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19 小妖精の花畑

「なにあれ……」


 目の前に現れた光景に、タオは呆然と呟いた。自然と足も止まる。


「何って、がけだよ。それ以外の何でもねぇ」

「うん……そうなんだけどさ」


 隣で答えてくれたエリュースの声も、あきれたような色を帯びていた。少し、笑ってすらいる。サイルーシュの驚いている息遣いが聞こえ、彼女は言葉もないようだ。


 カイが教えてくれた目印を頼りに、塔の裏手にある水車小屋を越え、小妖精ピクシーの遊び場だという花畑を目指し、道なき道を進んできたのだ。水車小屋から二番目の目印のふくろう岩――梟に見えなくもない大岩だった――まではそう遠くなく、これならば思っていたよりも早く辿り着けるかもしれないとさえ、今の今までは思っていた。三番目の目印は白い花を咲かせた樹だ。大岩の向こうに白い花が咲いた枝先が見えていたため、よほど大きな樹なのだろうと思っていた。それなのに、樹々を抜けた先に待っていたのは、目印ではなく切り立った崖だったのだ。


「あー、確かにな。小妖精ピクシーたちは飛べるもんなぁ」


 エリュースの呟きに、タオも納得せざるを得なかった。あの場では、そのことに思い至らなかったのだ。

 タオは崖を見上げ、その頂上付近に目印の樹を見つけた。透き通った青空に枝が伸びており、小さな白い花が咲いている。名前は分からない樹だが、他に同じ樹が見当たらないため間違いないだろう。


「どうする?」

「どうするったってなぁ」

「私、頑張るわよ!」


 サイルーシュが花を入れるためのかごを持った両拳を、掲げて握って見せた。元気に宣言してくれはしたが、この崖をよじ登るのは現実的ではない。かと言って、ここで諦めてしまうわけにはいかない。せっかくカイが教えてくれたのだ、楽しみに待っていてくれることを想像するだけで、まさか手ぶらで帰るなどという選択肢はない。


 突然、樹々の葉が大きく擦れる音がした。間を開けず何かが落ちてきた気配がし、タオは咄嗟とっさにサイルーシュをかばいながら振り返る。


「――よっと!」

「スバルさん!?」


 上から飛び降りてきたのは、スバルだった。そういえば、いつの間にかいなくなっていたのだ。

 衣服に付いた葉を払いながら、彼が明るい笑顔を浮かべた。


「かなり遠回りにはなるけど、あっちから迂回できるよ。僕はそこを登ったっていいんだけど、女の子にはこくだもんね」

「先に道を探してくれていたんですか!?」

「ま、道っていう道はないけど、ほら、僕は一応この中では一番の旅の経験者だからさ。ちょっとは先輩面しなくちゃね」


 そう言ったスバルが、その柔らかそうな髪を片手で掻き上げる。

 タオはエリュースとサイルーシュと顔を見合わせ、それぞれの頷きを確認した。



 スバルが足元の草を掻き分けて鼻歌混じりに歩いていくのを、タオたちは後方から付いていく。覆い被さるような森の樹々のお陰で薄暗いが、時折降り注ぐ木漏れ日が美しくも感じる。高い鳥の声と、緩やかな風にざわめく葉擦れ、足元で自分たちが立てる乾いた音が入り混じり、森特有の樹々の皮や湿った土などの匂いも相まって、普段はそう長く身を置くことのない空間だ。不安感をあまり感じていないのは、先を行くスバルの緊張感のない楽しげな様子を目の前にしているからだと思う。


「そういえば、スバル!」


 エリュースが少し足を速め、スバルに追いついた。


「塔に来たことがないのに、よくもあんな――」

「あれ? 言ってなかったっけ? 初めてだって。紹介してくれて助かったよ」


 とぼけたように答え、にこりと笑ったスバルに、エリュースが肩を震わせている。それでも、それ以上怒ることを諦めたようだ。


「じゃあ、ゴブリンの名前を知っていたのは?」

「だって彼、たまに村に買い出しに来てるんだよ。フード被ってるけど、声も特徴的だろ。知ってる人は知ってる。名前だってね」

「あぁ、そうなんだ……」


 乾いた笑いを短く立て、エリュースが小さく溜息を吐いた。


「なら、もしかして、あの塔のことも知られているのか?」

「え! あそこは秘密の場所じゃあ――」


 タオは声を上げずにはいられなかった。

 デュークラインに、初めに言われたはずだ。あの塔のことは誰にも言わないという約束だった。それなのに村の皆が知っているならば、おどす意味がない気もする。

 スバルが足を止め、振り向いた。


「少年、秀才くんはそういう意味で僕に聞いたんじゃないよ」

「え?」

「だよね?」


 スバルが言う意味が分からずエリュースを見れば、彼が困ったふうに咳払いをした。


「重要なのは塔じゃなくて、カイの方だ。塔のことを村人が知っていたとして、カイの存在が隠されていればいい」

「あぁ……そうか」


 タオはエリュースの説明に納得した。

 だからデュークラインは、教団からの大掛かりな調査隊が入ることを嫌がったのだ。


「そういうこと。ちなみに、あの塔は昔からあってね。森に入って少ししたところで、ゴーレムを見ただろ?」

「ゴーレム?」

「岩の大きな怪物さ」


 スバルの言うゴーレムとは、あの馬車道の両脇にあった岩人間のことか。

 タオはそれを思い出しながら、頷いた。それを受けたスバルが少し笑みを浮かべる。


「あれは昔、この森に隠居した魔導士が操っていたんだ。あのゴーレムたちが、あの塔を作ったらしいよ。あの馬車道もね」

「すごいですね。あんな大きなものを操れるなんて……」

「そういうのにけていた魔導士様だったってことさ。まぁ村人は怖がって近付かなかったみたいだけどね。で、その魔導士が死んで、ゴーレムも力を失くした。ご主人様のいた塔への道を護って、最後はあそこで動かなくなったのさ。ちょっと、健気けなげな話だよね」


 悲しげに瞼を伏せたスバルが、きぶすを返し再び歩き始める。

 片手を握ってきたサイルーシュの手を握り返し、タオは彼を追った。


「じゃあ、今はどういうことになっているんです?」


 魔導士は亡くなった。それでも、ルクが塔と村とを行き来している。 

 歩きながら半身を向けたスバルが、満足そうに頷いた。


「誰が流したうわさか知らないけど、隠居した結界士(・・・)が住みついてるってことになっているらしいよ。あのゴブリンは、そのしもべってわけ。まぁあんな森の奥深い塔まで踏み込むような村人なんて、いないしね」

「誰もいなかったのかしら? その、確かめてやろうなんて思う人は」


 サイルーシュが不思議そうに言った。

 それに対し、スバルの片方の口角が少し上がる。


「森は怖いんだよ? お嬢さん。ま、もしお嬢さんの言うような馬鹿な村人がいたとしたら――、あいつに斬られているんじゃないかなぁ」

「あいつ?」

「黒髪のお姫様を抱っこしてた男さ」


 デュークラインさん、とサイルーシュが呟いた。

 タオも、彼ならそうするのだろうと思った。初めて出会った時は、問答無用で斬りかかってきたのだ。あの時は特に、カイが自分と接触していたからなのだろう。今、デュークラインの立場に立ってみれば、あの時の状況では斬りかかられたのは仕方がないと思えた。



 スバルについて樹々の間を歩き、山の谷間に出た。いつの間にか、少しくだっていたらしい。


「スバル、ここを通るのか?」


 エリュースが、先の洞窟を指さした。

 岩が隆起した場所に囲まれ、先に進めそうな場所はそこしかない。暗い洞窟内は先がまるで見えず、タオはサイルーシュが握る手に力を込めたことを感じた。

 スバルが洞窟を覗くようにし、匂いを嗅ぐように鼻を鳴らす。


「うん、花の甘い匂いがするよ。きっとここを通れば花畑に近付くんじゃないかな」

「ほんとに?」


 タオも嗅いでみるが、よく分からない。分かるのは、風が緩やかに通っていることくらいだ。


「んん?」


 自信有りげな表情をしていたスバルが、また鼻を鳴らし、僅かに眉をひそめた。


「あと、腐ったようなにおいもするね」

「え?」

「何かいるよ、ここ。それでも行く?」


 選択をゆだねるように、洞窟を背にスバルが振り返った。彼の目を見れば、彼が冗談を言っているわけではないことは分かる。

 エリュースを見れば、仕方ない、という風に彼が両肩をすくめた。


「タオ、火だ」


 エリュースの言葉を受け、タオは背負っていた荷物を下ろした。そこから松明たいまつ用の割り木と、火口箱ほくちばこを取り出す。発火のための道具一式が入った箱で、旅の必需品の一つだ。

 火打ち石と火打ち金を打ち合わせ、火花を麻の消し炭に落とすと、火種が出来た。火を起こしている間にエリュースが割り木に布を巻き、油を染み込ませてくれている。そこに火を移せば、松明たいまつの出来上がりだ。

 エリュースが腰に下げた覆い付きランタンを開いたので、その中の蝋燭ろうそくにも火を移した。弱い光であっても、居場所が分かることは重要なのだ。


「暗いから足元に気を付けてね、ルゥ。俺の手を離さないで」


 サイルーシュに片手を差し出すと、素直にそれを握られた。

 大丈夫よ! と片手で拳を作り、強気な笑みを見せてくれる。


「じゃあ、行こう」


 タオは皆をうながし、暗い洞窟内へ足を踏み出した。




 光の射さない洞窟内を、松明たいまつあかりを頼りにゆっくりと進む。外よりは風が無い分、温かい。思ったよりも横幅は狭く、松明をかざせば隆起した岩々を見ることが出来た。一列でなければ進めないほどだ。時折、灯りの中で小さな白い影が走り去るが、それらは害の無いイモリだろう。そしてそれらがいるということは、近くに水辺があるのかもしれない。


 入り組んだ洞窟を、スバルは「あっちだよ」と道を示す。匂いだよ、と彼は言うのだが、やはりタオには分からなかった。洞窟特有の湿った空気が漂っており、どうにも圧迫感を感じてしまう。


「おっと」


 驚いたように、エリュースが足を止めた。と同時に、水音がする。

 彼のランタンに照らし出された足元には、浅い水場があった。頭上の高い位置から蝙蝠こうもりの鳴く声がし、タオは松明を辺りに向ける。どうやらここは開けた空間のようで、水場は左側に広がっているようだ。湿った泥の臭いに混じり、何かが腐ったような臭いもする。


「どこまで水場があるんだろうねぇ?」


 そう言い、スバルが何かを投げた。それは離れた壁に当たって跳ね、硬い音を数回立てながら、水音に呑み込まれる。途端、その付近から低いうなり声が上がった。


「な、なに?」


 おびえたように、サイルーシュに腕を掴まれる。

 断続的に上がる唸り声は、動物ではなく人の声に近いようにタオは思った。 

 松明たいまつを向けるも、灯りが行き届かず見つけられない。唸り声は、微かな水音を鳴らしながら近付いてきている。

 タオはそっとサイルーシュの手を解くと、松明を持たせた。後方へ退かせ、自身は剣柄ヒルトに手を掛ける。


「エル」


 エリュースを呼ぶと、彼はすでに詠唱に入っていた。神聖語を紡ぎながら、腰に下げた袋の内に片手を入れている。


 タオはソードを抜いた。

 奇声を上げながらエリュースに飛び掛かって来た何かに対峙し、前に飛び出す。振り上げられた気配を剣で受け止め、タオはそれを弾き飛ばした。その間も、背の向こうでいるエリュースの詠唱は乱れることがない。


 エリュースの声が消えた。と同時に、彼の手によって撒かれた『光の砂』が、天井や辺りの壁に付着して光を放つ。それはまばゆいほどの輝きを帯び、空間一帯が聖なる光に満たされた。


「へぇ、やるじゃないか」


 感心したようなスバルの呟きを後方に聞きながら、タオは目の前にはっきりと見えた『敵』の正体に驚いていた。落ち窪んだ目は眼球だけが露出しているようで、その顔や体は痩せこけており、ほぼ骨と皮かと思われるほどだ。這いつくばるような姿勢で、異様に腕が長く、その爪は鎌のように長く伸びている。先ほどソードに触れたのは、あの爪だろう。鼻を突くのは、先程からしている腐臭だ。

 これを魔物と呼んで良いものなのかと、タオは迷った。よく見れば見るほど、老いて痩せ細った人間に見えてくるのだ。


「エル、これって――」

「おそらく、グールだな」

「グール?」


 耳にしたことのない単語に、タオは振り返らずに聞き返した。

 エリュースがグールと呼んだ『敵』は二体だ。先ほど襲い掛かってきた方は比較的骨格が大きく、破損してはいるもののレザーを着ている。奥の方は乱れた白髪が顔にかかっており、薄汚れ破れた布をまとっているだけだ。開けられた口に並んでいる歯は人と同様に、尖ってはいない。食わせろ、食わせろとわめきながら、その焦点の合っていないような目でこちらを見ている。


「ねぇ、あれって、人じゃ……」


 後方で、サイルーシュの呟くような声がした。

 それに対し、スバルの不思議そうな声が続く。


「人だったらどうだっていうの? お嬢さん」

「だって! 人なら斬るなんてこと――」


 怒ったように上がったサイルーシュの声とほぼ同時に、タオは長い爪の攻撃を受け止めていた。相手は、それほど素早い動きではない。それでも、斬り捨ててしまって良いのかという迷いが、タオの剣筋から精彩さを欠いていた。


「タオ! そいつらはもう人じゃないんだぞ!」

「じゃあ、やっぱりこの人たちは元々――」


 人間だったのか。では何故なぜ、オーガのような身体的な変形が少ないのだろう? それは魔物になりきっていないからではないのだろうか?


「俺の言葉が分かりますか!? 攻撃を止めてください!」


 応戦しながら、タオは訴えかけた。人の心が残っているなら、殺すのは忍びないと思ったのだ。もしかしたら襲うのを止めてくれないかと、淡い希望もいだく。

 しかし、二体の攻撃は止まなかった。一体を撃退しても、すぐにもう一体が襲いかかる。


 ソードを握る手の甲に、グールの爪先がかすった。ほんの少し掠っただけのはずが、しびれるような痛みが広がる。それは指先にまで瞬時に到達した。

 剣が、意志に反して手から落ちてしまう。


「タオ!」


 異変を察したエリュースが、襲い掛かってくるグールに衝撃波を放った。向かってくる勢いが利用されたのか、グールはバランスを崩して転がる。

 タオは右腕を掴んで膝をついた。手の痛みが腕の神経を伝い上がり、思いもよらないほどしびれているのだ。


 エリュースが、こちらへ駆けてくる。しかしあろうことか、彼の後ろをもう一体のグールが走り抜けたのが見えた。その先には、サイルーシュがいるはずだ。


「ルゥ!」


 タオは焦りの中、振り返り叫んだ。その先に見えたのは、血飛沫ちしぶきだ。グールのしわがれた高い叫び声が、洞窟内に響き渡る。それを見下ろすようにして、スバルが抜き身の短剣ショートソードを手に平然と立っていた。安堵がどっと胸に押し止せ、溜息を吐き出す。


「タオ! 右手を出せ!」


 エリュースの怒鳴り声が間近に聞こえ、タオは我に返った。

 冷たい聖水を振りかけられ、癒しの神聖語と共に彼の手がかざされる。急激に痛みと痺れが引いていくのを感じながら、タオはエリュースの真剣な眼差まなざしを見た。


「いいか、タオ。余計な同情はするな。あいつが人が魔物かなんて、今はどうでもいい。分かったか!」

「エル……」


 タオはエリュースの言葉の重みを感じ取っていた。あの瞬間、サイルーシュがあの痛みを感じていたかもしれないのだ。自分が迷ったばかりに、彼女が殺されていた可能性だってあるのだ。


「――分かった」


 ソードを掴み、タオは立ち上がった。視線の先には、こちらを睨み身構えているグールがいる。怒りで震えているように見えるそのグールが、後退しようとした足を無理に前に踏み出したように見えた。飛び掛かってきたグールの爪をソードで弾き飛ばし、返す剣で上方から斬り伏せる。尚も両腕を支えに動こうとするグールを、両手で握ったソードを突き下ろして体重をかけた。断末魔を上げるグールの奇声は、弱々しく震え、途切れる。片手を浅い水場に浸けたまま、とうとう動かなくなった。


「やったか」


 傍に来たエリュースが、グールを見下ろした。タオは頷き、ソードを引き抜く。それを一振ひとふりし、付着した血を飛ばした。


「エル、ありがとう」

「いつものことだろ」


 軽く笑うエリュースには、少し疲れが見える。やはりあれだけの状態を一気に治してしまうためには、それなりの力を使っているのだろう。


「ダドリーに聞いたことがあったんだ。オーガとは違う、ひずみに侵食されてグールになっちまう話。精神的におかしくなって、そのうち人肉を食うようになるんだそうだ。それ以外にも何でも食っちまうらしいけどな」

「オーガの方が、深く侵食されてるってことなのかな」

「そうだな。見た感じ、知能は高くなさそうだが、全くないわけでもない。もう一体と連携していたことを考えても――」


 そこまで言って言葉を切り、エリュースがサイルーシュたちの方を振り返った。彼女の傍にいるスバルの足元には、もう一体のグールが倒れ伏している。しかし時折上がる呻き声が、グールがまだ絶命していないことを示していた。


 タオはソードを鞘に収め、サイルーシュに駆け寄った。彼女に持たせていた松明たいまつは足元に落ちているが、岩場のために火は消えてはいない。


「ルゥ、大丈夫?」


 身を寄せてきたサイルーシュは、震えながら頷くだけだ。その視線は、痙攣けいれんを繰り返しているグールに向けられている。


「放って置いても死ぬと思うよ? 苦しいだろうけど」


 短剣ショートソードを持ったまま、スバルが目を細めた。その視線は、サイルーシュに向けられている。


「どうする? お嬢さん」


 問われたサイルーシュが、腕にしがみ付き双肩を震わせた。ここまでショックを受けている彼女を見るのは、初めてだとタオは思う。


「スバルさん! そんなこと彼女に聞かないでください!」

「そう? いい社会勉強じゃない? あの『聖地アルシラ』にいたら学べない外の世界のさ」


 スバルの態度は、心外だ、と言わんばかりだ。

 腕から顔を上げたサイルーシュに気付き、タオは彼女を気遣った。

 魔物を間近で見ることすら、彼女は初めてなのだ。それが目の前で斬られ、足元で息絶え絶えになっている。


「……て」


 涙に揺れる声が、漏れ聞こえた。


「殺してあげて」


 そう言ったサイルーシュの言葉は揺れていたものの、意志が込められた声だった。

 それを受けたスバルが、少し驚いたように瞼を上げ、また細める。


「優しいお嬢さんで良かったね」


 スバルの突き下ろした短剣ショートソードが、グールの息の根を止めた。しんとした静けさが戻ってくる。

 腕を握るサイルーシュの手からは、少し力が抜けたようだ。


「人から追われて、逃げながらこの森に入ったんだろうねぇ。異物には、厳しい世界だからね。多分、グールになってから数か月ってとこかな。まだ互いを意識する知能が残っていたみたいだし」


 スバルがしゃがみ込み、グールを覗き込む。


「女性だね。多分、あっちとは夫婦なのかも」

「そんな……」


 言葉を失ったサイルーシュの肩を撫でてやり、タオは傍に来たエリュースに彼女を預けた。自分の考えを分かっているらしい親友が、小さく頷いてくれる。


「タオ? 何をするの?」


 水場に片手を浸けた状態で絶命しているグールの元まで戻り、タオは不安げなサイルーシュの呼び掛けには答えず、それを両手で引き揚げた。想像していた通り、軽い。それをそのまま運び、もう一体のグールの傍に丁寧に横たえた。


 スバルが目を丸くしている。そんなスバルの横にしゃがみ込んだエリュースが、グールに手をかざし、葬送の神聖語を短く紡いだ。


「君たちって本当に……」


 皆まで言わず言葉を切ったスバルが、片手で口元を隠すようにして笑んだ。


「こいつの性分でね。さて、さっさとここを出るか!」


 スバルに対して言ったエリュースが、一息入れた後、明るい声を上げた。切り替えの早い彼にうながされるようにして、サイルーシュも目元をぬぐって頷いている。

 タオは松明たいまつを拾い上げ、反対側の腕で彼女の肩を抱いた。




 

 洞窟を出ると、そこはまだ深い森だった。足元の生い茂る草を押し退けながら上へと進むと、前方から吹いてくる風が何故なぜか暖かく感じる。


「あ、ねぇ、花弁はなびらだわ!」


 サイルーシュが片手を宙に差し伸べた。その手を掠めるように、淡い色の花弁が前方から舞ってくる。


「行ってみよう!」


 花弁が吹いてくる方へと進むと、急に森が開けた。小さな白い花をつけている樹が一本、花畑の先に立っている。崖下から見えた目印の樹だとすると、あの樹の先は崖になっているのだろう。

 樹の前の空間は、目を疑うほどの花畑が広がっていた。そこだけがぽかりと別の空間であるかのように、陽光が差し込み、色とりどりの種類も様々な花々が咲き誇っている。花畑のあちこちに見られるふわふわとした小さな白い花が、まるでかすみがかかったような幻想的な光景を作り出している。


「すごい……」


 タオは想像を超えた光景に、感動を覚えていた。これほどまでの美しい光景は、あのウィスプの夜以来だ。


「はーっ、こりゃすごいな。さすが、小妖精ピクシーの遊び場だ」


 エリュースが感心したように言った。サイルーシュに至っては、辺りをきょろきょろしながら歓声を上げている。


「相変わらず、節操のない花畑だなぁ」


 可笑おかしそうに笑うスバルを、タオは振り返った。


「節操のないって?」

「ああ、本来、今咲くはずのない花まで集めて咲かせちゃってるからさ」

「そうなんですか?」


 そう言われても、花のことは詳しくない。

 タオは花畑を改めて眺めてみた。それぞれが仄かな光を放っているかのように想えるほど、生命力に溢れた花々だ。掌大のものや、指先ほどもない花など大きさも様々で、赤や薄紅、黄色や白など、多彩な色が不思議と調和している。


「ま、僕もそんなに花には詳しくないけどね。小妖精ピクシーたちがその魔力で作り上げたんだろうから」

「じゃあ、これらは自然に咲いてるんじゃなくて?」

「自然に咲いてるのもあるだろうけど、そもそもこんな森の中で、ここだけ樹が生えていないのっておかしいよ」


 確かに、スバルの言う通りだとタオは思った。しかしそれなら、何故なぜこの場所なのだろう。


ひずみが近いんだろうねぇ」

「え! 歪み!?」


 タオは身構えた。『ひずみ』は瘴気しょうきが漏れ出す場所として、恐れられている。異界への裂け目とも考えられており、近付いてはいけない場所なのだ。


「大丈夫だよ、少年。嫌な気配はしないだろ?」

「それは、まぁ」


 そう言われれば、確かに瘴気は感じない。あれはまとわりつくような、おぞましい気配なのだ。

 タオは胸を撫で下ろした。


「それはそうと、早く摘んで帰らないと、日が暮れちゃうよ」

「あ!」


 慌てて花畑に向き直ると、サイルーシュとエリュースが花の群生に埋もれているのが見えた。サイルーシュが、いつの間にか花摘みを始めていたようだ。

 タオは繊細に揺れる花々を手で避けながら、二人に近付いた。


「どう?」

「本当に綺麗な花ばかりね。本当に、きれい」


 摘んだ花を籠に入れ、サイルーシュが腰を伸ばした。辺りを眺め渡すように視線を向けている。


「ねぇ。カイは、ここに来られないのよね……」

「そう、だね」


 呟くように言ったサイルーシュに、タオは悲しい気持ちになりながら答えた。

 カイはあの塔周りの結界を越えられない。心洗われるような美しいこの光景を見ることも、触れることも出来ない。あの狭い場所だけが、彼女の世界なのだ。


「タオ。結界なんて、壊してしまえないの? 塔の庭を囲んでいる杭を、引っこ抜いちゃえば?」

「ルゥ」


 タオは驚き、サイルーシュを見つめた。振り向いた彼女の顔は、真剣そのものだ。


「だって! 可哀相じゃない。あんな場所にずっと閉じ込められているなんて! 結界さえ壊せれば、カイは外に出られるんでしょ? いくら隠れなくちゃいけないからって、あんまりだわ」

「俺もそう思うよ。でももし触れて何かあったら――」


 タオはエリュースに視線を向ける。腕組みをしたエリュースが、困った顔をして溜息を吐いた。


「たとえあの杭を引っこ抜いたとしてもだ。それで結界が解けるかというと、そうでもない可能性は高い。結界を敷く際のただの目安のようなものかもしれないしな。だがもし結界を支えているとしたら、それこそ問題かもしれない。内側を維持している結界だ。その支えを失えば、結界自体が狭まってしまう可能性がある。そうなれば、カイが居られる範囲は狭まるし、最悪の場合は――」

「それは駄目! 駄目よ!」


 エリュースの仮定に、サイルーシュが慌てたように否定した。

 タオも必死に嫌な想像を、頭の中から追い出す。


「それに、タオが言うように、昔に聞かされてたろ。黒塗りの杭を勝手に壊したりしたら、呪われるって」


 そうなのだ。幼い頃に誰もが大人から脅かされる話で、触れて異形の獣になってしまった話や、病に侵され死に至った話など、そのバリエーションは多い。


「改めて考えたら、あれは結界士の杭のことだろうな。結界には結界士の魔力が使われている。その一部を破壊すれば、その反動を受けるのは当然かもしれない」

「そうだねぇ」


 スバルの神妙な声がしたので、タオは彼を振り返った。一つ頷いた彼が、哀しそうに笑みを浮かべる。いつの間に取ったのか、彼の片手には白い花のついた細い枝が持たれていた。


「あの塔にいるゴブリンは、あの杭を引っこ抜こうとして呪われたんだよ」

「え!?」

「ルク、えっ、まさかあの姿――」


 タオはエリュースとサイルーシュと顔を見合わせ、ルクの姿を思い起こし驚愕した。しゃべるゴブリンが珍しいと思っていたが、呪われたためにあの姿になったのならば、合点がてんがいくではないか。


 呪いは本当にあったのか。そう驚いていると、スバルの大きな笑い声が聞こえた。高い空に吸い込まれていきそうな、開放的な声だ。


「アハハハハ!」

「スバル、さん?」


 腹を抱えて笑っているスバルが、涙目で顔を上げた。それでも、まだ小さく笑い続けている。


「ごめん、冗談だよ」

「え――!」

「おまっ、スバル!」

「まさか本気にするとは思わなくて。だって僕、あのゴブリンのこと、よく知らないしね」


 そう言うスバルに、タオは怒ることも出来ずに納得するしかなかった。確かにスバルは、塔に来るのが初めてだったのだ。

 隣でエリュースが、盛大な溜息を吐いている。


「ルゥ、もう摘み終わった?」

「ええ、これだけあれば充分よ。早くカイに見せたいわ。持って帰れば、カイもさわれるもの」


 花に顔を近づけ、サイルーシュが微笑ほほえんだ。その優しげな表情に見惚れてしまう。

 目が合った栗色の瞳は、嬉しそうに細められる。この笑顔がいつまでも失われないように願いながら、タオは花に埋もれている彼女を引き戻すため、右手を差し出した。


 

 

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