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「まちゃら」【斑】
「──鬩?」
ああ、そういえば鬩の声聞くのはじめてだ。そうか、鬩の〝声〟といえばすっかり視界外の文字だったけれど……よく考えてみれば鬩は聞こえないだけで声が出ないわけじゃない。声が鼻に抜けちゃっているし、発音も微妙にかいらしいけれど。
そうか、これ鬩の声か。
まちゃらって……かいらしいなあ。
【……落ち着いたならいい加減離れろ】
「あっ、ごめん」
鬩の体を抱き込んだままだったことに気付いて慌てて離れる、けれど鬩の肩はしっかり両手で掴んでおく。だって怖いもん。
「えっと……それで、ここってあの絵の中……なの?」
蛇のように絡め取られ、百足のように蠢かれ絵図の中に呑みこまれてしまったぼくは最初、意識を失っていた。そう長い時間ではなかったと思うけれど、意識を取り戻した時にはもうここにいた。
【〝画図百鬼夜行〟の世界だな】
絵図に使われていた紙の紙質をそのまま空間にしたような、丁子茶色のくすんだ世界。所々茶染みのような濁りもあって、本当に紙質そのものの世界だ。
「その〝画図百鬼夜行〟ってあの絵の束のこと、だよね?」
【ああ。鳥山石燕、江戸時代に生きた浮世絵師が描いた妖怪絵図だ。彼の人があやかしを産んだと言ってもいい──日本におけるあやかしの父だ】
「あやかしを産んだ、って……妖怪を作った、ってこと?」
【そもそも〝あやかし〟の定義からして違う。〝あやかし〟其れ即ち、説明のつかない摩訶不思議な現象をまとめたものに過ぎない】
〝家鳴〟──家に誰もいないはずなのに怪音がしたり振動がしたりすることを、昔の人間は家鳴というあやかしの仕業だと考えた。今でこそ建材が擦れ合う音だとか、排水溝に風が吹き込んで反響した音だとか分かっているけれど──昔の人間には分からなかった。だから、あやかしの仕業とした。
【誰かに見られていると感じるだとか、足音が背後からするとか、そういった不気味で解明できない現象を〝あやかし〟として──妖怪を生んだ】
説明のできぬ現象や得体の知れぬ恐怖を与太話として、怪談として、伝奇として、時には戒めとして──人々の間に語り継がれていった。〝あやかし〟についての描写は遡れば奈良時代の風土記にも見られるそうだ。けれど、明確に〝妖怪〟として形にしたのは鳥山石燕という絵師であったらしい。
【前にも言っただろう? おばけはいない。在るのは人間だと──紛うことなく、在るのは人間が生み出した存在だけだ】
「それって……妖怪は人間が考えた存在で、だから妖怪が生まれたとか……そんな感じ?」
人が想像することは、必ず人が実現できる。 ──ジュール・ヴェルヌ
そんな格言を引用して、鬩はその通りだと頷いた。
【妖怪に限った話じゃない。神々もそうだし、僕の霊能力だってそうだ。ヴァンパイアやキョンシーなんかのモンスターだってそうだ。人間が作ったからこそ生まれた】
そして、と鬩は日本における〝あやかし〟は鳥山石燕が〝画図百鬼夜行〟を描き上げたことで形になったモノが多いのだと語る。鳥山石燕は日本各地の伝説や怪談、説法などありとあらゆる話をかき集めて百鬼夜行シリーズを作り上げたそう。
【まあ、とは言ってもこの〝画図百鬼夜行〟は贋作だ。──いや、贋作でさえない、ただの紛い物だな】
ごとり。
何かが倒れたような、硬質な音がしてはっと視線を上げる。と、いつの間にかぼくらの目の前に墨色の炎をまとった猫がいた。ぶじゃあ、といびつな鳴き声を上げながらだらだらと涎を垂らしている。猫とはいってもかいらしさはかけらもない。ぼくとそう変わらない体格をしていて、爪も牙も包丁のように鋭利で長くて、顔つきも猫というよりは鬼、龍に近い。長く鋭い爪が伸びている手で人間の死体を掴んでいて、先ほどのごとりという音はその死体が地面に打ち付けられた音なのだと気付く。
「キャアアァアアァァア!!」
絶叫した。絶叫して、鬩を思いっきり抱き締めた。むぎゅ、と鬩から苦しそうな呻き声がしたけれど気にしてなんていられない。おばけが! おばけがっ!!
【……〝火車〟だな。葬儀場や墓地から死体を盗むあやかしだ】
「な、なんっ、なんかこっち、こっち睨んでるけどっ」
火車とかいう妖怪はだらだらと涎を垂らしながらこっちを見つめている。す、と火車の死体を持っていないほうの腕が動く。ひっと息を呑む。
けれど、鬩は動かない。動かな──ぼくが抱き締めてるんだった!!
「逃げよう鬩っ」
【逃げなくていい】
「えぅ?」
【言っただろう? 紛い物だと】
そう淡白に文字を連ねる鬩に、火車の鋭い爪が振り下ろされた。思わず鬩を抱き込んで胸の中に庇う──けれど、ぼくが思っていた衝撃と痛みはいつまで経っても来なかった。
え、と視線を再び火車に戻すと、火車はぼくらを掴もうと何度も何度も腕を振り回していた。けれどその腕がぼくらに触れることはない。ぼくらを、すり抜けてしまっている。
【贋作にさえ成り切れない紛い物に魂は宿らない】
鬩はそう言ってふわり、と浮遊して進み始めた。鬩を抱き込んだままだったぼくも引き摺られるような形で、つんのめりながら火車の横を通り過ぎていく。
浮遊している鬩の腰にしがみついたまま進んでいると、墨色の妖怪が何匹、何十匹も湧いてきた。けれどやはり、どの妖怪もぼくらに触れることはできなかった。触れられていなくてもぼくの心臓は死にそうになっていたけれどね。
「どういうこと?」
【〝成り代わり〟だ】
現代においても哀しいことに、少なくない事例として存在する現象、成り代わり。成り済ましとも。
【〝このイラストは自分が描いた〟と、他人のイラストをさも自分のモノであるかのように騙る輩を時折見るだろう? イラストだけじゃあない──SNSで人気のアカウントを自分のものだと謳ったり、人気店のレシピを盗んで自作レシピであるかのように売り出したり、人気のキャラクターとそっくり同じキャラクターを作って元のキャラクターの経歴を奪ったり──】
人の褌で相撲を取る。どころか、人の褌を盗んで横綱に成る。それこそが、成り代わり。
「じゃあ、この絵を描いた作者は……」
【ああ。鳥山石燕に成り代わろうとした人間だろうよ】
鬩は心底つまらない、とでも言いたげな侮蔑を孕んだ眼差しであたりを見やる。
【贋作師とは天地ほども違う。贋作師はいかに同じものを造るか、そこに誇りを持って魂を注ぎ込む。だからたとえ贋作でも魂は宿る。──だが、成り代わって他人の名誉を我が物にしたいだけの浅はかな作品には魂が宿らない。紛い物でしかない】
だからここの妖怪には魂がないのだと、鬩は静かに文字を連ねる。
だからここの妖怪たちはぼくらに触れることができないのだと。たとえ真作とどれほど同じであろうと、紛い物は紛い物でしかない。ゆえに、魂は宿らない。妖怪は──生まれない。
「……あれ? でも、じゃあこの世界ってなんなの? 妖怪の……仕業、じゃないの?」
【それを探りに来たんだ。紛い物は魂を持たない。──じゃあ、この世界を構築しているのは〝何〟なのか──】
──と、その時だった。
ずん、と地面が揺れて視界の端で──のそりと、小山が持ち上がった。
いや、小山ではない。虎のような面をしている巨大な、墨色の蜘蛛だ。ひ、と悲鳴が出掛けたぼくの口を鬩の小さな手が塞ぐ。
【〝土蜘蛛〟だな。源頼光土蜘蛛を退治し給ひし事、児女のしる所也──だったか。鎌倉時代、源頼光が土蜘蛛を退治した物語が描かれている土蜘蛛草紙……それを鳥山石燕が取材したのは間違いない。ならばあの土蜘蛛、空を飛ぶか】
おそらくは鳥山石燕の百鬼夜行シリーズに記されているのであろう記述から、土蜘蛛とやらの能力について分析している鬩にぼくは首を傾げる。今まで現れてきた妖怪は無視していたのに、なぜあの土蜘蛛には警戒するのだろう? と、思ったぼくの心の声に鬩は律儀に答えてくれた。
【あの土蜘蛛、魂がある】
「もがっ」
魂がある。それはつまり、本物の妖怪だということ。今までのようにニセモノの紛い物じゃないってこと。ただでさえ怖いものの連続で震え上がっていたぼくの体が、いよいよ感覚を失っていく。けれど鬩からは絶対に、離れない。死んでも離すか。
【……何故魂がある? ……斑、引っ付いていてもいいが悲鳴は上げるなよ】
こくこくと何度も頭を縦に振るぼくに鬩は小さく頷いて、手を離してくれた。そしてそのまま左腕の数珠をなぞった。
【〝憑訳〟】
悲鳴を、呑みこむ。
我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 呪 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 妬 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 恨 我鳥山石燕也 羨 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 憤 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 嫉 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 憎 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 悪 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 呪 我鳥山石燕也 怒 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 妬 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 恨 我鳥山石燕也 羨 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 憤 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 嫌 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 嫉 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 憎 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 悪 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 穢 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也 我鳥山石燕也
それは、悪意にまみれていた。
ありとあらゆる思念が、ありとあらゆる概念が、ありとあらゆる感情が、ありとあらゆる想いが──〝文字〟として視界外に再構築する鬩の憑訳。
それによって築き上げられた世界は、悪意にまみれていた。鳥山石燕に対する嫉妬と、怨嗟と、渇望と、憎悪と、憤怒と、呪詛と──悪意。自分こそが鳥山石燕であり、鳥山石燕が甘受している名誉は自分こそが受けるに相応しいとひたすら妬んでいる──おぞましい、人間の歪み。