28 駒無しの棋盤
カイは、自分を離そうとしないデュークラインの腕を振り払っていた。普段の彼が相手ならば、絶対に起こり得ないことだ。それだけデュークラインの状態が悪い――死んでしまうかもしれないという恐怖は、カイにとって耐えられるものではなかった。
「やめて、やめて……! デュークを殺さないで――!」
突然やって来た男が、自分を殺そうとする理由は分からない。分かっていることは、自分を庇ってデュークラインが殺されそうになっているということだけだ。
カイは壁を頼りに立ち上がった。自分のどこにこんな力があったのかと思う。胸の奥が、熱い。体中の血の巡りが感じられる気さえする。頭に痛みが走った。体とは裏腹に、まるで警鐘を鳴らすように頭痛が酷くなる。それに構わず、カイは何かに促されるように、両掌をザラームに押し出していた。
直後、目の前に広がる光景に、絶句する。
視界が全て、赤に染まったのだ。
「…こん、な、化け物だ、なんて……聞いて、ない……ぜ……」
耳に、途切れ途切れの掠れた男の声が届く。その中の単語に、カイは聞き覚えがあった。
痛みと共に、懐かしさを感じる声が何処かから聞こえる。
――可哀相な子。
「ぁ……ア……」
――せめて人だけは、人間だけは、殺さないで。
「おかあさ……――」
思い出す。
いつも自分を抱いて泣いていた母親は、気付けば自分を捨てて出て行っていた。それを教えてくれた祖父母が、目の前で同じように砕けたのだ。赤い血を噴き出させながら、血塗れの顔で、祖母が叫ぶ――。
――お前は化け物よ……!
「アアアアアア――!!」
怒涛のように、記憶の波が押し寄せる。それと同時に体中に巡る自分のものでないような強い感情に呑み込まれ、カイは叫んだ。
* * *
タオは塔に戻ってきていた。スバルが一足早く先を行っている。
裏手に近付くにつれ、嗅いだことのある臭いに気付いた。台所に入ると、調理台の上に置かれた鍋からの匂いに混じる臭いが鼻をつく。
「スバルさん! これ――」
スバルからの返答はない。代わりに中からカイの叫び声が聞こえてくる。
先に開け放たれている塔への裏口に立ったスバルが、中を見て足を止めた。目を見開き、ほんの僅か、その口角が上げられた気がする。そのまま中に入らず、彼は軽い足取りで裏口の脇に移動した。その行動をタオは不審に思ったが、カイの叫び声の方が気に掛かる。空いたその入口から、タオは中へ飛び込んだ。
「カイ……!」
目にした光景に、タオは息を呑んだ。視覚からの情報によって、臭いが更に強く感じられる。
ルクの部屋が、血の海だ。台所から届く弱い明かりで、赤い血が足元にまで流れて来ているのが見える。その中で倒れているのは、見知らぬ人間のようだ。まるで砕かれたように、原型を留めていない。
カイの姿は、部屋の奥の左隅にあった。壁を背に立っている彼女の見開かれた瞳は、妖しい紫色の光を帯びている。
両手で頭を抱えたカイの悲痛な叫び声は、ふいに彼女のものではないようなものに変化した。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!」
ぞくりと背筋に悪寒が走る。
タオは直観的に、このままではいけないと思った。カイの足元には、デュークラインが両膝をついた状態でいる。彼の手はカイの体に触れてはいるが、彼がカイを呼ぶ声も掻き消されているようだ。
カイの掌が、デュークラインへと向けられた。喉の奥から発せられていたような叫び声は消え、彼を見下ろすカイの瞳はまるで別人のように感じる。
「カイ!! 大丈夫!?」
タオは血の海の向こうのカイに向け、叫ぶようにして呼び掛けた。
びくり、とカイが声に反応したように体を震わせる。その目が一度瞬き、確かにデュークラインを見つめたように見えた。
次の瞬間、急に力が抜けたようにカイの体が崩れ落ちる。
そんなカイの体を、デュークラインが床に打ち付けられる寸前で抱き留めた。
「カイ!」
タオは壁沿いに、二人の傍へ駆け寄った。
デュークラインの腕の中にいるカイの状態は暗くてよく見えないが、どうやら気を失っているようだ。頬に触れると、何かのぬるついた液体が手に触れた。
「カイは一体どうしたんですか? それに、あの血塗れの人は?」
「……私が、始末した」
掠れたデュークラインの声に、タオは彼の様子がおかしいことに気付いた。その場から動かず、彼は俯いたままだ。会話もどこか繋がっていないように感じる。
「カイを、頼む」
「は、はい」
短く告げられた言葉に従い、タオはデュークラインの腕からカイの体を両腕で引き取った。そうしながら、違和感を覚える。こんな状態のカイを誰かに預けるようなことを、彼はしないような気がするのだ。聞いた声も、発するのが辛そうに聞こえた。
そうしなければならないほどの怪我を負っているのではないか、そうタオが考えた時、台所の方から、エリュースとルクの声が聞こえてきた。それからすぐに、複数の足音が裏口に立ったのが分かる。
振り向けば、息を荒くしているエリュースがいた。血の海を前にして、顔を僅かに顰めている。
「エル! デュークラインさんが、怪我をしてると思うんだ」
そう言うと、倒れている血塗れの死体を一瞥した後、エリュースが傍にやって来た。
デュークラインを覗き込もうとして、彼が顔を上げる。
「誰か、灯りを持ってきてくれないか」
エリュースの上げた声に、裏口からスバルがゆっくりと入って来るのが見えた。
「奥に月光石があったと思うから――、持ってこようか?」
そう言いながらも、スバルはどこか無関心な様子だ。こちらに一度視線をやっただけで、けだるそうな足取りで奥へと歩いていく。
スバルが戻ってくる前に、ルクが火の灯ったオイルランプを持ってやって来た。そんなルクの方に、デュークラインが視線を上げる。
「――ルク。無事だったか」
彼の言葉にルクを見てみれば、暗闇でも光るルクの赤い瞳が、一つ大きな瞬きをした。
「旦那は、大丈夫か?」
心配そうなルクが、デュークラインの傍に灯りを寄せる。
眩しさを感じたのか、彼の藍色の瞳が細まった。
「よくやった、ルク」
噛み締めるように、デュークラインが言った。彼の視線を受け止めているのだろうルクが、その目を更に大きく見開く。
エリュースが、デュークラインを覗き込んだ。
「一体、何があったんだ?」
そう問いを発したエリュースに、デュークラインが彼の方に視線を上げる。
「暗殺者が、来ていたのだ。投げられた小剣を、避け切れなかった」
「カイに怪我は!?」
デュークラインの言葉に、タオは思わず口を挟んでいた。灯りに照らし出された彼女を見れば、顔や体が血塗れなのだ。まるで傍で絶命している人間と同じようにすら見える。
「……ない筈だ」
デュークラインから、絞り出すような声が聞こえた。その言葉に、タオはカイを見下ろした。怪我がないことには安心したが、となれば、これは返り血なのか。この目で見た、気を失う前のカイの様子も気に掛かる。明らかに、普通ではなかったのだ。
「あんたは、どこをやられた?」
「背中だ、……おそらく、毒を使われた」
デュークラインの言葉に、タオは少し腰を上げて彼の背を見る。そこにスバルの持ってきた月光石の蒼白い灯りが寄せられ、彼の背中に小剣が突き刺さっているのが確認出来た。
「んー、見事に刺さってるねぇ」
「デュークラインさん……!」
タオは、改めてデュークラインの顔を見た。苦しげに俯いた彼の顔を覗き込むと、呼吸の仕方がおかしいことに気付く。浅く早く繰り返されている様子だ。顔色も酷く悪い。
「旦那、……死ぬのか?」
ルクが、ぽつりと呟いた。まるでそうなることが分かっているかのような、達観した響きに聞こえる。
それを聞き、タオは沸き上がった不安と焦りに体が震えるのを自覚した。
「エル、なんとかなるんだろ!?」
タオはエリュースに訴えかけた。これまで何度も、彼にはその治癒の光で助けてもらってきたのだ。彼なら治せる、そうタオは信じたかった。しかしデュークラインの様子を見ているエリュースの眉根は、寄せられたままだ。
「毒の種類は? ……分からないだろうな」
問いかけながら、デュークラインの微かな頷きに対しエリュースが呟いた。
「毒ってやつは、いつもお前の怪我を治しているのとは訳が違うんだよ、タオ。元々の自然治癒能力を高めるこの力は、病気とは相性が悪い。それと一緒で、毒も下手すりゃ一気に体に回しちまう。といってもこれは――もうかなりやばい」
最後は早口で言ったエリュースが、デュークラインの首筋に触れた。脈を測っているのだろう彼の眉間の皺が一層深まる。
「デュークライン、ちょっと荒療治するぜ。自分でも分かっているだろうが、時間がない。いいな?」
確認を取るように言ったエリュースに、デュークラインが僅かに顔を上げた。
彼の視線には、いつもの鋭さも力強さも見られない。
「――頼む」
デュークラインが、浅い息の下からそう言った。
* * *
エリュースは、ベッドに仰向けに寝かせたデュークラインの上衣を引き裂くようにして脱がせた。上下する胸元には、藍晶石のペンダントがある。それを取ろうとすると、デュークラインの制止の声が上がった。
「そのまま、で……」
「分かったよ。汚れても知らねぇぞ」
ペンダントから手を離すと、デュークラインが僅かに頷き、苦しげに目を閉じた。
あれから背に刺さっていた小剣を抜き去り、布で押さえたままここまで移動させたのだ。既に自分で動けなくなっていたデュークラインを運ぶには、タオとスバルの二人の助けが必要だった。カイは、ルクに言って部屋の端に作らせた寝床に寝かせてある。血を拭いてやりたいのはやまやまだが、今はその余裕はない。
「どうするのさ? これ、完全に回っちゃってるんじゃないの?」
デュークラインを覗き込みながら言ったスバルに、エリュースは顔を上げずに「ああ」と答えた。腰に下げている袋の中から聖水の小瓶を取り出し、ベッド傍の卓上に置く。
「毒素を集めて外に出す」
「出す? どうやって?」
不思議そうに首を捻るスバルに構わず、エリュースはデュークラインの喉下に触れた。
「タオ、俺が合図したら、お前の小剣でここを突くんだ」
「え!?」
驚いたように目を見開いたタオを、エリュースは顔を上げて見据えた。
「集めた毒素をここから出す。飛び散らないように吸わせる布も用意するんだ。いいか、喉を完全に突き抜けさせるのは駄目だ。上手く加減しろ。できるな?」
自分には出来ないことを、エリュースはタオに頼んだ。日頃から剣を使っているタオならば、人を斬ったことのあるタオならば、それなりに加減はできるだろうと期待する。デュークラインをこのまま死なせるわけにはいかないのだ。カイのためにも。
「わ、分かった」
「よし、やるぞ」
エリュースはタオの返答を聞き、両手をデュークラインの体に近付けた。左手は胸元に、右手は腹部辺りに当てる。激痛と戦っていると思われるデュークラインの体は強張り、眉間には深い皺が刻まれている状態だ。
精神を集中させ、エリュースはデュークラインの体との同調を試みた。意識を深く潜らせ、彼の血中にある毒素を意識的に掴まなければならない。
通常、毒の治療はその種類により対処するものなのだ。種類が分からなければ、それを中和させる材料も分からない。たとえそれが分かったとしても、その中和剤を作る時間的余裕が今はない。デュークラインに使われた毒は、強力な暗殺用のものだろう。彼の苦しみ様から見て、死に至るまでの時間は長くない。
外野の声や音が、薄い膜の向こうに遠ざかったかのように小さくなる。
エリュースは同調行為を成功させていた。そこで、デュークラインの体に妙な違和感を覚える。それはタオを治療する時には感じないもので、何か異質なものに触れているような感覚だ。これは人による個体差なのかもしれない、とエリュースは思った。タオ以外の人間を治療した経験が少ないために感じるものなのだろう。
デュークラインの体中に回っている毒素を捉え、彼の喉下に集めていく。痛みが集中していくため、デュークラインにとっては気を失わんばかりの激痛に違いない。
「デュークラインさん! 気をしっかり持って!」
タオが叫んでいると思われる声が、薄らと聞こえた。
「タオ!」
エリュースは合図の声を上げた。
タオが逆手に持った小剣が、デュークラインの喉下を突く。それが引き抜かれると同時に、意識の中の毒素が勢いよく外に溢れた。瞬間、エリュースは同調の集中を解く。
「――がは……ッ!!」
デュークラインの口からも、血が吐き出された。慌てたようにルクが布で受け、上体を起こそうとしているデュークラインを、タオが支える。
「死ぬなよ!」
エリュースは聖水を彼の喉に振り掛けた。
大きく呼吸をし、今度は治癒のための神聖語を紡ぐ。白く輝き始めた両手をデュークラインに翳し、エリュースは自らの持つ力を彼に注ぎ込むつもりで集中した。直接傷口に触れなくとも、力を届けることはできる。その導きのための聖水でもあるのだ。
その間にも、デュークラインは体を折り曲げるようにして溜まった血を吐き続けている。タオが支えてやってはいるが、苦しげな呼吸は荒々しい。背や腕には直接手を触れ、エリュースは傷を塞ぐことに専念した。
暫く続けていると、デュークラインの呼吸も随分と落ち着いてきた。血も吐き出さなくなっている。
タオに指示して横たわらせ、喉の傷口が塞がったのを確認する。顔色はまだ良くはないが、死にかけていた先程までよりは幾分かましだ。
「これで、なんとかなるか……」
エリュースは解けてしまった集中力に、ベッドに突っ伏すようにしゃがみ込んだ。軽い眩暈がしている。
「エル!! 大丈夫!?」
「ああ、だから、大声出すな」
心配そうなタオに顔を向けると、タオが慌てたように口を閉じた。
「無茶するねぇ、君。それにしても、大したものだよ」
感心したようなスバルの声がし、エリュースは視線を上げた。
スバルがデュークラインを覗き込み、目を瞬かせている。デュークラインは疲れ果てたのか、とうとう意識を失ったようだ。安定した呼吸と脈を確認し、エリュースは疲労を強く感じながらも心底安堵した。この荒療治が上手くいったからこそ思うが、デュークラインでなければ、持たなかったかもしれないと思う。
「黒騎士さんもびっくりするくらい頑丈でしぶとい人みたいだけど、君の力って、今の大主教を超えてたりするんじゃない?」
「ハハ、そんなことないだろ」
スバルの言葉を、エリュースは笑い飛ばした。そうしながらも、比べたことがないから分からないな、とも思う。
ルクが水の入ったコップを、横から寄越してくれた。その左腕に、血が滲んでいる傷を見つける。
「――そうか。ルク、お前も斬られていたのか」
そう言うと、ルクが大きな目を瞬きし、自身の左腕を見下ろした。
「おで、掠りキズ。旦那、死にそうだった」
「そうか。もう少ししたら治してやるよ」
エリュースはルクの気遣いに感心した。嬉しそうに飛び上がったルクが、台所に駆けていく。それを見送り、コップの水をゆっくりと飲み干すと、気分が落ち着いていくのを感じた。
見れば、血の付いた布をタオがまとめてくれている。デュークラインを見る彼の顔は、まだ心配そうだ。
「デュークラインさんは、大丈夫?」
「ああ、毒も大半は外に出せた筈だ。後はデュークラインの体力があれば大丈夫だろ。血が足りなくなっているだろうから、起きたらしっかり食べさせて、休ませなきゃな」
「良かった……! あとは、カイが早く目を覚ましてくれればいいんだけど……」
ほっとしたように一瞬、笑みを見せたタオが、カイに視線を向けた。まだ彼女が起きる気配はない。
「そうだな」
「うん……」
不安げにカイを見ているタオを見て、エリュースは今はそれ以上何も問わなかった。
とにかくも、デュークラインから話を聞かなければ始まらない。デュークラインを瀕死の状態にまで追い込んだ相手が暗殺者だと言うならば、誰が彼を雇ったのかが問題だ。それに、彼はカイの間近でいたのだから、カイの状態も知っているだろう。それと、タオも何か見たのだと思う。タオの不安げな視線が、そう言っている。
スバルはと見れば、カイの傍にしゃがみ込み寝顔を眺めているようだ。月光石とオイルランプで照らされた室内は、騒動の後の静けさに包まれている。
とにかくも、今、この時の危機は去ったのだ――そう思いながら、エリュースは暗い天井を仰ぎ、大きく息を吐き出した。
八半鐘間(※約20分)が過ぎた頃。
エリュースは、ルクにもらった鹿肉入りのスープを平らげていた。温かい食べ物のお陰で、疲労感も少し回復した気がしている。
タオはカイの傍で腰を落としており、ルクは掃除をしに行っている。あの死体の後始末だ。スバルが手伝うと自ら言い出したことには驚いたが、戻ってきていないところを見ると、本当に手伝っているらしい。
皿を返しに向かうと、誰もいないルクの部屋に、既に死体は無かった。床の血は拭われたようだが、壁や天井にまで飛び散っていたのだろう、臭い消しのためか何かが振り撒かれているが、その仄かに清々しいハーブ系の匂いも、完全に血の臭いを消し去ることは出来ていない。この部屋が元の姿を取り戻すのは、容易ではないだろう。それに、カイがあの惨状を見て心理的な衝撃を受け気絶したならば、彼女の心にも深い傷が刻まれていることだろう。その回復こそ容易ではないかもしれない。そうエリュースは懸念した。
台所に出ると、ルクが鍋を暖炉の火に掛けていた。スバルの姿は見当たらない。
辺りを見回していると、ルクが鍋から手を離して顔を上げた。
「スバルなら、詰めた麻袋、持ってったぞ」
「麻袋? どこに?」
「さぁ」
何を詰めたのかを察したエリュースは、それ以上を聞くことを止めた。どのみち自分たちには、処理出来ない案件だ。スバルは盗賊たちとの戦い方を見ていても、危ない臭いがする男だと思う。意外に野生的な戦い方をするのだと、驚いた。タオに聞いてみたところ、あんな戦い方は見たことがないそうだ。彼の非情さが、こちらに向くことがないように願いたい。
ルクが示した台の上に皿を置き、エリュースは礼を言った。
「腕、治すぜ」
そう言うと、ルクが目を輝かせて腕を差し出してきた。デュークラインが光に包まれていたのを見ていたせいか、怖がることはないようだ。それともこれまでにも、誰かに光を当ててもらったことがあるのかもしれない。
エリュースは、ルクの腕に少量の聖水を掛けた。神聖語を紡ぎながら手を翳す。そうして傷を癒やしていると、また違和感を覚えた。
「――んん?」
人とは違うゴブリンだからなのか、確かにタオとは違う感覚がある。面白いものだと思いながらも、エリュースは先程デュークラインから感じたものを思い出していた。魔物であるルクよりも、彼の方がより遠く感じた。より荒々しく脈打つような、そんな異質な感覚だったのだ。
「エル?」
「いや、……ほら、これでいい」
デュークラインの目が覚めたら、本人に聞くのが早い。そうエリュースは思った。答えてくれない可能性はあるが、返ってくる反応だけでも考える材料にはなるだろう。
外を見れば、もう夜も更けているのが分かる。中に戻ろうとしたついでに鍋を覗くと、そこには水が並々と入っていた。
「湯を?」
「ああ、嬢ちゃん、拭いてやらないと」
「そうだな。その通りだ」
エリュースは、ルクの言葉に頷いた。
デュークラインのことで、カイのことが後回しになっているのだ。それに、デュークラインが倒れている今、カイを着替えさせても良いものかと考えていた。だが、カイのことを考えれば早く綺麗にしてやった方が良いのだろう。
エリュースは寒さに押され、ベッドのある部屋へ戻った。壁際のタオを見れば、目を閉じて眠ってしまっているようだ。彼も盗賊たちとの戦いで疲れているのだろう。そう思いながら、エリュースもベッドに背を預けて座り込んだ。
暫くすると、裏手の方からルクの驚いたような声が聞こえてきた。そう時を置かず、硬い靴音が塔内に踏み入ったことが分かる。その音に、エリュースは聞き覚えがあった。タオも気付いたのか、目を開けて入口に目をやっている。
――それにしても、タイミングが良すぎる。そうエリュースは訝しんだ。デュークラインが先に塔に戻る際、連絡を付けていたのだろうか。そうでなければ、ここが何らかの手段で監視状態にあったのだろうと思う。いずれにしても、それは魔術的な手段なのだろう。
魔術的な手段といえば、ルクの部屋の惨状もそうだ。エリュースは近付く足音を聞きながら、今まさに彼女が通過していると思われる酷い状態の部屋を思い出していた。
デュークラインは自分がやったと言っていたが、その方法までは話さなかった。暗殺者の自決行為――役目が果たせないくらいなら、相手を巻き添えにして自死を選ぶ殺し屋がいる、という話をダドリーから聞いたことがあった――なのかもしれないが、それなら、彼は自分がやったとは言わないだろう。デュークラインがもし魔術を使えたとして、あの毒に侵された状態で、あの惨状を作り出させたとは思えない。何か強力な魔導具を解放させたのだろうか? それとも、彼は庇っているのだろうか? ――呪われし予言の娘を。
その時、予想通りの人物――カリスが部屋の入口に現れた。一度会った時のように上等な衣装に身を包んでいるが、その右手には前回見られなかった杖が持たれている。先端が光を宿した、身丈よりは少し短めの長さがある杖だ。彼女が鼻に皺を寄せたのは、血の臭いのせいだろう。ルクたちのお陰でだいぶましになったと思っていたが、自分の鼻が馬鹿になっているのかもしれない。きっとここは、未だ相当に血生臭いのだ。
「そなた達も来ておったのか」
カリスから淡々とした言葉が投げ掛けられたが、その眼光は冷たい。しかしその視線はすぐに外れ、背後のベッドに横たわっているデュークラインへと向けられた。それから彼女は視線を巡らせ、床の寝床に寝かせているカイを見つけたようだ。
「二人は? 無事かえ?」
「……無事かどうかは分かりませんが、今は眠っています。カイに怪我はないようです」
エリュースは事実だけを答えた。
デュークラインの毒と怪我は何とか出来たと思うが、カイの状態は分からない。怪我は無くとも、精神的なものもあるだろう。
カリスがその緑の目を閉じ、杖を持つ手を逆の手で撫でる。どうやら藍晶石の指輪に触れているようだ。
「ふむ……消耗しておるが、回復状態に入っておるな。ならば、そのままにしておこう」
独り言のように言ったカリスの目が、ゆっくりと開かれた。現れた、冷たさを感じるその瞳には、有無を言わさぬ凄みがある。
「そなた達は、こちらへ。話を聞こう。ルクでは埒があかぬ」
そう言ったカリスが、暖炉の部屋に戻っていく。その後ろ姿を見ながら、エリュースは大きく溜息を吐いた。
この塔へは、謎をはっきりさせるために来た筈だ。それなのに、想定外の戦いに駆り出され、暗殺劇が繰り広げられ、血の終幕が下りたところで、負荷の高い治療行為を行わざるを得なかった。それで片が付いたと思っていたのに、ここで魔女からの審問が降ってきたのだ。
「はい」
タオは素直に立ち上がったが、エリュースは気が重かった。疲れていると思われたのか、タオが手を差し伸べてくる。
そうじゃないんだよな、と思いつつも、エリュースは親友の手を取った。
テーブルでカリスと向かい合う形で、エリュースは座った。カリスの傍には結界士であるシアンが立っており、エリュースの傍らにはタオが立っている。
これはいわば棋盤の勝負だ、とエリュースは思った。動かす駒は言葉で、賭けるものは命だ。半ば覚悟は出来ていたが、エリュースは自分たちが大きな陰謀の渦に呑み込まれていることを実感していた。上手く泳げなければ、忽ち泡沫の如く消えることになるだろう。しかし生憎、今は疲弊している。頭が重く、回らないことを、エリュースは自覚していた。
そこで、彼は現状使える唯一の切り札を出すことにした。『真実』だ。正直さの強さは、タオを傍で見ているためよく知っている。
エリュースは、光誕祭でデュークラインを見掛けたことから始め、予言のことを知ったことをカリスに告げた。誰から聞いたのかを掘られればダドリーについて話さねばならなかったが、直後に異端審問院の動きを話したことで、そちらに気が逸れたようだ。襲撃者については知らないと答え、盗賊に関しては村で見かけたと伝えた。デュークラインが少し口にしていた暗殺者と、ルクの部屋で起きた惨劇については知らないと答えた。
「その時のことなら、少しだけ」
タオが、引き継ぐようにして説明を始める。事実、あの場に着いたのは彼が先だったのだ。
話を聞くと、彼も結局何が起きたのかは把握していなかった。それでも、あの場でカイの様子が尋常ではなかったこと、まるで別人のような様子になったこと。そこで呼びかけると、彼女が気を失ったという事実は分かった。
「そうか……」
それを聞いたカリスが、発言したタオに視線を向けた。
「もしかすると――そなたが、この半島の危機を救ったのかもしれぬな」
呟くように発せられたカリスの言葉に、エリュースは口を開いた。
「どういう意味ですか? やはり、ウィヒトの予言が関係しているのですか?」
そう問うと、カリスが目を閉じ、首を左右に振った。
「……分からぬ。憶測に過ぎん」
返ってきた言葉によって、投げかけた問いは打ち消されてしまう。
おそらく、この渦に呑み込まれている者は誰一人として、全体像を掴めていないのではないか――。そう、エリュースは思った。
続けて、事後の処理を語る。そこで初めて、カリスが柔らかい笑みを見せた。
「私は治療の魔法には通じておらぬが、かなりの無理をしてくれたようだな」
「ええ、まぁ……。彼の体力があってこそのものでした。彼は、なんというか、人間離れしていますね」
エリュースは、棋盤の一手を打った。指し手を詰められたことを意識したのか、カリスの目が細められる。
その時、ルクの部屋の方からスバルが姿を見せた。
顔を向けたカリスを見て、彼の口角が上がる。
「あれ、お客さん? 初めまして、奥方。……と、その従者さんかな?」
「そなたは?」
カリスの問いかけに、スバルが空いている席に座った。二人の男が気を遣って立ったままなのを気にせず、エリュースの隣にだ。
「名前? それだったら、スバルだよ」
「……何者だ?」
「あー、それって、深い質問だよね。誰しも、自分は何者なのかって問いかけながら生きているとも言えるからね。死ぬまでにその答えを掴める人って、多分少ないよねぇ」
スバルの掴み所の無さはいつものことだ。そうエリュースは思ったが、慣れない人には苛立つ要素だろうとも思う。そして、それを許してくれない人もいる。
カリスの目付きが厳しくなった。
そこへ、タオが溜まり兼ねたのか、口を挟む。
「スバルさんは、旅の戦士なんです。魔物退治とかをして、生計を立てているんですよね?」
スバルに話しを振ると、カリスの視線がタオからスバルへと流れた。
「あと、交易を少しね。ある場所で普通に採れる物が、別の場所では有難がられることってよくあるんだよね。他には、魔物から採れる物が高くやり取りされることも多いかな」
「ここに来た理由は?」
質問を重ねるカリスに、スバルが大きく両腕を広げた。彼女から受ける威圧感に、全くといってよいほど影響を受けていないように思える。
「そりゃあ勿論、月が綺麗だからさ。この塔で見る満月は最高でしょ?」
厳しい眼差しを向けられても、スバルに動揺する気配はない。
ややあってカリスの眼差しは、エリュースへと向けられた。
「そなた達が招き入れたのか?」
「……そうなりますね。成り行き上、仕方なく。あ、でも、今夜は違います。全くの偶然で」
ただでさえ厄介な渦の中、余計な物まで背負いたくない。
エリュースは、スバルとは距離があることを明確に告げた。すると、スバルが可笑しそうに小さな笑い声を漏らす。
「そうそう、偶然だよ。皆がこうして一堂に会してるのもさ。招かざる客が来ちゃったのも、きっと偶然だよね」
それを聞き、エリュースは心の中で、「お前がその招かざる客だろ」と思ったが、それを口にはしなかった。スバルがいるだけで、既にこの場が乱れているのだ。ここでスバルに物言いをして、新たな騒めきを足す必要はない。
「で、さあ。散々質問してきたおばさんはどうなの? 名乗ったり正体を明かしてくれたりはしないのかな?」
そう思っているうちに、またスバルが騒めきを生み出そうとしている。
カリスの冷たい視線が、スバルに向かった。
「失礼ですよ!」
彼女の傍らにいるシアンが窘めるように声を上げたが、スバルに響いている様子はない。
スバルに視線を向けられ、エリュースは内心溜息を吐いた。
「君たちは聞いていないの? この人の正体」
その問いに、エリュースは答えなかった。最初に出会った時に名乗ってくれたため呼び名は知っているが、正体は未だに聞いていないのだ。本名でない可能性もある。いくらか推測は出来ているが、本人がいるならその口で語ってもらうべきだろう。
しかしカリスは、その口を開かなかった。
それを眺めるように目を細めたスバルが、両手を自身の胸の前で合わせる。
「わぉ! 謎めいた女性って、魅力的だねぇ。でも、自己紹介されなくても、ある程度は分かるよね」
スバルが、合わせた手のうちの右手の人差し指を立てると、その指をカリスの傍にいるシアンに向けた。
「高貴な立場で――……」
次にスバルの左手の人差し指が、今もカリスが右手で握っている、テーブルから頭を覗かせている杖を指し示す。
「――最早、半島で絶滅したと思われている、魔女だ」
場の空気が凍り付いたのを、エリュースは感じた。しかし傍に立つタオだけは、そのことをしっかりと把握出来ていない様子だ。スバルが至ってにこやかだからだろうが、エリュースの見立てでは、当のスバルはそのことを自覚している。エリュースも、情報が得られず頭を低くしてやり過ごすのは性に合わないと、先程は踏み込んだ指し手をした。しかし、このスバルの一手は、自殺行為とも言える。それこそ、この場で魔法の渦を作られかねない危険な一手だ。
「確かに、食えぬ男だな」
暫しの間を置き、カリスがそう言った。椅子を引き、ゆっくりと立ち上がる。完全に、スバルの言動を無視した形だ。それは非常に賢い一手だと、エリュースは感心した。スバルに真面に向き合っても、得られるものは少ない。そうカリスは判断したのだろう。
カリスの視線はスバルには向けられず、エリュースは彼女の視線を受け止めた。
「ともかく……、彼奴の命を救ったことには感謝する。タオ、そなたにもな」
カリスからの謝辞を受け、タオが恐縮したように会釈を返した。
彼女がこの場を去るつもりだと悟り、エリュースも席を立つ。しかしカリスが向かったのは、ベッドのある部屋の方だった。
後について行くと、カリスがカイの傍に屈み込んだ。ルクによって、カイに付着していた血は既に拭われている。ローブは、まだそのままだ。カリスがその手を伸ばし、眠るカイの頬に優しげに触れる。そうしながら、彼女は静かに細い息を吐いた。
「シアン」
カリスが一言そう言うと、彼女の傍にいたシアンが、待っていたかのように動いた。ルクが奥の戸棚から替えのローブを取り出してきたことで、彼らがカイを着替えさせるのだと気付く。
「タオ、こっちでいよう」
「うん」
エリュースがタオを暖炉の部屋へ促すと、素直にタオは移動した。スバルは椅子に腰掛けたままでおり、仰ぐようにこちらを見ている。
そう待つまでもなく、カリスとシアンが部屋から出て来た。
「今夜はここで過ごすと良い。――ルク、寝床を用意してやれ」
「あい! 奥さま!」
カイの部屋からひょっこりと顔を出したルクが、元気よく声を上げた。
エリュースも彼女に対し、軽く頭を下げた。元よりそのつもりだったが、床に座って寝るよりも、藁の寝床を用意してもらえるのは有難いことだ。
「それって、逃がさないよ、って意味なの?」
一息吐こうとした時、スバルの、また危ない踏み込みの声が聞こえた。
カリスが、少しうんざりした様子でスバルの方に顔を向ける。
「私は翌朝にまた訪れるつもりだが、そなたは逃げるつもりなのか?」
「うーん、別に逃げてもいいけど、やましいことはないし、ここに居ておくよ。……おやすみなさい」
スバルの最後の言葉に、カリスの口角が僅かに上がったように見えた。そのまま、シアンを従えて出て行く。それを見送り、エリュースは今度こそ、大きく溜息を吐いた。
お前のせいで寿命が縮んだ、などと文句を言ってやるつもりでスバルを見る。しかし、さも「面白かったでしょ?」とでも言いたげな、悪戯小僧のような笑みを浮かべて振り向いた彼を見て、エリュースはその言葉を呑み込んだ。こんな奴に言っても無駄だ、と悟ったからだ。
ルクが裏手に駆けていき、エリュースはベッドの部屋に戻った。ルクには寝床を、ここに頼もうと思う。デュークラインの顔には血色が戻ってきているが、目を覚ますまでは気を付けておきたい。それに、とエリュースはカイの傍に寄った。汚れの無い白いローブに包まれ、まるで先程の惨劇とは無縁に見える。
タオが不安そうな顔を隠さず、彼女の傍らに腰を落とした。
「……どんな夢を見てるんだろう」
タオの呟きを聞きながら、エリュースもカイの蒼白い顔を見つめた。タオが見たというカイの様子を思う。タオが声を掛けなければ、カイはどうなっていたのだろう。カリスの言い方から推測すると、まさにその瞬間が、予言が成就しようと動き出す瞬間だったかもしれないのだ。
カイの目が覚めた時、自分たちの知っているカイが、そこにいるだろうか? 自分たちを認識し、微笑みと共に名を呼んでくれるだろうか?
「優しい夢だと、いいんだけどな……」
そうであって欲しい、とエリュースは願った。




