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15 スペンス家の人々

 (うさぎ)だ。

 ルクは、視界の端に映った獣を見ていた。村の畑でよく見かけるコムギウサギではない、灰色がかった茶色の毛をした、柔らかそうで美味うまそうなうさぎだ。前を向いて立っている長い耳が、時折、横にも向けられている。外から台所の隅に、いつの間にか入り込んでいたらしい。


 ルクの頭の中には、すでに調理法が浮かんでいた。勿論、生のままでも良いのだが、丁寧に皮を剥いで肉を焼き、その肉汁に白ワインや香辛料を入れて煮込むと、良いソースができるのだ。それをかけた肉を頬張った時の充足感を想像し、ルクはほくそ(・・・)笑んだ。

 そろそろと足を慎重に移動させ、外に逃がさないために兎の背後に回る。呼吸を出来るだけ殺しつつ姿勢を低くし、両腕を伸ばした。


「あ!」


 視界から、兎の姿が跳ねて遠ざかる。

 ルクは慌てて追いかけたが、兎が逃げ込んだ先を見て喜んだ。人間の娘――カイに呼ばれた時に聞こえるようにと開けている扉から、中に入り込んだのだ。

 兎を追って室内に入ったルクは、開けていた扉をしっかりと閉めた。表の扉は閉めてあるため、もうあの兎を捕まえたも同然だ。


 たまにデュークラインが鹿などの獣を仕留めてくることもあるが、それは大抵、瘴気しょうきに呑まれて凶暴化したたぐいで、そういう肉は量は取れるものの、健康な個体に比べれば味は落ちる。自然と危険を察知する能力が衰えた弱い個体が、瘴気に呑まれることが多いからだ。だから、大概のまとも(・・・)な獣はこの塔には近付いて来ない。デュークラインが言うには、おそらく塔周りの結界のせい、らしい。自分は長くここに居過ぎて分からないが、何やら気持ち悪い感じがする、というやつなのかもしれない。森で瘴気に気付く時の感覚に、似ているのだろう。


 兎の姿が見えず、とりあえずルクは自分の部屋を抜けて暖炉のある部屋から、左へ入った。鎧戸が上げられており、明るい陽射しが入り込んできている。

 ベッドの上には、ようやく自分で体を起こせるようになったカイの姿があった。窓の下の壁に背を預け、エリュースが持ってきた本を膝に乗せて開いている。


「嬢ちゃん、うさぎきた? 毛玉みたいなやつ」


 声をかけると、顔を上げたカイが嬉しそうに笑った。彼女がなんとか動けるようになるまでとどまっていたデュークラインが数日前に出掛けてしまってから、久しぶりに見た笑顔だ。


「きた」


 ふふふ、と口を開けずに笑うカイに近付き、彼女の目線の落ちている先を覗く。彼女の腹部と本の間に、大人しく座り込んでいる兎を見つけた。

 喜んだのも束の間、カイの囁くような声と共に、両手に持った本を少し押し出される。


「持って、そっちに置いて」

「う、うん?」


 高価そうな本を受け取り、ルクはそれを彼女から離れたシーツの上に丁寧に置いた。

 顔を上げると、カイの白い手が兎の額を撫でている。柔らかそうな毛が、そのたびにふわふわと揺れている。それを見つめているカイの微笑みに、ルクは嫌な予感がしてきた。


「嬢ちゃん、それ、晩御飯」


 そう言うと、カイが顔を上げ、また膝元の兎を見下ろした。撫でていた手は止まり、その両手が兎の丸い体を包み込む。


「食べちゃうの?」

「たまに、嬢ちゃんも、食べてる。肉、食べないと、ちから出ない」


 驚いた様子のカイから、なんとか穏便に兎を奪えないかとルクは思案した。一番効きそうだと思いついたのは、デュークラインのことだ。食の細い人間の娘だが、彼が根気強く食べさせてやってきたお陰で、最近では皿に入れたスープを食べ切ることもある。それが、彼に褒められたいがため、という理由を、ルクはなんとはなく感じ取っていた。


「それに、旦那も喜ぶぞ。嬢ちゃんが、捕まえたと言ったら」


 この台詞は効果ありだった。遠い昔に見た記憶のある、洞窟内の黒々と光る岩のような瞳が、水を浴びたように潤んでいる。もう一押し、とルクはベッドに両手をついてカイを仰ぎ見るようにして身を乗り出した。


「それに、旦那も今夜あたり――」


 帰ってくるかも、と続けようとして、ルクは視界を遮られたことに驚く。カイの膝元でいた兎が、彼女の胸元に抱き付くようにして跳び上がったのだ。痛みを感じたのか、一瞬表情を歪めたカイが、それでも兎の体に両手を添えた。そんなカイの肩口に、兎が薄い茶色の目を細めて顎を乗せ、それを擦り付ける。

 次第に恍惚とした表情になったカイが、両腕で兎を抱き締めた。


「ルク。やっぱり、この子はだめ」

「嬢ちゃ、」

「だめ。ルク」


 きっぱりと言いきられ、ルクはがっくりと肩を落とした。

 こうなっては、諦めるしかない。無理矢理奪うことはできるが、そこまでして食べ物を確保しなければならないほど、在庫が無いわけではない。それに、せっかく笑ったカイを泣かせるのは、どうにも気が進まなかった。


「分かった、嬢ちゃん」


 溜息を吐いてベッドから離れようとしたルクは、自分の腕が掴まれたことに気付いた。引き留める力などほぼ無い握力だが、ルクが動作を止めるには充分な行為だ。

 顔を上げれば、兎を片腕で抱いているカイが、眉根を寄せて困ったような顔をしている。


「ごめんね、ルク」


 そう言われ、ルクは驚きつつも、少し嬉しい気分になった。


「いい。肉は、まだある」

「ありがとう」


 兎を撫でながら、カイが嬉しそうに微笑む。兎のお陰か、彼女の具合は朝よりも良くなったようだ。


 彼女がうなされずに眠ることは、少ない。今朝なども、「おかあさん」と「ごめんなさい」の繰り返しだ。よく聞く言葉なので、覚えてしまった。

 デュークラインに言われたように揺さぶって起こした後も、泣き腫らした目でぼんやりとしていた。底なし沼のような暗いで、ここではない何処かを眺めているような、そんな様子だったのだ。デュークラインがいれば、そんな状態を見ることは少ない。彼は彼女に対してだけ、魔法が使えるかのように思う。

 ルクにとっても、デュークラインが居てくれる方が有難かった。カイを任せておけるし、何かあった時に対する安心感が違う。そう思ってはいるのだが、こうしてカイと二人だけで話すことも、悪くはないと思い始めている。


「どうしたの? うさぎさん」


 カイに話しかけられたかと思って顔を上げると、それは兎に向けられたものだった。微かに、コツコツと歯が当たっているような音がする。兎の口からだ。森の樹々が風に揺らぐ音や鳥の声などに消されそうな、ほんの小さな音だが、間近に耳を寄せているカイにも聞こえるらしい。

 相変わらずひくひくと動いている兎の鼻に目が行きつつ、顔を近づけると、兎が急に顎を上げた。音が消え、長い耳を辺りに向けている。

 あっと思った時には、兎は跳んでいた。カイの肩にのぼり、そこを足場に、上げられた鎧戸の窓から外に飛び出たのだ。


「うさぎさん、行っちゃった」

「ごめん、嬢ちゃん。おで(・・)が、近付いたからかも」


 食べられると思ったのかもしれない、と思う。しかしカイは首を振ってくれた。少し寂しそうな、諦めが滲んだ微笑みが、彼女の顔に浮かぶ。


「いいの。あの子は、どこへだって行けるから。それに……」


 思いを馳せるように窓から空を仰ぎ見たカイが、呟く。


「また、来てくれるから。きっと」


 ルクはそんなカイを見ながら、少年たちを思い出した。彼女がそう願っているのは、兎というより、おそらく彼らなのだろう。

 あの後、カイにエリュースからの伝言を伝えた時、彼女は泣いたのだ。デュークラインにすがり付き、彼になだめられながら、声を震わせて泣いていた。嬉しい時にも涙が出るのだと、その時知ったのだ。


おで(・・)も、そう思うぞ」


 そう伝えると、振り向いたカイから、嬉しそうに微笑みかけられる。

 ルクは、こそばゆい気持ちになりながらも、意識的に口角を引き上げた。



 

* * *




「縁談……ですか」


 向けられる優しい笑みを受け止めながら、デルバートは困っていた。

 肘掛け椅子に座っているマルヴィア・スペンスの明るい茶色の髪は緩やかに結われており、他で滅多に目にすることのない透明なガラス窓から差し込んでいる陽光で、自分と同じ藍色の瞳は薄く透けて見えている。今年で六十三になる彼女の笑みは年々穏やかさを増しているようで、不義理な息子を、毎度温かく迎えてくれる母親だ。そんな彼女の要望には、出来る限り応えたいと思っている。しかしデルバートにとって結婚は、絶対に避けねばならない事の一つなのだ。


 笑みを深めた彼女に視線で呼ばれ、デルバートは床に広がっている彼女の鮮やかな緑色のドレスのすそを踏まないようにして近付いた。


「オールーズ侯爵の次女で、マーシャと言う娘です。一度結婚しているけれど、夫と死に別れて戻っているらしいの」

「しかし、私と侯爵の娘御むすめごでは……」

貴方あなたが言いたいことは分かりますよ、デルバート。貴方が死んだと思っていた私たちは、養子にしたルシアーノに貴方の爵位を与えました。帰ってきた貴方は、それを取り戻そうとはしなかったわ。そのままルシアーノが侯爵位を、貴方はここから出てしまった」


 哀しみの色をした瞳を陰らせ、マルヴィアがガラス越しの緑葉に視線をやった。


「でも、貴方あなたが私たちの、スペンス家の息子であることに変わりはないのです。それに私はまだ、貴方が正当な跡継ぎだと思っているのよ」

「母上……!」


 驚きつつも、デルバートは彼女の発言を言外にとがめた。


 二十九年前に起こった王都エランとの戦争の最中、スペンス家の一人息子デルバートは劣勢の戦場から消えた。約二年間続いた戦争が終わっても帰って来ず、最早もはや死んだのだと皆は結論付けたのだ。ノイエン公爵フレイザーは遠縁から養子ルシアーノを迎え入れ、デルバートに与えていた侯爵位を与えた。ゆくゆくは公爵位を継ぐ跡継ぎとして。

 そこへ、十九年越しにデルバートが戻ったのだ。


「母上が私のことを思ってくださっていることは、とても有難いことです。しかしルシアーノが聞けば、良い気持ちにはならないでしょう」

「分かっています。あの子も大事な息子だわ。でも、貴方あなたは紛れもなく私の大切な、可愛い息子なの。幾つになっても心配なのよ。せめて、この縁談を受けて、この母を安心させてちょうだい」


 振り向いたマルヴィアの濡れた瞳に、デルバートは答えにきゅうした。縁談を勧められたことは過去何度もあったが、ここまでの熱量で迫られたことはなかったのだ。本気でこの縁談を進めようとしていることが分かるだけに、断るには納得させられるだけの理由が必要だろう。これまでのように、病死した婚約者を盾には出来ない。


「母上。もう少し、待っていただくわけには――」

「待てませんよ、デルバート。もう充分待ちましたもの。それに、すでにオールーズ侯爵一行がこちらに向かっています」

「それでは、娘御も?」

「ええ、勿論」


 可愛らしく、にっこりと笑ったマルヴィアに、デルバートは片手で頭をかかえた。

 これで、一度も会わずにいることは不可能となった。相手が格下とはいえ、相応の接待をせねばならないからだ。スペンス家の名を、礼儀知らずとおとしめられるわけにはいかない。


「分かりました、母上。ひとまず、会うだけは会いましょう」

「デルバート!」


 嬉しそうに破顔はがんしたマルヴィアが、椅子の肘を押すようにして立ち上がる。それを支えようとすると、伸ばされた両腕で抱き締められた。柔らかなその体に、デルバートも両腕を回す。落ち着かせるよう抱き締めながら、背をゆっくりとたたいた。

 胸元から、マルヴィアのくぐもった、可笑おかしそうな笑い声が上がる。


貴方あなたは本当に、知らない間に大人になったわね」


 しみじみとした響きを持った彼女の言葉に、デルバートは手を止め、抱き締める腕に少し力を込めた。


「この年になってまで、とお笑いにならないで下さい。私はまだ、ただの、母上の息子でいたいのですよ」

「デルバート……」


 揺らいだ声で名を呼んだマルヴィアの体をそっと離すと、藍色の瞳が涙ぐんでいる。僅かながら罪悪感を覚えたような、そんな彼女の表情に、デルバートはなだめるように微笑ほほえんでみせた。





 昼下がり、デルバートは父フレイザー・スペンスと馬首を並べ、速歩で走らせていた。馬車がかろうじて走れるようにならされた道はあるが、辺りは勾配こうばいのある荒野が広がっている。それは銀を抱く山々からつらなる森に、侵食されていく途上のように見える。肌に受ける風は少し涼しく、黒いたてがみを揺らす青鹿毛(くろかげ)の馬の機嫌も良いようだ。


「お前が出迎えてくれるとは、嬉しいことだ。もうマルヴィアには会ったか?」

「ええ、父上。お二人ともご健勝で何よりです」


 マルヴィアから、彼がルシアーノと各々の従者を連れて隣町の視察から帰ってくる頃だと聞き、単身迎えに出たのが、四半鐘間しはんしょうかん(※45分)と少し前だ。城下町であるアルゲントゥムを出て少し馬を走らせたところで合流し、今は再びアルゲントゥムへと戻ろうとしている。


 フレイザーが、その白い口髭くちひげの下で穏やかに笑った。お前もな、と嬉しそうに言ってくれるこの父親は、よわい七十になっても乗馬好きは変わらないようだ。隣町とはいえ荒野を越える道行きにマルヴィアは良い顔をしなかっただろうが、ルシアーノが付いてきているところを見ると、彼の同行によって彼女が許容する範囲となったのだろう。


 デルバートは、後方から付いてきているルシアーノを振り返った。自分より八つほど年下の彼は、前髪を切り揃えた中肉中背の男だ。彼の隣と更に後方には、帯剣をした従者がいる。


「ルシアーノ。お前のお陰で、父上は楽しい遠出をなされたようだ」


 礼を言うつもりで声をかけると、ルシアーノが口元だけで笑った。


「父上のご健康のためですので。兄上が来られなくとも、危険などはありませんでしたよ」

「それは、何よりだ」


 嫌味と取られたか、と思ったが、デルバートはえてそれ以上は言わなかった。彼の傍にいる従者たちが、彼に対し、焦ったような顔をして困っているのが分かったからだ。

 視線をルシアーノから外し、隣のフレイザーを見ると、待ち受けられていたように目が合った。申し訳なさそうにまぶたを下ろすさまに、デルバートは片方の口角を僅かに上げてみせる。


 ルシアーノとの関係が微妙な緊張感をともなうものであることは、ある意味仕方のないことなのだ。彼にとってデルバートは、みずからの地位を揺るがす危険性をはらんだ人物に違いないのだから。


「ところで、どうでしたか、視察の方は」


 デルバートはフレイザーに話題を振った。

 すると、フレイザーの両頬が上がる。


「問題なく町は運営されているようだったぞ。任せているオービル卿は慌てておったがな」


 思い出しているように口元を緩めて笑ったフレイザーが、そういえば司祭がな、と同じ調子で続ける。


「こちらが聞きもしないのに、教団に納めた税はこれくらいでと、今年の収穫量を話し始めてな。いろいろと言い訳じみたことを言っていたが、あれは、私腹を肥やしておる。良いワインを出してくれたことに礼を言っただけなのだがな」


 とがめるでもなく話すフレイザーに、デルバートは軽く笑った。


「まぁ、結果的にその司祭がどうなろうと構いませんな。こちらに飛び火するようであれば、手を打たねばなりませんが」

「そういうことだな」


 そう言って、フレイザーも笑っている。よほどその司祭の動揺ぶりが、可笑おかしいものだったのだろう。

 教団に納める税を少なくした分を、オービルに納めている可能性もあるな、とデルバートは思った。何かあった時に必ず護ってもらえるとは限らないが、その司祭が賢い者ならば、オービルが金で動く人物かどうかの見極めはしているだろう。もし教団に暴かれて問題視され、司祭が交代させられても、こちらとしては痛手にはならない。教団に納める税の管理を、こちらがしてやる義理はないのだ。


 視線の先に、アルゲントゥムの城壁が見えてきた。城下町を囲む高い石壁は、アルシラにも劣らない堅固なものだ。更にその石壁を囲むように水堀があり、町へ入るには跳ね橋を渡らねばならない。


「デルバート。一つ、お前に頼みたいことがある」


 少し改まって言われ、デルバートはフレイザーからの強い視線を受けとめた。


「辺境にあるノリッチという村で、裁判が開かれる。通常は向こうに任せているのだが、今回は殺人事件でな。しかも、被告人は村長の息子だ」

「被害者がよく、泣き寝入りしませんでしたな」

「一人ではなくてな」



 被害者が一人ではない、ということに、デルバートは小さくうなずいた。

 数人いたとして、それぞれの親兄弟が結束して声を上げたということだろう。


「お前には、その裁判の立ち合いをしてもらいたいのだ」


 フレイザーの申し入れに、デルバートは即答を避けた。後方からの視線が、背に突き刺さりそうに感じる。


「父上。その役目は、私では力不足ではないかと。慣習かんしゅうや条例に沿って裁判を進行できる知識のある者の方が良いでしょう。父上の代理ということならば、ルシアーノが適任かと思います」


 そういう知識が足りていないことを、デルバートは自覚していた。仮に知識があったとしても、裁判などを切り回す能力も、自分には不足している。対してルシアーノは勤勉だと聞いており、内政向きの人間だ。彼を後継者だと知らしめるためにも、彼が行く方が良いだろう。

 フレイザーの口が開かれようとした時、ルシアーノが自分の隣に上がってきた。


「父上、私がノリッチへ行きます。兄上には縁談もあることですし、残っていただいた方が良いかと」

「あぁ、縁談か――」


 思い出したかのように言ったフレイザーが、少し困った顔をした。それを見たデルバートも、困った事態になっていることを再認識する。会うだけだとは言ったが、あのマルヴィアの様子では推し進められかねない。


「マルヴィアも、思い切ったことをしたものだ。だが、それを待たせてでも、デルバート、お前に頼みたいのだ」

「父上!」


 驚いて声を上げたルシアーノを、フレイザーが視線だけで制した。さすがはカークモンド公爵クラウスと共に戦場に出ていただけのことはある、とデルバートは感心した。体調を崩していたため先の戦争には出なかったが、まだまだ現役としての目力はあるようだ。


「裁判が行われるといっても、人間同士のことだ。正当に平等に行われるかは分からぬ。ノリッチの村長は幅を利かせていると、近頃は私の耳にも入るほどだ。陪審員のみならず裁判官も買収される可能性がある。これまでもあったが、揉み消されてきたのかもしれぬな。ルシアーノ、お前が行けば裁判はとどこおりなく終わるだろうが、その先は見届けられまい」


 フレイザーの言いたいことを、デルバートは察した。

 彼は裁判に関してよりも、その結果の先に憂慮ゆうりょしているのだ。十中八九、その村長の息子は有罪になるだろう。複数人殺しているのならば、過去の判例から極刑はまぬがれないと思われる。問題は、本当にそれが実行されるかどうかだ。村長が手を回し、回避もしくは逃亡させないとも限らない。ノイエン公爵領の辺境であるがゆえ、監視の目が届きにくく、不心得者を生み出しやすい環境ではある。要は、相手に舐められないよう、手綱を締めて来いということなのだ。


「分かりました、父上」


 納得し、デルバートは引き受けることを表明した。


「そういうことならば、私がノリッチへ参りましょう。判決に従って、滞りなく刑が執行されるように致します」


 必要ならば、みずから執行すればよい。そう考える自分(デルバート)を分かっているからこそ、フレイザーは頼むのだろう。彼が覚えているまだ十代半ばだった『デルバート』が、同じ考えをいだくかどうかは分からない。それでもこの自分の考えを理解し、信頼しているのだということに気付き、デルバートは複雑な思いをいだいた。突然帰ってきた記憶障害のある息子を、それでも受け入れ父親として接してくれているフレイザーに対し、知らず知らずに気を緩めている瞬間があるのかもしれない。それが不快ではない感覚を、どう処理すべきかデルバートは分からなかった。


「行ってくれるか、デルバート。お陰で、頭を悩ませていた問題が片付いた。お前が帰ってきてくれて助かったぞ。マルヴィアには、私から言っておこう」

「そうしていただけると、助かります」


 そう答えると、フレイザーが表情を緩めて笑った。




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