11 ソラドゥーイルと予言
薄暗い室内で、シアン・テューダーは林檎酒を入れたコップを片手にしながら、目の前に座っている男の様子を眺め見た。昨夜遅くにやって来た彼は酷く疲れた顔をしており、挨拶もそこそこに奥のベッドに上がり、眠っていたカイを抱き込む形で眠ってしまったのだ。あれには、一緒に見ていたルクと顔を見合わせるほどに驚いた。カイが起きてしまわないかと思ったが、彼女には誰が触れているのかが分かっていたのか、抱き込まれたまま目を覚ますことはなかった。今はもう外の陽は高い頃だが、まだカイは眠っている。普段はよく魘されているようだが、傍にデュークラインが居ることで安心して眠れているのかもしれない。
今、目の前にいるデュークラインは、腕を組んだまま、俯き加減に目を閉じている。朝起きてきた様子を見る限り、疲れは取れたようだ。昨夜は本当に急いで、馬を飛ばして来たのだろう。
「デュークライン」
シアンは、静かに声をかけた。寝ているわけではないことは、この三年の付き合いで分かっている。
デュークラインの瞼が驚いた様子もなく僅かに上がり、テーブルの中央に置かれている月光石に照らし出された深い青の瞳が見えた。
「貴方は、どんな指示を受けてここへ?」
自分は女主人に指示され、昨日の昼頃からここにいる。デュークラインをアルシラの収穫祭に合わせてここへ寄越したのは彼女ではないのだろうと、シアンは考えていた。
眉間の皺を深めたデュークラインの表情は、まるで嫌なことを思い出したかのようだ。
「万一のことがあれば、斬って捨てろ。地下の牢に埋めてしまえ、と」
半ば吐き捨てるように言ったデュークラインが、片手で頭を抱えるようにして溜息を吐いた。
シアンは怒りと共に湧いた遣り切れない哀しさに、すぐには返す言葉が出なかった。この男はその時、平然とした仮面を張り付け――もしかしたら微笑すら浮かべてみせたかもしれない――「お任せください」と承知の返事をしたことだろう。
「惨いことですね。自身の手は汚さず、何かが起こったとしても無関係を通すつもりですか」
「そういう男だ。人一倍猜疑心が強く、用心深い。あの男が信用している者など、ほんの一握りの人間だけだろうな」
「その一握りの中に、貴方は入っている。というわけですね」
そう言うと、デュークラインの視線に鋭さが増した気がした。が、すぐにそれは伏せられた。彼の口元には、自嘲気味な笑みが薄っすらと浮かんでいる。
こうしてたまに少女の様子を伺い、基本的には女主人の元で過ごしている自分には想像もつかないほどの気苦労を、この男はしているのだろう。
「あちらの生活は、辛いですか」
「辛い?」
少し微笑ったデュークラインの瞼は、伏せられたままだ。
「面倒なことは多いが、十年かけて築いた足場は、今はそれなりに安定している」
「貴方の努力の賜物ですね」
「いつ崩壊するか分からんがな。薄氷の上を歩いているようなものだ。いつか、自ら割る時が来るのか、足を掬われるのか、もしくは歩き続けるのか」
言葉を止めたデュークラインが言いたいことは、おおよそ分かった。全てを決めるのは我らが女主人だが、不測の事態は彼女の目の届かぬ所で常に起こり得る。彼女の意に背かぬようにしながら、立ち回りを考え、発する台詞は正しいものでなくてはならない。彼はおそらく、これまでの十年をそうした緊張感の中で過ごしてきたのだ。今こうして彼が生きて、自身の立場を固めていることは、正にその証といえるだろう。自分では到底、できる気がしない。
シアンは、デュークラインを労うつもりで笑いかけた。昨夜、少女を抱き込んで眠っていた彼の表情を思い出す。
「ここは、貴方が安らげる場所なのですね。本当に、昨夜の貴方ときたら」
この男が、安堵したような顔をし、笑みさえ浮かべていたのだ。女主人が見ていたら、やはり驚いただろうか。それとも、何もかもを見透かすような目を細め、微笑っただろうか。
「剣帯がついたままの剣すらベッドに放り投げたままで――」
そこまで口にし、シアンはデュークラインの開かれた目を見た。感情を押し殺したような瞳の奥に感じられる決意に、胸を突かれる。と同時に、怖ろしさを感じた。
「我らがソラドゥーイル、偉大なマヴロスが惣闇の娘を寄越す――」
いつか女主人から聞いた言葉を口にすると、デュークラインのこめかみが僅かに動いた。
「止せ、シアン」
「その娘が二十四になり私を呼ぶ時、私は戻る。この血塗られた教団を燃やし尽くすだろう――」
魔導士ウィヒトが遺した予言だ。元々この半島付近の土地では、黒い髪と瞳を持つ者は稀な存在だった。当然、赤子が生まれれば産婆は教団に届け出るため、すぐに見つかる。隠したとしても、異端審問院の目を逃れることは難しい。
この呪いの言葉のせいで、哀れな娘が物心がつく前に次々と処刑された。この塔に縛り付けられている少女も、その犠牲者だ。
「貴方は、昨夜何かあれば、あの子を斬るつもりで?」
少し、声が震えたかもしれない。
目の前の男の答えは分かっている。それでも、否、と言って欲しいとシアンは思った。
「カイを斬ることは、あの方の望むところではない」
「ええ、そうですとも。あの方はあの子のことを、本当の姪のように思っている筈」
「だが、予言の成就も、あの方の望むところでは決してない」
デュークラインの言葉に、シアンは何も言えなかった。再びあの悪夢――『蝕』が起こされるようなことになれば、多くの者が命を落とすだろう。人間だけでなく、他の動植物でさえ、その災厄からは逃れられない。
シアンは、予言を残したウィヒト――というよりは、ウィヒトに予言を口にさせたマヴロスは、相当意地が悪いと思っている。そもそも予言など残さず黙っていれば、娘は安寧に育っただろう。世界神の一柱であるマヴロスの力を持ってすれば、そのような家庭に産まれるよう手を加えることもできる筈だ。そこから導き出した答えは、背筋の寒くなるものだった。思い至った時には、吐き気をもよおしたものだ。マヴロスが気紛れなことは伝え聞いた伝承からも分かるが、残忍さも付け加えるべきだと思う。当然のように次の娘が現れるのは、娘が発見され、殺されることが分かっているからに他ならない。
カイは奇跡的に生き延びているが、このことをマヴロスはどこかから観ているのだろうか? この状況すら、彼の思惑通りということはないだろうか?
「どのようにして、予言は成就するというのでしょう。今のあの子を見ていても、とてもそのような気配は感じられません。ウィヒトが最期に抱いていたと思われる憎しみの感情すら、哀れなほどあの子には見られないのです」
「それがおかしいのだと、あの方は仰った。私もそう思う。スェル様がカイに講じた秘術――それもどのようなものであったかは分からないが、それが今も影響しているのだろうとな。記憶を失っていることも、関係しているのかもしれん。でなければ、もし私がカイの立場なら、とっくに狂ってウィヒトとやらを呼んでいる。本当に、呼べるものならばな」
可笑しむように、デュークラインが乾いた笑い声を短く立てた。
「あの方もあの男も、その程度の差はあれど、予言を疑わしく思っているのだ。この『檻』から出られぬ、か弱い子供に何ができるのか、とな。お前は? シアン。カイは、予言の娘だと思うか」
「私は……」
シアンは、ゆっくりと首を左右に振った。
「そうであって、欲しくないと思います」
この三年、毎日ではないが、カイのことを見てきた。まるで死んでいるように弱り、感情を失っていた娘が、少しずつ回復していく様を見てきたのだ。その娘が、忌むべき『蝕』を起こすような魔導士と関係があるなどと、考えたくはない。
自分が十歳にも満たない頃に体験した、『蝕』によって引き起こされた飢饉は、多くの町や村に死者を出した。アルシラから遠い、半島の南端に領地を持つカークモンド公爵クラウスからの助けがあったからこそ、『蝕』の中心地だったアルシラ含め他の領地の者も、その細い命をなんとか繋いだのだ。自分はノイエン公爵に仕える結界士である父を持っていたため、その恩恵を受けることも出来たのだと、今となっては思う。
「もし、あの子がそのように生まれついたのだとしても、予言の娘にはならないことを願いたい」
マヴロスにとっては、予言の成就などどうでも良い可能性もある。それに振り回されている人間を眼下に見下ろし、楽しげに微笑んでいるのかもしれないのだ。
「お前は、『蝕』を知っているんだったな……」
納得するように、デュークラインが言った。
彼の目が、月光石を見つめるようにして細まる。
「私が思うに、カイの記憶は、完全に失われたわけではない。おそらくは秘術を使われた際に、カイの奥深くに沈んだだけだ。魘されるのは、そのためだろう。あの方は仰った。どんな秘術であろうと、それは術者の死後、永遠に続くわけではないと」
「いつか、思い出す、と?」
「いつ思い出してもおかしくはない、だ」
デュークラインの淡々とした物言いに、シアンは膝上で両手を握り締めた。
ならば、カイを今の状態に留めているものは何なのだろう。予言の年になれば、それも強制的に取り払われてしまうのだろうか。マヴロスの手によって。それとも――。
「私とて、カイが苦しむのなら、記憶など戻らなくていいと思っている。それが予言の娘たる切っ掛けになってしまうのなら尚更だ。ただ、カイには恨む権利がある。あの男のことも、母親のことも、この、私のことも」
「デュークライン」
一瞬、辛そうな表情をしたことを、シアンは見逃さなかった。
纏めきれていない前髪を片手で搔き上げる仕草の間に、デュークラインの表情は元に戻っている。
「確かに、そうかもしれません。ですが、あの子は恨んでいませんよ、少なくとも貴方のことは。私はそう思います。あの子は、賢い子ですから」
そう言うと、デュークラインが鼻を鳴らすようにして軽く笑った。
「カイに殺されるなら、私は受け入れるがな」
「それは、愚かな考えですよ」
シアンはきっぱりと言い切り、デュークラインを見据えた。
この男は意外にも、罪悪感で押し潰される寸前なのだ。出会った頃は、こんな弱音を漏らす男ではなかった。彼を変えたのは、きっと、いたいけな瞳をしたあの少女なのだろう。
「貴方はそれで楽になるかもしれませんが、あの子はどうなるのです。貴方は自覚するべきですよ、あの子にとって貴方は―――」
シアンの言いかけた言葉は、喉の奥に消えた。デュークラインの視線が動いたことにより、隣の部屋から出てきた少女に気付いたからだ。
「カイ」
覚束無い足取りの少女に、すぐにデュークラインの腕が伸ばされる。それに吸い寄せられるようにして、白いローブ姿の少女は彼の腕の中へ納まった。大きな掌に頬から髪を撫で上げられると、嬉しそうにカイが微笑む。
体調は良さそうだ。
「おはようございます、カイ。よく眠れたようですね」
声をかけると、カイと目が合った。きちんと認識されているのを感じる。微笑みを向けてくれたことに喜びを感じ、シアンはカイの成長を感じ取っていた。はにかむようにして、おはよう、と言葉も返してくれる。数日に一度、ここを訪れては、彼女に本を読んでいる甲斐があるというものだ。
「シアン」
伺うように声をかけてきたカイの体は、当たり前のようにデュークラインの膝に上げられ、彼の片腕に支えられている。
「夜も、いてくれたの? シアンは、眠れた? 寝るところ……」
「あぁ、」
カイの言いたいことが分かり、シアンは笑みを返した。
いつもはここに泊まることはない。ここに寝泊まりすることがあるのは、ほぼずっと居るルクと、数日居ては出ていくデュークラインだけなのだ。
「心配してくれて、嬉しいですよ、カイ。大丈夫、ルクに藁とシーツを敷いてもらって、私用の寝床を作ってもらいましたからね。ちゃんと眠れました」
「良かった」
ほっとしたようなカイの頭を、デュークラインの右手が撫でつけている。寝癖で跳ねている髪を、手櫛で整えてやっているようだ。
カイが、デュークラインを振り返るようにして見上げた。彼の切れ長の目が伏せ気味に、彼女の視線を受け止めている。
「外に出たいのか」
そう問われたカイが小さく頷くと、デュークラインは短く「分かった」と応えた。
年齢の割に小さく細い体を、片方の腕で抱き寄せるようにしながら椅子を引いて立ち上がり、もう片方の腕で少女の両膝を抱え上げたデュークラインの一連の動作は、見ていて感心するほどに手慣れている。カイの両腕は彼の首に回されており、その頬は彼の肩口に預けられた。
「お前も来い、シアン。ルクよりは役に立つだろう」
「とんだ言われようですね。村に買い出しに行かせたルクが、今頃、身震いしていますよ?」
いざとなれば、カイを抱き上げて塔に入れと言うのだろう。以前ここに迷い込んだという少年たちのような、ひとまずは害のないと思われる者は珍しいと考えるのが自然で、彼らが来た以上、他にも来ると想定するのが妥当だ。周りの森による天然の結界があったのだとして、それが何らかの理由で弱まっているのかもしれない。
「構いませんよ、ご一緒します。カイには久しぶりの外ですからね」
あれ以来、デュークラインは彼以外と塔の外に出ることをカイに禁じているらしい。そのお陰で、彼女が草地をその足裏で感じられるのは、塔の裏側にある厠を使う時だけだ。ルクが寝起きしている部屋を通り抜ければ、半分屋内のようになっている屋根付きの空間に出る。その左側に厠や倉庫が、右側には台所や洗濯場があり、湖側を除いて石壁が作られているために人目に付くことはない。
律儀にデュークラインの帰りを待っていたカイの為に、シアンは林檎酒がまだ残っているコップを手離した。
緩やかな風が、カイの短い髪を撫でていく。デュークラインによって乾いた草地に下ろされた彼女が、心地良さそうに空を仰いだ。鳥の囀りに耳を澄ませるように目を細め、風が肌に触れることを楽しむように腕を軽く広げている。纏う白いローブが空気を孕んで大きく揺れる様は、まるで風が彼女を歓迎しているかのようだ。空は少し曇ってはいるが、雨が降るのは少し待って欲しいと、シアンは願った。
ゆっくりと歩き始めたカイは、その足裏の感触を楽しむように、デュークラインの周りを回る。いつでも支えにできるよう彼女に差し出されている彼の手に、時折、触れては離れる。
「あ」
カイが虚空を見つめて小さな声を上げた。よく見れば、いつの間にか彼女の鼻先に、小妖精がいる。その羽から細かな光を撒き散らしているそれらは、気付けば複数、彼女の周りに現れていた。まるで、彼女が外に出てくるのを待っていたかのようだ。耳を澄ませば、彼らの囁き声が聞こえる。理解出来ない言語だが、カイに好意的に話しかけていることは、なんとなく分かった。彼らの言葉を聞いているカイが、嬉しそうに微笑っているからだ。
「デュークライン、貴方でも分からないんでしたよね。彼らの言葉」
「分からんな。ただ、あいつらはカイのことは好きで、私のことは嫌いらしい」
「そうなのですか?」
小妖精たちは、カイがこうして外に出ている時に現れることがあるのだと、ルクに聞いたことがある。基本的に屋内でカイに接しているため小妖精を遠目でしか見たことがなく、間近で見る光景に、シアンは好奇心を刺激されていた。彼らの言葉を理解しているらしいカイに、いつか是非とも教えを請いたいところだ。
「私はどうなんでしょうかね」
シアンは小妖精たちを驚かせないよう、少し身を屈めて片手を差し出してみた。すると、カイの髪に触れていた小妖精が、その姿を一瞬で晦ましてしまう。
「おや」
複数体いるため、どこかに増えているのかも定かではない。
隣から、小さく笑ったと思われる息遣いが聞こえた。
「あいつらが好きなのは、カイだけらしいな」
「貴方の仲間だと思われているんですよ。貴方、何かしたんですか?」
「何も」
そう言ったデュークラインが、小妖精たちが撒き散らす光の中でいるカイに腕を伸ばし、その頭を撫でるようにしながら彼らを手で追い払った。彼の手が彼らに当たっているようには見えなかったが、彼の手を避けるようにして、小妖精たちは少女から離れている。言った傍から嫌われるようなことをしているデュークラインに、シアンは溜息を吐いた。
「そういうことをするからですよ」
「集られ過ぎだ」
小妖精のことをまるで羽虫のように言ったデュークラインが、その腕に戻ってきたカイを抱き留めた。
「ずいぶんしっかりと、歩けるようになりましたね」
「おかげで、目を離せなくなったがな」
そう言ったデュークラインの表情は柔らかく、素っ気ない言葉とは裏腹に、彼が喜んでいることが窺える。指一本動かすことも困難だった状態からの奇跡的な回復は、当初付きっきりで世話をした彼にすれば感慨深いものがあるのだろう。惜しむらくは、彼女に友人を作る機会を与えてやれないことだ。
「満月の夜が嵐で、本当に良かったと思います」
「ああ、そうだな」
デュークラインが、噛み締めるように同意した。もう二度と満月など見なくていいという呟きに、シアンも同意しかない。それでも天候を操ることなど、世界神か、あの魔導士ウィヒトでなければ不可能だろう。自分には祈り、見守ることしか出来ない。それが、酷く辛く思う。
「デューク、シアン。こっち」
カイに塔の裏側へと誘われ、デュークラインと共について行くと、湖の手前に作られた池に水草が生えているのが見えた。昔ここに住んでいた魔導士が、研究用に作ったらしい池だ。縦横三歩程度の広さがあり、上流の川から支流を作り流れ込ませている水が、この池を通って湖へと動いている。常に緩やかな水流があり、耳に心地良い水音が楽しめる場所だ。微かに、奥の川からのせせらぎも聞こえる。
「妖精さんが、教えてくれたの」
石で囲いがされている池の傍に座り込んだカイが、水草に手を伸べた。その指の先で、いくつもの白い花が咲いている。小さなそれは五枚の花弁からなり、中央部分は仄かに黄色い。葉は糸状に裂けているようで、水中に広がっているようだ。
「可愛らしい花ですね」
傍に屈み込むと、頷いたカイに腕の衣服の裾を掴まれた。嬉しそうに見上げてくる少女の笑みは、正に無垢そのものだ。小妖精の言葉が分かるのは、彼女が生まれ持った特性故なのだろうと思う。やはり虫一匹殺せないような非力なこの少女が予言に関わりがあるなどと、間違いとしか思えない。
心優しい恋人が、おそらく最後に救った少女だ。そのために命を落とすことになったことを、彼女は悔いてはいないだろう。彼女の思いを引き継ぎ、この子を守ってやらねば、と思う。
「シアン?」
心配そうな表情で見つめてくるカイに気付き、シアンは我に返った。
他人を気遣えるようにまで成長したことを実感し、まるで父親のような気分になる。女主人がカイを姪のように思っているならば、自分が我が子のように感じても許してもらえるだろう。
「大丈夫ですよ。カイは、花が好きなのですね」
笑顔を取り繕い、カイの思考を花へと戻してやる。素直に花に視線を送ったカイが、「好き」と言葉を繰り返した。
「なら、今度、花冠を一緒に作りましょうか」
「花冠?」
「ええ、花で輪っかを作って、頭に乗せる飾りにするんです。きっと良く似合いますよ」
振り返ったカイの瞳が、興味深そうに輝いている。それを見て、シアンも楽しみが増したことを嬉しく思った。こうして歩けるようになったならば、教えてやれることも増えるだろう。
「じゃあ、デュークとシアンに、作るね。あ、ルクにも。伯母様にも。あと、ヒューと、ガットにも」
「ずいぶんとたくさんですね。では、デュークラインにも手伝ってもらいましょうか」
皆の頭に花冠が乗っている様子を想像すると、笑いが零れてしまう。ヒューとガットというのは、デュークラインが乗ってくる馬と、ルクが馬車を引かせている馬のことだ。
「私も花冠とやらを作るのか」
乗り気では無さそうなデュークラインが、結局折れて参加する姿がシアンには容易に想像出来た。
彼は作った花冠を、きっと彼女の頭に乗せるのだろう。
ふと、手の甲に当たる水滴があった。それは池の水面に、次々と波紋を作っていく。
「降ってきたな。中へ入るぞ」
デュークラインによってカイが抱き上げられ、塔の裏から中へ入るよう促される。激しくなりそうな雨風の気配だ。この水中花が散ってしまわなければ良いのにと思いながら、シアンはデュークラインに遅れて歩き出した。少しばかり、雨の冷たさが心地良い。
雨脚に誘われ上を見上げると、塔の上部の崩れた部分に、いつかの暴風雨の際に飛んできて引っ掛かったままになっている木の枝を見つけた。塔の瓦礫と絡まり、絶妙なバランスを保っているようだ。雨が止めば撤去するようデュークラインに言った方が良いだろう。そう思い目を離した矢先、瓦礫が崩れる音がした。慌てて視線を上げると、それらの瓦礫が転がり落ちていこうとしている。
「デュークライン……!」
丁度、カイを抱いた彼がその真下に差し掛かっている。瓦礫の崩れる音で気付いたのか、シアンが声を上げた時には既に、デュークラインはカイを庇うようにしてその場から飛び退こうとしていた。
しかし間に合わない――、そうシアンは思った。と同時に、目を疑う光景を目の当たりにする。
デュークラインに抱き抱えられているカイの片手が瓦礫に向かって上げられ、その掌が見えない何かを作り出したかのように、一瞬、彼らに降りかかろうとしている全ての瓦礫が落下を止めたのだ。
気付けば、瓦礫を逃れたデュークラインが、間一髪の場所で倒れ込んでいた。
「デュークライン! カイ! 怪我はありませんか!」
シアンは二人に駆け寄った。起き上がったデュークラインが、抱き込んでいたカイを座らせ、怪我の有無を確認している。しかし、様子がおかしい。
「カイ?」
雨に打たれながら座り込んでいるカイの瞳は、目の前にいるデュークラインを見ていない。シアンにはそう見えた。虚空を見つめているような様子に、不安が過る。
「カイ!」
強く、デュークラインの声が、カイを呼んだ。骨ばった両手が、蒼白な小さな顔を包み込む。
再度、名前が呼ばれると、カイの濡れた睫毛が震えた。唇が僅かに開かれ、掠れたような声が耳に届く。
「デュー……」
「そうだ、私だ」
雨の中にもかかわらず、デュークラインに急く様子はなかった。カイの表情や視線に、神経を集中させているようだ。
彼の手がカイの頬を優しく撫でると、カイがはっきりと、デュークラインの名を呼んだ。
「おいで」
デュークラインの促しに、カイが自ら両腕を伸ばし、彼の胸元へしがみ付く。その震える小さな体を抱き締めたデュークラインが、一つ、深い溜息を吐いた。
その様子に、シアンも胸を撫で下ろした。しかし脳裏には、先程の光景がこびり付いている。
それでも、今問うべきではないということを、シアンは理解していた。
「とにかく、中へ入りましょう」
激しさを増してきた雨を感じながら、シアンは二人を促した。
日が落ちる頃には、風雨が更に強くなり始めていた。先程、デュークラインが作ったスープをパンと一緒に頂いたところだ。彼が台所に立っている間、カイを任されたのだが、そもそも彼が料理をするとは初めて知った。ルクがここにいない状況が、自分にとっては初めてなのだ。
雨が入り込まないよう鎧戸は下ろしており、室内の灯りは月光石のみだ。ベッドの脇に一つ、手前の扉側に一つ置かれており、青白い光で辺りを染めている。
叩きつけるような雨音に不安感を煽られる中、シアンはこの部屋に一つだけ置かれている背もたれのない椅子に腰かけながら、平常心を保とうとしていた。新しい純白のローブに包まれた少女は、背を向けるようにしてベッドで丸くなっている。
奥から雨音が大きく聞こえ、すぐにそれが治まった。台所からルクの部屋へ、デュークラインが戻ってきたのだろう。近付いてくる靴音を聞きながら振り向くと、丁度デュークラインが部屋に入ってくるところだった。
「貴方が料理をするなんて、驚きました。なかなかの物でしたよ」
そう言うと、デュークラインが微笑った。
「一通りのことは、トレリスに叩き込まれている。料理に関しては、ルクに負けるがな」
「ああ、グリーンさんですか。なるほど」
シアンは納得した。トレリス・グリーンは自分たちの女主人――正確にはその夫――に長年仕えている厳しくも面倒見の良い女中頭で、あの城にいる者たちは、自分が知る限り、彼女に頭が上がらない者が多い。仕えてまだ三年ほどの自分然り、このデュークラインも例外ではないようだ。自分が召し抱えられた時には既に彼は城を出ていたため、彼がどういうふうに過ごしていたのかは、あまり知らない。
「ルクが帰るのは、明日の昼頃になりそうでしょうか」
「だろうな。この雨だ。今晩は村に留まるだろう」
ベッドに腰かけたデュークラインの手が、カイの髪を梳くように撫でた。そのあまりの自然な動きに、おそらく無意識の行動なのだろうと興味深く思う。
「お前は、いつまでいる?」
「明日の朝までと思っていましたが、貴方が戻るなら、ルクが帰ってくるまでここにいますよ」
デュークラインの視線を受け、シアンは笑みを返した。
「あちらに報告が必要なのでしょう? 私はすぐに戻れますし、ルクが遅れても連絡手段はありますからね。でも貴方の方はそうはいかないでしょう」
「ああ、そうしてくれると助かる」
安堵したように言ったデュークラインの表情が、少し曇った。彼の掌がカイの頬に触れ、覆うようにして額にも当てられている。彼の手に誘導されるように寝返りを打ったカイの目が薄っすらと開き、微かな声で彼を呼んだ。
「デューク……、行っちゃうの?」
彼女の悲しみは当然のものだと、シアンは思った。やっと帰ってきたと思ったら、すぐにいなくなろうとしているのだ。彼がいない昨日と今日では、カイの表情が明らかに違うというのに。それでも、彼女に対するデュークラインの表情は、自分が見ている分には変わらない。
「仕事だ」
それだけ言うと、デュークラインがカイから手を離した。立ち上がって部屋の端にある棚の方へ行くと、暗くても問題なく見えているのか、薬瓶を持って戻ってくる。
「熱が?」
「シアン、そこの水差しから水を持ってきてくれ」
「分かりました」
月光石も置かれている扉近くの棚の上に、近くの湧き水を汲んだ水差しが置かれている。水をそのまま飲めることに、この塔に初めて来た時は驚いたものだ。
木製のコップに注いだ水をデュークラインに差し出すと、彼はカイを片腕で抱き起こして座らせ、コップを両手で持たせた。
「飲むんだ」
指先に摘ままれた丸薬が、カイの開かれた口に入れられる。コップを持つ手を支えているデュークラインの慎重な動作に、シアンも固唾を飲んで見守った。
咽ることなく薬を飲み終えた様子に、シアンは安堵する。デュークラインからコップを受け取り、棚上に戻してベッド脇に戻ると、カイはデュークラインの胸元に抱かれたまま目を閉じていた。
「貴方がいない時は、どうしているのです?」
ルクでは、デュークラインのようにはいかないだろう。そもそも体格が違い過ぎる。
そう思って問うと、デュークラインが意外にも片方の口角を上げた。
「あいつはあいつなりに、カイに薬を飲ませる方法を掴んでいるようだぞ。もっとも、外へ出ない日は、あまり容態が悪くなることはないようだがな」
「そうなのですか……」
シアンは眠った様子のカイを見つめながら、瓦礫を止めたように見えたことをデュークラインに伝えるべきか、迷った。見間違えだったのかもしれない。今となっては、そうも思う。あの時は自分も気が動転していた。それは確かだ。ショック状態だったカイの様子も、今はすっかり落ち着いている。
しかし、女主人には話しておかねばならない、とシアンは思った。彼女ならば自身の目で、見極めることができるだろう。この三年、カイが魔力を操ったのを確認したことはない。信じたくはないが、見間違えでない可能性もある。カイにかけられた何らかの秘術が、綻びを見せたということも考えられるのだ。
「シアン?」
「いえ、その――、例の少年たちのことは、調べがついたのですか?」
シアンは言い淀みながら、話題を変えた。一瞬、デュークラインが怪訝そうな顔をしたが、追及することを止めたようだ。
「それなら、もう報告済だ。もう二度と会うことはないだろうがな」
「そう、ですね」
さすがに仕事が早いことにシアンは感心しながら、彼の眉間の皺が深まったことが、妙に気になった。しかし、二度と会わない方が良いというのは、同感だ。
「この子は、ここで護られているべきです。たとえ歪な形であっても、今は――」
もしここが暴かれてしまえば、この哀れな娘は異端審問院に捕らえられ、処刑されてしまうだろう。それだけは、確実に分かっている。
「護られて、か……」
デュークラインの目が僅かに伏せられ、胸元のカイの寝顔に向けられた。彼女の頭を撫でようとした彼の手が一瞬止まり――、ゆっくりと労わるように彼女の髪に触れる。
シアンはそんな二人の姿を見ながら、この穏やかな時が、出来るだけ長く続くよう願った。