01 オーガ退治
視界の両側に、鬱蒼とした木立が吸い込まれていく。タオ・アイヴァ―は両腕を振って駆けながら、自らの吸って吐く息づかいを極力乱さないよう心掛けていた。
数日続いた晴天のおかげで足元の土は固く、後方から迫る脅威からは最低限の距離を保てている筈だ。それでも、周りの樹々は不穏に揺れて葉を鳴らし、前方の鳥たちが逃げるように飛び立っていく。足裏に響く振動は徐々に強くなっており、脅威が自分を追ってきていることは疑いようがない。
広い沼が目の前に広がったところで、タオは傍の太い樹の枝に手をかけた。迷わずよじ登り、あらかじめ括りつけておいた亜麻のロープを解く。その先は、沼の中程に点在する、小島の一つに生えている古木の枝に繋げてあるのだ。
近くの枝が折られた音が耳に届いた。樹を登っている間に距離を詰められたのだろう。振り返って確認している余裕もない。
「ちゃんとついて来るんだぞ!」
タオはロープを出来るだけ手繰り寄せた状態で両手で掴み、勢い良く幹を蹴った。太陽光を反射させている水面ぎりぎりを重力に従って滑空し、その勢いが緩む直前でロープを手離す。浮遊感の後に着水すると、汗をかいている肌に心地良い冷たさを感じた。目前の岸へ向かい、慌てて水草を押し退ける。泥で足元が滑るが、水際に生えているヨシの群生にも助けられながら、タオは沼から上がることに成功した。
息つく暇もなく、傍の平らな石の上にある弩を手に取る。既に弦は引いてあり、矢も設置済だ。振り返って構えると、派手に水音をさせて追ってくるオーガが見えた。大人二人分はある背丈だが、今は少し低く見える。獣のように唸り声を上げながら、両手で水を掻き体を揺らしながら向かってきている。
上がった呼吸を完全に整えられないまま、タオは引き金を引いた。矢はオーガの腕辺りを掠っただけだ。失敗した、と思うと同時に弩を捨て、タオはすぐにオーガに背を向けて走り出した。
木立は次第に疎らになっていき、森の終わりを示し始める。前方両側に一際大きな二つの岩が見え、タオはそこに向かった。岩と岩との間に数本の丸太が横向きにロープで固定されており、進路を塞いでいるのが見える。オーガが森の奥から出てこない可能性の高い明け方を狙って、数日かけて村人たちと協力して作ったバリケードだ。この二つの岩は土地の者に双子の神岩として祀られているらしい。癇癪を起こしてたまに暴れる神を宥めるためらしいが、そんな岩をバリケードとして使ってしまって良いのだろうかと思う。提案した親友にそれを言うと、オーガ討伐を神様に手伝ってもらうだけさ、という答えが返ってきたのだった。
タオは足を止めることなく、滑り込むようにして丸太の下を潜り抜けた。そこで再び、予め置いておいた別の弩を掴んで体勢を立て直す。振り返ってバリケードを見上げると、その向こうに迫るオーガの禍々しい上半身が見えた。感じる殺気は、飢えを満たしたいがためのものだろう。口の両端が裂けたように広がり、鋭利に変形した歯が剥き出しになっている。口端から顎を伝って落ちる唾液を見るに、間近ならばかなりの腐臭がしそうだ。幾度となく村に出てきては食べた、羊や牛の肉片がこびりついているに違いない。
タオが発射した矢は、今度はオーガの肩口へ突き刺さった。
「よし!」
手応えを感じ喜んだのも束の間、それで動かなくなる敵ではないらしい。矢が刺さったままのオーガが前進してくる。行く手を塞ぐ丸太を、力任せに破壊するつもりのようだ。太い幹が弾けるように軋む音に急かされ、タオはまたも弩を手放し、駆け出した。
双子岩を祀るための広場は、すぐそこだ。何やら、臭気がしている。普段から何が置かれているわけでもないらしいが、今は湯気を上げる大きな鍋が火にかけられており、その鍋の中身を棒で掻き混ぜている親友エリュース・オーティスの姿が見えた。
灰色のローブ姿の彼は、その袖口で鼻と口を塞いでいる。歪められた表情から察するに、この臭いの発生源はあの鍋なのだろう。
彼の視線がこちらに向かって上がるのを見ながら、タオは広場に駆け込んだ。
「エル! 来るよ!」
「あいよ」
持っていた棒をその場に捨て、エリュースの腕が広場の両側に向けて指示するように振られた。すると、鍋がゆっくりと火を離れ上がっていく。鍋の両端にある取っ手に結わえられたロープが、広場の両端の高い枝を介して下から均等に引っ張られているためだ。見れば、丸太を設置する際にも共に作業をした男たちで、その視線は宙を上がっていく鍋だけに注がれている。
「いいぞ、まだ零すなよ」
そう言ったエリュースによって、鍋を煮え立たせていた火に水がかけられた。数個の石の上に薪を重ね起こしていたものだ。
タオは一旦後ろを振り返ってオーガとの距離に若干の余裕があるのを確認し、薪の手前に置いてある武具の中から、金属製の輪を重ね合わせてメッシュ状に編み上げられた鎖衣を掴み上げた。途端、熱さが素手に伝わり、離してしまうのをなんとか堪える。僅かに声が漏れてしまいエリュースの視線が向けられたことに気付いたが、大丈夫だと答える余裕はなかった。最低限の防具にと着ていた皮上着の上から、鎖衣を被る。更に服に付いているフードを被り、その上から鎖帽子を被った。その間に、エリュースが火の消えた薪や石を抱え込むようにして横へ放り投げている。石があった場所には、両腕を広げた幅ほどの木の板だけが残された。
脅威が背中のすぐ後ろに迫りつつあることを感じながら、タオは急いで盾のベルトに左腕を通して固定した。下半身の防御は無いに等しいが、体格の勝るオーガが相手ならば上方からの攻撃を防ぐことが重要だろう。準備段階でエリュースが指摘した、殴打には鎖防御はあまり効かないということも、無ければ皮膚が裂けてしまうので装着しない選択肢はない。殴られれば鎖の痕が付くだろうなと言う彼に嫌な顏をすると、だったら食らうな、というアドバイスをもらった。
最後にタオは剣を手にして板の上を渡り、振り返る。そして、ついに広場に入ってきたオーガと、向き合う形になった。
オーガの唸り声と共に、両端から緊張と恐怖が混じった悲鳴が小さく漏れ聞こえる。獲物が逃げ出さないことに気付いたのか、開けた場所に出たからか、オーガの歩みは大きく踏みしめるようなものに変化した。
いつでも攻撃を避けられるよう体勢と呼吸を整えながら、タオは剣と盾を構える。見る限り、オーガの眼中には幸い自分しかいない。次の瞬間、オーガの右足が木の板を踏み抜いた。長身がバランスを崩して傾き、歩みが止まる。あの板は、下に掘った落とし穴を隠すためのものだったのだ。
「今だ!」
エリュースが号令し、左側の男がロープを手離した。宙で傾いた鍋が、その中身を真下にいるオーガにぶちまける。湯気を上げる粘液がオーガに降り注ぎ、その独特の臭いを辺りに振り撒いた。
飛沫を盾で防ぎつつ、タオは叫び声を上げるオーガを注視する。あの粘液はエリュースが用意した膠で、オーガの動きを止めることを意図したものだ。しかし、確かにオーガの動きは若干鈍くなったが、完全に動きを制御するには至っていない。
「あー、やっぱオーガ相手にはこんなものか? 量が足らなかったかな」
後方からの残念そうな声を聞きながら、タオは既に戦闘態勢に入っていた。怒り狂ったオーガによって、固まって動きを止めようとする膠が無理矢理に剥がされる。その反動で振り下ろされた腕を、間一髪避けた。
「仕方ない。行け、タオ!」
「分かってるよ!」
タオはオーガの腕に狙いをつけ、斬りかかった。幸い、このオーガは武器となるものを持っていない。その太い両腕だけだ。攻撃の射程範囲は、剣を持つこちらに分がある。
振り回される腕を避け、幾度となくオーガの両腕を傷付けていくと、その攻撃の動きは徐々に鈍くなってきた。狭い場所なら追い詰められていたかもしれないが、充分な空間があったので、回るように引きつけ、戦い続けるのは容易い。
次に、タオはオーガの足を狙う。長身のオーガにとっては防ぎにくいのか、膠がそれなりに効いているのか、なんなくオーガの動きを封じることに成功した。
そろそろいいだろう、とタオは剣《ソ―ド》を構えてオーガの懐に突進する。確実な一撃を与えるには、やはり距離を詰めるしかないからだ。しかし懐に入り込もうとした瞬間、予想に反した速さの一撃に見舞われた。下から斜め上へ振り上げられた強烈な腕の振りに対し、咄嗟に盾を合わせたものの、そのまま吹き飛ばされてしまう。樹の幹に勢いよく打ち付けられ、強い衝撃に全身が襲われた。剣も手放してしまったのか、そもそも手指が痺れて感覚がない。苦心して息を吐き出すと、歪んだ視界が僅かに戻った。見上げれば、オーガが迫っている。振り上げられた両腕の向こうに、異様な光を放つ両目が見下ろしてきている。恐怖感が背筋を這い上がったが、タオはそれを堪えて立ち上がろうと必死にもがいた。こんな所で、しかも今、死ぬわけにはいかない。
「タオ!」
エリュースの焦った声が聞こえる。と同時に、オーガが全身を震わせた。半身を振り返らせたオーガの向こうに、左手で六尺棒を持ったエリュースの姿が見える。彼の右手は白い光を帯びており、衝撃波をオーガにぶつけたのだと分かった。盾や鎧を通過することができる技だが、その威力は、とてもオーガに通用するものではない。
タオは動かない体に焦りを強めた。あろうことか、オーガの視線がエリュースを捉えている。しかし、彼を呼ぶ声も掠れてしまう始末だ。
「放て!」
右手を挙げ、エリュースが叫んだ。すると、また別の角度からオーガに何かが当たったのか、その体の向きが変わる。オーガの足元に落ちた拳ほどの大きさの石を見て、タオはエリュースが用意させていた石ころの山を思い出した。更に別の方向から投げつけられる石にオーガは気を取られたようで、どちらを標的にするべきか決めかねている様子だ。気付けば、エリュースが傍に来ている。
「しっかりしろ。今、治してやるから」
エリュースの右手が胸元に置かれ、祈りの言葉が神聖語で紡がれる。アスプロの名の元に、と言い終わるや否や、全身に水が振り撒かれた。常温の水の筈だが、いやに冷たく感じる。彼がいつも小瓶に入れて持ち歩いているもので、こういう討伐の際には多めに用意している聖水だ。エリュースに触れられている部分が仄かに温かく、そこから生まれた白く輝く光に包まれる。
「ほら立て! お前がやらなきゃ誰がやるんだ!」
「ったく、分かってるよ。ほんと、人使いが荒い」
文句を言う元気が戻ってきた。
タオは気合を入れ直すと、傍に転がっていた剣の柄を掴んだ。四肢に力を込めて立ち上がる。
――大丈夫だ。まだ、戦える。
いつもながら、動けるまでに回復させてくれるエリュースの力は大したものだと思う。
「ありがとう。エルは下がってて」
石を投げて気を逸らせてくれている村人も、殺させるわけにはいかない。
タオは声を上げてオーガの気を引き、向かってきたオーガに相対した。向かって右側に回り込むように装い、振られたオーガの右腕を避けて重心を素早く左へ切り替える。その反動を利用して一気にオーガの懐へ飛び込んだタオは、刃をオーガの腹に突き立てた。更に体重をかけて押し込み、腕ごと回すようにして抉る。引きつるような断末魔の叫びを上げて、とうとうオーガの巨躯は両膝をついて動かなくなった。
剣を引き抜くと赤黒い血が溢れ出し、頭上でくぐもった水音が大きく聞こえた。血に濡れた切っ先をオーガの喉元に当て、タオは慎重に様子を見る。まだ息絶えてはいないが、血だらけの身体は腕を僅かに上げることも出来ない様子で、その開かれたままの口からは血泡が溢れ顎を伝って流れ落ちている。命を懸けた戦いが、こちらの勝利に終わったのだ。
タオは避難していたエリュースに、小さく頷いて見せた。
静かに近付いてきたエリュースが右手を伸ばし、それはオーガの額にかざされる。彼の声が紡ぐのは、やはり祈りの言葉だ。討伐任務の際、可能な場合に限り、彼はこうして送ってやるのだ。
血生臭い空間が、神聖なものに塗り替えられていく気がする。他に声を発する者は誰もいない。
エリュースの淀みない声が止み、タオは剣を振り上げた。
「もう、苦しまなくていいよ」
項垂れた首元に、剣を振り下ろす。抵抗もなく、刃はオーガの息の根を止めた。