14 悪夢の後
木戸を引いて厠から出たエリュースは、薄暗い空間を振り返った。丁度塔の裏側にある厠の壁一枚向こう側には、おそらく馬小屋があるのだろうと思う。二頭ほどの馬の蹄の音や低い嘶きが、ずっと聞こえていたからだ。馬同士が会話しているようなそれが面白く、つい長居してしまった。
そろそろ出立した方がいいだろうと思いながら、左側の石壁と屋根によって構成されている空間に戻る。視界の向こうにはまだ明るさの残る夕暮れが広がっており、ゴブリンの姿はない。
興味をそそられたエリュースは、少しだけ見て回ることにした。短く刈られた草地には所々に平らな石が敷かれており、それは暖炉や、別の炉や、パン焼き竈の前であったりだ。暖炉の上には大きな煙突が備えられており、その位置から見て、テーブルの部屋の暖炉と背中合わせになっている。ゴブリンのルクが温かい食事を作ってくれていた時も暖炉に火が入っていなかったことから、気温が暖かい間は別の炉を使っているのだろう。中央の調理台には、その炉から下ろしたと思われる大鍋が置かれている。
暖炉の傍には火かき用の鉄棒が立てかけられており、ひしゃく等の調理用具も揃っている。木製の棚には高価な香辛料と思われる小瓶が幾つも置かれており、大聖堂騎士のサイラスや司祭のアンセルの家の台所ですら見たことのない物まであるのは驚きだ。
ごみは一所に集められ、清潔に保とうとする意志が感じられる。ここを普段ゴブリンが使用しているとは、エリュースには信じ難かった。以前、討伐任務で入ったゴブリン洞窟は、不潔極まりない場所だったからだ。もしかしたらあのゴブリンは、これまで生きてきた大部分を、人間と共に過ごしてきたのかもしれないと思う。
そういえば、あの葉舟はどうなったのか。
夕暮れに誘われ、エリュースは台所を抜けて外に出た。秋らしい虫の音が少し煩いくらいだが、清廉な水音は耳に心地良く響いてくる。水中花がぽつぽつと咲いている池を覗き込むと、糸状の葉に引っかかっている舟を見つけた。カイが、一生懸命に作った舟だ。
ここに来るにあたり、可哀相な境遇に置かれている少女に少なからず同情し、気晴らしになればと本を借りてきた。多少なりとも、デュークラインの心証を良くしようとしたためでもあった。あれほど喜ばれるとは思っていなかったが、彼女が本に描かれた花を指先でなぞるのを見ながら、不思議とそれを嬉しいと感じた。この葉舟を作った時も、慣れない手つきで、それでも諦めることのなかった彼女に、素直に好感が持てた。タオが言う、護ってやらねばならない気がする、という気持ちも分かる。彼女の無垢な笑顔が儚げに思えるのは、彼女が抱く危うい精神状態――デュークラインが思い出すなと言っていたことから考えて、おそらく何らかの良くない記憶が絡む――のせいなのかもしれない。
エリュースは腰を落とし、葉舟に手を伸ばした。その時、目の前を光が横切る。ウィスプの夜に見た、カイの周りにいた小妖精だ。それが驚くほど近くで、その透き通った羽を羽ばたかせている。
「あんたらも、カイの友達なのかな?」
言葉が通じないだろうと分かっていたが、エリュースは物珍しさも手伝って話しかけた。緑葉のような色の瞳に覗き込まれ、顔周りを飛ばれ、高い囁き声が耳の傍で聞こえる。
断罪の広場でタオが聞いた風の精霊の声もこんな風だったのかもしれないと思いながら、エリュースは立ち上がった。葉舟はこのまま置いておけば、また明日カイが見つけるかもしれない。そうすれば、作り方を忘れていても思い出せるだろうし、そのまま浮かべて遊ぶこともできるだろう。
「戻るか」
戻って、カイや他の皆に挨拶してから、ここを出よう。
そう思い、エリュースは再び屋根のある台所へと向かった。その間も、小妖精たちが周りを羽ばたきながらついてくる。心なしか、慌てているようにも見える。視界を塞ぐように前に回ってくるのだ。
「おいおい、何なんだよ」
エリュースはやんわりと手を振って彼らを退けようとするが、直接触れることも躊躇われ、どうしようもない。
後退した途端、何かに肘がぶつかった。それが調理台の上に置かれていた大鍋だと気付き、慌ててそれを両手で支える。
「うわ! あっぶねぇ」
蓋を開けてみれば、まだスープが残っている。ルクの分なのだろうと思い、エリュースは蓋を閉じた。先にカリス、カイ、タオと自分が食事をさせてもらい、その後でデュークラインとシアンがテーブルを使っていたが、ルクは用事を言われていた気がする。まだ戻っていないのか、それとも中にいるのか、そんなことを考えながら、前から退こうとしない小妖精たちにエリュースは本気で困り始めた。
その時、くぐもった声が聞こえた。閉め切られている塔の中からだ。エリュースは、それがカイの声だと分かった瞬間、足を止めた。
カイの声は小さく、普通に喋っているならば、ここまで届く筈がないものだ。耳を澄ませば、それが何かを訴えるような叫び声だと分かった。それだけでも、何かが起きていると判断するには充分すぎる材料だ。
中にいる筈のタオはどうしているのかと、エリュースは暫し考えた。剣が使える彼とデュークラインが中にいる状態で、カイの悲鳴が聞こえることが異常なのだ。とにかく、なんとか中の様子を確認しなければならない。
小妖精を手で押し退けた時、近付く靴音がはっきりと聞こえた。瞬間、扉が開く。カイの涙混じりの声が、清明に耳に飛び込んできた。驚いたことに、人の言語ではない。
カイの名を呼ぼうとし、エリュースは声が出ないことに気付いた。と同時に、外に出てきた男の姿を見て驚く。見覚えのない男は聖職者の白いローブを身に着けており、その手には抜き身の剣が握られているのだ。しかしその男の姿は、色を失くし微妙に揺らいだ。気付けば、視界に映る全てのものが揺らいで見えている。体は金縛りにあったかのように動かない。こちらを向いた男に息を呑むが、視線は合わない。まるで空間が違っているように、こちらの姿が見えていないようだ。
男は厠の方へ行き、すぐに戻ってきた。彼が立てる音も、まるで水中から聞いているかのようにくぐもっている。エリュースを避けるようにして外に向かった男が、またすぐに戻ってきたのを、エリュースは動けない体で見ていた。再び男が中に戻り、扉が閉まった瞬間、視界が元に戻る。
一体何が起きたのか。あの男は何者なのか。
干上がった喉に唾を押し込み、エリュースは動けるようになった足を踏み出した。その時、体に触れる微かな感覚があることに気付く。
「小妖精……?」
数体の小妖精が、ぐったりとした様子で肩や腕に触れている。昆虫のような羽は微かな光を零すばかりで、まさに力尽きている状態に見えた。
「さっきのは」
小妖精たちが隠してくれたのだ。そう理解したエリュースは、中の様子を探ることを断念した。あの時のカイの言葉は、この小妖精たちに向けたものだったのかもしれない。自分は、カイと小妖精たちに護られたのだ。ならば、これ以上は、無茶は出来ない。
「ありがとな」
飛べなくなっている小妖精たちを両手に横たえ、エリュースは小さく礼を言った。
どれほど時が経っただろうか。台所の外側に当たる壁から少し離れた草むらに身を潜めていたエリュースは、塔の外に聞こえる男の微かな話し声に気付いた。急に聞こえてきたことから、塔の中から出てきたのだろうと思われる。声の遠さや、視界にそれらしい人物が見当たらないことから考えて、彼らは塔の前庭にいるのだろう。それは徐々に遠ざかり、殆ど聞こえなくなった。
高い囁き声が身近に聞こえ、エリュースは手元の小妖精たちを見下ろした。釣り上がった緑葉色の大きな瞳に見つめられている。整った顔付きをした少年とも少女ともつかない小妖精が、笑ったように見えた。彼らに、徐々に光が戻ってきている。
「あ、れ?」
それに反して、自身の体が重く感じることに、エリュースは気付いた。まるで癒しの奇跡を施した後のような疲労感が、いつの間にか全身に広がっている。
「まさか」
これは小妖精たちの仕業なのか――そう思うが、彼らは可笑しそうに笑うだけだ。ふわりと浮き上がり、その透き通った羽から細かな光を撒き散らす。
「おい、エル」
頭上からルクの声がし、エリュースは驚いて顔を上げた。赤く光る瞳に、覗き込まれている。ゴブリンを見て安心するなど、可笑しな気分だ。
「もう、戻っても大丈夫かな」
そう問うと、ルクが神妙な顔つきで頷いた。
疲労感を感じながらも、エリュースはルクと共に塔の中に戻った。嗅いだことのある臭いに一瞬、足を止めてしまう。しかしルクに促され、血の臭いのする方へと歩を進めた。
テーブルの部屋の向こうのホールが、驚くほど明るい。まるで礼拝堂のようなその空間の中央に、倒れている少女の姿があった。着ていた白いローブは血を吸って赤黒く変色しており、溢れた血が板張りの床に流れ出している。その信じ難い光景に、エリュースは立ち尽くした。
「カイ……?」
シアンがカイの右傍らに膝をついており、彼女の肌に張り付いた衣服を剥ぎ取っている。後ろからルクが、水が入った桶と数枚の布を抱えてきて彼の傍に置くと、シアンが布を濡らして絞り、彼女の傷を清めるように血を拭い始めた。労わるような手付きでカイに触れているシアンの横顔には、彼女に対する憐れみが見て取れる。その目から、涙が溢れ頬を伝った。
――癒してやらなければ。
焦りの中でそう思い、エリュースは足早に近付いた。しかし、横たわるカイを見て、息を詰める。
見下ろすカイは、息絶えているように見えた。青褪めた彼女の頬には、まるで生気がないのだ。向けてくれた微笑みの欠片すら、見つけることが出来ない。
「エリュース、無事であったか」
声をかけられ、エリュースは我に返って顔を上げた。壁際の螺旋階段の上り口を背に、カリスが立っている。シアンとは対照的に、彼女の表情は冷たさすら感じるほど落ち着いたものだ。分かっていることを確認したかのような言葉に、エリュースは僅かに口角を上げるに留めた。
「カイは……」
「生きておる」
カリスの言葉に、エリュースはその場に座り込みたいほどの安堵を覚えた。彼女の声に、確定的な響きがあったからだ。
「一体何が――、いえ、それより、俺が傷を治します。すぐに」
「駄目だよ、エル」
感情が滲んだような不安定なタオの声がし、エリュースは扉の方を振り返った。入口の扉へと続く通路の壁に背を預けて座り込んでいる姿を見つけ、言葉に詰まる。揺れた声が示す通り、タオが泣いている。ルクに返してもらったのか、鞘に入った剣を床に突き立てるようにして両手で握り、その手の甲に額を押し付けたまま俯いている。
「タオ、お前も無事で」
「俺のことはどうでもいいんだ!」
吐き捨てるようなタオの荒れた口調に、エリュースは彼の心境を察した。見たところ、彼に怪我はないようだ。それはカリスもシアンも同じで、それは自分と同じように、『事』が起こっている間、それに干渉していなかったことを示している。
「何も出来なかった……! カイが泣いているのに、俺は何も……ッ」
悔しさと怒りが混じったタオの言葉に、エリュースも胸が締め付けられる思いがした。隠れていたのは、自分も同じだ。
「カイは誰も呼ばなかったんだ、俺たちのことを誰も。デュークライン、のことも」
「デュークライン……そうだ、彼はどこに」
エリュースは、タオの物言いが気にかかりながらも、この場にいる筈のデュークラインの姿がないことに気付いた。
カリスを振り返ると、彼女の口から小さな溜息が吐かれた。
「そこの坊やと、少し遣り合ってな。外で頭を冷やさせておる。そなた達は帰り支度をしろ。ここに留まっても、今、そなた達にできることはない」
口答えを許さないようなカリスの言葉に、エリュースは従う他なかった。彼女の言う通り、何も出来なかったのだ。何より、これ以上足手纏いになるわけにはいかない。
エリュースはカイの傍に膝をついたが、彼女に触れることは出来なかった。露わになっている少女の胸元に、血混じりの焼き印が見えたからだ。円状の神聖語が刻印されたそれは随分と昔のもののようで、皮膚の成長と共に引き攣り歪みが生じている。にも関わらず、それは断続的に白く発光している。刻印されている文字の意味を読み取ろうとして更に古い傷痕が重なっていることに気付き、エリュースは強い怒りを覚えた。
シアンを見ると、彼の暗い青色の瞳を持つ目が、辛そうにその焼き印を見つめている。
「それが、カイがここから出られない理由ですね。癒しの光も、受け付けない?」
そう問うと、顔を上げたシアンが力無く微笑した。それは肯定を意味するものだと、エリュースは受け取った。
「貴方たちが?」
「まさか」
哀しみを湛えた瞳で答えたシアンに、エリュースは小さく頷いた。およそ分かっていた答えだったが、どうしても確認しておきたかったのだ。
意識を失ったままのカイの目元には、涙の痕が残っている。脆弱な少女が、誰の助けも受けられず弄られた現実に、エリュースは床についた両手を強く握り締めた。
傷も癒してやれないなど、これほどの無力さを感じたことはこれまでなかった。それに比べ、この少女の強さに敬服の念すら抱く。これは繰り返し行われてきたに違いないのだ。そんなことを知らずにやってきた自分たちに、カイは微笑んでくれた。自らの身に起こることを知っていながら、知り合ったばかりの自分を救ってくれたのだ。
立ち上がり、エリュースはタオに声をかけ、荷物を取って来るよう頼んだ。そして、換えの水を汲んできたのか、別の桶を抱えて戻ってきたルクに声をかける。
「ルク。カイが目を覚ましたら、伝えてくれないか。あの本は、もう少し貸しておくからって。大事に、持っていてって」
大きな目を見開いたルクが、大きく頷いた。それに小さく頷き返し、エリュースはカリスに向き直った。彼女の真意はまだ量れないが、やり方はどうあれ、カイを陰ながら見守っているのだと推察できる。現に、シアンとルクがカイの手当てをしている。今は、彼女を信じるしかない。
カリスが、その目を僅かに細めた。
「エリュース。もし外でデュークラインを見かけても、今は引き留めてくれるなよ」
「分かりました」
エリュースは、簡潔に応じた。聞きたいことは山ほどある。しかし今はまず、情報を整理したい。タオからも話を聞くべきだが、彼には少し時間が必要のように思う。とにかくこの場を離れ、これ以上の手間を彼らにかけさせるべきではないのだ。
荷物を持って螺旋階段を下りてきたタオの暗い表情が強張ったように見えたが、エリュースはこの場で追求することは避けた。
ルクが持ってきてくれた火種をランタンに移させてもらい、エリュースはタオを先に外に出した。カリスに一礼してから、暗い庭に出る。分厚い扉を引いて閉めると、まるで別世界に隔絶された気分になった。デュークラインの姿は見当たらない。
少し落ち着いたような虫の音が辺りに広く響いており、見上げれば、闇夜がその星のヴェールを下ろしている。
「タオ。今は、とにかく歩くんだ」
自分の分の荷物を半ば強引に引き取り、エリュースはタオを促した。
* * *
闇夜の中、デュークラインは塔の結界内に戻ってきていた。ここを出てから、四半鐘間(※45分)を少し過ぎている。少年たちが塔を出て行ったのは遠目に見えていたが、すぐには戻れなかった。
何故助けなかったのかと問い詰めてきた少年は、憤りに満ちた瞳をしていた。カイを護っているのではなかったのかと、彼らを何故斬らなかったのかと、カイを殺してしまいたいのかと言われ、頭に血が上った。
私が好きでこんなことをしているとでも、と口走ったかもしれない。
カリスの制止で、自分の手が剣の柄に触れていたことに気付いたのだ。我を忘れたことに愕然とした。半ば強制的にここから離れるよう命令されたことは、結果的に良かったのだと思う。今は何も、弁明出来ない。
鍵の掛けられていない扉を押し開けると、あの憎らしいほどに明るかったホールに、闇が戻りつつあった。時間経過で『奇跡』の効力が切れようとしているのだ。それでも足元の板張りの床には、新旧入り混じった赤黒い血の跡が残っているのが見える。
「戻ったか」
女主人の声が奥から聞こえ、デュークラインは意識的に顔を上げ、彼女の元へ向かった。
暖炉の部屋でテーブルにつき、カリスはワインを口にしている。頭は冷えたか、と言うように視線を向けられ、デュークラインは僅かに頭を下げた。
奥の部屋から出てきたシアンを見れば、赤黒く染まった布で両手を拭っている。彼の両目は少し腫れており、憔悴したような顔付きだ。直視しなかったとはいえ、初めて現場に居合わせたためだろう。目が合うと、彼の口元に無理に作ったような微笑みが浮かんだ。
「まだ意識は戻っていませんが、手当ては済ませました。おそらく、大丈夫です」
そう言ったシアンに対し、デュークラインは頷いた。
あの男たちが限度を越えないよう、監視するのも自分の役目だ。それでも、シアンの報告に、ひとまずは胸を撫で下ろす。
「あの子たちは帰したぞ」
カリスがそう言ったのを受け、デュークラインは彼女に向き直った。
一人になって考えた末、出した結論を口にする。
「やはり彼らを、斬るべきではありませんか。彼らは知り過ぎました。たとえ彼らが喋らなくとも、ここが暴かれる一因にはなり得るかもしれません。満月でない今夜に奴らがきたのも、彼らの来訪が何らかの影響を与えているとも思えます」
デュークラインにしてみれば、少年たちは変則的な存在だ。どう動くか分からない存在というのは、不安要素でしかない。信用できるようにも思えるが、それもまた確実ではないのだ。
「斬るくらいなら、いっそ、ここのどこかに閉じ込めてしまえば良いのでは?」
そう言ったのは、シアンだった。
「そうすれば、カイとも友人として過ごせます。秘密を漏らされることもありません。事情を説明すれば、彼らも分かってくれる筈です」
「そんなわけがないだろう」
デュークラインは、半ば呆れながら反論した。本人は至って真面目に提案していると思われるのが、本当にどうしようもない。
「カイが二十五になるまで、一年と少しだ。その間、ずっと閉じ込めておくつもりか? 意思に反して閉じ込められれば、もう友人などではいられまい。余計な敵を増やすくらいなら、斬ってしまった方がいい。旅に出た者がそのまま帰らぬことなど、よくあることだ」
朝になるまで、彼らは村に留まるしかないだろう。斬るなら、今しかない。
それに、今ならば、まだ間に合うように思う。彼らが再びここに来なくとも、今回のことがあったためだと言えば、カイを納得させられるだろう。
「いや、何もせずとも良い」
カリスの発した意外な言葉に、デュークラインは彼女を見た。彼女の思慮深そうな緑の瞳が、奥の暗い部屋に向けられている。
「確かに、あの少年たちには不確定要素が多い。若い故に、口を滑らせるやもしれぬ」
「では――」
「だがの、今日あの子たちを見ていて考えたのだ。カイがこのまま二十五歳になり、無事に予言の呪縛から解放された後のことをな」
後のこと、と言われ、デュークラインもカイの部屋を見た。月光石の仄かな光で、横たわる少女の頭が、ぼんやりと見えている。
「ただの娘となったカイには、友人が必要だ。幸いにも、彼らはそれにふさわしい。運命の悪戯にしても、な」
「それは、そうかもしれませんが……」
確かに、あの少年たちはカイにとって良い友人なのだと思う。何より、カイが彼らを受け入れている。思えば初めて出会った時も、カイは彼らを助けようとしたのだ。
「あの子には病がある。そう長くは生きられぬかもしれぬ。それでも、あんな風に笑えるようになったあの子の残りの人生を、少しでも豊かにしてやらねばと思うての。どの道あの子には、辛い思いをさせる故な……」
最後は自嘲気味にそう言ったカリスの顏に、憂いを帯びた微笑みが浮かぶ。
デュークラインは右手を左胸に当て、目を閉じて頭を垂れた。
女主人と結界士を見送った後、デュークラインはカイの部屋に来ていた。
月光石に掛け布をした仄かな明かりに照らされているカイの顔は、蒼白く生気がない。体に掛けられている薄い布をそっと捲ると、血の滲んだ包帯が胸元に見えた。それを戻して足元を見れば、右足首も同様に包帯が巻かれている。シアンが丁寧に手当てをしてくれたようだ。
「旦那」
後方から掛かったルクの声に、デュークラインは首を回して視線を向けた。薄暗くともよく見える赤い瞳が、何か言いたげだ。
「何だ?」
そう聞いてやると、ルクが足裏を鳴らして近付いてきた。
「エルが、本はもう少し、貸しておくからって」
意外な言付けに、デュークラインは少し驚いた。また、カイに会いに来るつもりでいるのだ。少なくとも、ここを出る時点では、そう思っていたということだ。
「そうか……」
その気持ちも揺らぐかもしれない、とデュークラインは思った。カリスはああ言っていたが、あの現場に居合わせたのだ。タオからも話を聞くだろう。それでも再びやって来るとは、デュークラインには思えなかった。
「ルク。よく、カリス様たちを護ってくれたな」
「旦那」
「もう、休んでいい」
目を見開いて瞬きしたルクを横目に、デュークラインは彼を追い出すように手を振った。軽く跳ねるような足音が遠ざかっていき、聞こえなくなる。彼用の小さなベッドに潜り込んだのだろう。
まさか満月でもない夜にあの男たちがやって来ることは、想定外だった。あの男が使う転送円は、シアンが敷いたものとは別のものだ。あの男は、シアンのような結界士を傍に侍らせているわけではない。にも拘らず飛んで来られるのは、本来であればそれを敷いた結界士でなければ発動出来ないものを、あの男の力の強さをもってすれば、満月の光があれば発動させられるからなのだ。この塔に厄介な結界を敷いた結界士が、そのように調整したものと考えるのが妥当だろう。非常に有能だと、シアンが感心していたことを思い出す。その有能な結界士を、今回、わざわざ呼び出したというわけだろう。ここに留まっていた時間が短かったのは、転送円の向こうから彼らを呼び戻す時間を決めていたためだと思われる。
カイを見下ろしたデュークラインは、ベッド脇に静かに膝をついた。
少し熱が出ているのか、カイの呼吸がいつもより速い。掛け布から出ている細い手首には、赤い指跡が残っている。
デュークラインは自らの右掌を広げ、見つめた。なんと、矛盾した手なのだろう。
あの男が来た際、カイには抵抗も、助けを呼ぶことも、許していない。この名を呼ぶことも、この身に縋ることさえ、禁じている。その理由すら、説明したことがない。ただ、そう言いつけているだけなのだ。
しかしその理由を理解しているのだと、デュークラインは今回、確信を持った。禁じる暇が無かった少年二人の名も、あの場に普段はいないカリスやシアンのことも、カイは呼ばなかったのだ。隠れている場所も分かっていたのに、一度足りとも視線を向けることがなかった。ただ涙を流しながら、許しを請いながら、たった一人で耐えたのだ。
少年たちを友達だと言って微笑んだ、カイの嬉しそうな顔を思い出す。ここ二か月ほどで、随分とカイの表情は豊かになった。驚くほど、言葉数も増えた。ここへ帰って来る度に驚いたほどだ。少年たちに出会ったことが刺激になったのか、嵐の夜が続いたからか。そのどちらもなのだろうと、デュークラインは思う。
カイがエリュースを助けるために叫んだ時は、ひやりとすると同時に驚いた。カイが、カイ自身の強い意志で動いたことに対する驚きだ。反抗的な態度を取ったことも、今回が初めてだった。明確な意思も持たず、ただ弄られているだけだった娘が、蛹が蝶になるかのように、自ら羽ばたこうとしている。カリスの言うように、彼らの存在が、カイを明るい未来へと導いていくのかもしれない。
それなのに、自分のこの手はカイを拘束したのだ。満月の夜が嵐だったことへの執拗な追及の時も、胸元に聖水を振りかけられ、光る手を押し付けられていた時も、離してやることが出来なかった。彼らの行為がカイの心身に及ぼす影響を嫌というほど知っているのに、それを止めることが自分には出来ないのだ。
本来のカイの性質を無理矢理に変えたのは、彼らだ。幼い頃のカイに付加されたと思われる焼印が、カイの体を聖水で傷付く魔物のようにしてしまった。
こうするより他ないのだと、理解はしている。それが自分に与えられた役目であることも、重々承知している。感情を押し殺すことには慣れている。そうやって、この十年を生き延びてきた。それなのに、この切り裂かれるような胸の痛みは、一体何だというのだ。
カイの閉じられた目尻に涙の痕を見て、デュークラインはそっと指の背を寄せた。その時、新たな涙が頬を伝っていくことに気付いた。苦しげに眉根を寄せ、その小さな口元が時折声を伴って動く。
「カイ?」
その途切れ途切れに綴られる言葉を聞き、デュークラインは震える掌でカイの蒼白い頬に触れた。
カイが呟くのは、自身への呪いの言葉だ。あの男がここに来る度、この少女を壊すために浴びせる言葉だ。
悪い子だ、罪人だ、魔物と同じだ、本来なら死んでいなければならないところを、慈悲で生かされているのだと、声高に彼らは言うのだ。
「カイ」
覚醒を促すと、びくりとカイの長い睫毛が震えた。上がった瞼の下に現れた濡れた漆黒の瞳は、焦点が合っていない。夢を見ているかのように、視線を彷徨わせている。溢れる涙は止まる気配がなく、頬に沿わせた指を濡らしていく。
「わたしは、死ぬべきなの」
「違う」
「わたしは、悪い子だから」
「違う」
「わたしは、魔物だから」
「違う、カイ」
「わたしは、生きていては、いけないの」
「違う……ッ」
堪らず、デュークラインは覆い被さるようにして、両手でカイの頭を抱いていた。温かい頬に両掌を沿わせ、彼女の視線を捉えようと見つめる。絶望の淵に引きずり込まれそうな感覚を振り切り、強く抗う。
カイには未来がある。デュークラインも、そう信じたいと思った。
「お前は生きていていいのだ。生きてくれ、カイ。あんな奴らの言うことなど、何も信じなくていい……!」
カイの視線を絡め取りながら、ようやく浮上してきた意識をあやすように頬を撫で、髪を撫でてやる。潤んだ黒曜石の瞳に見上げられ、デュークラインは何度も、カイの名を呼んだ。
この哀れな娘は、いつかこの手を離れるのだろう。予言を回避出来れば、この結界から外へ踏み出す瞬間がきっと来るのだ。こんな手を振り切り、この娘を幸せにしてやれる男の手を取る時が、そんな未来が、来るべきだ、と思う。
細い左腕がゆっくりと上げられ、遠慮がちに頬に触れてくる。それが力尽きて落ちる前に、デュークラインはその手を掴んだ。冷たいそれを、そのまま自らの頬に押し付ける。
「私はここにいる」
そう伝えると、見つめる少女の目元が嬉しそうに綻んだ。
「デューク」
心底安堵したように、名を呼ばれる。その揺れる声に滲む温かさに、デュークラインは泣きたくなるほどの思いに駆られた。苦しい。しかしそれだけではない感覚に、脆弱な手を離すことが出来ない。
気付けば、知らず緩まった手の内で、頬を撫でられる感覚があった。向けられる優しい微笑みに、逆にあやされている気分になる。それがどこか可笑しくて、自らの頬が緩んだことを、デュークラインは自覚した。