12 再会
「戻ってきちまったな。二か月ぶりほどか?」
「うん、そのくらいだね」
足を止めたエリュースの隣で、タオは目の前に広がるいつかの『天空の庭』の明るさと穏やかさに安堵していた。鳥の囀りが響いており、右側の広い湖面には水鳥も見える。
ここに至るまでの道のりは紆余曲折で、森の樹々に囲まれていくにつれ、昼間だということを忘れるくらい鬱蒼として薄暗くなった。いつ魔物に遭遇するかと警戒しながら進んできたのだ。だから、森に入って少しした辺りで見た、石畳の両端にあった巨大な岩の塊には、心臓が飛び出るかと思ったほど驚いた。森と同化しているように蔓が巻き付き苔も生えていたが、その出で立ちは、いくつもの大きな岩がくっついた岩人間のように見えたからだ。侵入者を阻むようなその石像は大人四人分ほどの高さがあり、間を潜り抜ける時には嫌な汗をかいた。前回全く気付かなかったのは、別のルートから塔に迷い込み、帰りは暗く逆方向からだったためだろう。
今、目の前にしているウィスプのいない庭には誰の姿もなく、ただ鳥の囀りと、静かな湖畔の水音だけが、辺りに広がっている。奥に見える石造りの塔は上部が崩れており、暗くてあの時はよく見えなかったが、随分と年季の入った建物なのだと分かった。それでも、一般的な家屋の三階建てほどの高さは優にある。塔の上に上がれば、森を見渡せるのかもしれない。右側にも一階分の建物が繋がっており、崩れた塔の瓦礫がその上にも落ちている。奥に見える煙突からは、煙は上がっていない。
「行くか?」
確認するようなエリュースの問いかけに、タオは彼を見た。榛色の瞳に不安の色はなく、この旅路の途中も制止するような言葉を彼は発しなかった。マクファーレン伯爵領内での仕事を終えた後、ここノイエン公爵領まで足を延ばしたのだ。仕事を終え、いつもとは違い人目を避けて出発し、なるべく目立たないよう常にフードを被って行動してきた。自分たちがこの辺りに来ていたということも覚えられていない方がいい、とエリュースが言ったのだ。
「うん」
タオは頷いた。
フードを脱ぐと、陽光が眩しい。まるであのウィスプの夜が夢だったかのように思える。本当にあの塔には人が住んでいて、あの少女たちがいるのかとさえ疑ってしまうほどだ。
背を軽く叩かれて促され、タオは『庭』に足を踏み出した。短い草地を踏みしめて塔の扉に向かいながら、結界のことを思い出す。
「この周りに結界があるなんて、本当に分からないね」
こうして何の障害もなく中へ入れてしまうのだ。ゴブリンが内側にいたことから、たとえ魔物であっても入り込めるのだろう。とても安全な場所とは思えない。
「多分、探せば草に隠れて杭が見つかる筈だ。それらがこの庭を囲んでいるんだろうな」
「結界士のこと、調べたの?」
「ちょっとはな」
そう言ってエリュースが軽い溜息を吐いた。
「結界士なんて、俺たちが会う機会がないからなぁ。師匠の気持ちが分かるよ、やっぱ実際に話を聞くのが一番だもんな」
「じゃあ、結界士ってどこにいるのさ?」
「お偉いさん方のとこだよ。魔導士狩りの時も、結界士は全員じゃないだろうが生き延びているんだ。何故かって、貴族たちが抱えていたからさ」
「失いたくなくて、貴族が庇ったってこと? それなら――」
魔導士も庇ってあげれば良かったのに、とタオは思った。『蝕』を起こしたのは『魔導士全員』ではないだろう。魔導士の中には、貴族に雇われていた者もいた筈だ。
エリュースが、可笑しむように息を吐いた。
「ここでは他に誰も聞いている奴はいないさ。そうだな、お前の思っていることは、実際にあったんじゃないかって俺も思う。どこかに隠れている、若しくは隠されている魔導士がいるんじゃないかってな」
「そうだね……」
『浄化』は、教団による徹底した魔導士狩りだったと聞いている。当時を知らない自分からすれば、行き過ぎた制裁だ。
目前にした木製の扉には、アカンサスの葉を模した鉄製の補強がされている。タオは静かに呼吸を整え、右側中程に付けられている金属製の輪を掴んだ。
「いきなり斬られるなんてこと、ないよね?」
「引っ張りこまれないようにしていれば大丈夫だろ。むしろ、開けてもらえない可能性ならあるな」
「うーん」
確かにそうだな、と思いながら、タオは意を決してノッカーを扉に四回打ち付けた。
すると扉の向こうに、人の気配を微かに感じた。しかし壁が厚いのか、中の声は聞こえず、扉はなかなか開かない。
「タオ・アイヴァ―です。二か月ほど前にお会いしました。開けていただけますか?」
タオは中に声が届くよう、少し声を張り訴えた。訪問者が誰か分からないと開けられないのかもしれない、と思ったからだ。デュークラインに対して名乗っていなかったことを思い出すが、それでもこちらから名乗るのが礼儀だろう。
暫くすると、扉の鍵が回る金属音が微かに聞こえ、分厚い扉が奥へと少し開かれた。そこから顔を覗かせたのは、腰辺りまでしかない身長のゴブリンだ。その釣り上がった大きな赤い目には敵意が感じられたが、扉に掛かっている土色の指は強張っているように見える。そういえば、あの夜もこのゴブリンは慌てて逃げて行ったのだ。怯えさせているのかもしれない、そう気付いたタオは、剣の柄に手を掛けるのを堪えた。
「何の用だ、小僧ども」
「わ! えぇと」
ゴブリンが喋っている、そのことに改めてタオは驚き、その奇妙さに戸惑った。確かに前回も人間の言葉を喋っていたのだが、なんとも、珍妙なものを見ている気分になる。それに、用、と言われればどう答えたものか。いきなり「彼女と友達になりに」と言うのもおかしいだろうか。
扉から頭を出したゴブリンが、自分たちの背後を見渡している。自分たち以外に人がいないか、確認しているようだ。
隣からエリュースが、身を乗り出すようにしてゴブリンを見下ろした。
「この前、道を教えてくれたお礼を言いにきたんだよ。デュークラインはいないのか?」
「旦那は、出掛けてる」
「そうか」
意外にも素直に答えたゴブリンに、タオは会話が成立していることに妙な感動を覚えた。言葉が通じることで、ゴブリンである彼に対しての嫌悪感が薄れていることに気付く。
「とにかく中に入れ」
そう早口で言い、扉を開けてくれたゴブリンに、タオはエリュースと顔を見合わせた。
塔内に入ると、一変、暗くなった。ゴブリンがすぐに扉を閉めた為だ。目が慣れないため、視界が殆ど利かない。ゴブリンが持っているオイルランプの小さな灯りだけが頼りだ。
人二人が並んでやっと通れるほどの通路を五歩半ほど進むと、塔の中心部分と思われるホールに出た。横や上にあった圧迫感が無くなったためそう思ったが、暗すぎて細部は見えない。
「こっちだ」
ゴブリンの促しに、タオはエリュースと共に足元に注意しながら、仄かに明るい右の部屋に入った。そこには火の点いていない暖炉があり、大きめのテーブルに、背もたれのある椅子が四脚添えられている。先程の部屋よりも少し視界が利くのは、更に奥の部屋からの外の光が入り込んでいるからだ。見れば、大きな鎧戸がつっかえ棒で上に上げられており、そこから陽光に照らされた鮮やかな樹々の緑や湖が見える。
その光の下から姿を見せたのは、あの時と同じように白いローブを纏った少女だった。違うのは、首に下げたペンダントのような物が胸元に見えていることだ。それに何より、その珍しい漆黒の瞳が、あの夜よりもしっかりと自分たちを映しているように見える。その右手に怪我をしている様子は既になく、エリュースの予想通り、あの後きちんと手当てをされたのだろう。
タオは早まる心臓を落ち着かせながら、改めて少女に向き合った。
「久しぶりだね。ウィスプの夜に会った、タオ・アイヴァ―だよ。こっちはあの時も一緒だった友達で、エリュース・オーティスというんだ」
「エルでいいよ、よろしくな」
少女の傍で腰を屈めたエリュースが、彼女に笑いかけた。それに対し、少女が微笑む。小さな蕾が開いたようなそれは、とても愛らしい。あの夜よりも感情が読み取れる表情に、タオは大いに安堵した。
「タオ、と、エル」
少したどたどしくも少女に名前を呼ばれ、タオは喜びを感じながら頷いた。
テーブルの中央に小さな皿状のオイルランプを置いたゴブリンが、少女側の椅子を引く。座るよう促すように少女の腕を引っ張り、少女もそれに抗うことなく椅子に腰を下ろした。ランプの小さな灯りが、かろうじて互いの表情を照らし出してくれている。少女を見るゴブリンのそれは、どことなく心配そうにも見えた。
タオは思い立ち、腰の剣帯ごと剣と小剣を体から外した。一瞬身構えたゴブリンに、鞘に入ったままの武器を纏めて差し出す。大きな目を瞬きした彼に、タオはそれらを更に押し出した。
「預かっていてくれないか。貴方たち相手に使うつもりはないんだ」
「いいのか? 旦那、どうするか、知らないぞ」
武器を受け取ったゴブリンが信じ難い様子で聞いてきたことに対し、タオは笑みで返した。
「俺たちはただ、彼女と友達になりたくて来たんだ。だから、デュークラインさんにも、剣じゃなくて言葉で説明するよ」
「ともだち」
ゴブリンが唖然とした顔で、少女の方を向いた。少女も少し驚いたように、ゴブリンが口にした単語を、小さな口元で音無く繰り返した。
「というわけで、名前を教えてくれませんか? お嬢さん」
丁寧に、タオは少女に問いかけた。驚いたような表情だった少女のそれが、ゆっくりと状況を理解したように嬉しそうな微笑みに変わっていく。何の邪念も感じられない清らかなその笑みに、触れてはいけないような神聖さすら、タオは感じた。
「カイ」
大事なものを初めて人に見せる時のような緊張感と幸福感を伴って、少女の口から名前が告げられた。短いその名前に、姓は続かない。
「カイ?」
「うん」
確認するように繰り返すと、微笑みと共に頷きが返ってきた。
「俺たちと、友達になってくれる? カイ」
そう伝えると、少女――カイの顔が更に綻んだ。
「うん。タオと、エルは、友達」
「良かった。ありがとう」
つられて顔が緩むのを、今は引き締める術がない。エリュースが彼女の斜め隣の椅子に座ったのを見て、タオは彼女の正面の椅子に腰を下ろした。
その時、テーブルに少量の液体の入ったコップが置かれた。自分たちの前にも置かれたそれを見て、タオはゴブリンを見る。彼の表情は読み取りにくいが、明らかに敵意が薄らいでいるように思われた。
「林檎酒だ。ちょっとだけだけど、嬢ちゃんは、それが好きだから。お前らにも、やる」
「ありがとう。えぇと、」
このゴブリンにも名前があった筈、と思い出そうとした時、カイの頼りない片手がゴブリンの肩に伸ばされた。
「ルク、というの。一緒にいてくれて、いろいろ、助けてくれるの」
「そうなんだ」
紹介されたゴブリン――ルクが、喜んでいるともとれる、目尻を下げた表情で、カイを見ている。
ルクに礼を言い、出してくれた林檎酒を有難くいただくと、思ったより喉が渇いていたことに気付いた。仄かな甘みと酸味が染み渡り、少し緊張を解される。
ルクが左の部屋へ消えた後、カイが思い出したかのように、自身の胸元に下がっているペンダントのようなものを摘まんだ。それを衣服の中へ直そうとするのを見て、タオはその不思議なペンダントトップに興味をそそられた。白みのある、親指の第一関節くらいの大きさの物だ。牙のようにも見える。
「それ、何かの動物の牙?」
問うと、カイの動作が止まり、その指にした物を掌に乗せて見せてくれた。やはり牙のようだ。上部の太い部分に穴を開け、そこに細い革紐を通してある。
「歯だよ。ルクの」
「え?」
「ルクって」
タオはエリュースと顔を見合わせ、ゴブリンが消えた暗闇を見る。
「デュークが、くれたの。もし何かあったら、ルクに、これを見せればいいからって」
「見せたの?」
「うん、扉を開けて、タオたちを中に入れてって、お願いしたの」
無邪気にそういうカイに笑みを返しながら、タオはカイの白いローブに隠されたルクの歯に思いを馳せていた。どういう状況であのゴブリンの歯が、取られたのだろう。自然と落ちるわけはない。そういえば確かに、彼の前歯の片方は無い。ともかく経緯は分からないが、おそらくあれが『脅し』として機能したことは間違いないだろうと思う。そしてそれは今回確実に、デュークラインが意図しない使われ方をしたのだ。
「あ、そうだ」
思い出したように、エリュースが下ろしていた背負い袋を探った。取り出されたのは、一冊の本だ。それなりの分厚さがあり、表裏の表紙となる板には留め具と革のベルトが巻かれている。彼の手によってベルトが外され、少しランプを横にずらしてカイが見やすいような形で、その本がテーブルに置かれた。不思議そうに、カイがそれを見下ろしている。
「これな、ダドリーが――俺の師匠が、貸してくれた本なんだ。文字は読める?」
エリュースの問いに、カイが曖昧に頷いた。そんなカイの前で、エリュースの手が本を開く。彩色されていると思われる絵と文字がなんとか見えるが、小さな灯りだけでは、はっきりと見ることが出来ない。
「んー、もっと明るいところで見た方がいいな」
そう言ったエリュースに、カイが思い付いたように顔を上げた。
「ルク」
カイが呼んだ声は大きくなかったが、暗い左の部屋からまたルクがやって来た。何かをしていたのか、布で手を拭っている。
「明るくしたいの。奥のあれ、使っていい?」
「ああ、あれ」
カイの手元にある本を見て、納得したように奥の部屋に入っていくルクの姿を目で追っていると、すぐに彼が戻ってきた。手には片側に膨らみのある楕円形の石のような物を持っている。それはテーブルに軽くぶつけられ、月光のような光を纏った。本の傍に置かれたそれは、テーブル周りを明るく照らし出す。その美しい光に、タオは驚きながらも魅了された。
「それ、月光石じゃないか!」
興奮したように、エリュースが光る石に触れた。手触りを確認するように、指で石の表面を撫でている。それにより、光が時折、遮られる。
「エル、知ってるのか? この石のこと」
「ああ、ダドリーも一個持ってるけど、充填出来なくてもう光らないって言っていたんだ。すごいな、こんなにしっかり光ってるなんて」
感嘆の溜息を吐き出したエリュースが、興奮冷めやらぬ様子で続ける。
「古代魔法王国時代の遺物だよ。今じゃ作る技術は失われちまって、充填する技術だけは魔導士や結界士に受け継がれてるらしい。殆どは教団の上の方が独占してるんだって、ダドリーがぼやいていたな。金持ちの貴族やら商人なら持っているかもしれないが、まさかここで見るとはなぁ」
「エルも、この光、好き?」
エリュースを見上げたカイに、彼の笑顔が落とされた。
「うん、好きだな。手軽に明るくできるし、オイルランプより明るさの範囲が広いし、何より、こうして本が読める」
月光石に照らされ、開かれた本のページがよく見えている。その羊皮紙に描かれた色鮮やかな絵に、タオも目を引かれ腰を上げた。
「きれい」
見入るようにして呟いたカイの指が、赤い花の絵を撫でる。覗き見てみれば、文字よりも精巧な植物の絵が多いようだ。よくこんな高値で取引されるような本を貸してくれたものだと驚くが、ダドリー・フラッグがよほどエリュースに目を掛けているということなのだろう。
「俺たちの住んでいる町じゃ、こういう花も見かけるよ」
「すごく、きれい……」
自らページを捲り、絵に触れているカイの瞳は好奇心で輝いている。喜んでいることがよく分かる様子に、タオも嬉しく思った。わざわざ重い本をカイの為に持ってきていることからして、自分が思っているよりも、エリュースはカイのことを気にかけているようだ。
「これ、似てる」
「似た花を見たことがあるのか?」
「うん、裏の池。まだ少し、咲いてる」
つたない話し方ながら、カイはエリュースと会話を続けている。タオはそんな二人の様子を見守っていた。カイのふとした表情が、やはりどこか懐かしいような気持ちになる。どこかで会ったことがあるのだろうかとすら、疑ってしまう。
「その花、俺たちも見たいな」
エリュースが興味深そうな顔をカイに向けた。すると、少しカイの表情が曇る。
「ごめんなさい、外には、行けないの」
「謝らなくていいけど、外に出られないって?」
「デュークが、いないから」
落ち込んだようなカイの言葉に驚いていると、エリュースが何かに気付いたように一瞬、言葉を詰まらせた。
「なぁ、それって、もしかして俺たちと会った夜から?」
あ! とタオも思う。あの夜、カイは一人で外に出ていたのだ。とすれば、彼女の行動範囲が制限されたのは、自分たちが迷い込んだせいに違いない。
頷いたカイに、タオは申し訳なく思った。エリュースも頭を抱えている。
「ごめんね、カイ。俺たちのせいで」
「ううん。わたしが、ふらふらしすぎたのが、いけないの」
首を振ったカイが、俯き気味に言った。そんなカイを見て、タオは少し不安になる。デュークラインが、彼女をどう扱っているのかだ。
「ねぇ、カイ。デュークラインさんて、どんな人なのかな」
会って話す前に聞いておきたく、タオはカイに質問した。一瞬不思議そうな顔をしたカイが、意外にも頬に笑みを広げる。
「やさしい人」
その人を思い浮かべているように紡がれた言葉には、彼女の温もりが込もっているように感じられた。嘘偽りは感じられない。父親かどうか確認しようと思ったが、彼女が名前で呼んでいることから、彼女には聞かない方が良い気がした。
「でも……」
「ん?」
カイの声が沈み込んだ気がして、タオは彼女を見つめた。彼女の視線は本に描かれた赤い花に落とされている。
「こわい」
小さくだったが、確かに発せられた言葉に、タオは驚いた。
自分が抱いている彼の印象は『怖そう』なのだが、『優しい』と言った彼女から、その言葉が出るとは思わなかったのだ。
「やさしいデュークと、こわいデュークが、いるの」
顔を上げた彼女の眉は少し寄せられており、本気でそう言っているのが分かる。
「デュークはね、二人いるの」
そう言ったカイの瞳が、僅かながら潤んだように見えた。
「二人いるって?」
タオは彼女の言う意味がよく分からず、聞き返した。直後、右肩を叩かれてエリュースを見る。
「怒ったら、別人みたいに怖いってことだろ。あのはとこみたいにさ」
「ああ……! そういうことか」
怒ったサイルーシュを思い出し、タオは納得して頷いた。普段は世話焼きでよく笑う彼女だが、怒らせると怖いのだ。この間も、目を三角にして怒られた。久しぶりに外で会う約束を忘れてしまった自分が完全に悪かったので、一日謝り倒し、ようやく許してもらったのだ。
「お。ああ! って言ったな、タオ」
「え!」
「あいつに言ってやろ」
「え――!」
至極面白がっている顔をして、エリュースが笑っている。
タオは慌てて立ち上がり、彼の襟元を両手で捕まえた。
「だ、駄目だよ! エル! それは絶対に! またルゥを怒らせちゃうだろ!」
「お前に矛先が向いてるうちは、俺は平和に過ごせるもんなぁ」
「あああ、もう!」
エリュースの楽しそうな笑みに、半ば諦めかける。その時、小さな笑い声が聞こえた。
見れば、カイがこちらを見ており、声を立てて笑っている。
「カイ」
その様子にタオは少し恥ずかしくなったが、同時に彼女が笑っていることを嬉しく思った。こんな風にも笑うのだ、と新たな表情を発見した気分だ。
「ルゥって?」
興味深そうにカイに問われ、タオはまだ少し笑っているエリュースから手を離した。
「ルゥは、エルのはとこなんだ。えーと、エルのお父さんの従兄――エルのお祖父さんのお兄さんの息子――の子なんだよ。俺の師匠がその従兄だから、俺はルゥの家に一緒に住まわせてもらっているんだ」
「お前それ、ややこし過ぎるだろ。要は、カイと同じくらいの女の子ってことさ」
「そう! そうなんだ。栗色の長い髪の、女の子なんだよ」
エリュースに指摘され、タオはサイルーシュの特徴を端的に答えた。
「明るくて優しい子なんだ。たまに怒らせると、ちょっと怖いけどね」
冗談交じりに付け加えると、カイがまた楽しそうに小さく笑った。
「俺の、大切な人なんだ。いつか、カイにも紹介できるといいんだけど」
「大切な人……」
呟くように、カイが繰り返した。そして嬉しそうに頷いてくれる。
きっとサイルーシュも彼女の良い友達になるだろうと、タオは思った。気の強いところもあるが、基本、面倒見が良いのだ。
「カイは、ずっとここにいるの? ルクや、デュークラインさんと一緒に?」
そう問うと、カイの瞼が僅かに伏せられた。そして、ゆっくりと首が左右に振られる。本の上で組まれた彼女の両手に、力が込められたように見えた。
「デュークは、よく出かけるの。出かけたら、何日も戻ってこない」
「何の仕事をしているのか知っている?」
「ううん、でもきっと、大事な仕事なの」
寂しそうな顔でそう言ったカイの声には、諦めが滲んでいるように聞こえた。
その間はルクと二人きりで過ごすのかと問うと、時々シアンが来てくれる、とカイが微笑んだ。シアンというのは、本を読み聞かせてくれる人物なのだそうだ。
「カイは、その、ここ以外を知っている?」
「ここ、以外?」
「そう、この森の外。ここに来る前とか」
「よく、分からない。でも……」
思い出そうとするように、カイの細い眉根が寄せられた。
どこか遠いところを見つめるように、目が細められる。
「暗いところ……」
「暗いところって?」
「分からない。寒くて、冷たいところ」
震える細い両手が、彼女自身の頭を抱えるように押さえた。目が苦しそうに閉じられる。
「カイ?」
痛みがあるように見え、タオはカイに手を伸ばす。しかし触れる前に、カイの震えを帯びた声が聞こえた。
「誰もいなくて、暗いの……、時々、水が、降ってくるの……寒くて……」
次第にその震えを大きくしていくカイの様子に、タオは驚いた。エリュースが慌てたように彼女の肩に触れたが、それすらもカイは気付いていないように、うわ言のように「寒い」「冷たい」と繰り返す。
その時、高い馬の嘶きが外から聞こえた。ゴブリンが誰かに話しかける声が微かに聞こえたかと思えば、すぐに硬い靴音が左奥から近付いてくる。姿を見せたのは、あの夜に対峙したデュークラインだ。驚いたように部屋の入口で足を止めた彼の眉間には、深い皺が寄せられた。
「お前たち、」
「待った! デュークライン、話は後だ、先にカイを」
エリュースが、デュークラインの言葉を遮った。椅子から崩れ落ちそうになっているカイを両腕で抱えているエリュースの表情に、いつもの余裕は見られない。
「カイ」
顔色を変え、足早に二人に近付いたデュークラインが、エリュースから震えるカイの体を受け取った。その際の動作には慎重さが見られ、その場に崩れた少女の体を胸元で抱き留めるために、彼の両膝は床に突けられた。宥めるようにして、震える背や頭を、彼の骨ばった大きな手が撫でている。
「大丈夫だ、私だ、カイ。何も思い出さなくていい、何も」
カイに囁くように繰り返されるデュークラインの声は、まるで懇願しているようにも聞こえた。
固唾を飲んで見守っていると、徐々にカイの震えが治まってきた。暫らくして彼の胸元からゆっくりと顔を上げたカイの瞳は、少し潤んではいるが彼をしっかりと映しているように見え、うわ言を呟いていた苦しそうな表情ではなくなっている。
タオは安堵し、意図せず力が抜けた。しかしデュークラインがカイを自らの体に預け、両腕で支えながら立ち上ったのを見て、慌てて椅子に座りかけた腰を上げた。
「あの! タオ・アイヴァ―です。ウィスプの夜に、ここでお会いしました」
「知っている。アルシラの大聖堂騎士サイラス・オーティスの従士、タオ・アイヴァ―。そっちはサイラスの従兄甥のエリュース・オーティス。大聖堂付属学校の学生だな」
「えっ」
言った筈のないサイラスや、エリュースのことまで口にしたデュークラインに、タオは驚いた。エリュースを見るも、彼は面白そうに笑みを浮かべている。
「調べたのか。で、俺たちを信用してくれる気になった?」
「何だと?」
「俺たちの評判は、ついでに耳にしてるだろ。なかなか品行方正だと思うんだけどな」
茶目っけな人懐こい笑みが、眉間の皺が消えていないデュークラインに向けられる。それをはらはらしながら交互に見ていると、タオはデュークラインの胸元から顔を上げている、物言いたげなカイの様子に気付いた。
「デューク」
カイが彼を呼んだことで、デュークラインの視線が落とされる。
自分の置かれた状況が理解出来ていないような顔でカイが瞬きをし、それから予想外に微笑んだ。
「あのね、タオと、エルは、友達なの」
「友達?」
「うん。きれいな本も、見せてくれたの」
嬉しそうに微笑みを浮かべるカイに対し、デュークラインが片手で自身の頭を抱えた。答えに窮している様子だ。
「えぇと、デュークラインさん! 俺たちはただ、カイと友達になりたくて来たんです。誰かに見られないように、注意して来ました。だから、」
「何故カイなんだ。あの時、ろくに話さなかっただろう」
「それは、そうなんですけど、あれからずっと気になっていて、すごく、寂しそうに、見えたので……」
こういう風に説明するのは失礼かもしれない、そうも思ったが、タオは結局口走っていた。申し訳ない気がして、言葉尻を呑み込んでしまう。
その時、ふいに別の靴音が聞こえた。固いそれは、裸足のルクのものではない。
奥から現れたのは、一人の貴婦人だった。足先まで隠してしまう丈の長い長袖ドレスに、袖無しの上着を羽織っている。金糸で刺繍の施されたそれを見るだけで、彼女が庶民でないことが分かった。
うねりのある赤毛混じりの金髪は結い上げられており、彼女の唇に差された紅色と相まって艶やかな美しさだ。母親より、少し年上だろうと思う。彼女の後ろに付き従うようにしているのは、肩までの真っ直ぐな髪を下ろしている、デュークラインより十は若く見える男だ。
「面白いではないか」
芯の通った響きの良い声で、貴婦人が微笑した。