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「おかしいとわかっていて知らないふりをしただけだろう!! お前が故意に殺した!」
「ひ……ちが……」
違わない。違わない、そうだ──違わないんだ。
椿狐がいなくなり、鬩からの呼びかけがあったような気がしたものの何も視えない、あの状況を確かにぼくはおかしいと思っていた。思っていたけれど、見なかったことにした。気付かなかったことにした。
そのせいで。
そのせいで、安治さんは。
「そうだ! お前がいなければ安治さんは死ななかった!!」
「う、あ……」
「お前は優しいふりをしているだけの、自分が可愛い人間なんだ。いちずちゃんと鬩のことだって心配しているつもりで、本当は今すぐにでも帰りたいとお前は考えている」
「ちがっ」
ちがう。
そりゃ、かえりたいって、こわいから、かえりたいっておもっているけど。でも、いちずちゃんとせめぐをおいてかえるなんて。
うしろで、なにかがきゃんきゃんないてるきがしたけど、さとりはなおもことばをつづける。
「お前はお優しいふりをしているだけの自己愛に満ちた差別主義者だ」
「っ……」
ああ、どうしてだろう。
こんなことば、むしすればいいのに、むしできない。ことばのひとつひとつが、あたまを、からだを、こころをさいなむ。
「そう、ぼくはあの時血まみれになっている子どもたちを見て可哀想だって憐れんだ。脳に異常を持って生まれてきてしまうなんてなんて不運なんだろうって見下した。ぼくは何事もない健常な体でよかったと心の底から安心した」
ぼくのこえが、ぼくのあたまのなかでりふれいんする。
「音楽室だってそう。ぼくはいちずちゃんのことを羨んだ。何も聞こえない、視えないいちずちゃんは何も知らないからいいよねって思った。ぼくはこんなに怖い思いしているのにって思った。何も知らないくせに元気で前向きないちずちゃんが心底鬱陶しかった」
ちがう。ちが、そんな、そんなこと。
「正直下手くそだよね、あの発音。先生は必死に整えようとしていたけど生徒たちの発音もリズムもおかしくてさ、全然合唱として成立していなかったよね。鬩も発音変だよねそういえば」
「やめろっ!!」
そんなことはおもっていない。そんなことは──そんなことは。
「ほんの少しだけれど、でも確実に思った。ぼくは思った。発音が下手くそって確かに思った。ひどい差別だよねぇ」
うあ、ああ、あああ。
「うちはちゃんの時もさ、思ったよね。ああこの子みたいにおかしい頭で生まれなくてよかった~って。そうそう、ろくろ首じゃないほうのうちはちゃんさ、首が確かにひょろーっと長くてろくろ首って呼ばれるのも納得! って思っちゃったよねえ」
「やめろっ、やめて、やめてくれっ」
「何で否定するんだい? ぼくが確かに思ったことだ。否定したってしょうがないよ。ここにはぼくしかいないんだから認めちゃいなよ。ぼくはとんでもない差別主義者だって。大丈夫、誰も聞いていないよ」
「そんな──そんなつもりは、ない」
「そうやって自分は悪くない悪くない言ってさあ、またいちずちゃんたちを巻き込むつもり?」
「っ」
からだが、こわばる。
からだが、うごかなくなる。
ちなのか、あせなのか、なみだなのか。わけわからないえきたいで、かおが、からだが、てが、ぐしょぐしょになる。
「何もかもぼくのせいだ。そうだろ? 〝大惨劇〟で鬩があんなに血まみれになったのだってぼくのせいだ。ぼくが〝鬼〟に成った時だってそう。不用意にタッチなんてしなければあんなことにはならなかったし、鬩だって貞子ちゃんだってメリーちゃんだって、椿狐だって傷付くことはなかった」
「う、あ──」
「いつだってそうだ。ぼくのせいでみんな傷付く。今日だっていちずちゃんがぼくの自殺行為を止めるために傷付いてしまった。何もかもぼくのせいだ」
そう、何もかもぼくのせいだ。
弱く、怯えてばかりで縋ることしかできないぼくのせいで鬩は傷付いてきた。ぼくが〝助けて〟って言わなければ、鬩が傷付くことなんてなかった。鬩は優しいから、いつだってぼくを助けに来てくれるから、それに甘えて──ぼくは鬩を不用意に傷だらけにしてしまった。
ぼくの、せいで。
「そう、ぼくのせいだ。ぼくがいなければ起こらなかった不幸だらけだ。何もかも、根こそぎ全て、ありとあらゆるもの全て──ぼくが悪い」
「…………」
目の前のぼくが、ぼくを見据える。
きゃんきゃんという声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
いや──もう、ぼくの耳にはぼくの声しか入っていない。ぼくの声以外は、何も聞こえない。ぼく以外、何も見えない。
「ねぇ、ぼくはどうすればいいんだろう? ぼくはいつも人に迷惑をかけてばかりで、傷つけてばかりで、見下してばかりで、差別してばかりで、挙句の果てには死なせちゃってさ。ほんと、生きている価値あるのかな」
「…………」
何も考えられない。
ただただ昏い絶望と、淀んだ後悔と、濁った自己嫌悪で世界が暗くなる。──いつの間にか、茜色の領域がぼくの錆色の髪と同じくらい昏く淀んで濁った領域に変わっていた。その中でただひとつ、変わらず夕陽だけが──血のように赤く、紅く朱く緋く赫い夕陽だけが爛々とそこにある。
ぼくの手が持ち上がる。
それにつられて、ぼくの両手も持ち上がる。
「ぼくは、死んだほうがいいよね」
ああ、たしかに。
ぼくの手がゆっくり、後頭部でひとつに纏められている髪に伸びる。ぼくの手も、同じように後頭部に伸びていく。かさりと、指先が髪を纏め上げている組紐に触れた。
「べぼぉ!!」
しばかれた。
ゴスッと頬に重い衝撃が走って、ほとんど放心状態にあったぼくの体はいともたやすく倒れ込んでしまって、遅れて激痛が頬と鼻と顎と歯に走って、しばし身悶える、暇もなく次の衝撃がもう片方の頬に走った。べちゃりと頭から地面に突っ込んでしまって頭を打ち付け、頬の痛みやら頭痛やら何やらで思考が、飛ぶ。
みぞおちに衝撃が走った。
「ごふぁ!!」
これは、これは……キツい。
ちょっと、ちょっと待って欲しい。お願いだから、少し、少しクールタイムが欲しい。また頬が張られる衝撃が走った。勘弁して。マジでもうやめ──あれ。
あれ、この感覚。
どこかで。
「……いちずちゃん?」
ぼくの囁きと同時に再び、頬に一発。
ああ、やっぱり──やっぱり、これいちずちゃんだ。間違いない。でもいちずちゃんはどこに──
そこまで考えて、ふとぼくの脳裏にいちずちゃんの言葉が蘇る。
──あやかしの、こえなんかよりも、あたしたちの、まだらさんだいすきっていうきもちを、しんじなさい!!
半狂乱になって舌を噛んだぼくを引っぱたきながら、涙をまなじりに浮かべていちずちゃんが叫んだ言葉。心の底から、ぼくという存在を想ってくれている──真摯な眼差し。
ああ、とぼくは夢から覚めたような気分で口元を綻ばせた。
ぼくは何を、あんな言葉に惑わされているんだ。ぼくに死んでほしくなくて、あんなに必死になる子たちがいるのに──何故ぼくは、死ななくちゃいけないんだ。
胸中では未だ、〝ぼく〟から──いや。サトリから言われた数々の言葉が渦巻いている。けれど少なくとも。
「ぼくが死ぬ時は、今じゃない」
死なないでほしいと叫んでくれるひとがいる今は、死ぬべきじゃない。
そう言い切って、傍にいるであろう〝ぼく〟を見やろうとした瞬間、意識がねじれた。錆色と朱色の夕陽が混ざり合って、溶ける。手のひらを伝い落ちる血のように溶けたそれらがぼくを呑み込んで、ぼくも一緒に溶けそうになった──瞬間、目が覚めた。
夢から、覚めた。
「──え?」
「まだらさんっ!!」
「べぶぅ!」
ぼくの顔を覗き込んでいたいちずちゃんがまなじりいっぱいに涙を浮かべて、一発。それはそれはきっつい、何度もお見舞いされてすっかり馴染んでしまったビンタを喰らった。
「ばか! なんでまた、しんじゃおうとするんですか!!」
「いちず、ちゃ……ごめん」
どこかの、薄暗い──生ぬるい空間にいるようだった。倒れているぼくをいちずちゃんと椿狐が覗き込んでいて、いちずちゃんは完全におかんむりだし、椿狐もがじがじとぼくの顎先を噛んでいる。
「……ごめん。もうこんなことにはならないから」
「あたりまえですっ!! ぜったいぜったい、いっしょに、せめぐくんをたすけて、さだこさんもめりーさんも、いっしょに、そとにでるんです!」
いちずちゃんはそう言ってぺちりとぼくの額をはたいて、くるりと、汗やら血やら何やら、でべたべたになってすっかり汚れてしまっている珊瑚色の髪を揺らしながら振り向いた。
「ありがとう、ございます。サトリさん。おかげで、まだらさんが、かえってきました」
「──え?」
〝サトリ〟というワードに思わず体を起こして、痛みに呻く。けれど顔だけは動かしていちずちゃんの視線の先に向ける。
体を半分に裂かれたサトリがいた。
「え……」
「やあ、呑み込まれずに済んだようで何よりだ。私の能力のせいで酷い目に遭ったんだな、すまない」
あの茜色の領域で見た、猿のような出で立ちのサトリと同じ容貌をしている。けれど、こっちのは体を半分に裂かれてしまっていて、力なく薄紅色のぶよぶよとした地面に横たわっている。