21 父からの手紙
ぼんやりとした心地で、サイルーシュは目の前に見える綺麗な顔を眺めていた。月光石の仄かな灯りに照らし出されている漆黒の瞳が、夢見心地に細められる。その目から涙が静かに溢れ出し、頬を濡らしていくのを、声も出せずに見ていた。苦しげに細い眉根を寄せた彼女に見つめられている筈なのに、自分の向こうに別の誰かを見ているような、そんなふうに感じる。
「――おかあさん」
カイの口から、掠れたような声が零れた。胸元で両手を組んでいる様子は、まるでこの胸に縋ることを自ら留めているかのように見える。カイの声は、小さく、震えを帯び、今にも泣き叫びそうに揺れた。
「ごめんなさい、おかあさん……ごめんなさい――」
繰り返される謝罪の言葉に、目頭が熱くなってきた。堪らず腕を伸ばして抱き寄せると、カイの手が、ようやく胸元に触れてくる。それでも、随分と遠慮がちな動作だ。
今がまだ夜中なのか明け方なのかは分からないが、デュークラインを呼んだ方がいいかもしれない。そう思い起き上がろうとした矢先、肩に大きな手が触れた感覚があった。
驚いて視線を上げれば、デュークラインに覗き込まれている。月光石の仄かな光を含んだ藍色の――夜の空のような――瞳を細め、彼が自身の口元に人差し指を当てた。
「そのまま……頼む」
潜めた声で言われ、サイルーシュはゆっくりと重心をベッドに戻した。
今のカイは、夢と現実の狭間にいるのだろう。デュークラインに慌てた様子が見られないことから、これはよくあることなのだと思う。いつもは彼が同じようにして、あやしているのかもしれない。
優しく抱き締めたカイの髪や背中を撫でていると、彼女の震えが徐々に治まっていく。
そのうちに、胸元から微かな寝息が聞こえ始めた。
デュークラインに、礼を言われた気がする。そのまま再び眠気に襲われ、サイルーシュはそれに抗わず、目を閉じた。
顔に当たる仄かに暖かな眩しさに、サイルーシュは目を開けた。羊皮紙を通し、外の明るさが室内に差し込んでいる。寝返りを打って壁を見れば、いつだかの収穫祭で買ってもらったタペストリーが見えた。陽光を受け、鮮やかな色彩を現している。見慣れた、いつもの自分の部屋だ。
アルシラに帰ってきてから、あの時の夢をよく見る。あの後、目が覚めると、既に目が覚めていたらしいカイに微笑みかけられた。大丈夫かと聞いても、不思議そうに小首を傾げられるだけだった。涙の跡を目元に残しながらも、彼女自身は全く覚えていなかったのだ。
あの朝、カイと二人で掌に乗るほどの小さな花冠を、複数個作った。その一つはルクの頭に、もう二つは二頭の馬に、そしてもう一つはロバのレティに。ルクが飛び跳ねて喜び、朝のパンを焦がしそうになったことを思い出す。
花冠は、持ち帰ることは許されなかった。小妖精の息のかかった花であり、今、咲く筈のない花もあったからだ。色鮮やかな思い出だけが、この胸に残っている。
カイはどうしているだろう。
サイルーシュは、別れ際のカイが見せた、寂しそうな微笑みを想った。
塔を去る時には、おそらくカイが居られる限界の庭の端にまで出てきて、見送ってくれた。わざわざデュークラインから下ろしてもらったうえで、抱き締めてくれたのだ。抱き締め返した細い体の頼りなさに、脳裏に残っている胸元の火傷痕も相俟って、泣きそうになるのを堪えたことを思い出す。
その時、扉を軽く叩く音がした。
「ルゥ。少し、話せるか?」
「お父様? ええ、大丈夫よ」
目元を拭い、サイルーシュは立ち上がる。
身支度を簡単に整えた後、扉を開けてサイラスを招き入れた。
* * *
大聖堂騎士サイラスの執務室で、タオは少し手持無沙汰の状態でいた。部屋の主が帰ってくるのを、待っているのだ。
今日はサイラスの言いつけで、ダルムート通りの作業場の修繕を手伝っていた。皮なめし屋の主人が、病に臥せっているのだ。なので、主人の息子に指示してもらい、力仕事をしてきた。体を動かすことは鍛錬に繋がるので、苦にはならない。それによって喜んでくれる人がいるなら、尚更だ。
こうして町の人々と関わっているせいか、通りを歩いていて声を掛けられることが増えた。手伝いの依頼であったり、揉め事の報告だったり、ただの話し相手としてだったりと様々《さまざま》だ。サイラスがそうしているように、タオも人々の話をよく聞くよう心掛けている。彼らがサイラスを信頼していることを感じると、彼の従士として誇らしく思うのだ。
扉が開き、トバイアが入ってきた。彼はサイラスの傍で、書類仕事の補佐もしている。タオが来ていることを知っていたのか、彼に驚く様子はなかった。
その時、五鐘の音が鳴り響き始めた。サイラスに呼び出された時刻だ。
「トバイアさん、師匠は――」
「ああ、もうすぐ来られる。光誕祭の警護の話し合いも終わったしな」
トバイアが、どこか含みのある笑みを浮かべた。
光誕祭では、大主教が光を携えし者として、東門から大聖堂へと移動する。当然、それに随行する主教や司祭たち、彼らを拝む人々が列を為すだろう。アスプロは太陽の神と同一視されているため、収穫祭よりは小規模ながら、光誕祭は教団にとっては重要な儀式の一つだ。新たに誕生した光を大聖堂に運び入れ、満ちさせる。短くなっている太陽の日照時間が、この儀式の後、再び長くなっていくのだ。
「明後日ですね。ということは、明日には大主教様が移動されると」
「ああ、東のペレ・ルス聖堂にな。町の中だけの移動だから、大仰な警護にはならない。一応、今回はアレクス副団長とダドリー様が担当することになっている。私たちは普段通り、担当地区の治安維持に努めれば良いとのことだ」
「分かりました」
タオはトバイアの言葉に頷いた。
例年のごとく人垣ができるだろうが、大主教の姿を見ようとする人々の気持ちも分かる。
大昔にアスプロが美しい青年の姿で降り立った時、疫病に苦しむ人々をその光で癒したのだと言う。人々は彼の御業を崇め、希望を取り戻したのだ。他人を貶めるような貪欲さは捨て清貧に生き、隣人を思いやり感謝するように、アスプロは説いた。そうすれば、死した後は輝きの丘を越え天の国へ迎えられるだろうと。
アスプロを手厚く保護していた、時のエラン王が死を迎える際、光に包み込まれて共に消えたことは有名な話だ。
アスプロス教団の大主教は、彼の御手を持つ象徴として信仰の対象になっている。特に現大主教は先の戦争を終わらせ平和を導いたと称えられており、その癒しの力も歴代と比べ強いらしい。
サイルーシュは、また最前列で見たいと言うだろうか。そんなことを、タオは考えた。
「今日の手伝いは皮なめし屋だったんだろう? あそこの刺激臭は、私はどうも苦手でね」
少し顔を顰めて言ったトバイアに、タオは笑ってみせる。確かに、なめして寝かせる皮革の臭いは独特だ。そのため、アルシラの皮なめし屋は全て、大通りよりも通りを二本入り、水路を隔てた区画にある。
「作業は順調に終わったので、タリアが菓子を作ってくれましたよ」
「なめし屋の娘?」
「そうです。二番目の」
もらった菓子の素朴な美味さを思い出しながら、タオは答えた。
タリアはサイルーシュよりも少し年上の娘だ。陽に焼けた肌は健康的で、元気の良い笑顔の働き者という印象を持っている。あの通りに行くと、何かと話す機会があるのだ。
「なるほどなぁ」
何かを納得しているように、トバイアが頷いた。
その時、扉が開かれると同時にサイラスが姿を見せた。
「おぅ。待たせて悪かったな」
そう言われ、タオは自然と姿勢を正した。
普段の皮鎧装備のサイラスの姿は、儀礼時の板金鎧を着ている時よりも、体付きの良さが目立つ。憧れる精悍さだ。
「トバイア。少しの間、誰も入れるな」
「畏まりました」
サイラスに言われ、トバイアが扉の向こうに消えた。
驚いていると、執務机の方へ移動したサイラスに呼ばれる。机を挟み、タオは彼と相対した。
「アルゲントゥムへの旅は、ご苦労だった。改めて礼を言っておきたくてな。娘のお守りは大変だったろう?」
「とんでもありません。彼女はとても聡明な女性なので、こちらが助けられていたくらいです」
タオは丁寧に、素直な感想を述べた。
旅の途中、サイルーシュの笑顔にどれだけ癒されたかしれない。塔でも、彼女はカイの良い友達になってくれた。予想していたよりも仲良くなった彼女たちに、エリュースと驚いていたくらいだ。
「そうか。そう言ってくれるか」
一つ息を吐き出すようにして、サイラスが笑みを浮かべた。
「タオ。サイルーシュと、結婚する気はあるか」
「えっ」
突然の質問に、タオは心底驚いた。聞き間違えたかと思ったほどだ。しかしサイラスの目は真剣そのもので、こちらの答えを待っている。
タオは気持ちを落ち着かせてから、サイラスの視線を真っ直ぐに受け止めた。
「はい。彼女が、そう望んでくれるのであれば」
何よりも、まずはサイルーシュの気持ちだ。そうタオは思った。気持ちを伝え合ってはいるが、彼女と結婚について話したことはないのだ。それに、まだ従士の身分で結婚など考えたこともなかったというのが、正直なところだった。
サイルーシュのことは、好きだと思う。今回の旅で更に彼女を愛おしく感じるようになった。大切にしたい女性だ。
「ルゥには、もう話をしてある」
こちらの思考を見透かしているかのように、サイラスが少し笑った。
安堵したように、彼の口から溜息が漏れる。
「お前たち、二人ともがそう思っているのなら、良かろう」
「お許しいただけるのですか!」
「勿論、今すぐとは言わん。お前の身が立つようになってからだ」
「はい」
それは当然のことだ、とタオは頷いた。
満足そうに、サイラスの口角が上がる。彼の明るい色の瞳に、どこか嬉しそうに見つめられた。
「今回の旅で、お前は娘を無事に帰還させてくれた。もう一人前の男だ。お前を大事な娘の婚約者として、認めよう」
「ありがとうございます!」
タオは身の引き締まる思いで、サイラスに感謝した。サイルーシュとの婚約も嬉しいが、何より、彼から一人前と認められたことに高揚感が沸き上がる。塔でのことを隠している申し訳無さはあるが、大聖堂騎士である彼には話せない。サイルーシュと秘密の共有をしているお陰で、タオは救われている気持ちでいた。
「そこでだ、タオ。お前に渡す物がある」
サイラスが執務机の引き出しから取り出したのは、封緘された手紙のようだった。手の平ほどに折り畳まれた紙には、封蝋が見える。そこに押された見覚えのある印璽に、タオは目を凝らした。木の葉模様は、父フォクスが好んで使っていたものだ。
「お前の父――フォクスから預かっていた手紙だ。お前が一人前になったら、渡してくれとな」
差し出された手紙を、タオは驚きながらも両手で受け取った。
「いつ、これを?」
「最後にフォクスがアルシラに来た時だ」
「あの時の――」
確かにあの時、父フォクスが何か大事なことを話そうとしていたと感じた。しかし、最後まで話を聞けなかったのだ。それがずっと、心の中で引っかかっていた。その息子の心のつかえを父は見通して、言葉を残していてくれたのだ。
一年ぶりの父の気遣いに心を動かされながら、タオは手紙に目を落とした。
「ありがとうございます、師匠」
余計な折れの無い手紙の状態からは、サイラスが丁寧に保管してくれていたことが分かる。父フォクスとの約束を、忘れずに守ってくれたのだ。そのことに、タオは心から感謝した。
鐘の音が止んだ深夜は、静けさに包まれる。
サイラス家で与えられている薄暗い自室で、タオは手紙を開封していた。ベッドサイドに置いたオイルランプの傍で封蝋を剥がし、畳まれていた折り目を広げる。そこには、懐かしい父親の筆跡が細かく綴られていた。彼の姿に似て、その文字も均等の取れた美しさだ。何となく落ち着かず、タオはベッドに背を倒した。灯りの方へ手紙を掲げると、紫黒色の文字が浮かび上がって見える。
書き出しは、『私の大切な息子へ』だった。
――元気にしているかい?
これを読んでいるということは、大きな転機があったことと思う。きっとお前なら、大きく前進していけるだろう。それは私が保証するよ。お前が努力家なのは、私がよく知っているから。
伝えておきたいのは、ロイのことだ。私の愛する妻であり、お前を愛している母のことだ。
彼女が私と出会う前の記憶を失くしていることは、話したね? 事故に遭ったせいだと言ってきたが、実際には少し違う。
私が初めて彼女を見た時、彼女は彫像のようだった。硬い皮膚に、動かない瞼、その吐息が空気を揺らすこともなかった。石化していたんだ。突拍子もないと思うだろうが、真実だけを書くとアスプロ様に誓うよ。
彼女は隠されていた。アルシラの町外れの一角にね。見張りに男が一人いたが、彼は小遣い欲しさに『美し過ぎる女の彫像』を密かに見せていたんだ。噂を聞きつけた私も、彼に小遣いをやった側だがね。私はそのあまりにも精巧な彫像に、これは呪いではないかと疑った。それから、色々と苦労はしたが、私は彼女の呪いを解くことに成功したんだ。私の予想通り、彼女は柔らかさを取り戻してくれた。
彼女を石化していたのが、なんらかの魔法によるものなのか、もしくは古代魔法王国時代の遺物が使われたものなのか。それとも何らかの禁忌に触れてそうなったのかは、分からない。しかし何にせよ、それなりの力を持った人物が彼女を隠したのだと思う。それに、町外れとはいえアルシラで、見張りまで付けられる人物だ。それなりの力だけでなく、権力も持っているだろう。
だから、私は彼女を連れて逃げた。記憶が失われているのは、石化した副作用だろうと思う。いつか戻るかもしれないし、一生戻らないかもしれない。
それからは地方を転々とした。彼女に新しい名前を付け、なるべく目立たないように暮らしてきた。有難いことに、彼女――ロイは私を愛してくれた。お前が産まれたことで、リタイに落ち着いたんだ。
もしかしたら、彼女を探している者がいるかもしれない。杞憂かもしれないが、彼女を護ってやりたいと、今もずっと思っている。
今度ロイに会っても、いつも通りに接してやってくれることを願うよ。お前の見て来たロイは、何も変わらないのだからね。
お前にアスプロ様のご加護を。
それに、ペエ様やベルナルド様のご加護があることを祈って。
――フォクス・アイヴァ―
「石――?」
タオは信じられない気持ちで、読み終えた手紙を眺めた。母ロイが石化していたと、間違いなく書いてある。しかもロイという名も、本当の名ではないらしい。
冗談ではないのか、とタオは思った。しかし、父はこんな冗談を言う男ではない。それに、アスプロ様に誓って、と確かに記されている。
もう一度、手紙に目を通したタオは、ゆっくりと事実を受け入れた。最後に書かれているフォクスの署名に触れる。この文字を書いた時の彼は、まだ生きていたのだ。そう思うと、胸が苦しくなった。
あれほど母に対して過保護に見えたのは、こういう理由があったのだ。アルシラに滅多に近寄らなかったのも、その為だったのだろう。そのフォクスが、教団からの呼び出しに応えてアルシラに来た。そしてアルシラを発った後に殺されたのだ。
そこまで考え、タオは怖ろしくなった。父フォクスの死に、教団が関わっているかもしれない。もしそうなら、ロイの石化にも関わっているのかもしれない。その憶測に、背筋が凍る。
「そんなことない、よね? 父さん」
フォクスの死は偶然だ。そう思おうとして、カイを傷つけていたのが聖職者だったことを思い出す。正式な聖職者な筈はない、そうタオは思いたかった。しかし、エリュースが見た男は確かに、聖職者の白いローブを纏っていたらしい。それに、あの塔のホールを光で満たした『奇跡』は、それなりの能力が無ければ出来ないだろう。カイをあの塔に隠しておけるほどの、それも見張りを付けておけるほどの財力と権力をも持っている――。
タオは、カイの置かれている状況が、母ロイのものと似ていることに気が付いた。
自分は、フォクスがロイを助けたように、カイを助けられるだろうか? カイが傷付けられている時、隠れているだけで何も出来なかった自分が、果たしてカイを救うことができるのだろうか?
何者かによって塔に閉じ込められ、外の世界を知らないカイは、自分たちに助けを求めたことが一度もない。あの狭い世界が、おそらくカイにとっては当たり前の世界になってしまっているのだ。
そんなカイを、とても哀しい、とタオは思った。
自問ではなく、決意する。
相手が誰であろうと――教団関係者だろうと――諦めたくない。これ以上、サイルーシュを危険には晒せないが、カイは大切な友達なのだ。いつかきっとカイを、あの場所から救い出す。父フォクスも、きっとそれを望むだろう。
タオは手紙を胸元に押し付け、遠く離れたカイを想った。