16 アルゲントゥムの昼下がり
マーシャ・ランデルは、鳴り響く鐘の音を聞きながら、初めて歩くアルゲントゥムの町を眺め見ていた。空を見上げれば良く晴れているというのに、どうにも煙たい空気だ。町を歩く人々を見れば、衣服が煤けている者が多い。
銀が採れるという山々の麓であるからか、石畳の道の通りに並ぶ店先には、銀細工職人のシンボルである三日月が多く見られる。銀を塗られたそれらは店先の看板や壁に掛けられており、その大きさは様々だ。多くの店では、上下一対となった大きな鎧戸の上側が、両端の二本のつっかえ棒で上げられている。下側の鎧戸は、下からの支えによって、平らな陳列棚として使われているようだ。そこに並べられた商品は、上側の鎧戸が作る薄い影によって、昼下がりの陽射しから護られている。
「思っていたよりも大きな町ね。この通りなんて、ダミアよりも広いわ」
「それはやはり、ノイエン公爵様のお膝元ですもの! 公爵様の中でも、エラン王の兄君様ですわよ?」
侍女エラに話しかけると、噂好きの彼女が声を浮き立たせた。
エラは二つ年上の伯爵家の娘で、年が近いこともあり、よくお喋りをする相手だ。
「腹違いの弟君に王座を取られてしまいましたけど、先の戦争じゃあ、大主教様側に立って下さいましたわ。信心深い御方なのですよ、きっと! デルバート様も、アルシラで立派なお仕事をなされているとか」
「そのようね。でも、せっかく生きて戻られたのに、侯爵位を譲られて」
マーシャには、理解出来なかった。事前にそう聞いてはいたが、ならば養子に気を使う、気弱な男だろうと思っていたのだ。
昨日、初めて会ったデルバート・スペンスは、想像を裏切る堂々とした威厳を纏った男だった。身長は高く、そのお陰で立派な体躯もすらりとして見える。切れ長の目は一見冷たくも見えたが、近付いた際に見た瞳は深い青色で、綺麗だと思った。後ろで纏めきれていない灰銀色の前髪が僅かに顔にかかっており、その瞳の色を際立たせていたのを思い出す。差し出したこの手を取った彼の手は大きく骨ばっており、前夫とは違う男らしさを感じた。直接触れられたわけでもないのに、手の甲に彼の唇が近づけられた時には、久しぶりに胸が騒いだのだ。
しかし、マーシャはデルバートと、まだろくに会話はしていなかった。父親の都合もあり、予定通り明日には帰らねばならず、まさに互いの顔を合わせただけの状態なのだ。
町に下りてきたのは買い物のためで、せっかくノイエン公爵領に来たのだからせめて銀細工の装飾品をと、侍女二人と公爵側が道案内にと付けてくれた騎士一人の合わせて四人で出てきたのだ。しかし町へ下りてから侍女の一人が財布を忘れたことに気付いたため、騎士と共に一旦城へと戻らせている。今はエラと二人、こうして辺りを見ながら待っている状態だ。
「マーシャ様?」
「え、あぁ、何かしら」
エラの呼び掛けに気付き、マーシャは慌てて顔を上げた。
面白そうに、エラが笑っている。
「昨日は、お顔を赤くされていましたわね、マーシャ様。分かりますわよ。今まで見てきたお身内の殿方にはいないタイプですもの」
「エラもそう思う?」
「私はもう少しお若くて、優しそうな殿方が好みですけれどね。でも、ああいう御方こそ、気を許した相手にしか見せないお顔がありそうじゃないですか」
頬を緩めながら、エラが興奮したように語気を強めた。好みではないと言っておきながら、恋をしているような浮かれた顔をしている。
そんなエラに対し、マーシャは盛大に溜息を吐いた。
「でもね、エラ。あの方は爵位のない――」
「マーシャ様。今、爵位をお持ちになられていなくても、ノイエン公爵様のご長男ですわよ。ご養子のルシアーノ様に何かあれば、間違いなく公爵様になられるお方なのです。何もなくとも、デルバート様がその気にさえなられれば、立場は変わりますわ。数日不在にしておられたのも、公爵様の名代で出られていたのだとか。デルバート様の方が、信頼厚い証拠ですわ」
エラの発言に、マーシャは驚いた。そこまで考えてはいなかったのだ。
「マーシャ様が奥方になられて、あの方をその気にさせるのです。女の腕の見せ所、ですわ」
「デルバート様が、ノイエン公爵閣下に……」
急に現実味を帯びたように感じたマーシャは、自らの心が揺れたことを自覚した。格上の公爵家に嫁げば、この胸に空いた穴が塞がるような気もする。父や母も大いに喜ぶことだろう。
その時、ふいに誰かにぶつかられた。自分が、というよりは、エラがぶつかられ、彼女のよろめきに巻き込まれたようだ。ぶつかった相手はまだ子供のように見えたが、逃げるようにして走り去っていってしまった。
マーシャは、バランスを保てず腰を突いてしまう。
その時、誰かが駆けてくる硬い靴音がした。
「大丈夫ですか」
聞き覚えのある低い男の声に顔を上げると、手を差し出しているデルバートの姿があった。金の飾り紐で前を留めている黒のマントが彼の肩に掛かっており、それは金糸で縁が装飾された立派なものだ。先程のエラの言葉が、脳裏を掠めた。
「デルバート様! 何故ここに?」
「お付けした騎士が戻ってきたので、代わりに来たのです。父の膝元とはいえ、客人を女性だけで待たせるわけには参りませんので」
差し出された掌に片手を預けると、そのまま握られ、力強く引き上げられる。腰を屈め、汚れたドレスの裾を軽くはたいてくれる様子に、少し驚いた。それが伝わったのか、デルバートの手が離れる。
「失礼しました。マーシャ嬢」
「い、いえ」
礼を言う前に、デルバートの視線が離れた。驚いたことに、デルバートは座り込んだままになっているエラの前に、片膝をついたのだ。エラが怪我をしているのかと思い至り、マーシャは慌てて傍に寄る。見れば、顔を顰めている彼女の手が、スカート越しに足を押さえていた。
「エラ!」
「だ、大丈夫ですよ! このくらい!」
顔を上げたエラが、眉尻を下げて笑う。それに安堵したのも束の間、デルバートの腕が伸びた。
「失礼」
デルバートがそう言ったのと、彼によってエラのスカートの裾が捲られたのは、どちらが早かっただろう。当のエラは、デルバートに触れられたことで硬直している状態だ。声も出せずにいる。
エラの足には、石畳で擦ったのか、血が滲み出ていた。
「マーシャ嬢。近くによく知っている店があります。一旦そこで彼女の手当をしましょう」
デルバートの提案に、マーシャは驚きつつも同意した。しかし、エラが慌てたように足首を隠してしまう。
「わ、私のことはお構いなく! お二人で――」
「何を言っている」
「ひぇっ」
遠慮するエラの同意を得ることなく、デルバートが彼女を軽々と抱き上げた。それは強引ではあったが、乱暴なものではなく、エラの体は危なげなく彼の胸元に収まっている。女を抱き慣れているのだろうかと、マーシャは軽い嫉妬心を覚えた。二十も年上の男ならそういうものなのかもしれないが、一見寡黙そうな硬い態度の彼では、意外な気がする。
「行きましょう、マーシャ嬢」
「は、はい」
促され、マーシャは表情を引き締めた。嫉妬心など見せては、負けた気がする。
デルバートはエラを抱いたまま歩き出し、マーシャはその後を追った。
「少し、痛みますよ」
そう言ったデルバートによって、エラの足首の傷が洗われ、更には店主が出してきた軟膏を塗られている。痛みを堪えているエラの様子を見守りながらも、マーシャは彼の手際の良さに驚かされていた。
エラの言うように、彼はこれまで会った男とはどこか違う。一見怖そうにも見えるが、侍女に膝をつき、こうして自ら手当てまでしている。それが当たり前のような態度なのだ。かといって、女の同意を待たず往来で裾を捲り、挙句抱き上げる行為は、状況が状況とはいえ紳士的とは言い難い。拒否されない自信から来る尊大さなのかとも思うが、彼の行為から考えると、横柄親切な男なのかもしれない。
「これでいい。このくらいならば、すぐ治るだろう」
包帯を巻き終え、デルバートが立ち上がった。それを追うように見上げたエラの目元が涙ぐんでいる。エラが礼を言い、マーシャも謝意を述べた。
「申し訳ありません、デルバート様。お手を煩わせましたわ」
「構いません。むしろ、この町で怪我を負わせたことを詫びねばならぬのは、私の方です」
淡々とそう言ったデルバートが、店主の男にも礼を言った。まだ若そうな店主はいつものことのように、親しみ深そうな笑みでもって、デルバートに応じている。
マーシャは店内を見回した。通りに面した大きな鎧戸の窓が開けられているお陰で、今いるカウンター横だけは明るい。薄暗がりに見える酒樽や臭いから、ここが酒場だということは分かった。他の客は二人だけだ。カウンター前に幾つかの椅子があり、テーブル席は二卓しかなく、その一卓から遠巻きにこちらを眺められている。貴族である彼には似つかわしくない店だが、一見目立つ彼の姿も、不思議とカウンターに馴染んでいるように見えなくもない。
「何か飲んでいかれますか、デルバート様」
「そうだな……」
店主に問われたデルバートの視線が向けられ、マーシャは首を振った。出来ればこんな場所に長居はしたくないのが本音だ。しかしエラが怪我をした以上、ここで騎士が戻るのを待ち、城に帰るしかないのだろう。
「あの、デルバート様!」
エラが、椅子に座ったまま声を上げた。
「不躾なお願いではございますが、マーシャ様を、暫くお願い出来ませんでしょうか。公爵様の町を歩くなど滅多に出来ませんし、明日にはここを発つのです。どうか、」
「エ、エラ……!」
驚いてエラの言葉を止めたが、マーシャはデルバートがどう答えてくれるのか、興味があった。騎士がここを見つけるのは時間がかかるだろうし、それまでここで待つだけは退屈だ。デルバートと話す良い機会でもある。
そう思って見れば、デルバートが少し考えるように、こめかみに指を当てている。それからエラに対し、僅かに頷いたようだ。その表情が、ほんの少し和らいでいるような気がする。
「ヴァル、彼女を、少しの間預かってくれるか」
「構いませんよ。貴方のお客さまなら、明日の朝まででも」
ヴァルと呼ばれた店主が、少しお道化たようにデルバートに笑いかける。それを受けたデルバートは怒ることもなく、今度は確かに口角を上げた。
「少しの間、お嬢様のお供をするだけだ。五鐘が鳴る前には戻る」
そう店主に言ったデルバートが、ようやく自分の方に向き直った。マーシャは心持ち背筋を伸ばし、彼の申し出を待った。
「マーシャ嬢。私で良ければ、ご案内しましょう」
「よろしくお願いしますわ、デルバート様」
聞きたかった言葉をかけられたことに、マーシャは嬉しさを隠しながら微笑んでみせた。
デルバートと共に町を歩くことは、マーシャに優越感を抱かせた。彼を知っている町の者は多く、気さくに話しかけてくる者もいる。その折、隣にいる自分に気付き、驚いた顔をする者が多いのだ。
精巧な銀細工のブローチを見つけて店先に寄ると、年上の女が目を丸くして顔を上げた。
「まぁ! デルバート様! 女性連れだなんてお珍しい!」
そう声を上げると、奥で作業をしているらしい男に振り返った。奥は何やら煙が立っており、道行く職人風の者たちの衣服が煤けていたことを思い出す。
「あなた! ほら!」
呼ばれた奥の男が、額の汗を拭きながら出てきた。デルバートを見上げた彼の顏も、驚きを隠さない。
「こりゃあ、雹が降るかもな」
呟いた男の言葉にデルバートを横目で見上げてみれば、彼の眉根が困ったように寄せられていた。
「客人を案内しているだけだ。宝飾品もあれば、見せてくれ」
「それなら、良い石が手に入りましてね。出来が良いのを、いくつかお出ししましょう」
男がそう言っている間にも、女が奥から箱を持ってきた。開けられたそこには、精巧な銀細工で装飾された宝石付きのブローチやペンダントトップ、指輪などが並べられている。
「素敵だわ……!」
素直な声が漏れてしまうほど、マーシャはそれらに目を奪われた。似たような宝飾品は多く持っているが、その精巧さと銀の光沢の美しさは他に類を見ない。確か、母親が大事にしている品の一つに、このような銀細工物があった筈だ。
「彼は腕のいい細工師なのですよ、マーシャ嬢。ここに足を止められるとは、貴女は良い目をお持ちのようだ」
そう言い、少し頬を緩めたデルバートに、マーシャは胸が高鳴った。それを隠し、慌ててブローチを手に取る。透明度の高い黄色の石をあしらった、綿密な銀細工物だ。広がった線状の花弁が特徴的で目を惹いた。
「ああ! それはシア・フォスの花をモチーフに、黄玉を使っているんです。御存知でしょうけど、アスプロ様がお創りになられたと言われている、染料にもなる植物ですよ」
活舌良く喋る女の説明に、マーシャはそういえば、と頷いた。
「ええ、ちょっと変わっている、白い花なのよね。実際に見たことはないけれど。でも以前見たシア・フォスの絵とは形が違うわ」
「希少な植物ですからね。これは、正真正銘、シア・フォスですよ。デルバート様が、いつだか持って来て下さって。この人ったら、食事も忘れてスケッチしていたんですよ。初めて目にする本物のシア・フォスでしたもの。あまり数は作れませんけれど、アスプロ様のご加護が得られると、人気のモチーフなんです」
手にしたシア・フォスのブローチを、マーシャは気に入った。加護にも期待したい気分だ。こうしてデルバートと出歩く機会を得られたのも、このシア・フォスを見つけたことも、望みが叶う兆候のような気さえしてくる。
「それが気に入られましたか」
「ええ。とても素敵です。でも」
そういえば、今は手持ちが無いのだ。そのことに気付いたマーシャは、言葉なく手元のブローチを見つめた。城に戻った侍女を叱りたいが、彼女の失態のお陰で、こうしてデルバートと歩く機会を得たのだ。
デルバートを窺うように見上げれば、彼は特にマーシャのことを気にしている様子もなく、別のブローチを手に取っている。マーシャが手にしている物よりは小振りの、赤い小さな石が付いた鳥モチーフのものだ。
「フレッド。これも一緒にもらおう。いつものように、レスターに」
「ありがとうございます、デルバート様」
驚いていると、デルバートから小振りのブローチを渡された。可愛らしいデザインだと思う。
「そのシア・フォスは貴女に。こちらは、貴女の侍女に」
「買ってくださいますの? エラにまで?」
「お詫びを兼ねて。彼女は、とても貴女思いの女性だ」
そう言われ、マーシャは二つのブローチを手の中に納めた。買ってくれたことは嬉しいが、妙にもやもやした気持ちになっているのは何故だろうと思う。エラに嫉妬しているのだろうか。デルバートは、エラの方に気があるのかとすら、疑ってしまう。
そんなことを考えていると、店主の男――フレッドが、デルバートにだけ見せるように、小箱を開くのが目の端に見えた。それを見たデルバートが、驚いたようにそれを見つめている。
「前にこちらに来られた時に、随分と、この石をお気に召しておられたでしょう? 貴方はあまり着飾る方ではないでしょうが、これなら、身に着けやすいかと思いましてね」
マーシャは、興味の無い振りも出来ずに、彼の手元の箱を覗き込んだ。母親に見られれば、淑女のすることではないと叱られるところだ。
そこには、黒い石が嵌め込まれた銀の指輪があった。ガラスのような光沢のある石だ。男物として作られているからか幅のある指輪で、アカンサスの模様が彫られている。
「黒い、宝石?」
「黒曜石というのです、お嬢様」
にこやかに説明してきた女の声を聞きながら、マーシャはデルバートがそれを大切な物のように丁寧に手に取るのを見ていた。
「私の為に?」
「貴方がお持ちになられるのが、良いのです。この石をどうしようかと考えた時、貴方様が浮かんだので」
フレッドの勧められるまま、その指輪はデルバートの右親指に嵌められた。誂えたように、ぴったりと馴染んでいる。
「よくお似合いです」
「ありがとう、フレッド。すまないな」
「とんでもない!」
嬉しそうに笑うフレッドを、女が隣でにこやかに見ている。その女に顔を寄せ、マーシャは小声で話しかけた。
「あの、デルバート様って、よく来られるの?」
「ええ、ブローチやペンダントなどを、お買い上げになられますよ。どなたかへの贈り物なのだと思います」
「そ、そう……」
親指に嵌めた指輪を胸元に上げ、どこか遠くを見ているような目で眺めているデルバートを、マーシャは見つめた。女連れを珍しく思われるほどなのに、贈り物をする相手はいるようだ。ブローチを買ってもらった心の弾みが、萎んでしまいそうになる。いっそどなたにと聞いてみようかと思った時、指輪を見つめるデルバートの目が、驚くほど優しいものになっていることに気付いた。そんな彼の薄い唇が、指輪にそっと落とされる。
「デルバートさ……」
目にしたデルバートの行為に、マーシャはかけようとした声を止めていた。
「まぁ」
驚いたのは店の女も同じようで、見れば、何故か嬉しそうに口元を緩めている。彼の目の前にいるフレッドの方が驚いているようだが、デルバートに出来を褒められると、恐縮しながらも片手を首に当てて笑った。
「マーシャ嬢。そろそろ行きましょうか」
「え、ええ」
動揺を悟られないよう、マーシャは平静を装った。何故だか、見ていないことにしておきたい気分なのだ。
デルバートの表情は、冷静なものに戻っている。まるで先程見たものが夢だったかのように思えたが、やはり彼の右親指には、黒曜石の指輪が嵌まっているのだった。
緩やかな斜面を、マーシャはデルバートにエスコートされながら歩く。珍しい物が見たい、という要望に対し、彼が「少し歩いて良いのなら」と提案したのが、この先にあるという広場だからだ。
起伏のある町並みには、荷馬車の通りも多く、店が両側に並んだ区画を抜けると、比較的大きな建物が並んでいるのが見える。いくつかの水路を越えて歩く中では、石畳の道の端で、石工と思われる男たちが作業をする姿も見られた。
「この辺りは豪商の屋敷が集まる場所です。各ギルドもあり、聖堂もあり、治安もそう悪くない」
そう説明しながら案内されたのが、聖堂前の広場だ。白いローブを纏った聖職者らしき者たちが、聖堂前を箒で清掃をしている。木造の建物が多い中、石造りの白い聖堂の姿は眩しいほどだ。
その広場の中央に、巨大な岩が鎮座していた。それは奇妙とも言える色合いをしている。赤と黒と青緑がうねりを描いて固まっているような、それでいて不思議な調和を感じる岩だ。
「あれは、一体何ですの? あんな岩は見たことがありませんわ」
傍に寄って触れてみると、ひやりと冷たい。
「さて……私にも、さっぱり」
軽く笑ったデルバートが、指輪を嵌めた右手で岩に触れた。
「三色岩と、皆は呼んでいますよ。四色にも見えますが」
青と緑が混じったような部分には、鉱石が混じっているようだ。
藍銅鉱と孔雀石が混じっていると聞いたことがあるのだと、デルバートが言う。しかし何故こんな固まりになっているのかは、分からないのだそうだ。
「この岩に祈る者もいます。聖堂を前にして、司祭は良い顔はしませんが」
「それは、そうでしょうね」
当然だと笑うと、デルバートに広場の端にエスコートされた。花壇の手前には、木製のベンチが置かれている。考える間もなく、そのベンチの上に彼が取り出した長方形のハンカチーフが敷かれ、マーシャは半ば感心しながら腰を下ろした。
「貴方って、女性慣れしていらっしゃるのですね」
そう言って笑いかけると、デルバートが僅かに眉根を寄せる。それから隣に座り、諦めたように小さく息を吐いた。
「私が小姓としてお仕えしたカークモンド公の奥方が、厳しいお方でしてね。それだけです」
「まぁ、そうでしたの」
その答えだけで納得できるものではないが、ひとまずマーシャは安堵した。
銀細工の宝飾品も、その奥方に贈っているのかもしれない。
「お聞きして良ろしいでしょうか? デルバート様」
そう前置きし、マーシャは意を決してデルバートの静かな視線を受け止めた。彼の答えを聞くのが怖い。それでも、聞かなければ気になって仕方がないのだ。
「私との縁談を、どう思っておいででしょう?」
デルバートからの返事は、すぐにはなかった。
少しの沈黙の後、彼が口を開く。
「失礼ながら、逆にお聞きしたいですな」
「え?」
質問を返され戸惑うと、デルバートの視線は岩の方へと逸らされた。
「貴女は、亡きサディアス卿との間に御子がお有りの筈ですが、お手元にはおられないとか」
「え、ええ。今は、フォルトン侯爵様のところに」
まだ幼い子の顏を思い出し、マーシャは視線を落とし自らの膝元を見つめた。
十八の時、フォルトン侯爵の次男であるサディアス・マドックに嫁ぎ、暫らくして男子を授かった。しかし一年ほど前に夫サディアスが流行り病で亡くなり、子の世話も乳母に取られ、フォルトン卿の奥方との仲もうまくいかず、居場所がない気がしたのだ。それで、生家に戻った。その際、我が子を連れて戻ることは、許されなかったのだ。
「まだ五歳にもならない子ですもの。私のことなど、すぐに忘れます。きっと」
そう言いながらも、マーシャは悲しみを覚えていた。実際に子の世話をしたことはそう多くはない。恋愛感情などないまま結婚した前夫との子供で、男子を産んだ時に一番に思ったことは、これで役目を果たした、ということだった。それでも十月ほど、この腹にいた子供なのだ。
「申し訳ありません、マーシャ嬢」
「えっ」
突然の謝罪に、マーシャは顔を上げた。沸き上がっていた涙が、そのせいで少し零れてしまう。
デルバートの真摯な瞳が自分を見つめていることに、マーシャは見惚れた。
「そのような涙を流す貴女に、する質問ではありませんでした。お許し下さい」
「いいのです、デルバート様。捨てたと思われても、仕方ありませんもの。もう前を向くことにしたのです。だから、ここに来たのですわ」
この男のことを、もっと知りたい。そうマーシャは思った。この男に嫁ぎ、彼を公爵閣下にまで上がらせる。それはこの身を賭けても良いほどの、甘美な夢に思えた。
「忘れませんよ、きっと」
「え?」
デルバートの視線が、自らの指輪に落とされた。穏やかな陽光を受け、それらを反射しているような物言わぬ黒曜石の声が、彼には聞こえているかのように見える。
「子は、母親を忘れぬものです。幾つになっても。たとえ、一時忘れていたとしても」
「デルバート様……」
「心で、想っていれば良いのだと思います。無理に忘れる必要はありません。それに貴女は、いつか会えるかもしれない」
「あ……」
マーシャは、デルバートの瞳が僅かに揺らいだことに気付いた。それはほんの僅かの間に彼が見せた表情だったが、胸に灯った情熱に冷水を浴びせられたような、そんな感覚を覚えた。
「デルバート様は、亡くなられた婚約者様を、まだ……」
デルバートの表情が、自嘲気味に笑みを形作る。
「私では、貴女に相応しくありません。そう、オールーズ侯爵に申し上げるつもりです」
「デルバート様!」
言い募ろうとするも、デルバートが視線を外して立ち上がってしまい、マーシャは促されるまま黙って立ち上がるしかなかった。
ハンカチーフを器用に折り畳んで回収したデルバートを見上げれば、初めて会った時よりは、表情が柔らかくなっている気がする。
「エラ殿のところへ戻りましょう。マーシャ嬢」
もう少し一緒にいたい、そう思うが、今は言っても無駄なのだろうという気持ちが、言葉を発することを止めた。無理に縋り嫌われては、元も子もない。
「貴方に買っていただいたブローチ、大切にしますわ。私、貴方も前を向くべきだと思いますもの」
そう言って最大限強がり、笑顔を向ける。
僅かに眉根を寄せたデルバートが「困った方だ」と呟いたのを聞き流し、マーシャは半歩後ろから、彼の右腕に手を添えた。




