27 暗殺者ザラーム
樹の枝上で、ザラームは息を潜めていた。前回、デルバートに気付かれた場所よりは、離れた位置を選んでいる。馬小屋のある、向かって左側の森の中だ。もしデルバートが裏から出てきても、感付かれることはないだろう。
覆い被さるような樹々の枝葉の隙間から、月が見える。満月の光のお陰で、開けた塔周りが、ここからでもよく見えている。
舞台は整えた。後は、好機を逃さず動くこと。これは、いつだか師が言った言葉だ。下準備は念入りにし、動く時こそ慎重に、動き出せば風のように素早く――。
標的がいる塔を目前にし、今まさに手を下そうと動き出す瞬間だ。こういう時には、いつも師の教えを思い出す。
手にした小型の小剣に黒い粘液を塗り付けながら、ザラームは乾いた唇を舐めた。
盗み働きを繰り返していた十歳ほどの頃、師に拾われたのだ。この名前を良い名だと言ったのは、これまでで師だけだ。齢四十ほどの男で、暗殺の技を教えてくれた。お陰で、今こうして生きている。
修行は厳しかったが、寝床と食べ物を与えてくれるだけで有難かった。何より、師は暗殺に関しては右に出る者がいないほどの腕前だったのだ。彼から学び、彼の技を盗むことに全力で取り組んだ。もう戻らない、懐かしい日々だ。
師は、もういない。ここに流れて来る前に、この手で殺したのだ。暗殺稼業の派閥争いに巻き込まれた時、師は中立の立場を取っていた。しかしザラームの見立てでは、敵方に付く可能性が高かった。師ほどの実力者に追われることになれば、逃げ切れる自信は無かった。
殺せる機会を、見逃すわけにはいかなかった。国を出ることを告げ、最後の思い出にと共に食事を取っている席で、師が酒の替わりを注ぎに立ち上がり、背を向けた瞬間だ。師の教え通りに、素早く行動に移した。愛用の小剣を師の背中に突き立て、振り向いた胸元へ再度突き立てた。絶命する直前、師は笑みを浮かべたように思う。その後、すぐに国を出たのだ。
ザラームは手にしていた小型の小剣を鞘に収め、まだ動きのない塔を見つめた。唆した盗賊たちは、もう森に入ったことだろう。脅かしてやったゴブリンも、疾うに戻って来ている筈だ。デルバートは、きっと迎撃に出てくる。邪魔な護衛がいなくなった後に、娘に会いに行こう。あの金髪の審問官がご執心の美しい娘の胸に、刃を抱かせるのだ。
俄かに塔の方が騒がしくなる。
ザラームは塔から出てきたデルバートの姿を捉え、腰の二つの剣柄に触れた。
* * *
ルクは、落ち着かない気分でいた。
デュークラインたちが出て行ってから、随分と経った気がする。いや、もしかすれば、まだそんなに時は経っていないのかもしれない。
つい、うろうろとしてしまっている。カイを見に行ったり、台所の鍋を掻き混ぜに行ったりだ。
暖炉から鍋を下ろして一息吐いた時、耳の端で高い囁き声が聞こえた。聞き慣れた小妖精の声だ。
見れば、暗闇の中で細かな光を零している。それらは数体現れており、まるで何かを訴えかけているように、腕をこちらに伸ばしている。
「何だ?」
不思議に思い、ルクは小妖精たちの方へ近付いた。
途端、耳の奥が痛くなるほど近くで、騒ぎ立てられる。
「ま、待てって! おでは分からないから、嬢ちゃんに――」
ルクは困り果てた。カイをここまで呼ぶわけにはいかない。しかし小妖精たちはいつも塔の中には入ろうとしないのだ。小妖精たちが言っている言葉を聞き取ろうとしてみるも、やはり難しい。目の前にしている小妖精の目が、苛立ったように更に吊り上げられた。彼らから、光る粉を振りかけられる。
「わわ!」
目がちかちかする。それに対し抗議しようとし、ルクは驚愕した。喋ろうとした口が、動かない。気付けば、彼らに伸ばそうとして動かなくなった自分の手が、光っている。よく見れば、腕もだ。おそらく全身が、小妖精のように光を帯びているのだろう。
何をするんだ、とルクは小妖精に目で訴えた。視界もおかしく、景色が色を失くして揺らぎ、気持ちが悪い。しかし彼らは昆虫のような羽根を羽ばたかせ、離れていこうとしている。慌てて呼び戻そうにも、やはり声が出ない。次の瞬間、ルクは視界に入ってきた人間の姿に驚いた。
声にならない声を上げる。暗闇から生まれたかのように、まるで移動する夜の空気のように、その男は音も無く歩を進め、台所に入ってきたのだ。
村で話しかけてきた男だ、とルクは気が付いた。頭に巻かれた長い布が特徴的な男で、この塔を襲うぞ、と脅してきた男だ。
一瞬、目が合った気がした。早鐘のように鳴る心臓が、喉から飛び出そうに思う。しかし男は視線を移し、辺りを見回すように首を巡らせ、扉の方へと歩いていく。不思議と自分の姿は見えていないようだ。
男の手が扉に掛かり、ルクは焦った。止めなければと思うが、全く体が動かない。デュークラインに知らせるために、叫ぶことも出来ない。
まだ帰ってこないデュークラインたちを歯痒く思いながら、早く、早く、とルクは願った。
* * *
ザラームは慎重に歩を進め、塔への片開き扉に手を掛けた。塔の部屋と繋がっていると思われる暖炉には火が入れられており、そこに掛けられていたと思われる湯気の上がる鍋が傍の台に乗せられている。この台所らしき場所には、人の姿は無い。神経を研ぎ澄ませても、気配も感じない。
少し前、塔から飛び出していくデルバートを遠目で確認した。驚いたのは、それに続いてもう三人、塔を出たことだ。どうやら知らない間に、デルバート以外の護衛が増えていたらしい。
ザラームにとって、それは懸念材料となった。塔の中に、まだ護衛がいる可能性が高い。故に、慎重に様子を窺い、細心の注意を払って、ここまで近付いてきたのだ。
扉を押すと、木製のそれは内側へ動いた。鍵は掛かっていない。誰かがいるからなのか。そう考え、ザラームは暫し迷った。それでも、僅かに開けた扉の傍には、人の気配は感じられない。
あまり時間を掛け過ぎては、デルバートたちが戻ってきてしまう。あの盗賊たちで、せめて四半鐘間(※約45分間)は持たせて欲しいところだが、期待しすぎても良いことはないだろう。
ザラームは扉を押し開け、塔の中に入り込んだ。逃走経路を確保するため、扉は開けておく。片手で抜いた小剣を持ち、壁に背をつけながら、ザラームは奥へと進んだ。
小さな部屋を抜けると、明るい部屋に出た。中央に置かれたテーブルの上には、光源の一つであるオイルランプが置かれている。四人分の背凭れのある椅子があり、振り返れば火の入った暖炉がある。こんな森の奥でと思ったが、それなりに配慮された生活をしているようだ。
隣の部屋の扉は開け放たれている。その奥から、微かな衣擦れの音が聞こえた。
ザラームは、壁に寄った。標的の娘だろう。不思議なことに、傍に護衛が付いている気配が無い。デルバートという男は剣技には長けているのだろうが、護衛に関しては素人のようだ。攻撃は最大の防御だと信じる武人なのだろうが、ザラームにすれば、いっそ間抜けと言っても良かった。
表への扉を確認せず、ザラームは素早く行動に移した。デルバートは裏から出て行ったのだ。前の時も、裏から出てきていた。となれば、おそらく扉には常時、鍵を掛けている可能性が高い。
部屋に踏み入り、標的を探す。充分な明るさで満たされた室内で、それは容易いことだった。正面のベッド上に、黒髪の娘が座り込んでいる。目が合った瞬間、怯えた表情を見せたその娘を、ザラームは飛び掛かるようにしてベッド上に押し倒した。
「ァ……!」
小さな苦痛の声が、娘から上がった。極上の暗闇のような瞳と、目線を合わせる。片手でベッドに押し付けている胸元に、期待した膨らみは小さめだ。それでも、その顔は期待した以上の美形だった。
あの審問官が執着するのも、納得できる。
一目見て、ザラームは大主教の塔で見た肖像画を思い出していた。細かな部分は違った気もするが、おそらくは、あの絵の女なのだろう。きめ細かい肌質に加えて色白で、それが黒髪と同様、瞳を際立たせている。長い睫毛に縁取られた瞳を覗き込むと、不安と怯えが窺えた。
大主教の女を秘密裡に殺そうとするとは、これは審問官と大主教の権力争いなのだろう。そうザラームは納得した。この娘は、その争いに巻き込まれて死ぬのだ。一般には可哀相な娘となるのかもしれない。しかし、ザラームの心は動かなかった。彼が死を届ける相手は、大抵こういう者たちだからだ。
「あなた……、だれ?」
震えている形良い小さな唇が、それに見合った小さな声を零した。少し舌足らずな喋り方が、娘を年齢よりも幼く感じさせる。
「命をもらう。あんたに恨みはないがな」
そう言うと、娘は細い眉を僅かに顰めた。
ザラームは抑えつけた手をずらし、白いローブの右肩口を引き下げる。リュシエルが言っていた、右鎖骨の下辺りにあるという痣を確認するためだ。しかしそこに見えたのは、引き攣れた皮膚だった。人為的と思われる焼き痕は、胸元全体に広がっているようだ。そのせいで痣は焼き消されたようになっているが、依頼の女で間違いはない。
ザラームは眉間に皺を寄せ、体を強張らせている娘を見つめた。既に自分の力ではどうにもならない渦に、この娘は巻き込まれていたようだ。
同情は、無用。
師の教えが、ザラームの頭に浮かんだ。
手にしている小剣を、逆手に持ち替える。触れている娘の体が、更に強張ったのが分かった。
「――デューク……っ、たす……、」
目に涙を溜めながら娘が、誰かを呼んだ。泣き叫ぶかと思いきや、その言葉は途切れる。娘が自らの唇を噛み、その目は強く閉じられた。
そんな娘を前に、ザラームは刃の切っ先を、娘の胸に近付ける。刃がまさに沈み込もうとしたその時、ザラームは近付いてくる気配に気付いた。駆けてくる足音は一人だ。盗賊たちが全滅するには早すぎる。誰かが先に戻ってきたのだろう。
舌打ちし、ザラームは娘の胸元から刃を引いた。
迫る足音は既にすぐ近く――裏口にまで来ている。今、この娘を殺すわけにはいかなくなった。この娘を人質にし、退路を確保する必要があるからだ。
娘を引き上げ、ザラームはベッドを降りた。自力でまともに立っていられないのか、ふらつく娘の体を片腕で支えて抱え込む。
開けておいた裏の扉が、存在を主張するかのように、大きな音を立てて閉まったのが分かった。
「カイ!!」
部屋に飛び込んできたデルバートを認め、ザラームは小剣を娘の首元に突き付けた。
肩で息をしているデルバートが、目を見開き動きを止める。既に剣を抜いている彼の右手の甲に、血管が太く浮き上がった。
「動くな、デルバート。でなけりゃ、この生っ白い首が切れるぜ」
「貴様は――大主教の塔にいた下働きの……ザラ、だったか」
「ザラームだよ。あんたの勘は正しかったな」
血相を変えているデルバートを見るに、この娘はよほど大主教にとって大事な女らしい。
「デューク」
不安げに、娘がまた先程の単語を口にした。それに反応するように、デルバートの視線が娘に向かう。
「大丈夫だ、カイ。そのまま、動くな」
どうやらデュークというのはデルバートのことらしい。カイというのは、娘の名なのだろう。
「今すぐ、その娘を放せ……!」
デルバートの様子には、焦燥すら窺える真剣さがある。
ザラームは、腕の中の娘に人質としての価値があることを確信した。
「この娘の命が惜しかったら、ゆっくりと左手側から入ってきな」
「お前に従った後、娘を放す保証はあるのか?」
鋭い目に見据えられ、ザラームは背筋を走る悪寒を堪えた。数日前にも感じたが、デルバートの発する気配には、ただならぬものを感じる。向けられる殺気だけで殺されそうに思うほどだ。
「従えないなら、今すぐ殺す」
そう言いながら、ザラームは小剣の刃の腹を娘の首に押し当てた。肌に、僅かに食い込ませる。刃が鋭いため、娘が下手に動くだけで切れかねない状態だ。
「止せ!」
焦りを帯びたデルバートの声が上がった。言葉を詰まらせるようにして、剣を持たない左手をこちらへ向けている。その手が引かれ、強く握り締められた。
ザラームはデルバートと睨み合いながら、じりじりと移動を始めた。小剣に込める力は緩めたが、こちらの本気は充分に伝わっているのを確信していた。この人質は有効だ。しかし、時は限られている。外に出ている護衛が戻って来ない内に、娘を殺し、ここを出なければならない。
全神経をデルバートに向けながら、半ば娘を引きずるような形で進む。ザラームが部屋の外に出ると、対するデルバートは、ベッドを背にしている状態になった。
そのまま、追ってくるデルバートを牽制しながら、ザラームは距離を取りつつ裏口へと向かう。暖炉の部屋を抜け、小さな部屋に入ると、あと数歩で外という位置にまで来た。外への扉は、デルバートによって閉じられている。
「おい、ここを開けろ」
腕の中の娘に命令すると、怯えきった瞳が見上げてきた。刃を向けて再度言うも、動きそうにない。少し足りないのではないかと思うくらいだ。
苛立ちに任せて首を掴めば、デルバートから制止の声が上がった。
「カイ。構わないから、そこの扉を開けるんだ」
娘にゆっくりと告げたデルバートが、娘からの視線に応えるように頷く。すると驚いたことに、娘がゆっくりと扉に手を伸ばした。その動作を妨げないよう立ち位置を調整しながら、扉を開けさせる。
「あんたには従順だな」
半ば感心しながら、ザラームは再び娘を固く捕まえた。後ろに足を引いて外に出ると、中とは違う空気が肌に触れる。冷たさと暖かさが混ざり合った、半屋内ならではの空気だ。
「嬢ちゃんを放せ!!」
「なッ!?」
突然間近で声が聞こえた直後、ふいに足元に強い衝撃があった。驚いたと同時に噛み付かれたような鋭い痛みを感じ、バランスを崩す。子供のような小さな体格の者に片足に食らいつかれながらも、ザラームの体は驚きに麻痺せず動いていた。重心を自由な足に移し、倒れそうになるのを堪える。そして再度元の足に重心を置くと、もう片方の足で蹴るようにして引き剥がし、斬りつけた。その際、片腕で捕まえていた娘から体が離れてしまう。捕えていた腕が緩んでしまったのだ。
「しまっ……!」
「カイ! 来るんだ!」
娘を呼ぶデルバートの声が、即座に飛んだ。
「デューク……!」
倒れ込みそうになりながら、娘がデルバートの方へ駆けていく。
ザラームの体は今回も反射的に動いた。空いた左手で、投射用の小剣を抜く。それを逃げる背に向け、投げ付けた。
* * *
デュークラインは剣を手放し、カイに両腕を伸ばした。小剣が投げられた微かな音を捉えたからだ。引き寄せるようにしてカイを抱き留めると同時に、体の位置を入れ替える。
デュークラインはカイを抱き込んだまま、その場に倒れ込んだ。うまくいけば無傷でやり過ごせると期待したが、背に鋭い痛みを感じ、そうならなかったと悟る。
ザラームに飛び掛かったのは、ルクだろう。微かにルクの叫び声が聞こえたが、生きているかどうか――。
「デューク!?」
「……大丈夫だ、このまま、私に引っ付いていろ」
下敷きにしたままではと、デュークラインは体を起こしてカイを抱き上げた。しかし膝を立てる前に、顔の横に小剣が突き付けられる。デュークラインはカイを抱き締めたまま、動きを止めざるを得なかった。
「大した男だ。だが、これで終わりだな」
ザラームの言葉は、誇張したものではなかった。彼の言うとおり、動こうとすると背中に激痛が走る。何らかの毒が塗られていたのか、刺された部分が燃えるように熱い。
足元に落ちていた剣は、ザラームに蹴られ、遠ざけられてしまった。
「誰の差し金だ?」
デュークラインは座り込んだまま、ザラームに問いかけた。腕の中で震えているカイの頭を、胸に押し付けて撫でてやる。どうにかして落ち着かせてやりたいが、この状況ではどうしようもない。毒に関しての知識は乏しいが、この毒が相当厄介なものだということは体感的に分かる。痛みの他に視覚にも異常を来たすのか、物がぶれて見え始めた。
ここから形勢を逆転させることは難しい、とデュークラインは思わざるを得なかった。自分が満足に動けない以上、カイを奥に逃がしたとて、ザラームに捕まってしまう。盗賊を相手にしているタオたちが帰ってきてくれるまで、少しでも時間稼ぎをしなければならない。
ザラームからの返答は無かった。
カイの腕を掴んで無理矢理に引きずり出そうとする行為を、渾身の力で振り払う。突き付けられていた小剣で腕が斬られた感覚があったが、デュークラインは構わずカイを抱き込んだまま立ち上がり、傍の壁に向かった。倒れ込む形になりながらも、なんとか自身の左肩を壁に押し付け、持ち堪える。そのまま左手で壁に頼りながら壁伝いに移動し、床に膝をついた。右腕で胸元に抱え込んでいるカイを、体全てで覆い隠す。
毒が痛みを伴い、徐々に体中に回っていくのが分かる。小剣が突き刺さったままの背中から、呼吸するごとに痛みの強さと範囲が増していく。斬りつけられた右腕からの血がカイのローブを染めていくが、今はカイを離さないでいることしかデュークラインは出来なかった。
「カイを殺したいなら、先に私を殺せ……ッ」
「そうするさ」
腕の中のカイにも、この状態が伝わっているのだろう。見上げてくる怯えた瞳からは涙が溢れており、この名を呼ぶ声も震えている。極度の不安と緊張に晒しているこの状況から、一刻も早くカイを出してやりたい。それを自分自身ではどうにも出来ないことが、酷くもどかしい。
「ま、待って……!」
胸元から、か細い声が、上がった。
「わたしが、殺されるから……! だから、デュークを殺さないで……ッ」
「カイ!?」
体に縋るようにして、カイが立ち上がろうとしている。
デュークラインは驚き、カイを抱く腕に力を込めて自身の胸元へ押し戻した。それを拒むように、カイが首を振って顔を上げる。カイの涙に濡れた瞳が複数にぶれて見え、其々《それぞれ》に自分が映り込んでいる。
「わたしが、殺されればいいの。それで、いいの……」
カイの浮かべた儚げな微笑みに、デュークラインは一瞬、言葉を失った。
「デュークが死ぬのは、いや。嫌なの、デューク。だってデュークは、わたしの一番、大切な人だから」
「カイ……」
どうしようもなく、胸が詰まる。毒の痛みだけではない痛みが、指先にまで来ている。その震える手で、デュークラインはカイを掻き抱いた。
「お前は馬鹿か……! こんな男を庇おうとするんじゃない……ッ、こんな――ッ」
大主教から護ってやれない、女主人には逆らえない。こんな情けない男を、この娘は命を懸けて庇おうと言うのか。
向けられた真っ直ぐな想いから、デュークラインは目を逸らせなかった。こんな純粋な瞳で、大切だ、などと、言われて良い立場ではないのだ。それでも、この胸に沸き上がっている想いは、確かに存在してしまっている。
死なせたくない。
生きて欲しい。
幸せになって欲しい。
――何よりも愛おしい。
「安心しろ。すぐに一緒にさせてやる」
ザラームの淡々とした声が、背中の向こうから聞こえた。
カイが泣きながら、腕の中から出ようとしている。デュークラインはそれを、全身で押し留めた。
ザラームが小剣を振り上げたのを、音と空気の動きで知る。
デュークラインは両目を強く閉じた。相手は小剣使いだ。一振りでこの首は落とされないだろうと思う。この体が完全に力を失う前に、この意識が失われる前に、タオたちが戻って来てくれることを、デュークラインは切に願った。
「やめて、やめて……ッ、デュークを殺さないで――!」
泣き叫ぶカイに、腕を振り切られる。
「カイ!」
信じられない力に驚くも、デュークラインは壁を背に立ち上がったカイに慌てて腕を伸ばした。
その直後、強大な魔力の放出を間近に感じた。背中の向こうで、耳を劈くような叫び声が上がる。
振り返ったデュークラインは、広がった光景に目を疑った。そこには、全身から血を噴き出させながら崩れ落ちていく、ザラームの姿があった。