみ。気を失うまで続く責め苦。それらの記憶に対して、この胸の中で、確かな憎しみの感情が生まれていくのを感じるのだ。
「デューク……、もう、わたしを……呼ばなくていいよ。わたしは、このまま――ここで眠るべきなの」
カイは暗い扉の向こうに足を踏み入れた。両手で片方ずつ、重い扉を押し閉める。隙間からの光の筋が消えた時、視界には何も見えなくなった。
「――あなた……どうしたの?」
呼び掛けの声に驚き振り返ると、そこにはスェルの姿があった。彼女だけが、仄かな光を纏っている。あの夕焼けのように赤い髪も、土色の瞳も、あの時と変わらない。彼女の微笑みも、あの時のように優しげだ。
スェルを起点にし、暗闇が赤い夕焼けに塗り変わっていく。肌に緩やかな風を感じ、まるで彼女に出会った時そのものの場所に立っているかのようだ。
「スェル……一緒に、居てくれるの?」
自分の生み出した夢幻でも構わない、と思う。
伸ばされた両腕に引き寄せられ、抱き締められる。その懐かしい温もりに、カイはそっと目を閉じた。




