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【四十日くらい経った水死体ってところか】
「やぁだ、ごはんが不味くなるわぁ~」
「あれらは何なのでしょう? 鬩さま」
下半身に纏わりつく不快な、冷たくぶにぶにとした感触に全身を凍らせながらひたすら絶叫しているぼくに構わず、鬩たちは冷静に会話を続ける。
【〝船幽霊〟の一種だ。水死体の成れの果てとして全国各地に残る有名なあやかしだな。だが当然──おばけではない】
この世におばけはいない。
在るのは、人間の悪意。
そう綴って、鬩は血濡れた虹彩を細める。冷静にしていないで助けて、と涙ながらの悲鳴を上げて鬩に手を伸ばす。その手を、鬩は血濡れた虹彩で見つめるだけで取ろうとはしてくれない。
「死後、魂が留まるケースは稀でございますものね」
「わたしたちみたいに底なしの未練と怨嗟と憎悪と殺意とにまみれて死んでいなきゃねぇ」
【ああ。遺るのは大抵、何かしらの強い一部の感情だ。あるいは──七人同行のように、他人の悪意に縛られているが故に死に切れぬ場合】
「せめぐっ!! たすっ、助けてっ!! 話して、話してないでたすけてぇっ!!」
叫ぶ。叫ぶ。叫んで、手を伸ばす。手を掻く。その手を、水死体のぶよぶよになった手が掴む。
絶叫が喉を突く。
【この船幽霊も──魂は亡い。さて、遺ってるのは何だろうな】
鬩は左手に嵌められている柘榴石の数珠に触れて、感情が読み取れない、いっそ冷淡とも言える血濡れた虹彩に水死体たちを映し出す。
【〝憑訳〟】
憑訳者、神社鬩の本領。
ありとあらゆる思念を、ありとあらゆる概念を、ありとあらゆる感情を、ありとあらゆる想いを──〝文字〟として視界外に再構築する鬩の憑訳。
自業自得 当タリ前 呪 ザマアミロ 嘲 DQNノ川流レ 妬 自業自得 死ンデ当然 嗤 馬鹿ガ淘汰サレタダケ 悦 自業自得 当タリ前 呪 ザマアミロ 嘲 DQNノ川流レ 妬 自業自得 死ンデ当然 嗤 馬鹿ガ淘汰サレタダケ 悦 頭悪イ 遊ンデバッカリ 恨 自業自得 死 悪 嫌 ザマアミロ 怨 ウケル 憎 夏ノ風物詩 死ンダノハ自業自得 クソワロタ 馬鹿ガ減ッテイイ 嗤 自業自得 当タリ前 呪 ザマアミロ 嘲 DQNノ川流レ 妬 自業自得 死ンデ当然 嗤 馬鹿ガ淘汰サレタダケ 悦 自業自得 当タリ前 呪 ザマアミロ 嘲 DQNノ川流レ 大草原不可避 妬 自業自得 死ンデ当然 嗤 馬鹿ガ淘汰サレタダケ 悦 頭悪イ 遊ンデバッカリ 恨 自業自得 悪 嫌 ザマアミロ 怨 ウケル 憎 夏ノ風物詩 死ンダノハ自業自得 馬鹿ガ減ッテイイ 嗤 馬鹿ガ淘汰サレタダケ 悦 自業自得 当タリ前 呪 ザマアミロ 嘲 DQNノ川流レ 妬 自業自得 死ンデ当然 嗤 馬鹿ガ淘汰サレタダケ 悦 頭悪イ 遊ンデバッカリ 恨 自業自得 悪 嫌 ザマアミロ モット死ネバイイノニ 死
鬩の憑訳によって具現化された水死体たちの抱える概念は──悪意に、まみれていた。
「あらぁ……これは、またえぐいわねぇ」
「どういうことでございましょう? この思念は……水辺で亡くなられた方々のものではございませんわね?」
【ああ。夏になれば川や海で遊ぶ若者が増えて、水難事故も増える。そんな時に──〝DQNの川流れ〟だなんだと揶揄してその死を当然だと嘲笑う層がいる。その感情を船幽霊が呑んでしまったんだな】
DQNの川流れ──ネットスラングのひとつだ。
DQNってのは非常識、反社会的、自己中心的など一般常識からはおよそかけ離れた、いわゆる〝不良〟や〝ヤンキー〟と呼ばれるような人たちを指すネットスラングである。夏になると立ち入り禁止・遊泳禁止区域などで危険な遊びをし、死亡するニュースが流れる。そのたびに河童の川流れをもじって〝DQNの川流れ〟と称し、嘲笑う人々がいる。
この水死体たちは、その嘲笑に呑まれた船幽霊なのだと鬩は語る。
【自業自得だ、死んで当然だ、そう思うのはまだしも──〝もっと死んでほしい〟と思うのは、どうなんだろうな】
その悪意を自覚していないのは恐ろしい、と冷静に綴って鬩はため息を零す。
【人間だ。そういう感情を抱えるのは仕方ない──が、近年はそれを容易く口にできてしまうぶん、呑まれるあやかしが増えてしまったな】
SNSの発展により、匿名で好き勝手嘯く人間が増えた。悪意に同調し、繋がることも容易くなった。同じ気持ちを抱える者たちで集い、口さがなく悪意を蓄積していけるようになった。
それが、あやかしの世界を狂わせている。
元来、人の想像から生まれる存在である〝あやかし〟は──人の感情に、染まりやすい。かつて出遭った七人同行は〝正義〟という名の悪意に縛られていた。かつて出遭った目目連は〝監視〟という名の悪意に引き摺られていた。
【こいつらは〝もっと死んでほしい〟〝もっと死ねば面白いのに〟という口さがない悪意に呑まれて生者を溺死させようとしているんだな】
きゃん、とダイニングテーブルの上から椿狐が心配そうに鳴く。
そう、そうだ。よく鳴いてくれた椿狐。
「──冷静に語っていないで助けてぇぇええええぇえ!!」
何度目になるかわからないぼくの渾身の絶叫に、鬩はやれやれと肩を軽く竦めた。
【ここは陸地だ。溺死させられる心配はない】
「そういう問題!? やだよ! 怖いよぉ!! たすけてぇ!!」
体中にまとわりつくぶよぶよとした感触が、鼻孔を突く腐敗臭が、足元に感じるぬるりとした──水と呼ぶには粘着性がある、何かが。
ぼろりと、また新たな涙が零れ落ちる。
「おねがい、たすけて、せめぐ」
【やれやれ……当然助けるからもう少し落ち着け】
鬩は嘆息して、水死体を──船幽霊を見下ろし、顎先に手を押し当てた。
【追い返すのは簡単だが、海に戻ればこいつらに引き込まれる犠牲者が出る。とか言って抹消するには知名度が高すぎる──それに、人間が存在する限り、際限なく悪意に呑まれた船幽霊は出現する。はあ……全く、本当に恐ろしいな。人間ってものは】
人間の想像から生まれ、人間の感情に縛られ、人間の思惑に左右されるあやかしを〝除霊〟するのは、霊能力者漫画のようにうまくいかない。
貞子ちゃんとメリーちゃんも、〝貞子さん〟と〝メリーさん〟という人のイメージに縛られ、自我を取り戻したとはいえ怨霊のまま成仏できずにいる。
逆に、あまりにも知名度が低く人々からほぼ忘れ去られている妖怪たちは、人々がなんとなしに辞典か何かで知った折に生まれ──すぐ、人間の悪意に呑まれて汚染され、本来とは違う動きをするようになってしまう。
とか言って船幽霊のような知名度の高い妖怪でも──活動する領域に関わる、この場合水死体に関わる人間の悪意が多ければ多いほど蝕まれていってしまう。
ゆえに、悪意は怖い。
【……どうにもならんな】
「せめぐっ」
【安心しろ】
そう言いながら鬩がついっと指を動かして、同時に波に攫われるような感覚とともに体が浮く。せめぐっ、とばたばた手足をばたつかせるぼくを鬩は半目で見やりつつ、ぱちりと指を鳴らした。
【〝狐火〟】
鬩が得意とする、九尾の狐が吐き出すという〝燐火〟を借りてあやかしを燃やし尽くす能力。
白藍色の輝きを持つ、ほのかな紫色が混じった青系統の勿忘草色の美しい炎。
【船幽霊は知名度が高いから完全に祓うことはできない。が、貞子ちゃんやメリーちゃんのように元々人だったわけでも、定義が決まっているわけでもない──今ここにいる〝群れ〟だけを一時的に抹消することは可能だ】
「わたしが喰べちゃってもいいけどぉ?」
「おやめになったほうがよろしいかと。腐乱死体ですわよ」
「それもそうねぇ。まずいわよねぇ」
貞子ちゃんとメリーちゃんのおっかない会話をよそに、狐火が鮮やかな青色の火の海を作る。けれど、それはぼくらを焼き尽くしはしない。ぼくらを守り救い──悪意だけを燃やし尽くす、救いの炎。
ギィィッといびつな叫び声を上げながら炎に呑まれ、ちりちりと塵になっていく。
ほうっと視界を満たす青色に安心していると、やがて燃え尽きたのか炎が消えた。そうして床に下ろされたぼくは、真っ先に鬩に抱き着く。涙と鼻水と汗と、あとなんかネトネトした脂でぐじゃぐじゃになった顔で、鬩に引っ付く。ああ、これだ。これが、一番安心する。鬩に引っ付いているのが──やっぱり、一番安心する。
そんなぼくを鬩は淡泊な目で見下ろしこそしていたけれど、引き剥がそうとはしなかった。
【汚い、離れろ】
「無理!! むりむり!!」
三十路のおじさんがダサいって言われようと無理なものは無理だ。怖いものは怖い。涙が出るものは出る。漏らさないのが奇跡なくらいだ。
「てかきもちわるい」
【腐乱死体に引っ付かれていたしな。もう一度風呂に行ってきたらどうだ】
「せめぐ、ドアのそとにいて」
【何歳児だお前は】
仕様のないやつだ、とため息を漏らしつつも一緒に浴室に行ってくれる鬩は、本当に優しい。貞子ちゃんとメリーちゃんも同行しようかと言ってきたけれどご丁寧にお断りして、かつ絶対来ないよう念に念を釘で打ち付けて言い含めた。これ以上おどかされたらぼく本当に死ぬ。
「鬩、そこにいて。お願いだからそこにいて」
【わかったわかった……さっさとシャワー浴びてこい。終わったらホットケーキ作れ】
「うん、わかった。ほんとそこにいてね」
すり硝子のドア越しに鬩の影がちゃんと見えるのを何度も確認しながら熱い湯を頭から被る。
五十度に設定した熱い湯が肌を刺す。熱いどころかもはや痛みの方が勝る。ちりちりと表皮が燻られ、じくじくと肉が傷む。足元に溜まった水溜まりさえ熱く、指先が激痛を訴えて悲鳴を上げている。はっ、と喉が限界を訴えて声を零しそうになったところで冷水に切り替える。
じゃあああ、と今度は氷のように冷たい雨が降り注ぐ。じくじくと痛む肌が冷水に心地よさを覚えたのも束の間、冷たすぎる水に委縮して震える。
──けれど、スッキリした。ドアに視線を向ける。すり硝子越しに鬩がスマートフォンを弄っている様子が見える。ほうっと安堵の息を吐いて、設定温度を四十二度に戻して普通にシャワーを浴びていく。
「鬩」
【ん】
音ではなく文字が返ってくる、この聴覚と視覚をごちゃまぜにしたような会話にもすっかり慣れ親しんでしまった。鬩の文字は明朝体の読みやすく、すっきりしたフォントが基本だけれど感情や状況に応じてフォントが変わるし、アニメーション効果が加えられることだってある。便利だなあ、って視界外を視つつ思う。
「これからもよろしく」
【どうしたいきなり。別に見捨てなぞしないぞ】
いい観察材料にさせてもらいはするがな、とぽつりと小さく書き加えられた文字にやめて、と情けない悲鳴を上げる。
何はともあれ。
〝ぼく〟真田羅斑と、〝僕〟神社鬩の物語は、まだまだ終わらない。
それどころか──戦慄と震撼と狼狽と恐慌と、畏怖と絶望と──ひとしずくの拠り処で構築された物語は、転がる石のように加速していく。終わりがあるかどうかさえ見えない、けれどでも、しかし万が一、〝終わり〟があるとすればそれは。
転がる石が、壊れた時。
──ぼくが、死んだ時。
── いいや、人間だ。 ──




