02 リタイの家族
「たっだいまー!」
明るい声で戸を開けるエリュースの隣で、タオは声を上げ損ねた。お前の家じゃないだろうと呆れながらも、ほぼ半年ぶりに会う母親の姿を見た途端、嬉しさが込み上げる。
「あら! お帰りなさい、エルくん! タオ!」
驚いたように大きな目を見開いた母ロイが、嬉しそうに表情を綻ばせた。四十になったというのに、その美貌は衰えてはいない。栗色の長い髪は変わらず優雅にうねり、白い肌に映えている。
一年前に亡くなった父フォクスが酒に酔った際、どの領地にもロイ以上の美人はいなかったと言っていたことがあった。そんなことを懐かしむ余裕が自分にも訪れていることに、タオは一抹の寂しさを覚える。床に敷かれている藁を踏みしめながら、エリュースを促して戸を閉めた。
台所で夕食の準備をしてくれている母親の少し丸められた背を時折見ながら、タオは暗い部屋での唯一の光源である暖炉に薪を放り込んだ。少し温かすぎる室温ではあるが、鍋を熱する火元がこの暖炉である以上仕方がない。エリュースは家の裏に繋いだロバの世話をしに行っている。道中、二人分の荷物を運んでくれている貴重な動物だ。
「向こうの暮らしはどう? 未来の大聖堂騎士さん?」
「良くしてもらってるよ。サイラス様は尊敬できるし本当にいい人だし。剣の稽古もよくつけてくれるしね」
大聖堂騎士団は、教団の本拠地アルシラにあるアスプロス大聖堂に籍を置く騎士団だ。団長一名、副団長二名を含む騎士十五名の下には、多数の従士がいる。アルシラに常駐している騎士は六名で、そのうちの一人が、タオが仕えるサイラス・オーティスだ。他の騎士達は地方の主教領などに居るらしい。騎士には貴族出身の者もいるが、聖職に就いている家の次男以下、裕福な商人の家の出など様々で、貴族でなくともなれる騎士として民衆の憧れの存在でもある。
「それは良かったわ。サイラス様はオーティス司祭のお身内だし、貴方を従士として迎えて下さった時はほっとしたもの。このままサイラス様の後を継いで騎士になれれば、将来は安泰ね」
「精進します。きっと、立派な騎士になってみせるよ」
心からの言葉だ。父フォクスはこの町の聖堂助祭だったが、同じ道をタオは選ばなかった。元々剣が好きということもあったが、フォクスがそれに反対せず後押ししてくれたことも大きかった。母さんを守ってやってくれ、というのが、父の口癖でもあったのだ。
タオは暖炉の灯りが届く小さな広間に架台を引きずり出し、その上に板を乗せて食卓を作る。そして大判の布をかけた。
「母さんこそ、一人で大丈夫?」
大丈夫ではないと言われてもどうにも出来ないことを承知で、あえてタオは聞いた。大丈夫と聞いて安心したいだけなのだと自分でも分かっているが、心配している、という気持ちは伝えておきたい。
ロイは台所から大きな鍋を両手で持ってきながら、その両目を僅かに細めた。
「大丈夫よ。司祭様がいらっしゃるもの。本当に、いろいろと助けてくださるの」
「そう、良かった」
タオは安堵した。ロイの言う司祭様とは、このリタイの町にある聖堂のラウール・オーティス司祭のことだ。エリュースの父親であり、同じ聖堂の助祭だった父フォクスの友人だった。フォクスは自分が留守の折は、常々彼に留守宅を頼んでいたのだ。
「そろそろ夕食にしましょうか。エルくんを呼んできて」
ロイに促され、タオは暖炉の傍から立ち上がる。その時、戸を叩く軽い音が聞こえた。出ようとするロイを留め、タオが戸へ向かう。しかしその戸は、タオが開ける前に当然のように開いた。
「司祭様」
まだ明るい夕暮れを背にした人物に、タオは少なからず驚いた。話題にしていたオーティス司祭だ。相手も、驚いた表情で入って来ようとした足を止めている。
「タオくん! 帰ってきていたのか。となれば、うちの息子もいるのかね?」
「ええ。ついさっき帰ってきたばかりなんです。司祭様は何かご用事が?」
「いや、その、丁度、良いチーズを手に入れたのでな」
言い淀みつつも、手土産を掲げたラウールの視線が、奥に向かっている。ロイの嬉しそうな声が、彼を中へと促した。
助祭の家のため、来客のための椅子がいくつかある。それらを人数分並べ、四人での夕食となった。僅かな豚肉の燻製と玉ねぎ、リーキを煮込んだスープに喉が鳴る。きっと、この家で食べた懐かしい味がすることだろう。
黒いライ麦パンに手を伸ばそうとすると、その手の甲をロイに叩かれた。
「だめよ、タオ。先にお祈りをしなくちゃいけないわ」
「それほど腹が減っているんだろう。なら、急いでお祈りしよう」
エリュースに引き継がれている茶目っ気な笑みを浮かべたラウールが、まだ小言を続けそうなロイをやんわりと抑えてくれる。空腹に耐え兼ねていたタオはそれに感謝しつつ、ラウールの綴る神聖語を聞いた。
「アスプロ様に感謝を」
「大主教様にも」
ロイが付け加えた。大主教は、アスプロス教団の中で最高位の聖職者だ。その癒しの手は、教団随一の力を持っていると言われている。まだ近くで拝顔したことはないが、噂では貧しい者にも手を差し伸べる慈愛の人であり、時にはアルシラを出て祈りを上げに行くこともあるらしい。そんな大主教を含む聖職者を守り、信者を守り、魔物を討伐し、時には揉め事の仲裁をする。それが大聖堂騎士団の主な仕事だ。
ようやく食べ物にありつけ、タオは固いパンをちぎって温かいスープに浸し、咀嚼する。ラウールの持ってきたチーズは、日常的には口に入らない貴重な食べ物だ。
「ところで、今回は何をしていたんだね?」
興味深そうに聞くラウールに、タオはエリュースと顔を見合わせてから、掻い摘んで説明をした。母親を心配させないため、戦闘でのあれこれは伏せておく。
小さく頷きながら聞いていたラウールが、説明を終えると、深く頷いた。
「解放してやったのだな。どこの誰とは分かったのか?」
「村の人たちも知らない人だったみたいです」
倒したオーガを見た村人たちは、皆、首を振った。オーガは森の奥からやってくるのだが、元は人間だということは、よほど世情に疎い者でなければ知っている。人があまり立ち入らない場所に多いとされる『歪み』からは瘴気が漏れ出ており、その瘴気に呑み込まれた者が、オーガとなってしまうのだ。
エリュースが最後のパンを口に運び、小さく息を吐いた。
「おそらく、どこかの犯罪者が森に逃げ込んで、そいつが浸食されちまったんだろうな。猟師たちはおおよその危険区域を把握してる筈だ。ま、瘴気に侵された動物が同じようにおっきくなって凶暴化してるから、大物狙いでギリギリのところで狩りをしてりゃ、境界線を超えちまうこともあるだろうがな。それに、歪みはいつも同じ場所とは限らないだろうし」
「そうだね。あれは、誰だか分からない方がいいよ」
英雄だと讃えてくる村人に対し、エリュースが協力してくれた男たちの肩を叩いて「彼らも英雄だよ」と讃えたことは、彼らしい美点の一つだと思う。
オーガを倒した後、先だって村を所有する領主からの依頼書を見せておいた礼拝堂の司祭に再び会いに行き、討伐が完了したことを報告した。司祭はエリュースが持参した大聖堂からの書状――依頼書とは別の――を受け取り、領主への報告書を書いてくれる。その報告書には、正式なものだと証明するために記す文言を指定されており、それを指示するのが大聖堂からの書状というわけだ。
領主の館へ行く道すがら、エリュースは封をされていなかった報告書をおもむろに広げ、今回はペエのお言葉だぞ、などと読み上げたりもした。タオは止めようとはしたのだが、封をしてないだろ、と彼が悪びれもせず笑うものだから、それ以上は言わなかった。
ちなみにその文言は、聖人ルー・ペエの遺したものだった。要約すれば、『害悪の魔物は滅すべし』という、武闘派司祭らしい言葉だ。
夕食の時間は和やかに過ぎた。
ロイが片付けに立ち、タオとエリュースは辞去するラウールについて外に出る。もうすぐ完全に陽が沈もうとしているため薄暗く、タオはラウールを聖堂まで送り届けることを申し出たのだ。そこに、エリュースもついてきている。
「というか、エルはどうするんだ。今夜」
「お前んちに泊まるさ。その方が出発もしやすいだろ」
当然のように言うエリュースに、タオは苦笑した。いつものことだが、せっかくロイさんの飯が食べられる機会なんだし、というのが彼の言い分だ。隣を歩くラウールも、いつものことだという風に笑っている。しかしふと、その笑みが薄らいだ。
「アルシラに帰ったら、ちゃんとまた勉学に励むのだぞ、エリュース。あんまりふらふらしていては、指導してくださっている司祭様達からの心象が悪くなる」
「やることはやってるから、なんとかなるって。どこかの町の司祭に収まれるくらいには、心象を良くしとくよ」
やや投げやりな物言いをしたエリュースが、ラウールの方を見ずに暗い空を見上げた。雲に隠されて、ある筈の月が見えない。
タオは彼が司祭になりたがっているわけではないことを知っているため、黙って隣を歩いた。タオ自身、彼はこんな小さな町に収まるような器ではないと感じている。エリュースは今、全寮制の大聖堂付属学校の生徒だが、そうなる前、外の世界を観たいがために家出した挙句、商人と交渉して船に乗せてもらい外国を旅をしたこともあるような人物だ。その際に作った商人への借金返済のための資金調達に、今は便乗させてもらっている。彼が受けてきた依頼を二人で解決し、報酬を折半しているのだ。
気付けば聖堂の入り口まで来ており、足を止めたラウールに従ってタオも足を止めた。
彼に頭を下げた後、腰に下げていた革袋を手にし、差し出す。
「いつも母をありがとうございます。これを、納めていただけますか」
これまで得た報酬を貯めた分であり、父に代わって母の面倒を見てくれている司祭に渡すつもりで持ってきていたものだ。それは、ラウールの小さな頷きと共に、彼の手に渡った。
「ありがとう、タオくん。フォクスも、君を誇りに思うだろうな」
しみじみとそう言ったラウールの言葉に、タオは胸がじわりと痛むのを感じた。父親は殺されたのだ。魔物なのか野盗なのかは分からないままだが、アルシラからこの町への帰路で、襲われた。遺体はまだ見つかっておらず、物的証拠も目撃者もいないことから、教団からの調査は打ち切られてしまっている。最初は、どこかで生きてくれているかもという儚い望みも抱いていたが、何か月も帰ってこないと諦めもついた。母をそれほど置き去りにできる人ではないからだ。最後にアルシラで会った時の優しい笑顔を思い出すたび、相手が分かれば殺してやりたいと思ってしまう。
「君も、道中、充分に気を付けてな。サイラス兄達にも、よろしく伝えてくれ」
「はい。師匠も、司祭の元気な様子を知れば喜びます」
そう言いながら、タオは落ち込みそうになった気持ちを叱咤した。今は、しっかりと従士として修行をするべき時なのだ。
「では、どうぞお元気で」
「風邪なんて引くなよ、親父。兄貴にもそう言っといて」
別れ際のエリュースの言葉に、ラウールが「お前もな」と返して笑みを浮かべる。その光景を見て、タオは心が温まる気がした。誰かを大切に想う気持ちは、とても尊いものだと思う。それを伝える大切さも、父フォクスはよく話してくれたものだ。夢の中でたまに会う彼は、いつも優しい笑みを浮かべている。見守ってくれていると感じられることは幸せなことなのだと、タオはすっかり暗くなった空を見上げた。
ラウールと別れ、タオはエリュースと共にロイの待つ家へ戻り始めた。風によって雲が流されたのか、空には丸い月と星が美しく瞬いているのが見える。
「あ、俺の手持ちはもう無いから、帰りに何かあれば、悪いけど頼むよ」
申し訳なく思いながらエリュースを見ると、彼は驚くでもなく当然のように片方の口角を上げた。
「いいぜ。でも貸し一つな」
「ああ、よろしく」
いつものやり取りに感謝しつつ、帰路を急ぐ。その時、ふと、何かに呼ばれた気がした。
足を止めて辺りを見渡すも、不思議そうな顔をしている親友と、満月と、星、人気のない街路しか見えない。
丁度、聖堂の鐘が鳴り始めた。
「どうした?」
「いや、」
盗賊かと疑って気配を探ってみるも、ひっかかるものは何もなかった。全てに気付けるほど自分は熟練というわけではないが、身近に脅威は感じられない。夜空に吸い込まれていくような鐘の音が、不安を消し去ってくれたようだ。
「何でもない」
やはり気のせいだった、とタオは結論づけて歩き始めた。何もなくとも、ここで立ち止まるよりは早く家へ入った方が安全だ。
「フェガリにでも呼ばれたか? それとも、セレーンかな。ま、どうせ、あいつが噂してるんだろ。まだ帰ってこなーい、てな」
「あー、それなら、嬉しいな」
エリュースが口にしたことに、タオは緊張していた気持ちが少し解れたのを感じた。月の神や星の神に呼ばれるよりもずっと、彼女が自分のことを考えてくれている方が、何倍も嬉しい。
「口元が緩んでるぜ、ったく、素直な奴。明日は早立ちだな」
呆れ気味にそう言ったエリュースに、タオは礼を言う。早くアルシラに戻りたくなったことを、察してくれたのだろう。
何事もなくアルシラに着けることを願いながら、タオはエリュースと共に歩みを早めた。