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10 収穫祭(断罪の広場)

 石造りの壁に囲まれた断罪の広場には、すでに民衆が入り始めていた。異端審問院の傍にあるこの広場は、元々の土地の傾斜を利用して地下へと掘り下げられており、半円形の階段状の観客席を有した、いわば劇場だ。観客席の中腹ちゅうふく辺りに出入り口が二か所、もうけられている。底にあたる舞台と観客席の間には幅広い浅い堀のような通路があり、端には地下への出入り口がある。地下には、檻に入れた物をそのまま舞台へ上げる装置や、出演者の楽屋や倉庫などがあるのだ。確か、舞台の両袖にも広場の外から入れる部屋がある。


 タオはサイルーシュとエリュースを伴い、広大な場内を眺め見た。頭上の太陽は傾き始めているもののまだ明るいが、壁の陰になる部分があるからなのか、石壁にはすでに等間隔で松明たいまつかかげられている。上の観客席を振り返ってみれば、黒いローブ姿の人物が、同じような服装をした者たちに采配さいはいふるっていた。まだ若そうな男で、ローブのフードから金色の長い髪が零れている。


「異端審問官かな」

「その中でも幹部だろうな。おそらくあいつが、この場の責任者だ」


 この催しは教団の中でも大聖堂騎士団主導のものだが、この場所は異端審問院のものだ。観戦する民衆から僅かながら金を取り、それは審問院の収入となっているらしい。


「お! あれってもしかして」


 喜色混じりの驚いた声が、隣にいるエリュースから上がった。彼の視線を追うと、幹部らしい審問官より一段下がった位置に、灰色のローブ姿の男を見つけた。フードは被っておらず、白髪混じりの髪や厳格そうな顔に刻まれた深いしわから、ずいぶんと年上なのだと思う。何より印象的なのは、額のヘッドバンドの両側から垂れている、白や茶混じりの大きな羽飾りで、それは場内を緩やかに吹く風を捉え繊細に揺れている。胸元に見えるのは、紅玉ルビーだろうか。


 異端審問官とは全く異なる空気をまとったその人物に、タオは見入みいった。これまで一度も、このたぐいの人間を見たことがない。


「誰なんだ?」

「俺もこんなに近くで見るのは初めてなんだ。確か、ハン・ウォーベック。召喚士しょうかんしだって師匠が言っていたな。あの『浄化』の後は異端審問院に()()されているって話だったが――」

「保護?」


 召喚士の名は耳にすることが少なく、実際にその技を見たことはない。タオはそれよりも、エリュースの言い方に含みがあるような気がした。しかしその疑問は、彼の視線によってさえぎられる。彼がこういう目をする時は、今はそう、だ。


「俺たちは、どこにいようかな」

「舞台全体をよく観たいなら上の方かな。その方が安全だし。ほら、まだ人も少ないよ」


 話題を変えたエリュースに、タオも従った。


 平らで幅広の階段の前の方から、観客が埋まっていっている。まだ始まっていない今は、その場に座り込んでいる人が多数だ。上部から壁際に沿っては異端審問官が立っており、外の衛兵にも感じたことだが、今年は人数が多い気がする。


「そうだな、そうするか。でも一番上より、数段下がった場所にしようぜ」

「いいわよ」


 上部を仰ぎながらエリュースが提案し、サイルーシュが頷いた。引き出される魔物から出来るだけ遠ざけておきたいと思っているタオにとっては、まだ容認できる位置だ。


 多くなってきた人の間を抜けて目当ての場所に辿り着くと、三段上の最上部の通路にいた異端審問官の一人が、壁向こうの奥へと歩いていくのが見えた。確か奥は広くはないがテラスになっており、そこからは南側の丘にある大聖堂の堂々たる姿が見え、眼下にはアルデア大通りを見下ろすことができる。


「じゃあ、俺は前に行ってるね、ルゥ。人が多いから気を付けて、何かあればすぐに呼んで」

「ええ、分かったわ。エルと観てるわね」


 笑顔で送り出してくれるサイルーシュに笑みを返し、去り際、エリュースにも目線を合わせる。任せとけと言わんばかりの表情と小さな頷きに、タオは安心してその場を離れた。



 舞台から堀の通路を挟んだ最前列には、大聖堂騎士団の本営が作られている。そこには座席のない観客席とは違い、立派な椅子が置かれていた。その傍に、板金鎧プレートアーマー姿のサイラスがすでに控えている。鎖鎧メイル装備の、先輩従士二人の姿もあった。


「師匠、すみません、遅くなりました」

「来たか、タオ。ルゥはどの辺にいった?」

「上段中央寄りです。エルも一緒に」

「悪くない場所だ」


 サイラスの言葉に、タオは軽く頭を下げた。その時、大きな拍手が沸き起こる。


「団長が来られたな」


 右の出入り口を振り仰げば、板金鎧プレートアーマーを装着し、白いマントを纏った騎士が場内に入ってきていた。大聖堂騎士団団長、ヘンリー・パーセルだ。がっしりとした体格が、今日は一段と大きく見える。場内からの拍手に片手を上げて応える彼の斜め後ろにいるのは、副団長の一人アレクス・ダリエだ。最高齢のダドリーを除けば最も細身の騎士で、貴族出身らしく華があり、こういうおおやけの場にはよく団長の傍らにいる。今回も、もう一人の副団長のノーマンは、ダドリーと共に騎士団本部詰めらしい。


 本営にやって来た騎士団長を、タオはサイラスたちと共に出迎えた。


「オルダスの準備は万端ばんたんか?」

「はっ。いつでも始められます」


 騎士団長とサイラスのやり取りを耳の端で聞きながら、タオは本営の端に控えていた。いつの間にか、場内には人々が溢れかえるほど入っている。今日ばかりは身分の差が僅かにぼやけるのか、ちらほらと貴族らしき者の姿も見えた。こういう催しを野蛮だと嫌う者もいるが、エリュースの言葉を借りれば、娯楽に飢えているのは彼らも同じ、というわけだろう。


 舞台上では、舞台袖から出てきた一人の道化による前口上まえこうじょうが始まった。赤と黄色のまだら模様の衣装と、つのが前後左右に分かれた風変わりな帽子をかぶった道化が、その緩急をつけた絶妙な言い回しで、民衆の関心をあおろうとしている。


 タオはその声を聞きながら、こっそりと溜息を吐いた。この場で道化を使うことは、前々から好ましく思っていない。収穫祭の催しとはいえ、本当に危険な戦いだというのに、道化に茶化させるのはどうかと思うのだ。


「さてさて、老若男女ろうにゃくなんにょの皆さま、お待たせいたしました! 今から始まるのは他では見られない、命を懸けた魔獣との戦いです! 我らが教団の誇る騎士に拍手を!」


 大きな拍手が鳴り響く中、舞台に上がったのは、大聖堂騎士のオルダス・バトラーだ。師であるサイラスと仲の良い騎士であり、家族ぐるみで付き合いがある。今日は彼も板金鎧プレートアーマーを身に着けており、彼に付き従っている二人の従士は鎖鎧メイル装備だ。

 もう一人、汚れた皮上着レザージャーキン装備のみの従士の姿があった。ソードも持っておらず、手にしているのは六尺棒クォータースタッフのみだ。旅の途中で魔物に襲われた、という設定で、彼はいわば、護られるべき観客の代表というわけだ。


「ウルフを上げろ」


 パーセルの傍近くにいるダリエの指示が、部下たちを介して舞台地下に伝わったのだろう、道化が声を上げてあおる中、舞台の右端の床がせり上がってくる振動音が聞こえ始めた。くつわが外されたのか、姿が見える前から、場内の空気を振動させるほどの獣の唸り声が上がる。腹に力を入れておかないと、その声だけで気持ちが砕けてしまいそうだ。唸り声の中に、強い怒りの感情を感じ取る。タオは両手を握り締め、舞台上に檻ごと上げられた魔獣を見つめた。


 道化が檻から飛び上がるようにして離れ、オルダスたちの後ろへ避難しながら声を上げる。


「グエルのウルフだ! これは大変だっ! しかも腹をかせているぞ!」


 牛ほどの大きさもある巨大なウルフだ。グエルのウルフとは、このアルシラとは目と鼻の先のひずみの多い荒野こうやグエルに生息する狼であり、瘴気しょうきにより魔獣と化した狼を指す。びんと伸びた大きな耳と口、その上顎から伸びている二本の太く鋭い牙は、ソードですら噛み砕いてしまう凶器だ。


 それに付き従うように、それよりは小さな狼が二匹いる。この三頭は催しに使うため、騎士団が捕え、この地下で生き永らえさせてきたものだ。エリュースが悪趣味だと言ったことも理解できるが、タオは、今はオルダスたちが無事に舞台から降りられることだけを願った。


 檻が開けられ、ウルフたちが出てくる。それぞれが上げる殺気に満ちた唸り声は、観客たちの悲鳴を掻き消すほどだ。


 作られた舞台上で、人間と魔物との命を懸けた戦いが始まった。



* * *



 エリュースは、観客席から舞台を見下ろしていた。騎士団長が入場した頃から、座っていた人々も立ち始め、辺りは人が密集した状態になっている。幅広い階段状になった観客席の一番前に立たせているため、身長の低いサイルーシュでもなんとか舞台が見えているだろう。


 魔獣が引き出されたのを見て、周りの民衆が悲鳴にも似た歓声を上げた。実際に荒野で出会ったなら、絶対に出ない声だ。

 衣服を持たれた気がして隣を見ると、舞台に目が釘付けになっている様子のサイルーシュに、上着のすそを掴まれていた。


「大丈夫だって、オルダスさんだって強いんだからさ。何かあったらサイラスおじが出て行って、あっと言う間に片付けちまうさ」

「そうだろうけど、でも、怪我けがするかもしれないじゃない」

「そりゃまぁ、無傷ってわけにはいかないよな。去年はサイラスおじだったけど、怪我はしたろ」


 去年の魔物も、グエルのウルフだった。同じ魔物だということで、サイラスはオルダスに任せたのだ。サイラスたちがウルフと舞台で戦った際、娘の想い人であるタオを庇って怪我を負わせなかったサイラスが、この娘をどれだけ大切に思っているかは言うまでもない。


「リリアンさんは来ているのかしら」

「地下の控室だろうな。新妻にいづまを置いて死なねぇって」

「エル!」


 怒ったような声を浴び、エリュースは口を滑らせたことを反省した。サイルーシュが心底オルダスたちを心配しているのは、その緊張した表情で分かる。


「悪かったよ。ほら、応援してやれよ。後で、たっぷり美味うまいもん食わせてやれ」


 少しでも気持ちをほぐすために細い肩を軽く叩いてやると、サイルーシュが両手を口の両端で立て、オルダスの名を大声で叫んだ。その声援は、周りにも波及はきゅうしていく。場内の歓声がオルダスの名を声高に上げる現象は、しばらく止みそうにない。


「ほんっと、とんだ跳ねっ返りだな」


 じゃじゃ馬め、と心の中で笑って呆れながらも、エリュースはサイルーシュのかたわらでオルダスの名を叫んだ。思ったことをそのまま大胆に行動に移せるのは、裏表の無さそうな彼女ならではだろう。それが許される、恵まれた環境で育ったという証だ。


 舞台上では、一匹目の狼が従士の一人によって倒された。オルダスの従士は三名が舞台に上がっており、その内、皮上着レザージャーキンを着ているのが最も年長で腕の立つ者だろうと、エリュースは見ていた。ソードも持たされず、魔物から逃げなければならない役所やくどころは、最も命の危険に晒される。六尺棒クォータースタッフでは、相手の致命傷にはなり得ない。しかもよく狙われていることから、あのレザーには家畜の血でも吸わせてあるのだろう。


 グエル・ウルフとの間合いを図りながら、オルダスたちはうまくタイミングを掴んで避けているようだ。エリュースは舞台から目を離し、何気なく周りを見渡した。今朝から感じていたが、やはりここでも審問官の数が多い。


「ん?」


 右端の出入り口付近に立っていた審問官が一人、持ち場を離れて上がっていく。最上段にまで上がったその審問官が通路を小走りに駆けていくのを、エリュースは気付かれないよう注意しながら目だけで追った。


 審問官の姿が、視界から消えた。反対側に目を向けてみたが、そこにはいない。確かこの真後ろには、この場を仕切る審問官の幹部がいたはずだ。


 エリュースは、慎重に真後ろを振り返った。上段にいる人々の視線は舞台に注がれており、不審に思われている様子はない。その彼らの頭の隙間から、幹部と話す審問官の様子がはっきりと見えた。彼らの視線が、場内の中腹辺りに向けられている。


 不思議に思ったが、ここからでは話の内容は聞こえない。民衆が上げる歓声などで、離れた場所の音を拾うことは難しいのだ。


 諦めて舞台の方に向き直ると、エリュースは更なる異変に気付いた。壁際に立っていた審問官が、持ち場を離れていくのだ。その緩慢かんまんに見える動きは、夕闇が近付きつつある中で、まるで人々の影を縫うようにして移動していく。それが集まる場所に早々に目星をつけたエリュースは、隣のサイルーシュの肩を掴んだ。驚いたように見上げてくる彼女に、声を上げないよう口元に人差し指を立てる。


「ちょっとここを離れるぜ。お前はここを動くな」


 どこへ、というサイルーシュの無言の問いには、エリュースは答えなかった。タオのところへ行くと言えば、私も行くと言って聞かなくなるからだ。


 異端審問官たちの狙いは、こことは離れた場所のようだ。少し離れているとはいえ背後に幹部の審問官がいるこの場所は、比較的安全と言えるだろう。それに、ことが起こるには、おそらく、まだときがある。


「すぐ戻る」


 エリュースは素早く判断し、人垣に隠れるようにしてその場を離れた。人々の中には熱気に当てられたのか外に出ようとしている者や、今から場内に入ってくる者もおり、今のエリュースにとっては都合が良い。


 足元に注意しながら、出入り口付近を通り過ぎる。魔物の気配に肌を刺されながらも、エリュースは騎士団本営に辿り着いた。見えたタオの姿に、エリュースは小声で彼を呼ぶ。


「エル?」


 すぐに気付いてくれたタオがやって来て、顔を寄せてくれた。そうでもしなければ、互いの声も聞こえない。


「よく聞け。審問官たちの動きがおかしい。俺の予測では、ものが始まりそうなんだ。場所はここから見て左中腹辺り。どうする」


 エリュースは、タオの返答を待った。未だ舞台上の決着がついておらず、騎士団がそちらをおろそかにするわけにはいかないということは分かっている。相手は本物の魔獣だからだ。しかし万一、捕り物の相手が異端審問官の手に余るようなことがあれば、最悪の場合、民衆に被害が出る可能性がある。それは避けたい、とエリュースは考えていた。後から異端審問官の不手際ふてぎわを責めても、何もならないのだ。


 待ってて、という手振りをしたタオが、サイラスに声をかけに行くのを見送る。タオに対し、サイラスがすぐに頷いた。二人の間に、余計なやり取りは見られない。


 すぐに戻ってきたタオが、本営から出てきた。


「エルはルゥのところへ戻ってて。俺はエルの言った場所を見張っておく。何かあれば動く許可は得た」

「分かった。気を付けろよ」


 頷くタオの表情に、頼もしさを感じる。

 エリュースは自分よりも筋肉質の肩を叩き、タオを送り出した。



* * *



 異端審問官リュシエルは、最上階の通路から審問官や儀侍ぎじ兵――異端審問院は所属する兵士をそう呼称している――の動きを見ていた。薄暗くなっていく中、壁にかかげられた松明たいまつの炎が勢いを増したように感じられる。


「巻き髪のファビウス、か。まさかここに来ているとは」


 ファビウスは邪教崇拝者として指名手配されている男だ。彼の崇拝する邪神に捧げられたともくされている被害者の数は、五本の指を超えている。担当しているのは同じ幹部のサムソン・ダウエルで、なかなか捕えられないでいることに、審問院長も苦言くげんを口にしていた。もしここでファビウスを捕えられれば、彼の鼻を明かすこともできるだろう。それは、なかなかに悪くない。

 

 予言の魔女への警戒のために腕の立つ審問官と儀侍ぎじ兵を増員していたこと、加えて念のために召喚士を連れてきていたことが、想定外の幸運となりそうだった。包囲網を作っても、更に出入り口を固められるだけの人員がいる。万一、彼が邪教の魔法を使ってきた場合でも、ハンがいれば対処できるだろう。


 それにしても、とリュシエルは、未だ追い詰められていることに気付いていない様子のファビウスの、フードで覆われた頭頂部を見つめた。マントとフードで隠れているつもりなのだろうが、異端審問官の目は節穴ふしあなではない。追われている身でありながら異端審問院の施設に堂々と乗り込んでくるとは、絶対に見つけられない自信があったのか、相当の馬鹿なのかだ。


 目の端では、舞台で戦っている大聖堂騎士団の男たちが見えている。リュシエルはその光景に興味はなかった。彼らは、アスプロス教団の中にあって、異端審問院とは双璧そうへきす存在だ。異端審問院が教団の暗部を担うならば、彼らは教団の力の象徴といえる。しかし騎士団ばかりが光を浴びているが、審問院あっての教団だと思うのだ。


 リュシエルは、動く機会をうかがった。舞台での戦闘が終わってしまえば、民衆が外へ出ようとするだろう。そうなれば、それにじょうじて逃げられかねない。騎士団の余計な横槍が入る可能性も出てきてしまう。動くなら、民衆含めファビウスが舞台に釘付けになっている今が好機だ。しかし、焦ってはならない。


 はやる気持ちを抑えながら、リュシエルは徐々に包囲網を狭めるよう、簡潔な手の動きで指示を出した。



* * *



 舞台上で今にも騎士を食い千切らんとしているグエルのウルフを眺めながら、ファビウスは堪え切れないほどの高揚感をいだいていた。綺麗事を言う神など、糞食らえだ。


 ここ数日、アスプロを崇めて戦う騎士の愚かな死に様を観たい一心で、血を捧げ自分の神に願ってきた。それが今日、実現されようとしている。血に塗れて倒れる騎士の夢を見たのは、その予兆に違いない。


 ウルフの攻撃に晒された民役の従士が、六尺棒クォータースタッフを振るって辛くも撃退している。その雄姿に、周りの民衆は耳をつんざくほどの歓声を上げた。


「はん、確かにあいつの腕は悪くないな」


 面白くはないが、腕前のほどは分かる。しかしそれが通用するのも、ただのウルフまでだ。

 まだ、グエル・ウルフが残っている。板金鎧プレートアーマーを着ている騎士の息は上がっており、それだけウルフの攻撃がたくみだということだ。控えている他の騎士が助けに入ることも想定できるが、あの騎士の面目めんもくを考えれば、ぎりぎりまで手助けはしないだろう。


「いいぞ」


 命のやり取りを肌で感じるほど近くで観ることのできるこの機会は、最高に気分を良くしてくれる。


 ファビウスは興奮を抑えるために、一旦、視線を舞台から切った。その瞬間、そう遠くない場所から、僅かな音をとらえる。それだけで、それがソードつばさやから離れる時のものだとファビウスは気付いた。鬱陶うっとうしい黒い影が、忍び寄ってきている。


「ちっ、ついてねぇ。これからって時に」


 ファビウスは、左腰の小剣ダガーに右手をかけた。斜め左から近付いてくる、黒いローブ姿の審問官を見つける。その右手は、今にもソードを抜き切ろうとしている。それを見た瞬間、ファビウスは動いた。


 舞台を観ている人々の間を、身を低くして素早く縫う。それに気づいたのか身構えた男の脇をすり抜ける形で、ファビウスは男の右腕に斬りつけた。しかし、予想外に男の反応が早く、手応えは浅かった。ソードを落とすことなく、傍にいた人間を押し退けた審問官に、進路を塞がれる。異変に気付いたのか、周りの民衆がざわつき始めた。


「逃がさんぞ、邪教徒め! そんな小剣ダガーごときで逃げられるとでも思うのか?」

ごとき(・・・)、だって?」


 審問官から振り下ろされたソードを、ファビウスは体を回転させながら避けた。それに伴い大きく舞わせたマントで、相手の視界を奪う。振り向きざま、右手の小剣ダガーで斬りつけるも、それはかわされた。しかしそのまま踏み込み、逆手さかてで抜いたもう一つの小剣ダガーで相手の右腕を、今度こそ深く斬りつける。そこでようやく、審問官の手からソードが落ちた。


 ファビウスは、それ以上その男に構わなかった。自らに迫っている包囲網から抜けるために一旦武器を納め、その場からきびすを返す。入ってくる時に見た出入り口は警備する兵士が多く、堅く護られていた。しかし壁際に配置されていた審問官が下方にいる自分を包囲してきているなら、上部は手薄になっているはずだ。周りの民衆は騒ぎ始めているが、まだ大半の者は舞台に集中している。


 ファビウスは、知っていた。この最上階の奥にあるテラスの真下には、舞台を濡らすであろう血を吸わせるための大量のわらが用意されている。場内に入る前に、この目で確認済みだ。舞台が佳境を迎えていると思われる熱気と歓声は、隠れみのに丁度良い。どうやら先ほどの審問官は先走ったのだろう。人々の間から僅かに見え隠れする黒い影は、反転したこの身に未だ追いつきそうにない。幼い頃から異端審問官エリートとして育てられた彼らとは違い、密集した人々の中を擦り抜けて逃げるのは得意なのだ。


 身を低くしたまま駆け、ファビウスは最上段へあと数段のところまで来た。視界の端に、最上段に立っている審問官が見える。一人だ。腰の剣帯にはソードが見えるが、細い体は強そうには見えない。多少(ソード)が使えたとしても、一人なら抜ける。


「きゃあ!」


 目の前の邪魔な体を押し除けた途端、若い女の叫び声が上がった。しっかりと目が合う。舞台に夢中になっていればいいものを、青褪あおざめて固まっている表情が、思いのほか、悪くない。


 ファビウスは、瞬間的に沸き上がった興奮に小剣ダガーを抜いた。ここで斬り捨て、若い女の血を供物くもつにすれば、さぞかし神も喜ぶだろう。


 女の目を見つめたまま段差を上がり、ファビウスはその勢いを殺さず右手の小剣ダガーを振るおうとした。しかし、その前に女の姿が隠される。若い男が割って入ってきたのだ。全くひるむ色を見せない強い瞳に、攻撃を止めざるを得ない。


「まったく、いくら俺のはとこ(・・・)がそこそこ美人だからって、前のめりすぎだぜ」

「どけよ、 お前に用はない」

「おっと! 待てって!」


 行動を押し留めるように、若い男が両手を体の前に押し出す。そのお道化た表情は、まるでこの手の小剣ダガーが見えていないかのようだ。


「俺は司祭の見習いで、武器は持っていない。でも、ちょっとした怪我なら治せるぜ。あんた、怪我してない?」

「はぁ? 必要ねぇよ。馬鹿なのか?」


 ファビウスは、あざけりの言葉を浴びせた。それに対し片方の口角を上げ、意味有りげに若い男が笑う。ファビウスは、左手でも小剣ダガーを抜いた。こいつは馬鹿じゃない。そう確信した瞬間、左方から飛び込んできた男に気付く。縦に振るわれたソードを間一髪避けたと思ったが、マントの一部が切り落とされている。まずいことに、悪くない剣筋だ。


「エル! ありがとう!」

「じゃ、あとは頼んだぜ」


 こちらから視線を外さず、若者同士が短く言葉を交わした。


 飛び込んできた男は、前面に真鍮しんちゅうの留め金がついた、前腕まで守れる皮上着レザージャックを着ており、下肢を守る皮足衣レザーレギングも装備している。明るい金髪の美丈夫びじょうぶだ。

 

 剣を構えたその男に、ファビウスも両手でそれぞれ小剣ダガーを構えた。先ほどの司祭見習いとやらが声を上げ、女を連れて周りの民衆を退かせている。その手際の良さと、よく通る芯のある声を聞いていると、本当にただの見習いかと疑いたくなるほどだ。


「嫌だねぇ。だが、抜かせてもらうぜ」


 ファビウスは体を左右に移動させながら、ステップを踏んだ。相手に間合いを掴ませない為と、僅かでも間合いを詰めるためだ。相手の体が左右に振られてくれる。そこを逃さず、踏み込んで左手の小剣ダガーを振るった。それが避けられるのは想定内だ。更に大きく前進し、右手の小剣ダガーで突きに出る。相手は体を斜めによじって避けようとしており、思ったより反応が早い。それでも、動きはこちらの方が上だ。


 とらえた、とファビウスは思った。致命傷とはならなくとも、この場を切り抜けるすきは作れる。


 しかし次の瞬間、ふいに前から左肩を押された。


「え?」


 全く予測していなかった左肩への軽い衝撃に、ファビウスは訳が分からないままバランスを崩していた。何に、という答えが全く思い付かないうちに、右手首の内側に強い打撃を食らう。相手のソードを持った右手に、こちらの突き出していた利き手を弾かれたのだ。その衝撃で、小剣ダガーが手から離れてしまった。


 ならば左手で、と構えようとし、ファビウスは動きを止めた。胸元には、すでに剣先が突き付けられている。反撃を許さない、見事な剣さばきだ。右腕はしびれており、しばらく使い物にならないだろう。


「やるね。審問官じゃなさそうだ」

「従士タオだ。もう観念した方がいいよ」


 タオと名乗った従士の言う通り、人垣の間から黒いローブ姿の審問官たちが滲み出るようにして現れる。しっかりと見えていたはずの逃走経路は、もう見えなくなってしまった。


「はぁ、まさか従士が来るとはね。参ったよ」


 興奮が冷めてきたことを自覚する。血を欲する自身の神は、この崇拝する者の血すらほふるつもりだ。きっと、あの舞台上のものよりもずっと魅惑的な惨劇を、望んでいるに違いない。


「降参だ、従士どの」


 両手を軽く上げて左掌を開き、ファビウスは愛用の小剣ダガーを手放した。間を置かずして、やって来た儀侍兵ぎじへいに縄を掛けられる。腰を落とさせられ座り込むと、軽い足取りで傍に立った者がいた。顔を上げると、先ほどの軽口を叩いていた司祭見習いに覗き込まれている。その小賢こざかしい顔が、楽しそうに笑った。


「もう一度聞くけど、怪我してない?」



* * *



 男が縄を掛けられ、逃走の心配がなくなったと確信してから、タオはソードを引いた。鞘に収め、まずは一段上で座り込んでいるサイルーシュの元へ行く。安堵したような笑顔で立ち上がり、迎えてくれた彼女に、タオも心底安堵した。怪我はないようだ。


「また腕を上げたなって、お父様が褒めてくれるわね」

「だといいけど」


 嬉しそうなサイルーシュに笑みを返す。とにかくも、彼女が無事であったことが何よりだ。

 タオは、サイルーシュにここで待っているように言ってから、捕まった男の様子を見ているエリュースの傍へ向かった。


「ありがとう。あの衝撃波がなかったら、危なかったよ」

「え? 俺は何もしてないぜ」

「え? そうなのか?」


 タオは、縄で縛り上げられている男を見た。フードを剥がされた彼の髪は赤い巻き毛で、それは兵士の持つ松明たいまつの灯りに照らし出され、まるで火のように見える。人垣ではっきりとは見えなかったが、審問官の一人が斬られたのも頷ける小剣ダガー使いだ。左右に振る素早い動きは、今まで相手にしたことがなかった。もしこちらが鎖鎧メイル防具や重さのあるシールドを持っていたとしたら、もっと動きについていけなかったことだろう。小剣ダガーを突き出された時、完全には避け切れないと、傷を負う覚悟をした。それなのに、相手の体勢が一瞬崩れたのだ。


「何かあったのか?」

「うん……」


 そういえば、とタオは、その前に不思議な感覚があったことを思い出した。高いささやき声のようなものが、自分のすぐ横を男に向かって通り抜けたのだ。まるで、ウィスプの森で少女の傍にいた、小妖精ピクシーがすぐそこにいたような。


 それをエリュースに小声で説明すると、彼は納得がいったように小さく頷いた。


「なぁ、エル、もしかして、あの子が助けてくれたとか」

「そりゃないだろう」


 きっぱりと否定され、タオはますます分からなくなる。

 顎に左手をかけたエリュースの視線が右上に上がっているのを見て、タオは彼の答えを待った。彼がこうしている時は、考え事をしているのだ。


風の精霊(シルフ)かな」

「え?」


 エリュースが、明確に右上部に視線を向けた。それを追い、タオも自身の後方を振り返る。その先に見える壁前には、召喚士が立っていた。静かにこちらの様子を眺めているように見え、彼が身に着けている羽飾りが、夜風に吹かれ涼やかに舞い上がっている。


「彼が?」

「だろうな。にしても、このうるさい場内での集中、必要最小限の攻撃の正確さ。ダドリーから聞いていた通り、さすが、腕もセンスも一流だ」

「感じたのは精霊スピリットってこと?」

「まぁ、妖精フェアリーと似たようなものだろうからな」


 感心しきりのエリュースの隣で、タオは礼を言わねばと思い立つ。その時、周りの人々がざわつき、人垣が割れた。民衆が開けた道を上がってきたのは、サイラスだ。先輩従士の一人、ゲリーもいる。


「師匠!」

「タオ。何があった?」


 周りを見回すように首を巡らせたサイラスに、問われた。舞台から離れた観客席に大聖堂騎士が現れたことで、自分たちを取り囲む民衆の視線が増えた気がする。


 タオは説明をしようと口を開いた。しかしサイラスの視線が別に向けられたことに気付き、振り返る。近付いてきたのは、幹部だと推測していた審問官だ。


 サイラスに対してフードを取った長い金髪の男は、予想通り、年上だがまだ若そうな男に見えた。


「リュシエル・バーレイです。サイラス殿。彼は貴方あなたの従士で?」

「ああ、そうだが」

「指名手配していた男の捕縛に、ご協力いただき助かりました」

「ほぅ、そうだったのか。うちの従士がお役に立てて光栄だ、リュシエル殿」


 納得したように笑ったサイラスの視線を受け、タオは慌てた。

 赤毛の男に勝てたのは、決して自分一人の力ではない。


「あの、あちらの方にお力添えをいただきました! あやういところを助けていただいたのです」

「うん?」


 後方の召喚士を視線で指すと、彼の方を見たサイラスが物珍しそうな顔をした。


「召喚士か」

「なるほど、そうでしたか」


 静かな声色で綴られた言葉に、タオはリュシエルを見る。召喚士の方を見て目を僅かに細めた彼には、驚く様子は見られなかった。


 嫌な笑い声が耳に入り、視線を向ける。

 六年ほど先輩である従士ゲリーが、捕えられている男を見下ろすように眉尻を上げていた。


「なんだ、お前、こんな雑魚相手にソードを抜いたのか?」


 馬鹿にするような口調で言われたが、タオは言い返すのを堪えた。彼にこういう態度を取られることはよくあることだが、この場で醜い言い合いなどは、始めるべきではない。それは、大聖堂騎士サイラスの従士として、そうあるべきだと思うからだ。


「しかも、相手は小剣ダガーじゃないか。だったらお前も小剣ダガーを――」

つつしめ! ゲリー!」


 サイラスが強く発した言葉に、その場が一瞬、すくみ上がった気がした。表情をゆがめて一歩下がったゲリーに、タオは溜飲りゅういんを下げる。


 改めて、タオはリュシエルに向き直った。


「あの、彼にお礼を言いたいのですが」


 そう言うと、リュシエルが僅かに口元を緩ませた。


「君は正直な男だな。従士――」

「タオ・アイヴァーです」


 名乗ると、頷きが返ってくる。

 真っ直ぐにリュシエルに見つめられ、タオは恐縮して背筋を伸ばした。


「次の機会があれば、君に彼を紹介しよう。従士タオ。君があの狂信者を捕らえるのに一役買ってくれたことは間違いない。改めて礼を言う」


 直接礼を言ってくれたリュシエルが、サイラスに視線を向けた。


「サイラス殿は、良い従士をお持ちですね」

「そう言ってくれると、有難い」


 落ち着いた様子で笑んだサイラスに、リュシエルが僅かに頭を下げた。


 踵を返して捕えた男の元へ戻る彼を見送っていると、硬い掌で肩を叩かれた。見上げれば、満足そうに口角を上げているサイラスの笑みが更に深まる。その後ろで、ゲリーが口元を歪めているのが見えた。


 その時、民衆の歓声が一際大きく上がった。下方から一気に広がり、周りの空気も本来の熱気に包まれたものに戻る。オルダスの名が、民衆の口から高らかに連呼されている。


「オルダスが、やったな」

「今夜は祝杯ですね。ジョイスさんが、オルダスさんの為にも腕によりをかけると言っていました」


 オルダスがサイラスの家で食事を共にするのはよくあることだが、この収穫祭の夜こそは当然のごとくサイラスの家にいるのだ。それは、新妻にいづまがいても変わらないらしい。


「そうだな。今夜あたりは、豚の丸焼きが出るかもな」


 サイラスの予想に、タオはエリュースと顔を見合わせた。実は、恐ろしく腹がいているのだ。


「聞いただけでよだれが出そうです、師匠」

「俺も。結局、食べる時間なかったしなぁ」


 エリュースが腹をさすりながらぼやく。せめて誰かの財布が見つかっていたらいいよな、という彼の意見には全くの同意だ。


 一段上に置いていたサイルーシュを見れば、舞台に向けて嬉しそうに手を叩いている。その体まで跳び跳ねそうな喜びようを愛らしく思いながら、タオはサイルーシュの元へと向かった。





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