24 魔明かしの香
二鐘の音が鳴り響いた余韻が、晴れやかな青空に響いていく。冷え込みはするが、風が吹かなければ陽射しの暖かさを感じることができる、心地の良い日だ。オールーズ侯爵の城下町は、まさに今日の目出度い日に相応しい様子だった。
門の傍の市場では威勢の良い声が聞こえており、そこには仕立ての良い服を着た者たちがいる。城で行われる、宴の準備に追われているのだろう。城へと続く石畳を、清掃している者たちも見える。
エイルマー・ファーマンは、そんな爽やかな光景を眺めながら、口元を歪めた。ロバに背負わせた荷物と共に、衛兵のいる町の門を通り抜けたところだ。昼から城で催される宴に招待されており、朝早くから村を出てきた。領主であるオーべ・ランデルの長男マシューの成人を祝う宴で、内外から客を呼んでいるらしい。胸の内にある興奮からか、寝不足の割に不思議と眠くはない。
エイルマーは、今日、一つの計画を持っていた。一度は苦渋を舐めさせられた相手を、今日こそは追い詰め、討ち果たすためだ。
通常ならば、村の助祭などに声はかからないのだろう。しかしエイルマーには、伝手があった。二年ほど前に領内で流行り病があった時、薬草の知識を買われ、薬師と協力したことがあったのだ。その時のことを恩義に感じてのことなのだろうと思われる。今回の宴の取り仕切りを任されているドゥエインの家族も、病に倒れていたのだ。
エイルマーはロバの手綱を引き、城へと歩み始めた。
今回の招待は、運命の導きのようにも感じている。噂によると、侯爵の次女とノイエン公爵の長男が婚約したらしい。ノイエン公爵といえば、大主教の姉を娶っており、教団との繋がりが強い人物だ。そんな家と繋がろうとするオーベ・ランデルは、権力志向の強い男なのだろう。
「デルバート・スペンス……」
心の底から、憎らしい名前だ。
エイルマーは、名を口にした唇を噛み締めた。
十年ほど前、突然帰ってきたデルバートを名乗る男が、大主教の侍従に取り立てられた。彼の周りの者たちは本物かどうかを疑いながらも、大主教が受け入れたことで納得していったようだった。しかし、エイルマーはどうにも払拭出来ない影を、デルバートに感じていた。唐突に自分の上に立った十ほど若い男に、嫉妬が無かったとは言わない。しかしそれを差し引いても、デルバートという男に、得体の知れないものを感じたのだ。
仕事終わりに暗くなりかけの道を一人で歩いていた時、丁度、宿舎に戻るらしい初顔の男を見掛けた。それがデルバートだったとは、後から知ったのだ。侍従の宿舎は大聖堂の丘から下ったところにあり、高位の聖職者が多く住む区画にある。塀のある入り口には番犬が繋がれており、その犬は人や動物に見境なく吠えるのだ。嬉しくて吠えているのではないことは、その声で嫌でも分かる。吠えられないのは、餌を与えている宿舎の者たちや、長く侍従を務めている者くらいなのだろう。
エイルマーは何とはなく、また吠えられて可哀相に、くらいの気持ちで遠目で見守っていた。案の定、犬の唸り声がしたが、その後が続かない。男の驚いた悲鳴も、犬の吠える声も、全くしないのだ。塀の陰から覗き込むと、男が犬を見下ろしていた。男の手が翳されると、犬は怯えたような声を上げて後退った。その時の男の目を、エイルマーは見たのだ。薄暗い中で、僅かに光を帯びているように見えた。それは背筋がぞっとするような、光景だったのだ。
あれは人間ではないと、エイルマーは思った。きっと魔物が化けているのだ。デルバートの名を騙り、何か悪いことを企んでいるに違いないのだ。
大主教にデルバートを傍から離すよう進言したかったが、直接話せる機会など、一介の司祭にある筈もなかった。あの頃は大聖堂の儀式で使う香を用意する係の一人だったが、大主教の尊顔を仰ぐことは、稀に起きる奇跡のようなものだったのだ。
そんな中、魔明かしの香と呼ばれるものがあることを知った。邪気を持った異質なものにだけ苦痛を与えるという、触れ込みの香だ。香を取り寄せる際に発注してみれば、いつもの香と共に海を越えて届いたのだ。それは、小さな箱に入った練香だった。まさに天啓だと思ったものだ。これで、あの怪しい男の正体を暴ける。そう、信じた。
しかし結果は、この様だ。
目の前にした城を見上げ、エイルマーはロバに積んだ荷に手を添えた。
今日の宴に、デルバートは招待されている筈だ。あれから十年、香の研究を重ねるには、充分な年月だった。残っていた香を分析し、改良を重ねてきたのだ。それを使える日が、とうとう、やって来たのだ。
尊大な顔をして、何も知らずにデルバートはやって来るだろう。宴には城の騎士もおり、外は衛兵が警備をしている筈だ。皆の前で醜悪な正体を明かしてやれば、逃げ場も無い。証人も多く得られる。この功績で教団から請われ、中央に戻ることもできるかもしれない。
逸る気持ちを抑え衛兵が立つ城門を潜ると、案内係の男が出迎えてくれた。
まだ時間は早いというのに、ドゥエインが従僕に仕事を言い付けていたのだろう。こうして早く到着してしまう客のために。
「早くからすまないね。ドゥエインに、エイルマーが来たと伝えてくれないか」
誰なのかと思っているだろう案内係に、エイルマーは招待状を見せてやった。
「よく来てくれましたな! エイルマー助祭」
通された一室で暫し調度品などを眺めていると、少し恰幅のある男が慌てたように入ってきた。招待状を送ってくれた男で、今回の宴の取り仕切りを任されているドゥエインという男だ。準備もほぼ終わっているようで、新しく仕立てたような見栄えの良い服を着ている。年は同じ程の筈だが、彼の髪はまだ残っており、薄い前髪が横に撫でつけられている。十年前は自分もそうだったと、エイルマーは嫌なことを思い出しそうになった。
「あの時は、本当にお世話になりました。お陰様で、妹は嫁に行けましたので」
「それはそれは、目出度いことだ」
丁寧に礼を述べられ、エイルマーも笑顔で応じた。
流行り病にかかっていた彼の妹が快方に向かったのは、薬草の効能だけではなく彼女の天命なのだと思う。明るい空色の瞳の娘で、ドゥエインとは随分と年が離れていたと記憶している。病に倒れている時の外見はやつれていたが、その内に彼女本来の若さと活力を取り戻せたのだろう。その彼女の明るい話に、エイルマーは素直に嬉しく思った。
「ところで、今日はお偉いお客様方も来るのだろうか?」
遠回しに、エイルマーは尋ねた。
すると、ドゥエインの頬が、誇らしげに高く上がる。
「それはもう、一番遠いところで言えば、カークモンド公爵様がいらっしゃいます。奥様からは、幾ら使っても良いから失礼のないようにと、そう仰せつかっておりますので」
「ほぅ、それはすごい」
カークモンド公爵といえば、この半島の最南端の要所を領地に持つ大貴族だ。父親の代から武闘派の貴族としても有名で、まだ大主教とエラン王が手を携えていた時代には、数々の戦で功績を上げたのだという。天然の港があり、貿易と漁業が盛んだと聞いている。海から来る行商人たちがアルシラの市に向かう際に必ず通る町があるため、異国の物や人に溢れているのだそうだ。それに加え、鉄鉱石が取れる鉱山も抱えており、有能な鍛冶屋も多いと聞く。アルシラから司祭が数人送り込まれているのは、大主教領から離れているがために影響力が及びにくいことを懸念してのことだろう。鉱山の町の礼拝堂に派遣されている司祭などは、まさに反逆を危惧しての監視人といえる。鉄鉱石の発掘状況や貿易、他の領主とのやり取りなども監視し、教団本部へ報告している筈だ。
「そういえば、侯爵様のお嬢様がご婚約なされたとか……」
「ああ! マーシャお嬢様ですね。確かに、お嬢様を伴ってノイエン公爵様のところへ行かれていましたが――私どもはまだ、ご婚約されたとは聞いておりませんので」
「そうなのか」
「その内、良い話が聞けると良いのですが。本日、そのお相手の方がノイエン公爵様の名代で来られることになっております」
「デルバート卿、だったかな」
「ええ、よくご存知で」
にこやかに笑みを見せるドゥエインに、エイルマーも笑って頷いてみせた。やはり来るのだ、という思いで、自然と頬も緩む。
「それほどの方々が来られる大事な宴ならば、準備もさぞかし大変だったであろうな」
「それはもう!」
先程よりも語気を強め、ドゥエインが深く頷いた。
「数か月前から準備にかかりましたよ。孔雀係にとっては戦争です。招待客のリストを奥様と作って、奥様の書いた招待状を送るために何人かの従者を旅に出しました。公爵様のところなどは往復で三十日ほどもかかるのですから、何事も早めが肝心なのです。オーベ様たちが宴の際にお召しになられるお衣装の仕立てもありますし、お客様にお出しする料理も決めねばなりません。ようやく四日前に酒や食材が到着して、半日がかりで運び込んだのです」
「それはそれは、想像を超えた忙しさだ」
エイルマーは、ドゥエインを労った。
アルシラの大聖堂にいた頃、大主教と貴族が同席する宴が時折あった。あれはいつ頃だっただろう、確かカークモンド公爵が今の奥方と結婚する際、大聖堂で式を挙げたのだ。その時の宴の準備などは、同じように何日も前から始まった。まだ若かったエイルマーもそれに駆り出された。ドゥエインは自分のように下っ端の役割ではなく、諸々を取り仕切る『孔雀係』なのだから、あの時よりもずっと大変なことだろう。
「では、余興の準備も万端で?」
「ええ。旅芸人の一座を呼びました。数日前から町に入っていますよ。町の皆も、楽しんでいる様子で」
「それは良いな」
芸を披露しながら町や村を転々と移動していく旅芸人たちにとっては、貴族の宴に呼ばれることは良い収入源だろう。おそらく彼らはこの町に何度か来ていて、ドゥエインとも面識があるに違いない。自分のいる村にも、時々やってくる一座がいる。
「ドゥエイン。実は、私も一つ、余興をしようと思うのだがな」
そう言うと、ドゥエインが驚いた風に目を丸くした。
「『奇跡』でも見せていただけるので?」
「いや、珍しい香を作ったのだ。爽やかな気分になる香でな、酒を飲み過ぎた頃に丁度良い」
「それは願ったりで! 飲み過ぎて倒れる者がいなくなりますな。貴方のことも、その時に皆にご紹介しましょう」
なるほど、彼は宴の進行役も務めるらしい。
こちらこそ願ったりなことだと、エイルマーはドゥエインに笑んでみせた。
三鐘が鳴るまでは、まだ時間がある。
エイルマーはドゥエインに案内された部屋に来ていた。主会場となる広間と続きになっている部屋で、そこそこの広さがある。置かれている高価そうな調度品を見ても、客をもてなすための一室なのだろう。窓には色ガラスが嵌め込まれており、聖堂のステンドグラスのように光を透過させている。壁際には横に幅広い椅子が置かれており、そこにも生地の厚い布地が敷かれている。趣向には、最適な部屋に思えた。
エイルマーは室内を見渡し、香炉を置いておくのに最適な場所を探す。万遍なく香を行き渡らせるためには、なるべく部屋の中程が良いだろう。窓際には、フィロの花々が壺に飾られている。花壺を乗せているのは、一本足の丸テーブルだ。陶器の花壺を目立たせるためか、壺の下には細かな刺繍が全体に施された布が敷かれている。狭いテーブルの天板から垂れている布の四方には房が付けられており、金糸で出来たそれは特別な物を乗せるには最適の仕様に思えた。
エイルマーはその花壺を両手で持ち上げ、別の棚に乗せてしまった。そしてテーブルを、部屋の中央に移動させる。さすがに良い職人に作らせているらしく、安定性のあるテーブルだ。思ったよりも重みがあり、ちょっとやそっとでは倒れそうにない。
エイルマーは自らの荷物の中から、香炉を取り出した。それを、テーブルの上に乗せる。金色をした真鍮製の香炉が周りとうまく調和したことに、エイルマーは満足した。異国で作られたらしいこの香炉は、大聖堂の保管庫で見つけたものだ。香炉には、変わった動物たちが形作られている。足の部分では、四頭の動物が長い鼻で香炉を支えており、力強そうな印象を受ける。取っ手になっているのは、また別の動物だ。先輩に聞いたところによると、どうやら東方の神聖な瑞獣らしい。鹿のような角があり、首は蛇のようで、長い体に見える鱗はまるで魚のようだ。虎のような四肢の先には、鷹のような鋭い爪が見えている。蓋部分は一部が透かし彫りになっており、眺めているだけでも目の保養になる香炉だ。この精巧で豪奢な作りの香炉を、エイルマーは特別気に入っている。十年前に香を焚いた時も、この香炉を使ったのだ。
香炉を掌でゆっくりと撫でながら、エイルマーは過去を思い出していた。
十年前のあの時――。
大主教がデルバートを伴い出掛けた先のことだ。
大主教が出掛ける予定は分かるが、デルバートを連れて出るかは、一介の司祭が知ることは難しかった。しかし、所用でデルバートを訪ねてきていたルシアーノ――ノイエン公爵が養子とした現侯爵――も、デルバートを疑いの目で見ていたのだ。それは若いルシアーノの言葉の端々で分かりやすいほどだった。魔明かしの香の話をした時、彼がデルバートの予定を口にしてくれたのだ。
大主教がデルバートを伴って訪れたのは、マーガレットという貴族の未亡人の屋敷だった。アルシラの東隣にある、モニーク公爵領の端にある屋敷だ。彼女は教団に多大な寄付をしているらしく、大主教が彼女の所有する礼拝堂に祈りを上げにいくことは、珍しくないらしい。
その礼拝堂は町の人間も入ることが出来た。故に、エイルマーにも機会があったのだ。
エイルマーは、彼らが祈りを上げた後に礼拝堂の一室で休憩を取ることを知っていた。お付きの司祭たちも共に休憩することが、許されていたのだ。
エイルマーは、司祭たちに給仕する役をしていた。この礼拝堂の司祭に手伝いを申し出て、大聖堂の司祭だということで快諾してくれたお陰だった。
ワインを開け、少量ずつを分け合っている司祭たちの奥で、大主教は用意された肘掛け椅子で静かにワインを飲んでいた。その中で、デルバートは浮いた存在に見えた。大主教の傍らに立ち、ワインに手を付けることもない。時折、大主教が彼に話しかけ、彼が少し腰を屈めて言葉を返すくらいだ。
その彼が僅かに表情を歪めたのを、エイルマーは確かに見た。部屋の隅で香を焚き、ほんの少し経った頃だ。その内に、他の司祭や大主教も匂いに気付き始めた。
「何か、甘い匂いがするな」
「そのようで……」
大主教が言い、デルバートが僅かに頷いた。
「嗅いだことのない香りだ。誰か香を焚いたのか?」
そう言われ、エイルマーは意を決して大主教の前へ歩み出た。腰を落とし、大主教を見上げる。彼の尊顔を真正面から拝したのは、半年ぶりくらいだった。
白いフードを頭から外している大主教は穏やかな表情をしており、その明るい青色の瞳は、微笑んでいるように見えた。
「私が焚いた香でございます。邪気を払う効果があると、聞いております」
震える声で、なんとかエイルマーは伝えた。香炉を床に置くと、後ろから覗いたと思われる司祭たちの、感心したような息遣いが聞こえる。
大主教も、香炉の造形に興味を持った様子を見せた。
「立派な香炉だ」
「異国で作られたもののようです」
ちらとデルバートを見るも、彼は表情を変えずに立っている。
香りが足りないのかもしれないと、エイルマーは思った。このままでは、機会を逃してしまう。このまま大主教の傍にデルバートを居させてまうと、何か良くないことが起こる。そう、思い詰めた。
「大主教様。香りを強めても、よろしいでしょうか」
そう問うと、大主教が怪訝な顔をした。
「これでもよく香っておる。これ以上は――」
「いいえ! そこに居られるデルバート殿に是非とも嗅いでいただきたいのです!」
気が急いたせいか、エイルマーは身を乗り出すようにして、デルバートに向けて香炉を持ち上げていた。背後がざわついたのが分かり、デルバートの眉が顰められる。大主教が肘をつきながら、困ったような顔でデルバートを見上げた。
「どうする? デルバート。お前は邪気を持っているらしいぞ」
「心外ですが、構いませんよ。叔父上 は私の潔白を分かって下さっていますが、彼のような者がいても仕方ありません」
そう言ったデルバートに、大主教が許可するように頷いた。
デルバートがやって来て、目の前でその足が止められる。エイルマーは香炉の蓋を取り、練香を香炉灰の上に追加した。香炭により温められた香炉灰によって、甘い香りが更に強まる。その香炉を持ち、エイルマーは立ち上がった。
エイルマーは、目の前のデルバートを見つめていた。長身の彼を若干見上げる形ではあったが、気圧されないようにと香炉を持ったまま、両足を踏ん張っていた。
どれほどの時が経っただろう。それでもデルバートの表情は殆ど変わらず、匂いがきついと言われればそれまでの、その程度の変化しかない。彼の両腕を見ても力が抜かれているようで、痩せ我慢をしているようにも見えない。
おかしい。この香は紛い物だったのか。
そうエイルマーが思い始めた頃、デルバートが小さな溜息を吐いた。
「もう、よろしいか、司祭。香炭がもう半分ほどだろう?」
「貴方は、この匂いがお嫌ではないのか?」
上擦った声を絞り出すと、デルバートの藍色の目が僅かに細められた。
「嫌いだとも。もともと、香は好かないのでな」
「あ、貴方は、本当にデルバートだというのか?」
「何度も、そう言った。戻ってから何度もな」
「では! もう一粒足して――」
デルバートが潔白だということに納得出来ず、エイルマーは足掻こうとした。更に香りを強めようとしたのだ。その時、強く肘掛けを叩いた音が響いた。見れば、大主教が眉間の皺を深め、立ち上がっている。
「いい加減にしろ。これほどの甘ったるい臭いなど、これ以上嗅いでおられぬわ……!」
静かに言い放たれた言葉には、確かな怒りが込められていた。その視線は、自分を通り越した司祭たちにも向けられた。
「もう分かったな。デルバートは紛れもなく私の甥だ。これ以上の無礼は許さぬぞ」
「仰る通りでございます。疑うなど、私どもは全く……」
司祭たちは一様に平伏した。先程までは、黙って事の成り行きを見守っていた彼らに、エイルマーは唇を噛み締めた。
「帰るぞ」
大主教が歩き出し、他の司祭たちが慌てて立ち上がった。慌てて外へ出て行く者もいる。その大主教の歩みは、エイルマーの傍で止まった。
「お前の名前と所属は」
立ち尽くす傍で名を聞かれ、エイルマーは震えあがった。大主教はこちらを見てもいない。声が震え、思わず喉を押さえた。
「エイルマー・ファーマンと、申します。大聖堂で香の係を」
「ならば、旅支度をしておくがよい」
大主教から掛けられた言葉に、エイルマーは香炉を抱き締め俯いた。その意味が分からないほど、馬鹿ではない。残り少ない前髪が乱れて顔に掛かったのが分かったが、直す気力もなかった。
「デルバート、行くぞ」
「は」
部屋を出ていく大主教に続こうとしたデルバートが、ふと、出した足を止めた。
「エイルマー殿」
呼びかけられ、顔を上げる。
そこには、こちらを見ているデルバートがいた。感情の見えない表情だ。
「貴方はとても変わった趣味をお持ちのようだな」
そう言った彼に、息を吹きかけられた。少ない前髪が吹き飛ぶように揺れ、髪を狙われたのだと知る。
屈辱を受けたことにショックと怒りで動けずにいると、デルバートの表情に変化があった。藍色の瞳が細まり、不敵な微笑みが浮かんだのだ。
そのまま、デルバートは横をすり抜けるようにして、部屋を出て行った。
エイルマーはもう無くなってしまった前髪部分を撫で、思い出した怒りで唇を噛んでいた。あの後、上役である司祭から呼び出され、大聖堂での職務を解かれたのだ。大主教直々に通達があったらしく、一体何をしたのかと問い詰められたが、答えられるものではない。デルバートの正体を、結局は暴けなかったためだ。
お陰で、地方の村の小さな礼拝堂の助祭として食い繋ぐはめになり、十年になる。この香炉は、アルシラを追い出される時にそのまま持ち出してきたのだ。
鐘の音が聞こえ始める。待ち望んだ、三鐘の音だ。
エイルマーはこの室内の物を動かさないよう、部屋の外でいた従僕に伝えた。
招待客が揃い、大きな暖炉のある広間で宴が始まった。
少し前にやってきたデルバートは、貴族然とした姿で現れた。従者こそ連れていなかったが、ノイエン公爵の名代としての自覚はあるらしい。藍色のコット(※丈長のチュニック型の衣服)の上に黒のサーコートを羽織り、銀と青い宝石で飾られたベルトをしていた。馬でやって来た時は金糸で縁取りされた黒のマントを両肩に掛けていたが、今は従僕に預けているようだ。
迎えた侯爵とその息子に招待の礼と祝いを述べ、デルバートは掌大の箱に納められた何かを贈り物として渡していた。次に、アルシラの東にあるモニーク公爵からの贈り物が、侯爵たちに渡った。モニーク公爵は体調が優れず、欠席とのことだ。自分が渡したのは集めた薬草だけだが、貴重な物をまとめたつもりではある。
エイルマーは向かい合って座っている者の隙間から、上席を覗いた。デルバートは、こちらに気付いていない様子だ。末席にいる者の顔など確認していないのだろう。
あれから十年経った彼の顔は、それなりに年を取ったように見える。あの時よりも、落ち着いた貫禄すら感じられるのだ。まるで若者が月日を経て成熟したかのように思われ、エイルマーは首を振った。うまくそう見えるよう、細工しているに違いない。用意周到な魔物だ。
一段高く作られている上席には当然ながら、侯爵と長男マシューも座っている。その隣には、カークモンド公爵だ。武闘派と言われても納得できる、がっしりとした体格をしている。デルバートと並ぶと、彼よりも背が高い。自分よりも年上の筈だが、暗い金髪はまだしっかりと残っている。口や顎の髭が短く整えられているのは、彼がマメなのか、従者がよく気が付くのだろう。
デルバートは、そんなカークモンド公爵の隣に座っていた。時折二人が会話をすることがあるが、基本的には公爵が話しかけ、デルバートが答える形に見える。こうして見ている分には、公爵は意外と気さくな性格のように思われた。噂では、デルバートの帰還には公爵が関わっていたらしい。
もう片方の隣には、侯爵の次女であるマーシャが座っている。こちらも、マーシャが話しかけ、それに対してデルバートが相手をしているような様子だ。得体の知れない異物である筈の男が取る態度にしては、おこがましいものだと思う。加えて、二人は親子ほども年の差がある。貴族間の結婚では珍しくもないのだろうが、この結婚を進めるべきではないとエイルマーは強く思った。
次々と料理が運ばれてくると、周りの皆が声を上げた。見事な孔雀の羽根飾りがされた一皿には、エイルマーも驚いた。それからも、焼いた魚や肉が、次々と運び込まれてくる。全ての料理は、まず城主である侯爵とマシュー、カークモンド公爵、デルバートの前に持っていかれた。そうして料理が上席に披露された後、それぞれの長テーブルに置かれていくのだ。
カークモンド公爵の後ろを見れば、控えているのは彼が連れてきた従者のようだ。見ていると、どうやら彼は毒見役も兼ねているらしかった。公爵のゴブレットに新しいワインを注ぐのも、その従者の役目らしい。
エイルマーは、自分のゴブレットに注がれているエールを舐めた。皿替わりの分厚い黒パンの上に焼かれた魚を取り、かぶり付く。ソースがたっぷりとかかっているそれは、普段口にする味よりも随分と濃厚だった。
テーブルに囲まれた中央では、旅芸人の余興が始まった。吟遊詩人の歌や軽業師たちのお陰で、広間の客たちは良い具合に盛り上がって楽しんでいる。その様子を眺め見ながら、エイルマーはこの後が待ち遠しく、それでいて四肢に震えがきていた。年甲斐もなく興奮しているのだと思う。これを神の導きと言わずして何と言おう。再び出会うことになるなどと、デルバートは露ほどにも思っていないに違いないのだ。
興奮を抑えようとするあまり、エイルマーは魚の身を取り落としてしまった。しまった、と思い足元を見ると、大きな犬と目が合った。静かにテーブルの影に座っていた犬だ。驚いている内に、落とした魚は、あっさりとその犬に食べられてしまった。顔を上げて見渡せば、他にも何頭かの犬がいることに気付く。無駄に吠えないことから、よく躾をされているようだ。おそらく侯爵の猟犬なのだろう。この犬がデルバートに近付けば、何らかの行動が見られるかもしれない。しかし、そんな幸運を待ってはいられない。
やはりデルバートの化けの皮を剥がすのは、このエイルマーしかいないのだ――そう意気込みながら、エイルマーはゴブレットを挟む形で両手を握り締める。そして苦いエールを、また少し、舌先で舐めた。
宴もそろそろ終盤だ。
余興を終えた軽業師たちも、同じテーブルについて食事を取っている。
そんな中、ドゥエインが侯爵とマシューの間から声を掛けたようだ。マシューが、隣のカークモンド公爵に話しかけている。眉を上げた公爵が、二十一歳になったばかりの年若いマシューに笑みで応えた。隣のデルバートにも声がかかったようだ。
マシューが立ち上がり、皆を見渡すようにして口を開いた。
「皆さま、あちらの部屋で特別な趣向の用意がございます。食事が終わった方は、ぜひご移動下さい」
少し緊張気味の声は、それでも若者らしい素直さが表れていた。
マシューに促され、公爵たちが立ち上がる。それを見て、エイルマーはそっと席を立った。
エイルマーが色ガラス窓の部屋に入った時には、それなりの人数が室内で寛いでいた。酒が入っていることもあり、長椅子に座っている者や、花を愛でている者、話に夢中になっている者もいる。エイルマーが入ってきたことには、特に注視していない様子だ。
その中で、デルバートは香炉の前でいた。背を向けている彼の傍にマーシャはおらず、おそらく用足しにでも行ったのだろう。
「見覚えがおありですかな」
背後から声をかけると、僅かにデルバートが反応したのが分かった。
振り返った彼の表情には、確かな驚きが浮かぶ。それを見て、エイルマーは興奮を表に出さないよう努めた。
「お前は確か――」
「エイルマー・ファーマンです。デルバート殿」
そう告げると、デルバートの眉尻が僅かに上がった。
「――ああ、叔父上がお怒りになった、あの時の男か……」
「覚えていて下さって光栄です」
そう言った時、奥からマシューがやって来た。ドゥエインも一緒だ。
「ご紹介します、デルバート卿。皆様にも」
爽やかな笑顔でマシューがデルバートを見上げ、デルバートが許可を出すような頷きを返した。
「このエイルマー助祭は、薬草にとてもお詳しいのです。二年ほど前には、薬師と協力して町の皆を救ってくれました」
「ほぅ、流行り病を抑えた功労者は、エイルマー殿だったのか」
そう声を上げたのは、カークモンド公爵だ。
「噂で耳にしたが、その頃には終息したと聞いていてな。なるほど、優秀な薬草士のようだ」
「お褒めいただき、恐縮です」
エイルマーは気を良くし、香炉の方に手を伸べた。前にいたデルバートが、その場を退く。そのまま、集まってきた人々の後ろへ行こうとする彼を、エイルマーは許さなかった。
「デルバート卿」
そう呼び止めると、デルバートの足が止まった。
「これから、良い香りの香を焚きます。爽やかな気分になる香ですよ。特に貴方には、味わっていただかなければ」
「私は香が嫌いだと、以前に言った筈だが」
振り返ったデルバートの気配を感じながら、エイルマーは香炉の蓋を開けた。腰に付けている袋から香炭を取り出し、用意良く火を持ってきてくれたドゥエインに礼を言いつつ、香炭に火を付ける。
「今度はあの時のような失敗はしませんよ。貴方のために作ったようなものですのに、そう言われては悲しいですな」
わざと周囲に聞こえるように言えば、他の貴人たちが噂をし始める。
「エイルマー殿は、デルバート卿とお知り合いでしたか」
「以前、お好みに合わない香を焚いてしまいましてな。いつか挽回する機会をと願っておりました。この機会を与えて下さったオーベ様やマシュー様には、御礼のしようもございません」
声をかけてきたマシューにそう言えば、彼の自尊心にも響いたようだ。
「そういうことでしたら、デルバート卿。いかがでしょう、エイルマー殿の香を少しだけでも試されては。このマシューの顔を立てていただけませんか」
純真そうな顔をしている若者を、ノイエン公爵の名代として来ているデルバートには無碍に出来ないのだろう。
「分かりました。少しだけなら」
マシューに対して笑みを向けながら、デルバートがそう言った。
エイルマーは、火のついた香炭を香炉灰の中に入れた。火が消えてしまわないよう、注意が必要だ。その近くに、練香を置く。温められた香炉灰により、香りがふわりと立ち上がった。
「これは……なるほど、スパイスの効いた仄かな香ですね。確かに、爽やかな感じがします」
好みの匂いだったのか、マシューがそう呟いた。それを受け、周りの者たちも次々と同じような感想を口にし始める。
「どうですか? デルバート卿。以前のものは知りませんが、これならば、なかなかの物だと私は思います」
マシューに声をかけられたデルバートが、少し遅れて彼に笑みを向けた。一見、表情は変わらない。しかしエイルマーは、デルバートの変化を見逃さなかった。彼の右手が握られ、指輪をした親指の爪が人差し指に食い込んだのだ。
「確かに、良い出来ですな。しかしやはり私は香自体が――」
そこまで言ったデルバートが、口を噤んだ。エイルマーが再び香炉の蓋を開けたせいだろう。何食わぬ顔で、エイルマーは練香を追加する。香りが一層強まったが、他の者たちに不快に思う者はいないようだ。
エイルマーは、十年前の失敗を繰り返さないよう熟考してきた。二つ目の香は、一つ目と調和するように作ったものだ。効能は二倍に、しかし与える香りはバランス良く変化させる。まさに、十年越しの成果なのだ。
デルバートの表情に、明らかな変化が表れた。眉根を寄せた彼の顔色が悪い。
「どうしました、デルバート卿」
それに気付いたマシューが、心配そうにデルバートに声をかけた。
「お顔色が悪いようです。ご気分でも?」
「いえ、」
歯切れ悪く答えたデルバートに、今までの余裕は見られない。
エイルマーは、高揚する気持ちを抑えながら彼を見つめた。
明らかに、効いている。そう確信せざるを得ない。
ここでデルバートが部屋から出ようとするなら、皆に効能を高らかに語ってやれば良いのだ。そうすれば、デルバートはここから出られなくなる。出れば認めたことになるからだ。おおよその香の持続時間は、四半鐘間(※約45分)弱で、今の状態を観察するに、それまで持つとは思えない。
もしデルバートが正体を明かし、それが恐ろしいものだったとしても、皆のいるこの場ならば逃げようがある。ここには、武闘派と謳われるカークモンド公爵もいるのだ。
エイルマーは一歩下がり、目だけを動かしてカークモンド公爵を探した。大柄な彼の姿は、すぐに見つかった。壁際に背を預けており、傍にいる一人は彼の従者のようだ。公爵の視線は、中央のデルバートやマシューに向けられているように見える。デルバートの不審な様子や、周りにいる者たちが彼を心配し始めたことに、気が付いたのだろう。
エイルマーは改めて、デルバートに近付いた。
「いかがですかな、デルバート卿。お顔色が優れないようですが?」
「結構な香だ……だが、最近は忙しすぎて疲れていてな」
「貴方のお体には合わないと、そう仰るので?」
挑発してやれば、デルバートが鼻を鳴らすようにして笑った。ここまで追い込まれていても、まだ痩せ我慢を続けるつもりらしい。今にも倒れそうではないのか、そう思った時、高い女の声がかかった。
「まぁ! デルバート様! まだここにおられましたの!」
いつ閉め切った部屋に入ってきたのか、割り入ってきたのはドレスを着た女だった。侯爵の娘のものほどではないが、品の良いドレスだ。
デルバートが彼女を見て、少し掠れた声を上げた。
「――エラ殿」
「デルバート様、お嬢様が先程からお部屋で待っておられますわ。お手伝いをして欲しいことがお有りになるのですって」
どうやら、侯爵の娘の侍女らしい。急かすようにデルバートを見上げている。
「――ああ、分かった」
そう答えたデルバートを逃すまいと、エイルマーは慌てた。しかしエラと呼ばれた女がマシューに軽く頭を下げ、マシューも笑って頷いてしまう。
「これ以上デルバート卿をこちらに留めていては、姉上に叱られてしまいますね。女性は出来るだけ、怒らせないに限ります」
「それには同意しますよ、マシュー殿」
口元だけで笑みを浮かべたデルバートが、マシューと言葉を交わした。まだ若いマシューには、デルバートを疑うことなど思いもよらないのだろう。女の助けに乗り、女を理由に逃げようとするなど、狡猾な男だと、エイルマーは思った。真に潔白と言うならば、たとえ体調が悪くとも留まるべきではないか。女が機嫌を損ねたとて、男の沽券に関わるのだと言えば良い。そう出来ないのはやはり――。
「では失礼する。エイルマー殿」
そう言い、脇を抜けるようにして、デルバートが去って行く。それを止める手立ては、もうなり振り構わず、マシューや皆に効能をぶち撒けるしかない。
エイルマーは意を決し、デルバートに手を伸ばして引き留めようとした。
「まっ――」
「エイルマー殿」
その時、自分にかかった声があった。
知らない人物だったが、貴人が殆どのこの場では、無視をする訳にはいかない。
自分よりは若そうなその男は、人の良さそうな笑みを浮かべた。内緒話をする時のように、少し顔を近づけてくる。
「私の主人が、貴方の薬草の知識に興味があるようです。是非とも、貴方の知識の深さをお知りになりたいと仰られておりまして……」
「私の、知識の深さを?」
「ええ。それによっては、取り立てることも考えておられるご様子で。ああ、私の主人というのは、あちらにおられるクラウス様なのですが」
「――公爵様が……!」
男の言葉は、エイルマーを一瞬、迷わせた。その間に、侍女に連れられたデルバートが部屋を出たことを示す扉の音が、耳に届いた。
「さ、エイルマー殿」
「あ……、は、はい」
エイルマーは、なんとか返事をした。折角のところで逃してしまったという後悔が、胸に押し寄せている。しかし、この貧乏暮らしから逃れられるかもしれないという期待が、今はこれ以上、この場でデルバートを追うことをエイルマーに断念させていた。
マシューは既に別の者と話をしており、完全にこの余興は終わったも同然の雰囲気だ。
「今、参ります」
公爵の従者に促され、エイルマーはまだ落ち着かない気持ちのまま、香炉の傍を離れた。




