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けれどすぐ立ち上がって、ざぶざぶと潮だまりの中を掻き分けながら必死に頭上の鬩に手を伸ばした。
「鬩! いやだ置いていかないで! ぼくを囮になんてしないで!!」
【ほう。よく理解しているじゃないか。あやかしにとってお前は御馳走だからな──いい餌になる】
「いやだっ、いやだせめぐっ!! せめぐっ! せめぐぅっ!」
しゃん
ぞわりと、背筋が凍る。
振り向きたくない。振り向きたくない。けれど、ぼくの体は勝手に音のした方向を振り返る。しゃん、とまた鈴の鳴るような音が響く。
そこには先ほども見た、七人のお遍路さんがいた。
「ひっ」
目は落ち窪んでいて存在していなかった。肉がこそげ落ち、けれど皮だけは残ってミイラのようになっている。削ぎ落とされたのか、唇と鼻、そして耳がない。白衣を身に纏い、輪袈裟を首にかけて、菅笠を被り金剛杖をついているその姿はお遍路さんそのものだけれど、町中でよく見かけるお遍路さんと違ってこのお遍路さんの足取りに、目的地はない。
ふらりふらりとやせ細った足を彷徨わせて、〝八人目〟を引き摺り込んで自分が解放されようとしている。
しゃん、と七人同行が足を踏み出すたびに金剛杖からぶら下がっている持鈴が鳴る。声帯も潰れているのか、ひび割れて掠れた呻き声しか上げないでいる。ふらりふらりとおぼつかない足取りではあるけれど──まっすぐ、ぼくを目指している。
ぼくを、引き摺り込もうとしている。
「せめぐっ」
【〝憑訳〟】
ばじゃばじゃと海水を掻き分けて、泥に足を取られそうになりながら鬩の名を叫んだぼくの元にすうっと鬩が降りてきて、ぼくが鬩に飛び付くのと同時に鬩が七人同行を、憑訳する。
ゴメンナサイ モウシマセン モウ万引キシマセン 悔 モウガラスヲ割リマセン 謝 ゴメンナサイ ゴメンナサイ 助ケテ 恐 ナンデ俺ダケコンナ目ニ 許シテクダサイ 省 ホンノ出来心ダッタンデス ナンデアレダケデコンナ目ニ 恐 未成年ナノニオ酒飲ンデゴメンナサイ 悔 ゴメンナサイ 許シテ 助ケテ モウイジメマセン 悔 浮気シテゴメンナサイ 恐 モウ悪口言イマセン 息子ガ申シ訳アリマセン ナンデミンナデヨッテタカッテ アイツダッテ悪イコトシテルノニ 助ケテ ゴメンナサイ ゴメンナサイ 謝 ゴメンナサイ 謝 助ケテ 怖イ オ母サン助ケテ 万引キシテゴメンナサイ バイト中ニ遊ンデゴメンナサイ ゴメンナサイ モウシマセン モウ万引キシマセン 悔 モウガラスヲ割リマセン 謝 ゴメンナサイ ゴメンナサイ 助ケテ 恐 ナンデ俺ダケコンナ目ニ 許シテクダサイ 省 ホンノ出来心ダッタンデス 子ドモヲ返シテ ナンデアレダケデコンナ目ニ 恐 未成年ナノニオ酒飲ンデゴメンナサイ 悔 ゴメンナサイ 許シテ 助ケテ モウイジメマセン 悔 浮気シテゴメンナサイ 恐 モウ悪口言イマセン ナンデミンナデヨッテタカッテ アイツダッテ悪イコトシテルノニ 助ケテ ゴメンナサイ ゴメンナサイ 謝 ゴメンナサイ 謝 助ケテ 怖イ オ母サン助ケテ 万引キシテゴメンナサイ バイト中ニ遊ンデゴメンナサイ
七人分の恐怖と懺悔と謝罪と悲鳴とが、文字となって世界を満たす。
「これ、は……」
【──やはりな】
鬩はぼくを腰に引っ提げたまま、足を組んで浮遊しながら目を細める。血濡れた虹彩に侮蔑と軽蔑の色が、浮かぶ。
「七人同行って……殺人とか犯した極悪人を罰するもの、じゃないの? なんか……罪の内容が、なんというか……軽い、というか」
万引きとかガラスを割るとか浮気とか、確かに悪いことだ。よくないし、許してはいけないことだと思う。でも──こんな風にさせられてまで罰を受けなければならないのか?
【〝正義〟さ】
「……せいぎ?」
【七人同行は確かに、当初こそ極悪人を罰する意味合いが強かった。だが時代を経るにつれてそれは少しずつ歪んでいった】
勧善懲悪。
そこに大義名分を覚え、悪を罰することに快楽を感じるようになり──依存するようになった人間が増えていったのだと鬩はつまらなさそうに語る。
【万引きをSNSで自慢した男子高校生を氏名住所、高校に進学先まで特定して徹底的に叩いて自殺に追い込んだ】
「え……」
【恋人がいながら浮気した声優をSNSや掲示板、手紙にFAXなどで徹底的に責め立てて社会的に抹殺し、挙句に自宅にまで押し入って錯乱させた末に飛び降りさせた】
「…………」
【いじめ動画がアップロードされて大騒動になって、いじめを受けていた本人が既に許しているにも関わらずいじめは許すべきではないと徹底的にいじめの首謀者とその取り撒きを洗い出して叩きに叩いて電車に飛び込ませた】
「…………」
【子どもが危険なことをしたからひっぱたいたところ、動画を撮られて虐待と見做されて幾十にも通報され、子どもを施設に取り上げられた上に虐待親としてマスメディアに広く報道され、結局虐待ではないという結論を出されたものの既に病んでいた】
「…………」
【殺人を犯した四十路の男の両親が親としての責任を取れ、どういう育て方をしたのか、お前らのせいでこうなったんじゃないのか、殺人鬼の親だからきっとおかしいに違いないと誹謗中傷の波を起こして首を吊らせた】
「…………」
【この七人同行はな、〝正義〟に殺された人間が未だに縛られているのさ】
確かによくないことをした人も中にはいたのだろう。
けれどそれを、警察でも裁判官でもない赤の他人がよってたかって責め立てるのは──果たして〝いいこと〟なのだろうか。ましてや、中には罪を犯していない人間さえいる。
【自分たちが〝正義〟だと信じて疑わない。──それこそが〝純粋な悪意〟だと気付かずにな】
この七人同行はかつて悪行を成した。形はどうあれ、〝よくない〟ことをした。けれどそれを裁く権利も義務も持っていない民衆に取り上げられ責め立てられ──その末に死に追いやられ、けれど死に至ってもなお民衆の〝正義〟が罰せよと彼らを離さない。
徹底的に罰されるべきだと。
徹底的に追い込むべきだと。
〝正義〟は成してしかるべきなのだから、我々は間違ってなぞいないと──いや。間違っていないと思うことさえもなく、それが当然であるかのように正義の大義名分を掲げる。
「っ……」
七人同行は繰り返し謝罪と後悔と、恐怖と懺悔の悲鳴を上げながらふらりふらりとぼくらに近付いてくる。解放されるために。ぼくを取り込んで、ぼくと入れ替わりで解放されるために。
【同情するな。呑まれるぞ】
「っ……うん、それは分かって、いるけど」
いくらなんでも代わってやろうだなんて、思わない。かわいそうだけれど、無理なものは無理だ。ぼくはぎゅうぎゅうと鬩の腰を抱き締める。鬩の小さな体は起伏が薄くて、ルミちゃんほどの肉付きの良さはない。胸もぺたんこというか絶壁で──
【斑】
「ごめんなさい」
そうだった、心を読むんだった。
【〝正義〟の呪縛は重い。解くことは不可能だ──ふむ、どうするか】
自分が正義だと思っている人間の意識を変えることは、悪いことをしていると自覚している人間以上に厄介だ。それはぼくでもよく分かる。正論を言って勝った気になっているおじさんとかよくいるからねぇ。
【依代を使うか】
胸ポケットからメモ帳とペンを取り出した鬩は、濡れていない真ん中のページを選んで人型を描き、胴体部に〝悪人〟と記入する。
そうして七枚の人型を──これ、式神って言うんだよね。陰陽師の漫画で見たことある。それを描き上げた鬩はメモ帳から破り取って無造作に放り投げた。
【さあ、喰い付け。お前ら〝正義〟の大好きな〝悪〟だぞ──】
ふわりふわりと、おそらくは鬩の念動によって潮だまりに落ちることなく舞った七枚の人型は、やがて七人同行の元に届き──ああああ、と七人同行の口から安堵に満ちた悲鳴が零れる。
そうして七枚の人型と入れ替わるように、七人のお遍路さんが塵となって消えていく。おそらくは──成仏、したんだろう。
【ふん。さすがの僕でも世界に蔓延る〝正義〟をどうにかすることはできない。七人同行はこのまま──民衆の〝正義〟に揺り動かされるまま、叩くべき〝悪〟を探して彷徨い続けるだろうな】
SNSが最盛期を迎えていて、ほんの少しの悪も不祥事も失敗も許さない風潮となっている現状が変わらない限り──この七人同行は、過剰な正義心でもつて彷徨い続けるだろうと鬩は語って、ふらりふらりと一列になって何処かに消えていく七枚の人型を見送った。
「……結局、ぼくが巻き込まれたのって偶然?」
【だろうな。お前がやった悪行なんて精々立ちションくらいだろう? ──お前は美味しそうな御馳走だから】
なにそのひどい言い草。ぼくだって若いころは若気の至りでちょっとあれこれ──いや、思い出すのはやめよう。黒歴史を掘り返すのは諸刃の剣すぎる。
「なんであやかしにとってぼくは美味しそうなの?」
【渡った人間で、なおかつ何の力もない純粋で無垢な〝人〟だからな】
これまでにもぼくのように不意に渡ってしまった、何の霊能力もない人間というのはいたらしい。けれどそういう人間というのは生き残る確率が著しく低い。──すぐ喰べられるからである。
何の力もない人間というのはあやかしにとってこれ以上ないほどに魅力的なのだそうだ。人間が生み出したあやかしだからこそ、らしいがそこはよく分からなかった。
【大抵の人間はたとえ渡ってしまってもすぐ戻れるものなんだがな……】
「えっ。じゃあぼくはなんでっ」
【余程こっちの世界に適合してしまったんだろうな】
「そんなっ。いらないっ、そんな適性いらないっ」
ブンブンと顔を横に振って涙目になるぼくに、鬩はふっと息を吐き出すように笑った。