25 忍び寄る影
僅かに鎧戸を上げた窓から、寒々とした夜空が見えている。流れていく雲の隙間に、ザラームは月を見つけた。あと数日もすれば、満月だ。
アルシラを出て、九日が経った。ここまでは結構な強行軍で、この村に着いた時には疲れ果てていた。体力には自信があるつもりだったが、先を行く馬の脚は驚くほど速く、それを駆る男も、滅多なことで手綱を緩めることがなかったのだ。怪しまれないよう神経を使ったことも、疲れた要因ではあるだろう。
このケーラという村に来ることになったのは、暗殺対象である娘の手掛かりを追ってのことだ。あの異端審問官であるリュシエルに依頼を受けた後、ここに辿り着くまでは長い道のりだった。不定期ながらも依頼主には報告をしているが、やっと進展のある報告を送れるだろう。
どうにか村の酒場で宿を取ったが、今は極度の空腹状態だ。朝になれば何か食べなければ――そう思いながら、ザラームはベッドに寝転んだ。ようやく掴んだ有力な手掛かりは、この近くの森にある筈なのだ。追ってきた男――デルバート・スペンスを見失ったのは、この近くだ。長年培った勘が、この森が怪しいと言っている。
ザラームは下りてきた瞼の裏で、アルシラでのことを思い起こしていた。
転機は、九日前の早朝、緩やかに訪れたのだ。
――九日前。
ザラームはいつものように、大聖堂横の庭端を歩いていた。水を入れた桶と布を片手で抱え、もう片方の手には箒だ。擦れ違う司祭たちは、頭を下げる自分のことは見て見ぬ振りをする者が多い。ただ、声をかけてくる人物というのも、僅かながら存在するものだ。
「今日は良い天気だな、ザラ」
聞き覚えのある声に、そう声をかけられた。しかし、敢えてそちらは見ない。すると、腕に軽く触れられた。
顔を上げて見ると、どこか愛嬌のある目の司祭が足を止めていた。教団本部の二階に執務室を持つ、アンセル司祭だ。
「最近は、廊下で会わんな。配置が変わったのか?」
「ええ、この奥の大主教様のお住まいを」
「ほぅ」
驚いたように目を丸くしたアンセルが、感心したように笑った。
「お前の真面目な態度が気に入られたかな」
「そうであれば、良いのですが」
そう言い、ザラームは笑みを返した。
この奥にある大主教の住まいである塔付き館の掃除を担当することになったのには、多少の仕掛けがあった。四か月前、この教団関係の下働きをまとめて統括しているギルドに、伝手を通じて入り込んだのだ。耳が悪いという触れ込みをしてもらったため、現れた異国の男に、ギルドマスターは眉を顰めた。しかし、言葉などは聞き取れないが、音が鳴っていることは分かる。仕事の指示も、顔を見せて話してくれれば唇を読める。そう説明すると、胡散臭そうな顔をしながらも、伝手のお陰か頷いてくれた。そうして教団本部の掃除人として働きながら、建物内の捜索と、『娘』の情報収集をしてきたのだ。
しかし『娘』の情報は、何も上がらなかった。この教団本部や別館の建物に、リュシエルが言うような娘は働いていない。人を隠すような部屋は、おそらく無い。大聖堂付属学校の地下にある牢にいるのは、異端審問院ではなく教団本部に捕らえられた者たちだ。面白いことに、異端審問院と教団本部は互いに対抗意識があるらしく、どちらが裁くかということも問題になるらしい。
「では、またな」
アンセルが、片手を軽く上げて去っていく。彼が教団本部の建物に入っていく姿を、ザラームは見送った。
アンセルには、廊下の掃除をしている時に腹の虫が鳴った際、菓子をもらったことがある。あの柔らかく甘い菓子は、世辞を言う必要もなく美味かった。司祭の妻が作ったものなのだという。
菓子を作った妻のことを口にしている司祭の顔を思い出すと、胸やけがしそうだ。そう思いながらも、またあの菓子を食べる機会があったなら、おそらくまたすんなりと腹に収まるのだろうなと思う。
小さく溜息を吐いてから、ザラームは再び奥へと歩き始めた。
見えてきた館を眺めながら、ザラームは庭を進んだ。館を囲むように草花が生い茂っている、野性味のある庭だ。湧き水で出来ていると思われる小さな池もあり、高い樹々も多い。ザラームにとっては、隠れ場所が多いこの環境は好都合だった。裏手には、この丘を下る出入り口が設けられている。館へ直接物資を運ぶ際に使われるのだろう。当然、そこには常に二人の衛兵が警備している。
この館は、大主教の仕事以外の生活の場なのだ。大聖堂に隠されて表からは見えないが、立派な石造りの建物だ。館自体はそれほど大きくはないが、館付きの塔の高さは、塀を優に超えている。あそこからなら、景色も良いことだろう。
館には数人の身元が確かな使用人が抱えられており、大主教の妻も共に住んでいる。一度だけ会ったことがあるが、元はエラン王側に付いた伯爵の令嬢らしい。着ているドレスも豪奢なもので、その振る舞いには贅沢に慣れているのが見て取れた。大主教はアルシラの領主も兼ねているため、当然といえば当然の暮らしぶりなのだろう。
他の使用人に挨拶をしながら、ザラームは裏口から館内に入った。前に忍び込んだことのある貴族の館と、遜色ない内装だ。正確な価値はこちらが上かもしれないが、ザラームには興味がないことだった。
ザラームは、館から繋がっている塔への扉を押し開いた。自分が働く場所は、ここだ。ここは大主教専用の場所であり、奥方でさえ、立ち入ることが出来ないのだという。出入りしていたのは、前任の掃除人の女だ。若いとは言えないが、そこそこの美形で、塔内の掃除を一人でしていた。その女の家を突き止め、食事に少しずつ毒を盛り、体調を崩させたのだ。女が使い物にならなくなり、替わりの掃除人が必要になった。誰でも良いというわけではない。そこで、自分に仕事が回ってきたのだ。
耳の障害があるザラを前に、大主教は正面から話しかけてきた。そこでザラは、彼が話したことを復唱したうえで、「でも今、お声を出されておられなかったのではありませんか?」と返したのだ。これで、大主教はザラを使う気になった。彼にしてみれば、ザラを呼ぶ時や指示を出す時には顔を向けて話せば良いし、聞かれたくない話をしている時には、唇を読ませなければ良いのだ。
ザラームは塔の階段を上り、大主教の私室の扉を叩いた。入室を許可する声の代わりに、手持ち鐘の高い音が聞こえる。ザラームはそれを聞き、重い扉を押し開けた。中に体を入れて扉を閉めると、肌に温かな空気が触れてくる。下げていた顔を上げれば、壁に埋め込まれている暖炉には、既に火が入っていた。
大主教は、正面の執務机で書き物をしているようだ。こちらを一瞥しただけで、声をかけてくることはない。いつものように、黙々と掃除することを望んでいるのだろう。
ザラームは棚を拭きながら、俯き気味に室内を眺め見た。相変わらず、金をかけた内装だと思う。足元には毛足の長い絨毯が敷かれており、執務机の向こうには、小さな窓が作られている。鎧戸のそれは今は上げられており、早朝の冷たい風が緩やかに入り込んできている。時折、肌寒さを感じるほどだ。
俯いて掃除をしている今は見ることが出来ないが、執務机を使っている大主教の左側の壁には、女の肖像画が掛けられている。奥方とは違う女だというのが面白いところだ。この上の部屋にも幾つかの女の肖像画などの絵画があるが、その一つを選んで飾っているところを見ると、あれは大主教のお気に入りの女なのだろう。自分が見ても、確かに一目拝みたいほどの美形だと思う。
執務机より入口への壁には立派な本棚があり、高価そうな本が並んでいる。緑がかったガラス製のグラスや、金や銀色のゴブレットが飾られている棚もある。盗賊にとっては垂涎ものに違いない。
何度か、大主教がいない機会に恵まれた。引き出しにあった手紙の束を確認するも、封緘されていては読むことが出来なかった。仕事上の紙類に目を通してみても、特に目当ての情報はなかった。隠し部屋があるかと思い、調べたが、それらしき部屋もない。
ただ、この塔の最上階の部屋には、妙な違和感を覚えた。他とは違い、簡素な部屋だ。殆ど何も置かれていない小さな部屋で、天窓からは青空が見えた。差し込む光を受け止めているのは、物言わぬ薄い絨毯だけだ。絨毯の端が六か所、黒塗りの杭で打ち付けられている。それは動かすなと言われていたため、怪しんで少し捲ってみたが、特に床に何があるわけでもなかった。
リュシエルが指定した期限まで、あと一か月を切っている。彼の目星が外れていたという可能性もある、そうザラームは考え始めていた。
ふいに、硬い足音が階段を上がってくる音を、ザラームは捉えた。そのうちに、扉が特徴的に叩かれる。素早く二回、遅れて一回。
「入って良いぞ」
大主教の声が掛かった。
部屋に入ってきたのは、くすんだ銀髪の男だった。身長は高く、引き締まった体付きだ。金糸で刺繍がされた、紺色のマントを羽織っている。
ザラームは記憶の中を探り、大主教の侍従の一人であり、甥でもあるデルバート・スペンスだと確信した。ここで侍従の姿を見たのは初めてで、少なくとも彼は、ここへの立ち入りを許されているらしい。
確か、元ノイエン侯爵という妙な肩書を持っており、そのくせ月の半分以上は里帰りをしているらしく、アルシラでは滅多に見ることのない男だ。だから、てっきり大主教も身内可愛さで侍従に残しているだけで、放置している放蕩息子ならぬ甥かと思っていた。しかし、この間の光誕祭で初めてじっくりとデルバートを見た時には、その考えは間違っていたかもしれないと思った。人の性根は、目を見れば大体は分かる。デルバートの目は、何も考えていない奴のものではないと、ザラームは思った。強い信念のようなものを、感じたのだ。それは、主たる大主教に対する忠誠心なのかもしれない。しかも、ここに出入りすることが許されるほどの信頼を、大主教から得ているのだ。
ザラームは仄かな期待を胸に、何食わぬ顔で屈んだまま掃除を続けた。邪魔に思われ、追い出されては適わない。
「済まなかったな、発つ前に。オールーズから帰ったばかりで疲れておるだろうに」
「いえ、叔父上のお顔が見られて良かったですよ」
親しみのある声が、互いから掛けられた。
ここに来て初めて、ザラームは大主教の素の声を聞いた気がした。
「それで――」
「ああ、あれのことだがな」
「叔父上!」
大主教がそう言った瞬間、慌てたようなデルバートの視線がこちらを向いたのが分かった。背を向けていても、僅かながら殺気が感じ取れる。一体どういう男なのだと思いながらも、ザラームは慌てずに、さも大声で呼ばれたかのような顔をして、デルバートを振り返った。
見上げたデルバートの瞳は、マントの色よりは少し明るいと感じる色だ。そんな彼の右手は、剣柄にかかっている。
「デルバート。その男なら心配要らぬ。耳が悪い男でな、音は聞けるが、話を聞かれる心配は無いのだ」
「そうなのですか」
そう言ったデルバートの視線は、懐疑的だ。それでも、大主教の手前なのか、それ以上の追求はされなかった。
「ザラ、あっちを向いて、自分の仕事をしておれ」
顔を向けて言った大主教に、ザラームは素直に返事をして背を向けた。内心ほっとしたが、それを表に出さないよう努める。
「それでな、デルバート。今後は、あれの髪を切るな」
「伸ばせと仰るので?」
「ああ。女らしくな」
彼らの話を聞き、大主教の言うあれが、人を示しているのだと分かった。しかも、それは女のようだ。
暫しの沈黙があった。
「何故と、お聞きしても?」
「そのままだ。髪を伸ばせば、少しは女らしくなるであろう?」
「それは、それなりには、なるでしょうが……」
デルバートの返答は、歯切れの悪いものだった。
「あれは、母親に似てきた。体は見られたものではないが、あの顔だけでも充分。あれには、赤い色がよく似合う。どんな艶のある顔をするのか、楽しみだ。そうは思わぬか? デルバート」
「さて、私には……。ですが叔父上、あれは、叔父上の――」
デルバートの言葉は、途切れたまま紡がれなかった。大主教が彼をどういう顔で見ているのかは分からない。それでも、デルバートが小さな溜息を吐き出し、言葉を呑み込んだことは感じ取れた。
「私が、口を出すことではありませんでしたね」
そう言い、デルバートが僅かな笑い声を零した。
「それでは叔父上は、あれをお手元に置かれると?」
「あれは、あそこからは出さぬよ。死ぬまで、いや、死んでも出すつもりはないのだ。私が死ぬまでは、あそこで私の物として生かしておく。その後は、ヴェルグに始末を付けさせる。お前も結婚すれば、今のようにあれに割く時間も無くなるだろう。もうあのゴブリンだけでも、あれの世話は充分だからな」
大主教の話を聞きながら、ザラームは娘の存在を確信していた。あの異端審問官は、大主教に囲われている女に手を出したのか。それとも、大主教の方が後から攫ったのか。どちらにせよ、囲われたままになるのなら死んでいるも同然かと思ったが、他者の物になるなら殺してしまいたいと願うのは、分からないでもない。アスプロスとやらの大主教といっても所詮、世俗の者と変わらぬ欲望に忠実な男のようだ。どんな高尚な肩書を持っていても、人間の本質は、そんなものだろうと思う。
「私のことも配慮して下さるとは、有難いことです。ですが叔父上、来年の冬までは、このデルバートにお任せ下さい。何かあれば、ヴェルグの手を煩わせずとも、私が適切に処理致します」
「勿論だとも、デルバート。お前ほど頼りになる者はおらぬからな」
そう言った大主教が、楽しげに笑った。
「オールーズとの縁談が纏まれば、姉上もお喜びになるだろう。姉上はお前を呼び戻したいのだろうが、私としてはこのまま、お前に傍にいて貰いたい。どうしたものかな?」
「そのことについては、今はまだ……。来年の冬まで、返事の猶予をいただければと」
「分かっておる。お前のその生真面目さは、昔から変わっておらぬわ」
「ありがとうございます」
交わされる会話は、和やかに終わった。
ザラームはようやく得られた有力な情報に、次にするべきことを頭の中で組み立て始めていた。大主教は、発つ前にと言っていたのだ。デルバートはこれからアルシラを発ち、娘の元へ行くかもしれない。
「気を付けてな。姉上によろしく伝えてくれ」
「畏まりました」
移動するタイミングで見てみれば、デルバートが一礼をして出て行くところだった。彼の姿を隠して、扉が閉まる。また、大主教と二人だけになった。
ザラームは逸る気持ちを抑え、掃除を終えて部屋を出た。もう長々と他の部屋を掃除している暇は無い。デルバートを見失うわけにはいかないのだ。
庭に出た瞬間、背後に微かな殺気を感じた。と同時に、剣が自分に向かって振られるのが分かる。
ザラームは、咄嗟の判断で反応しないことを選んだ。渾身の努力で、自身を無の境地に落とす。僅かな筋肉の緊張も、起こさなかった筈だ。
暫くして、剣が鞘に収められた音が高く響いた。わざと大きく音を立てたと思われるそれに反応し、ザラームは振り向く。そこに立っていたのは、先に辞した筈のデルバートだった。彼の表情からは、怖ろしく感じるほど、感情が読み取れない。
「何か、ご用でしょうか」
顔を見ながら穏やかにそう言うと、デルバートからは「用はない」とだけ返ってきた。そのまま、彼は立ち去って行く。
ザラームは忙しなく動く自らの鼓動を感じながら、乾いた唇を舐めた。
恐怖にも似た衝動に押され、ザラームは目を開けた。冷たい風に目を向けると、窓の隙間から曇り空が見える。朝が来ていたのだ。どうやら、夢を見ていたらしい。
「――最悪の寝覚めだ」
あの時、自分の対応が少しでも間違っていたら、確実に斬られていた。そう、思う。
髪を搔き揚げ、いつものターバンで纏め上げる。
ザラームは手早く身支度を整え、剣帯の小剣を指先で撫でた。
森に入って驚いたのは、そこに古いながら石畳の馬車道があったことだ。しかしそれに沿って歩くことを、ザラームは避けた。まるで用意されているような道を行くのは、逆に気持ちが悪い。視界が良いということは、相手からも見えやすいということなのだ。
馬車道を横目で見ながら森の中を進むと、開けた沢に出た。水のせせらぎに見下ろせば、川が見える。その向こうの崖上から微かな音が聞こえ、ザラームは素早く傍の岩に身を隠した。不規則な水音が続くことから、崖上から石の欠片が落ちているのだろう。
そっと岩影から崖上を見上げると、遠目ながら二頭の獣が見えた。一頭は犬なのか狼なのか、どちらにせよ、大きさは子牛ほどある。白と灰色が交じり合った毛色で、両耳はぴんと立っており、垂れた尾は長い。その狼犬に首元を噛まれているのは、これまた大きな鹿と思われる獣だ。噛まれた首や体からは、血が滴っている。長い脚は力無くぶら下がっているように見え、おそらく既に息絶えているのだろう。
ザラームは冷や汗を掻きながら、その犬に見つからないよう息を潜めていた。魔物が出るかもしれないという警戒のもと、なるべく明るい内にと森に入ったのだ。小さなものなら何とか倒せるだろうが、あれほど巨大な獣を相手にするつもりは端からしていない。あれは、おそらくは魔獣の類だ。
ザラームは、ただ時が過ぎるのを待った。待つことには慣れている。慣れていなければ、命を落としたであろう場面は数え切れないほどだ。
どれだけの時が経っただろう。そろりと岩影から視線を向けると、そこにはもう、魔獣の姿はなかった。
* * *
「ねぇ、シアン」
小さな声が掛かり、シアンは読んでいた本の文字から目を離した。
傍のベッドで丸くなっていたカイが、目を覚ましている。隣の部屋の暖炉に火は入っているが、少し寒いようだ。毛布を抱くようにして、彼女が体をゆっくりと起こした。痛みを感じているのかは、分からない。
漆黒の瞳が、窺うようにして自分を映している。
「今朝、言っていたのは、本当?」
「今朝、ですか?」
何のことだろう、とシアンは思った。
今朝方にここに来ると、デュークラインが椅子に座って目を閉じていた。昨夜遅くに帰ってきたらしい。そんな彼に、そういえば何か話した気がする。
「こんやくしたんですか、って」
「ああ! そのことですね」
女主人から、デルバートに縁談が来ていることを聞いたのだ。オールーズ侯爵の次女で、偶然にもカイと同じ年齢の娘だという。デュークラインは移動中以外は毎日のように、カリスと水鏡を通じて連絡を取っており、彼の行動や置かれている状態は、逐一報告されているのだ。その内容を聞くことはあまりないのだが、カリスも侯爵の強引さに少し困っているのだろう。デルバートを結婚させるわけにはいかないのだから。
「ただの噂ですよ。デュークラインも、取り合っていなかったでしょう?」
ただ揶揄うつもりで言ったのだが、少し彼の機嫌が悪かったのだろう。そのまま「掃除に出る」と言い、出掛けていったのだ。
納得出来ないように、カイが首を少し傾げた。
「こんやく? って、何?」
不思議そうに問うカイに、シアンは彼女に向き合った。
「婚約、というのは、結婚の約束をすることですよ」
「けっこん?」
「結婚というのは――夫婦になることです。大切な人と、ずっと一緒にいるために」
話しながら、シアンは恋人のことを思っていた。二人の間で、結婚の約束もしていたのだ。それなのに、もう彼女の声を聞くことも、ましては触れることも出来ない。夢から覚めると、悲しい現実がいつも待っているのだ。もう懐かしさを感じるほどの年月が経ってしまったが、それでも時折、無性に寂しさに襲われる。
ルクの足音が近付いてきたことに気付き、シアンは振り返った。ルクの目が、興味深そうにしている。
「何の話をしてる?」
「結婚、と、夫婦、についてですよ」
「おで、知ってるぞ!」
得意げに、ルクが言った。そのまま、ベッド脇に座り込む。朝の洗濯が終わり、休息の時間なのだろう。
「旦那さまと奥さまは、結婚してるから、夫婦だろ」
「ええ、その通りですよ」
正解を褒めるように頷いてやると、ルクが嬉しそうに目を細めた。
そんなルクに、カイが身を寄せる。
「夫婦って、何をするの?」
「何って――、おでが見たことあるのは、旦那さまが奥さまを抱き締めたり、口と口を――もがっ」
「それ以上は、いけませんよ、ルク」
シアンは素早く、ルクの口を両手で塞いだ。一体どこで見たのだか、どちらに知られても殴られそうなものを見ているものだ。
手をどけようと暴れるルクに、顔を寄せて微笑んでみせる。旦那様は見られたことを嬉しく思っていないでしょうね、と囁けば、ルクは素直に大人しくなった。
「それじゃあ……」
呟くようなカイの声に、シアンは彼女に視線を戻す。
顔を上げた少女のような娘は、嬉しそうに微笑んだ。
「デュークとわたしは、結婚してるんだ。じゃあ、ずっと、一緒にいられる?」
「え? え、カイ、それは――どういう、」
シアンは、カイが何故そんなふうに考えたのか、分からなかった。こちらの動揺が伝わったのか、カイが不思議そうな顔をする。
「だって、デュークは、抱き締めてくれるし、口付けも、」
「ちょ、っと待って下さい。口付けられたんですか、彼に」
思ってもみなかったカイの告白に、シアンは驚きと共に混乱していた。素直な様子で頷いたカイに、今すぐデュークラインを問い詰めたく思う。
「違うの? じゃあ、デュークは、誰か別の人と、結婚するの?」
悲しそうな目で見つめてくるカイに対し、シアンは宥めるように微笑みながら首を振った。
どう説明したものだろう。今の時点では、デルバートが結婚をすることはない。しかし、事情が変わることも無いとは言えない。あの男は、女主人に命令されれば、その通りに動かざるを得ない男なのだ。
その時、外の湖の方から、水を跳ね上げるような音が聞こえた。その音に反応したように、ルクが慌てて駆けていく。
腰を上げて鎧戸が上げられている窓から外を覗くと、晴れ間の下、湖から上がってくるデュークラインが見えた。
シアンはカイを落ち着かせてから、閉じられている裏口を開けて台所へ出た。血の臭いが鼻をつき、出てきた扉をしっかりと閉める。見れば、ルクが獣の皮を剥ぎ、肉を切り分けているところだった。感心するほど、手際良く捌いている。
「大物ですね、ルク」
「ああ、これで、冬の蓄えが増えるぞ」
嬉しそうに言ったルクが、視線を外へ向ける。そこには、全裸のデュークラインがいた。自分とは大違いな鍛えられた体躯には、ペンダントだけが掛けられている。濡れた全身を布で拭いている彼に近付くと、彼が顔を上げて振り向いた。解かれている髪も濡れており、毛先から雫が滴っている。いつもよりも鮮やかに見える藍色の瞳が、仄かに光を帯びているように見える。そんな彼の口元には、僅かな血の跡があった。
「口元に、残っていますよ」
そう指摘すると、デュークラインの手が血を拭う。それを舌で舐め取ったデュークラインに、シアンは一瞬、背筋に冷たいものが走ったことを自覚した。
「どうした」
「いえ、その……貴方に確かめておきたいことがありましてね」
怪訝そうな目をしたデュークラインが、濡れた髪を片手で掻き上げた。近くの台に置かれている黒曜石の指輪が、彼の右親指に戻される。その宝石は、まるでカイの瞳だ、とシアンは思った。
せめて下半身を隠すまでは待とうと思い、シアンは彼から視線を逸らした。さすがの彼でも、寒さは感じているだろう。こうして暖炉から少し離れただけで、凍えそうなのだ。冷たい湖に身を浸すなど、想像しただけで身震いが来る。
シアンの思考を察したのか、彼の足元に脱ぎ捨てられていた下着が、彼の手に取られた。それが履かれ、細い腰ベルトで固定されたことを目の端で確認し、シアンはデュークラインに向き直る。黒いホーズ(※足先から太腿までを覆う履き物)が右足から順に履かれているが、彼の重心は揺らがない。そのホーズの上部の紐が左右とも、腰のベルトに吊り止められた。
「それで?」
頭に布を被せて髪を拭きながら、デュークラインに問われる。
シアンは意を決し、口を開いた。
「貴方、カイに口付けたのですか」
そう問いかけると、デュークラインの動きが止まった。眉間の皺を深めた彼が、見つめてきている。
「カイが、貴方に口付けられたから、貴方と結婚していると」
「何故そうなる」
「夫婦のすることを説明するのに、そう言ったからですよ。ルクが」
保身のために、ルクの名を付け加えた。
デュークラインの視線がルクの方へ向けられたが、シアンはそれを引き戻すべく、続ける。
「口付けたのは、事実なのですね?」
確認すると、デュークラインが片手で頭を抱えるようにして、溜息を吐いた。
「薬が無かった時に、私の魔力を与えただけだ。カリス様も知っている」
「では、その一度だけ?」
その問いには、沈黙が返ってくる。
それには、シアンも溜息を吐いた。
「嬉しそうでしたよ」
「なに?」
「貴方と結婚していると、言ったあの子は」
言いながら、シアンはデュークラインの表情の変化を見ていた。感情を悟らせまいとしているのだろう、彼の目元と頬が、緊張を帯びている。
「それで、どうした」
「カイはまだ誰とも結婚していない、と教えましたよ。貴方もあまり罪なことをしないでください。あの子だって、随分と娘らしくなりましたし――」
そう言った時、デュークラインの目が鋭くなった。
「お前まで、そんなことを言うのか」
「え? 貴方だって、分かっているでしょう? あの子の成長は驚くほどじゃないですか。髪が伸びればもっと、」
「女らしくなる、か?」
嘲るように言ったデュークラインに、シアンは驚いた。デュークラインの苛立ったような表情に、口を噤む。
「あの男も言っていたぞ。カイを自分のものにするとな。死ぬまでここに囲っておくから、髪を伸ばせと」
「何ですって? ですが、カイはあの男の――」
「ああ、おそらくな。だが、そんなことはあの男にとっては、何の障壁にもならんのだろう。母親に似てきたと笑っていた。あんな、男に……ッ」
デュークラインの骨張った手が、石壁に押し付けられた。力が込められているのが、甲に浮き出た血管で分かる。
「分かっているとも、シアン。私が一番よく、分かっている。自分の立場も、忘れたことはない」
「デュークライン……」
「だが、私は――」
話している途中で、ルクがデュークラインを呼ぶ声がした。見れば、裏口を出たところで、カイが蹲っている。
「カイ!」
デュークラインの反応は早かった。傍に駆け寄るデュークラインに、シアンも続いた。
彼女の傍に、一人で移動する時に使っている木の杖は落ちていない。おそらく杖なしで、歩こうとしたのだろう。
「無茶をするな。歩く練習をするなら、先に私を呼べ」
「ごめんなさい……」
膝をついてカイの怪我が無いことを確認しているデュークラインに、カイの細い腕が伸びた。その手が、デュークラインの肌に縋るように触れる。彼を見上げたカイの濡れた瞳からは、涙が零れ落ちていた。
「デューク。どうしたら、ずっと一緒にいてくれるの?」
「カイ?」
「すぐに、一人で歩けるようになるから。わたしを、置いていかないで。誰かと、結婚なんて、しないで。わたしが、死んじゃうまでは、傍にいて」
不安と悲しみに震える声に、シアンは胸の痛みを覚えた。カイは自身の病のことを、分かっているのだ。
「そんなに、長くないと思うの。だから……」
「カイ。カイ、おいで」
哀しい言葉を止めるように、デュークラインの大きな手がカイの濡れた頬を撫でる。脆弱な体を抱き寄せ、そのままデュークラインがカイを抱き上げた。泣き止まないカイの頭を優しげに撫で、肩口に凭せ掛けている。細い両腕が遠慮がちに彼の首に回されると、それを促すように、デュークラインの頬が漆黒の髪に触れた。
「大丈夫だ。お前の傍にいる。結婚などしないから、安心しろ」
「本当?」
「ああ」
迷いの感じられない返事を、カイも同様に受け取ったのだろう。デュークラインの肩口から顔を上げたカイが、儚げに笑った。
カイは賢い子だと、シアンは思っている。デュークラインがカリスの命令で動いていることは、理解しているのだろうと思う。このデュークラインの言葉も、簡単に覆るものだと知っているのだろうか。そう思うと、シアンは一層強く、胸の痛みを覚えた。知っているからこその微笑みなのだと、感じたからだ。
「デューク。外に出たい」
「このまま?」
「服を着ていいよ」
そう言ったカイに、デュークラインの頬が緩む。可笑しむようなその表情には、確かな慈しみが込められているように見えた。
塔の前庭に出ると、どこからか小妖精たちが現れた。デュークラインに草地に下ろされたカイが、嬉しそうに彼らに手を伸べる。厚手の毛布を巻かれたカイの周りには、小妖精たちが集まっていく。
デュークラインは森側にあたるカイの右傍らに腰を下ろし、彼女たちを眺めているようだ。シアンはカイの左側で、雲間の青空を見上げた。雲の動きが早い。もしかすれば、今夜は雪が降るかもしれない。
デュークラインが言いかけていた先の言葉は、何だったのだろう。今更聞ける雰囲気でも無く、シアンは黙ったまま、カイの横顔に視線を向けた。
美しくなった、と思う。この娘がデュークラインのことを慕うのは、雛が初めて目にしたものを親だと思う刷り込みのようなものなのだと思っていた。しかし先程の様子を見て、考え直す。親子ほど年の離れたような男に、カイは初めての恋をしているのかもしれない。その切っ掛けは知るよしも無いが、それはデュークラインからの口付けだったのかもしれないと思う。
女主人は、知っているのだろうか。あの方は、これを許すのだろうか。彼女がカイをどうするつもりなのかを、自分は知らない。デュークラインも未だ聞いていない様子だ。このいたいけな娘が、あの非道な男に汚される。そんなことは、デュークラインでなくとも、到底許せることでは無い。
「シアン」
「はい?」
突然、デュークラインに声をかけられた。カイ越しに見れば、彼はこちらを向いてはいない。彼の視線は、森に向けられているようだ。
彼が腰を浮かせ、腰の剣帯に下げられた剣柄を掴んだ。
「デュークライン」
声をかけても、返事はない。
彼も確証が得られないのか、それ以上は動かない。カイに気付かせたくないのか、最小限の警戒態勢だ。
暫くして、デュークラインの手が、剣柄から離れた。
「気のせいか……?」
独り言のような呟きに、シアンは胸を撫で下ろす。
「梟にでも、見つめられていたのでは?」
「……それならいいが」
デュークラインの返答は、警戒を解いていないものだった。彼がカイに腕を伸べ、素直にそれに応じた彼女を抱き上げる。
「戻るぞ。シアン、急がないなら、飛ぶのはもう少し後にしろ。私は少し辺りを見て来る」
「貴方がそう言うなら、そうしますよ」
野生の勘とも言うべきデュークラインのそれは、信用に値する。
誰の姿も見えない森を振り返りながら、シアンは大人しく従うことにした。