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13 二人の主

 現れた貴婦人に、タオは戸惑っていた。あまりにも、この場に似つかわしくない人物だからだ。彼女が身に着けている衣服や装飾品には、華美かびに加え上品さがあり、タオでも高級なものだと分かった。両手の甲が見えるようにして腕が組まれた姿には、気品と威厳が感じられる。彼女の右中指には藍色の宝石を使った銀の指輪が、左薬指には紅い宝石が輝く金の指輪がはまっており、それらが浮くことなく、彼女をいろどっているのだ。

 更に驚いたのが、デュークラインの態度だ。カイを支えたままではあるが、彼女に頭を下げている。その横顔から、緊張感すら見て取れる。


「デュークライン、お前が入れたのかえ?」


 顔はこちらに向けたまま、鋭い視線だけでデュークラインを見た貴婦人に対し、彼が肯定するかのように更に頭を下げた。しかし彼が口を開く前に、カイが彼の衣服を握ったまま、身を乗り出すようにして貴婦人の方を見上げる。


伯母おば様。わたしが、ルクに言って、入れたの」

「ほぅ。お前が、ルクに?」


 少し驚いたように微笑わらった貴婦人が、カイの頭に腕を伸ばした。短い髪を撫でるその所作しょさすら、優雅に見える。

 デュークラインが驚いたように、カイを見下ろした。


「これ、見せたの」

「ああ、旦那様に殴られた時に取れたとかいう歯か。それでは、ルクを責めるわけにもいくまいなぁ」


 カイに見せられたルクの歯に、貴婦人の目が楽しそうに細められた。デュークラインに見られる彼女への緊張感はカイにはないようで、貴婦人からカイへの対応も、デュークラインへのものとは違うように感じる。貴婦人から彼へのそれは、完全に部下への態度だ。


 カイから手を離し、笑みを収めた彼女に見つめられ、タオは反射的に頭を下げていた。


「そんなにかしこまらなくとも良いぞ。そなたたちのことは、デュークラインから聞いておる。タオに、エリュース。この子に会いに再び来るとは思わなんだが、これはもう、運命的なものかもしれぬの」

「運命的?」


 顔を上げて聞き返すも、貴婦人は微笑しただけで答える気はないようだ。

 テーブルを挟んだ向こうにいるエリュースが、半歩ほど前に出た気配がした。


「俺たちを受け入れて下さるなら、貴女あなたのお名前を、お聞かせいただけますか?」


 丁寧な言葉でつむがれた彼の要望に、貴婦人の笑みが深まった。


「これは失礼した。私はカリス・サイクス。これはシアンという。私の結界士だ」

「結界士……!」


 エリュースの目が好奇心で一瞬輝いたのを、タオは見逃さなかった。

 貴婦人に紹介された男が、彼女の斜め後ろでうやうやしく頭を下げる。そうして顔を上げたシアンの微笑は、いだ湖面のように穏やかに見えた。


「さて――」


 貴婦人――カリスが、優美な笑みを浮かべた。それは彼女がこの場の支配者たることを、微塵みじんにも疑わせないものだ。


「せっかく出来たカイの友人を、取り上げるつもりはない。私の邪魔をせぬのなら、カイに会うことは歓迎しよう。だがもし裏切れば、デュークラインに斬らせる。そのつもりでいよ」

「分かりました」


 はっきりと、タオは答えた。エリュースも同様に答えている。この貴婦人の邪魔をするということが何をすのかは分からないが、少なくともカイを部下デュークラインに護らせていることは確かなのだ。それならば、今は彼女の言葉を受け入れられる。そう、エリュースも判断したのだろう。


 カイがデュークラインを見上げ、デュークラインが彼女を見下ろし小さく頷く。嬉しそうに微笑んだカイに、デュークラインが確かに、優しい微笑を浮かべた。





 塔の裏にある池の傍で腰を落とし、タオはカイとエリュースと共に小さな水中花の群生を見ていた。デュークラインたちが入ってきた裏手から、外に出てきたのだ。外に出たいと言ったカイに対し、あのカリスと名乗った貴婦人が付き添いを寄越よこしてくれた。デュークラインではなく、シアンという結界士の方だ。

 ゆっくりと手を引いてやって下さい、と彼に言われ、ここまでカイの手に触れていた。そのあまりにも頼りなげな白い手は仄かに温かく、妖精ではなく同じ人間なのだと改めて思う。


「カイは――」


 そう言いかけ、タオは言葉を呑み込んだ。外に出る前、「カイに余計な質問はするな」とデュークラインに言われたのだ。先程のことがあるため、どんな質問も『余計な』ものに当たりそうで、口にするのを躊躇ためらってしまう。普段は何をして遊んで、どう過ごしているのだろう。


「なに?」


 不思議そうな顔をするカイに、タオは慌てて手元の葉を千切り取った。丁度ちょうど目に留まった、細長い葉だ。それをカイに見せると、折っていく。両端を中央へ折り、折った端を三等分に切り込みを入れ、真ん中の前で両端を交差させていくと、舟の出来上がりだ。

 その過程を見つめていたカイの両目が、完成した舟を前に、驚いたように見開かれた。


「それ、何?」

「葉っぱの舟だよ。ほら、こうして……」


 舟を摘まんで水面に落とすと、それは沈まずに、ゆるやかに動いていく。


「わぁ……!」


 感嘆の声を上げたカイが、嬉しそうに笑った。


「すごいね、タオ。シアンが話してくれる、魔法使いみたい」


 無邪気に笑うカイに、タオは胸の痛みを覚えながらも嬉しく感じた。

 あの貴婦人の言いようからして、カイは友達と遊ぶ機会もなく、ここに閉じ込められている、ということなのだろう。カイの笑顔を見ていると、やはり会いに来て良かった、と思う。


「カイも作ってみるか?」


 そう言って葉を差し出したのは、エリュースだ。大きめの細長い葉が、カイの差し出した両掌に乗せられる。不安そうに彼を見上げた彼女に、エリュースが彼らしい自信に満ちた笑みを浮かべてみせた。


「大丈夫だって。失敗したって、もう一度作ればいいんだし。な?」

「エル」


 名前を呼ばれ、エリュースの笑みに滲むような感情が見えた。ついぞ見たことのない表情だ。

 カイをうながし一緒に葉を折り始めた彼の手は、彼女が見えやすいような角度で、一工程いちこうていごとに動きを止める。後を追って慣れない手つきで葉を折るカイの視線はエリュースの手元にそそがれており、何度か葉を落としそうになりながらも頑張っている様子が、なんともいじらしく思えた。


「できた……!」


 カイの手の中に、初めてにしては整った舟が出来上がった。エリュースが渡した葉が大きめだったため、作りやすかったこともあるのだろう。

 自分で作り上げた葉の舟を、カイが喜色きしょくを浮かべながら、しげしげと角度を変えて眺めている。


「すごいじゃないか、カイ! 一番立派な舟だぞ」

「ほんと?」

「ああ。手先が器用なんだな、カイは」


 エリュースに褒められ、カイが少し照れたように笑った。それからまた手元の舟を見て、嬉しそうに笑んでいる。


「浮かべてみようぜ」

「じゃあ、俺のも一緒にしよう」


 自分の舟を水面に浮かべたエリュースを見て、タオは先だって浮かばせていた舟を、腕を伸ばして引き上げた。カイを促すと、彼女の両手によって舟が水面に置かれる。それは予想通り、安定して浮かんだ。

 その横に自分の舟を浮かべたタオは、この舟を使ってどう遊ぼうかと考える。ゴールを決めて競争させるか、もしくは、昔よくやったように、ぶつけ合って沈ませ合いをするか。


「なぁ、エル――」


 どうしようかと、タオはエリュースに声を掛けようと顔を上げた。そこで、彼の口元に立てられた人差し指の仕草と視線で促され、口を閉じてカイを見る。彼女の細められた視線は浮かぶ舟に向けられており、緩やかな水流に乗ってゆるゆると花の間を動いていく様を、楽しんでいるようだ。

 タオは、エリュースに小さく頷いてみせた。カイがこの状態を楽しんでいるなら、このままでいいだろう。


 建物の壁際に立っていたシアンが静かに近付いてきたことに気付き、タオは顔を上げた。彼の目元や口元が、嬉しそうな微笑を形作っている。


「驚きましたよ。あの子が、あんなに楽しそうにしているなんて」

「俺も、少し驚いているんです。こんなに話せるなんて、思っていなくて」


 そう言うと、シアンが目を細め、笑みを深めた。

 彼には後ろ姿からでも、カイが楽しそうに舟を眺めているのが分かるのだろう。


「あの」


 タオは立ち上がり、シアンの隣に寄った。彼の柔和にゅうわな雰囲気から、質問に答えてくれそうに思えたからだ。

 カイに聞こえないよう、声を潜める。


「デュークラインさんって、カイのお父さんじゃ、ないですよね?」

「おや」


 可笑おかしそうに、シアンが小さく笑った。


「違いますよ。まぁ、見た目からすれば、このくらいの娘がいてもおかしくありませんがね」

「それじゃあ……」


 カイの両親はすでに亡くなっているのかもしれない。そうタオは思った。言外に確認しようとシアンを見る。しかし僅かに瞳を陰らせた彼が、それについて語ることはなかった。 





 外では太陽が落ちようとしている。鎧戸よろいどが下ろされた為、室内は月光石がっこうせきと小さなランプの灯りだけが光源だ。虫の音が微かに聞こえ、耳に心地良い。

 少し前にテーブルで夕飯を食べさせてもらい、空腹は満たされている。ルクが作ったスープは格別に美味うまく、併せて小麦で作られた焼き立ての白パンが出されたのだから驚いた。食べたことのない、至極柔らかいパンだ。上流階級の貴婦人と思われるカリスとテーブルを共にしたことを考えると、当然のことなのかもしれない。ルクによると、パン焼きがまだけでなく、川の少し上流には粉曳こなひき水車もあるそうだ。

 ベッドの上ではカイが、エリュースが持ってきた本を開いている。そのエリュースは、今はかわやだ。 

 彼が戻ってきたらそろそろここを出た方がいいだろう、とタオは思った。今から出れば、村の酒場が開いている内に着けるはずだ。


 ベッド脇から立ち上がると、カイが本から顔を上げた。


「タオ?」

「ルクに、ソードを返してもらわないとね」


 そう言うと、カイが悲しそうな目をした。それだけでも心苦しく思う。

 せっかく友達になれたカイと別れるのは寂しいが、またエリュースに機会を作ってもらうしかない。


「もう、帰っちゃうの?」


 本を閉じたカイの右手が、宙を掴むように上がった。しかしそのまま握り込まれ、触れてはこない。

 そんな彼女の右手を両手で包み込むようにして触れ、タオは再び膝をついた。驚いたように見つめてくるカイに笑むと、彼女もようやく笑ってくれる。


「またエルと一緒に、カイに会いに来る」

「うん」

「約束するよ」


 気持ちを込めて、タオは誓った。



 カイの部屋から出ると、デュークラインたちがテーブルに着いていた。暖炉側にカリスとシアンが、奥の正面にデュークラインがおり、テーブルにはそれぞれのコップが置かれている。ルクの姿はないようだ。


「どうした」


 視線を上げたデュークラインが、声をかけてくれた。それに答えるため、タオは彼に近付く。


「そろそろおいとましようかと思います。その前に、ルクにソードを預けているので」

「ああ、ルクなら――」


「待て」


 突如、カリスの強い制止の声が上がった。と同時に、デュークラインが言葉を止めた。

 驚いて彼女を見ると、彼女の緑色の瞳がどこかを探るように、宙を見つめている。


「転送円が作動している」


 カリスが発した言葉の意味が、タオには分からなかった。それでも、それが良いことでないことは分かった。それを受けたデュークラインが顔色を変え、腰を上げたからだ。カリスの隣にいるシアンが、硬い表情で頷いた。


「満月でもないのに作動しているということは、結界士を呼んだということですか。そうまでして――」


 声を震わせたシアンの顔は、青褪あおざめている。悲壮感すらうかがえる様子に、タオは早くルクからソードを返してもらわねばと思った。

 しかし声を上げる前に、デュークラインの厳しい声が飛ぶ。


「ルク! 外を見て来い!」

「へぇ! 旦那ァ!」


 奥から転がるように走り出てきたルクが、そのまま暗いホールに消える。すぐに扉が開かれた音がし、次いで閉まる音が響いた。それから一分も立たない内に、再び扉が開いて閉まる。荒い息を吐き出しながら飛び込んできたルクが、「来た」と告げた。


「タオ、エリュースはどうした」

「裏の厠に行ったままで」

「では、お前たちの荷物を持って裏から出ろ。あいつを捕まえて外で隠れて、」

「いや、待て」


 デュークラインの言葉を遮り、カリスが立ち上がった。彼女には、周りに有無を言わせない威圧感がある。


「そなたは荷物を持ったら、そのままホールの階段を上がれ」

「カリス様! それではエリュースが」

「危険は犯せぬ」


 エリュースのことを言おうとしてくれたデュークラインに、カリスが短く答えた。彼女の言葉に対し目を閉じたデュークラインが、それ以上エリュースについて言うことはなかった。


「タオ、急げ」

「は、はい!」


 わけが分からないままデュークラインにかされ、タオはこの場の指揮権を持つカリスの指示に従う選択をした。それだけ、張りつめた緊張感を肌に感じるのだ。自分一人が、逸脱いつだつした行動を取るわけにはいかない。


 エリュースのことが気になったが、タオは彼を信じた。彼は、いつも自分を導いてくれる存在だ。周りの状況をよく見ており、常に最善の策を取ろうと考えているような友なのだ。彼ならば、きっと無事でいてくれる。ゆるぎ無い信頼を持って、タオはそう信じた。

 

「ルク! 今すぐ、デュークラインのもの以外の食器を片付けろ。ここにいるのは、カイと、お前と、デュークラインだけだ。分かったな? シアン、手伝ってやれ」


 カリスの指示に、シアンとルクはすぐに動いた。テーブルにあったものは、デュークラインが使用していたコップだけが残され、後は全て片付けられる。

 シアンの手によって、不安げな顔をしたカイから本が取り上げられた。タオも言われた通り、自分とエリュースの荷物を持つ。今はソードをどうこう言っている場合ではなさそうだ。

 カイと目が合うと、彼女の瞳が揺れた気がした。


「タオ、行って」


 ベッド上で膝を抱えたカイにそう言われ、タオはどう答えていいものか分からなかった。大丈夫、と言うことも出来ない。

 「早く」というカイの声に背中を押されホールに行くと、石壁に沿って張り出すように作られている螺旋階段がぼんやりと見えた。


 タオは冷たい石壁に頼りながら、傾斜が大きいその階段を上がる。塔の入口の反対側まで上がると、足元が平らになった。踊り場になっているようだ。壁には扉らしき造形が掌で感じ取れたが、取っ手が見つからず開けられそうにない。更に上へと続く階段を進んでみるが、数歩もいかない内に進路を塞いでいる瓦礫がれきに触れた。そういえば、塔の上部が崩れていたことを思い出す。


「荷物はその壁際へ。なるべく身を低くして、壁に寄っていてください」


 シアンとカリスも後ろから上がってきており、タオはカリスに奥をゆずった。


「あの、一体誰が?」

「招かざる客が来たのだ。説明している暇はない。殺されたくなければ、口を閉じて気配を消していろ。いいな、何があろうともだ」


 カリスにそう言われ、タオはいくつもの問いを喉の奥に呑み込んだ。耳を澄ませば、草を鳴らして近付いてくる複数人の気配がしている。 


 ノッカーが鳴った。硬いその音が、静かな塔内に響き渡る。

 二組の足音が扉に向かっていくのを聞きながら、タオは息を詰め、少し身を乗り出した。ほぼ真上から覗き込む形で、二人の姿がぼんやりと見える。硬いものと素足のそれは、デュークラインと、オイルランプを手にしているルクのものだ。二人の姿は石壁の通路に入ってすぐに見えなくなった。

 扉を開く音がし、外の虫の音が大きくなる。


叔父上おじうえ。まさか今夜、おいでになるとは」


 少し驚いたように話す、デュークラインの声が聞こえてきた。それに対し、穏やかな年配の男の笑い声がする。


「お前がいてくれて良かった。いや、驚かせてすまないな」

「とにかく、どうぞ中へ」


 扉が閉められ、鍵が掛けられた音がした。増えた靴音とルクの足音が近づいてきて、タオは慌てて頭を引っ込める。

 複数の足音がテーブルのある部屋に移動している中、一人の靴音が少し遅れて動き出し、それらをゆっくりと追っていった。


「ルク! ワインを」

「は、はい! 旦那しゃま!」


 ルクの声は妙に緊張しており、声が裏返りそうになっている。反してデュークラインの声には動揺が感じられず、先程までの彼が嘘のように落ち着いたものだ。突然やって来たという点ではカリスと同じはずだが、彼らに対しての方が親しみ深そうにしている気がする。


「お前もここに来るとは驚いたな。私の知る限りでは、初めてではないか?」


 デュークラインの、慣れ親しんだ相手に対して話すような声が聞こえた。


「ええ、私は十八年ぶりですかね。結界士を呼び出すのに手間がかかりましたよ。しかしまぁ、確認しておかねばなりませんし。それに最近、なかなか貴方あなたに会えなかったのでね」

「お前がアルムの領地に帰っていたからだろう」

「あちらの様子も、たまには見ておかねばなりませんから」


 デュークラインに答えた若い声の主も、デュークラインに対して親しげだ。

 

「そういえば、デルバート。姉上からもう聞いたか?」

「何の話をでしょう?」


 聞き耳を立てていたタオは、年配の男の声で発せられた聞き覚えのない名前を聞いた。それに答えているのは、デュークラインだ。聞き間違えたかと思い、タオは深く考えずに聞き流した。


「縁談だ、お前の。いつまで経っても結婚しないお前に、とうとうしびれを切らしたらしいぞ」

「いえ、何も聞いておりませんが」

「なら、その内泣きつかれる。相手は二度目の結婚とはいえオールーズ侯爵家の次女だ、家柄的には悪くあるまい」

「待って下さい、まだ私は――」

「お前が戻ってくるまでに病死した婚約者のことは、もう忘れろ。私もお前には良い妻をめとらせたいと思っているのだ。それに、お前が戻って十年、今まで待った母のことも考えてやってくれ」


 デュークラインが沈黙した。すると、若い男の揶揄やゆするような声が上がる。


「兄上でも、母親のこととなると、そんな顔もするのですね。観念したらどうですか」

「ヴェルグ!」

「はは、本当に、貴方あなたに名前を呼ばれるのも久しぶりだ。今度、私のところにも来ませんか。会わせたい人もいる」


 しんみりとした口調でそう言った若い男は、デュークラインのことを慕っているようだ。それぞれの呼び方から、彼らが身内だということは分かった。デュークラインが結婚を迫られていることは興味深く、相手が上流貴族の娘となれば、彼自身もそれなりの血筋だということになる。


「ああ。来年の冬にはな」

「そうでした、『ディーナの娘』が、二十五になってから、でしたね」


 また聞き慣れない言葉を聞き、タオは困惑した。来年の冬に二十五になるような娘が、彼と何か関わりがあるのだろうか。


 テーブルの傍の椅子から、立ち上がる音がした。奥の部屋に近付く一人の靴音がし、止まる。


「ほぅ、これは驚いた。十八年の歳月は長いですね。これほどまでに変わるとは。それに、大人しいものですね。さすがは兄上。ですが、情が沸きはしませんか?」

「馬鹿なことを。今、世話のほとんどはゴブリンに任せているし、私は娘が生きているかの確認をしているだけだ」


 軽く笑うように、デュークラインが答えた。その声には呆れたような響きがあり、彼が本心でそう言っているように聞こえる。


 タオは、『ディーナの娘』がカイのことをしているのだと理解した。サイルーシュと同じ十五歳ほどだと勝手に思っていたため驚いたが、今はそれよりもカイの様子が気にかかる。デュークラインの言葉を、カイはどんな表情かおで聞いているのだろう。デュークラインは、彼らに対して演技をしているのだろうか? それとも、演技はこちらに対してということはないのだろうか? 彼らに対するデュークラインの声色には敬意と親しみが感じられ、彼らからデュークラインへも同様に、信頼感すら言葉の端々で感じ取れるのだ。


 入ってくる情報に頭を抱えながら、タオはこの場にエリュースがいないことに危機感をつのらせた。後で彼に、全て説明できる気がしない。


「ここへ来なさい、ディーナの娘」


 静かだが厳格さを持った声が、カイを呼んだ。それに対するカイの返答はない。


「デルバート」

「は」


 硬い靴音が奥に入っていき、すぐに小さな悲鳴のような息遣いが上がった。戻ってくる靴音が聞こえる。それに混じり、カイのものと思われる素足で板張りを歩く音が、不揃ふぞろいに続く。


「ふむ、ずいぶんと顔付きがしっかりとしているな。やはり、来て良かった」

「満月の夜は嵐……。それに、この前の満月の夜も同様に。やはり偶然にしては出来過ぎていますよ、父上」


 ホールに戻ってくる複数の靴音がする。

 タオは嫌な緊張感に襲われていた。あの三人の輪の中に、カイが入れられた。それに不安を掻き立てられる。


 暗いホール下で、聞き覚えのある神聖語がつむがれ始めた。声が途絶えたと思った瞬間、眩い光が吹き上がる。タオは慌てて壁に背を張り付けた。もし下を覗き込んでいれば、確実に見つかっていただろう。光は細かな粒子のように見え、天井にも張り付いており、ホール全体を明るく照らし出している。これは、司祭が礼拝の際に『奇跡きせき』として聖堂に光を満ちさせる行為と同じだ。となると、この下にいるのは聖職者なのかもしれない。


「ここまで来てみよ、ディーナの娘」


 年配の男の声が、明るくなったホールに響いた。

 しばらくして、素足の微かな足音が聞こえ始めた。ゆっくりと、時折よろめいたように乱れながら、それはホールの中央に向かっているようだ。それが止まったと思った次の瞬間、何かを強く叩いたような高い音がした。とほぼ同時に、カイの小さな悲鳴が上がり、床に何かが倒れ打ち付けられる音がした。


「歩けるようになっているのだな。そうやって私から逃げようというのか?」


 男が発する声は静かだが、聞こえてくるカイの引きつるような呼吸が、ホールの冷たい空気を次第に大きく震わせていく。タオは、彼女が強い恐怖を感じていることを肌で感じ取っていた。おそらく、彼女が床に倒されているのだ。


「その足はらぬな」


 平然と男の口から出た言葉を、タオは信じられない思いで聞いた。

 間違っても、聖職者が言う台詞せりふではない。


「い、いや……!」


 カイの拒否の声が上がった。はっきりとした拒絶の意志が込められた声だ。

 床を鳴らして逃げ出したカイの姿が階下に一瞬見え、すぐに入口の扉への壁の中へと消える。


「ほぅ。しばらく見ぬに反抗的になったものだな」

「申し訳ございません」


 焦る様子もない年配の男の声に応えたのは、デュークラインだ。冷静さを保っているような靴音と共に彼も入口の方へ向かっていき、姿が見えなくなった。

 一息もしない間に、カイの小さな悲鳴が上がる。戻ってきた彼に細い首を後ろから掴まれているカイの姿が見えたと思った瞬間、後ろに引き戻され見えなくなった。右隣を見ると、シアンの腕が自分の体の前に差し出されている。いけません、と言うように、つらそうな表情でシアンが首を振った。

 床にカイが落とされた音がする。

 タオは自身が混乱していることを自覚しながら、両手を握り締めた。


「だ、旦那しゃま! それじゃあ、あんまりで……」


 怯えたようなルクの声が、彼らの近くから聞こえた。

 震える言葉尻は消え入って聞こえず、彼が極度の緊張と恐怖の中、しぼり出した制止の声なのだと分かる。


「邪魔だ。せていろ……!」


 それに対し、怒気どきはらんだデュークラインの声が上がった。短いルクの悲鳴が、ホールの空気を震えさせる。


 タオは、カイが言っていたことを思い出していた。

 今までに見てきたデュークラインは、彼女に対して乱暴な真似はしていなかった。むしろ丁寧に扱っていたと思う。彼女に対し、優しく微笑ほほえんでもいた。それなのに、今この下にいる彼は、恐怖に震えているカイをなだめようともせず、彼女を捕らえ、彼らの好きにさせようとしているように思える。まるで別人のようだ。カイが言っていた、『デュークは二人いる』というのは、このことだったのだ。



「デルバート、押さえていろ」

「は」


 短く答えたデュークラインの声には、感情が欠如しているような気さえする。カイの怯える声が断続的に上がるが、まるで彼には聞こえていないかのようだ。


「逆らうな。ディーナの娘」


 カイに向けられたデュークラインの低い声には、すごみがあった。怯える呼吸が一瞬、途切れる。いでタオの耳に届いたのは、カイのかすれた小さな声だ。「はい」と答えた従順な彼女の姿勢に、タオは胸がえぐられる思いがした。


 何故、デュークラインはこんなことをしているのか? 彼ならばカイを助ける力があるはずで、彼がソードを抜きさえすれば、自分もすぐに加勢を――。そこまで考え、タオは自身の腰に手を当て、あるはずソードがないことを思い出した。しかしすぐに思い直す。たとえソードがなくとも、一人を押さえておくくらいはできるはずだ。いや、押さえてみせる。


 そう決意した時、一瞬エリュースの声が聞こえた気がした。左方向の奥からだ。

 タオは焦りを覚え、隣のシアンを見た。彼も気付いたのか、表情を曇らせている。


「裏の方だな。ゴブリンはここにいるが?」


 下から年配の男のいぶかな声が聞こえた。彼らも先ほどの声を聞いたのだ。何も知らないエリュースが彼らに見つかれば、ただでは済まないということは分かる。


「私が見て参ります」


 デュークラインの声が上がった時、シアンがほっとしたような顔をした。それを見て、タオも少し安堵あんどする。自分よりも彼のことを知っていると思われるシアンが、彼が行けばなんとかなると思っていることが分かったからだ。


「私が見てきますよ、兄上」

「ヴェルグ」

「兄上はその娘をつかまえておいて下さい」


 階下から聞こえる会話に、タオはシアンと顔を見合わせた。シアンが、うつむき気味に首を振る。

 それでもデュークラインが強引に行ってくれればと思ったが、彼の声はそれ以上は上がらない。それどころか、ソードが鞘から抜かれた音がした。デュークラインのものではない、彼よりは少し軽い静かな靴音が、テーブルの部屋へと向かっていく。

 タオは両手を握り締め、固唾かたずを呑んだ。エリュースを信じてはいる。信じてはいるが、もし戦闘になれば、おそらく彼が勝つことは難しい。


「待って……! やめて!」


 追いすがるように上がった高い声に、タオは驚いた。カイが声を上げ、男が裏手に行くのを止めようとしている。その涙混じりの必死さが滲み出た懇願こんがんの声に、胸が詰まった。自分の身が危険な状態に置かれているというのに、エリュースの為に声を上げてくれているのだ。


 カイの声に一時止まっていた靴音が、再び動き出す。テーブルの部屋を抜け、すでにルクの部屋だろう。


「お願い……! 妖精さん、隠れてっ、お願い……!」


 泣き出しているカイの言葉は、その後、理解出来ない言語になった。聞いたことのない単語が、不思議な抑揚よくようで発せられている。裏へと向かっていた靴音が再び止まったが、すぐに奥の扉が開かれた音がした。草地に降りたからか、男の靴音が聞こえにくくなる。少し大きくなった虫の音で、更に気配がとらえられなくなった。


 タオはエリュースの叫び声が聞こえるのではないかと、息を呑んで耳を澄ませた。しかし、ソードを振るう音も、エリュースの声も、聞こえてくることはなかった。



 しばらくし、中へ戻ってきた靴音と扉の閉まる音が聞こえた。ソードを鞘に納める音が微かに聞こえ、靴音の主は、そのままゆったりとした足取りでホールに戻ってくる。タオはその音を聞きながら、ゆっくりと息を吐き出した。エリュースはうまく見つからないよう隠れられたらしい。


「誰もいませんでしたよ。その娘は、小妖精ピクシーを呼び寄せる力でもあるのですか?」

小妖精ピクシー?」

「ええ、あれほど集まってはささやき声では済みませんね。それにしても先程の言葉は――まさか小妖精ピクシーの言語では? 兄上」


 若い男の声は、怪訝けげんそうだ。

 カイに何かしているのか、時折、彼女の押し殺したような微かな悲鳴が聞こえてくる。


「分からないが、この娘は人と話す機会がほとんどない。私も聞いたのは初めてだが、耳にした言葉をただ覚えただけだろう」

「なるほど。ゴブリンと小妖精ピクシーがお友達、というわけですか。哀れな」


 あざけるように、若い男の笑い声が上がった。  


 ふと気付くと、先程デュークラインに追い払われていたルクが、静かに階段を上がってきていた。何かこちらに言いたいことがあるのか、口を開いたり閉じたりが激しい。鋭い前歯が一本、欠けているのがよく見える。隣にいるシアンが、彼に顔を突き合わせ、口元に人差し指を立てた。


「ディーナの娘。安心するがいい。小妖精ピクシーにわざわざ手を出すような真似はせぬ。お前が、大人しくさえしておればな」

ソードをお貸ししましょうか? 父上」


 物騒ぶっそうなことを言い出した男たちに、タオは恐怖を抱いて意識を階下に戻した。

 彼らはまるで何でもないことのように、怖ろしいことを口にしている。真っ当(まっとう)な聖職者とは思えない。


らぬよ。これ(・・)には、傷つける道具など必要ないのだ」


 そう言い、年配の男が何かを唱え始める。それを、タオは知っていた。言葉の意味は分からないが、これまで何度も聞いてきた。エリュースがいやしの光を使う際に唱える、神聖語だ。

 ホールを照らしている光とはまた別の、白く輝く光が階下で生まれたのが分かった。瞬間、カイの悲鳴が上がる。


 タオは反射的に身を乗り出していた。そこで目にした光景に、言葉を失う。

 カイはデュークラインに両手首を掴まれ、上半身を完全に押さえ込まれていた。白いローブはすそがはだけられ、細い足がさらけ出されている。その片方の足首を掴んでいる男の手が、白く輝いている。信じられないことに、その掴まれている足首が、光の下で赤く発火しているように見えるのだ。鼻をつく焦げた臭いは、人の肌を焼いているものなのだと気付く。拘束されている体が、痙攣けいれんするように跳ねている。

 苦しげなカイの苦悶くもんの表情に、タオはどうしようもないほどの怒りと情けなさで、体が震えることを抑えられなかった。シアンに後ろに引き戻されても、声を漏らしてしまいそうになる。 

 

 階下で、ソードが抜かれた音がした。


「どうした?」

「上に気配が」


 階段を上がってこようとしている若い男の立てる靴音と声に、タオは早鐘はやがねのように鳴る心臓を落ち着かせるすべがなかった。頭がろくに働かない。ここから奥には逃げられず、隠れる場所もない。こうなったら戦うしかないのだと、タオは拳を握り締めた。

 その時、低い女の囁き声が聞こえ、タオは左奥にいるカリスを振り返った。そして驚く。彼女が聞いたことのない呪文のような言葉を口にしており、その胸元に上げた右手の指先には、その指輪の宝石のような渦巻くような赤い光が生まれている。彼女の緑色の瞳は異様な輝きを見せ、その口元にほんの僅かな笑みが浮かんでいるのだ。


「かわいそう! 嬢ちゃん、かわいそうだ!」


 突然、ルクの大きな叫び声が聞こえた。驚いて振り返ると、隣から階下を覗き込むように身を乗り出し、ルクが叫んでいる。

 途端、タオはシアンに壁に押し付けられ、口元を掌で固く覆われた。


「今度はゴブリンか。まぎらわしい」


 若い男の声には、呆れたような溜息が混じっていた。ほどなく、彼がホールに戻っていく足音が聞こえ始める。

 タオは奇跡的に見つからなかったことに一瞬安堵し、安堵したことに自己嫌悪して泣きたくなった。カイがすぐそこで傷つけられているのに、何故自分は、ここで息をひそめているのだろうと思う。護ってあげなくてはと、思っていたのだ。そう思っていたのに、今、制止の声を上げることすら出来ないでいる。


 小さな溜息が聞こえた方を見ると、カリスの指先から赤い光が消えていた。感情の見えない横顔の、まぶたが下ろされる。それはまるで、階下から聞こえてくる全ての声や音を、遮断したようにも見えた。

 しかし、タオはそう出来なかった。カイの嗚咽おえつ混じりの苦しげな呼吸が、今も繰り返されている。悪夢のような現実は、まだ続いているのだ。


「さて、質問だ。ディーナの娘」


 氷の切先のように冷たく鋭い声が、淡々と、ホールに響いた。




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