(1/3)── 壱 ── おばけはこわい。
逢魔が刻の学校は怖い。
日があるうちは生徒たちの活気に満ちていたであろうそこに人の気配はない。人の気配どころか、蛍光灯さえついていないそこは薄暗く、不気味な空気に包まれている。逢魔が刻。黄昏時の美しい夕暮れが沈み込み、夜の宵闇に移り替わろうとしている瞬間。従来ならば部活終わりの生徒たちや、職員室で業務の締めに取り掛かっている教師たちで賑わっているだろうこの時間帯に、誰もいない。
そう、誰もいない。
ぼくら以外は、誰もいない。
ぎゅっと、すっかり手汗でぐしょぐしょになってしまっている手に力を込める。ぼくの手の中にあるちいさな手がかすかに身じろぎして、隣を歩く少女がぼくを見上げる。ふわりと、少女の背で揺蕩う珊瑚色の髪が揺れる。
「だいじょうぶですよ、まだらさん」
少女が微笑む。飴色の眼差しは、ぼくが追い求めてやまない、漕がれるほどに掻き抱きたくてやまない、思はゆいと涙を零さずにはいられない──あの血濡れた眼差しとはあまりにも程遠い。
けれど、それでも飴色の虹彩に帯びる優しい光はぼくの荒んだ心を落ち着かせてくれる。
手汗で気持ち悪いだろうに、気を悪くすることもなくぼくの手を握り続けてくれている少女に、微笑み返す。
その時だった。
「物の初まりを一と云ふ♪ 雲助が昇くのを荷と云ふ♪ 子供の出来るを産と云ふ♪」
年嵩の男性の声。
たん、たん、たんと手拍子に合わせて男性が唄い上げ、それに合わせたあどけない子どもたちの──いびつな唄声が、響く。
「その子にさすのを尿と云ふ♪ 白石黒石並べて碁と云ふ♪ 武士の扶持を禄と云ふ♪ 貧乏人の遣繰質と云ふ♪」
男性の声はとても明瞭で聞き取りやすくて、もしも真っ昼間であったならば少々古めかしい唄だと思うだけで不審には思わなかったろう。
けれど、今は逢魔が刻だ。
逢魔が刻の、それも人気のない校舎に響き渡る唄が、一体何を意味するか──考えたくもない。ぎゅ、と手に力を込める。手が震えているのが自分でも、わかる。
「飛んで来て刺すのを蜂と云ふ♪ 世の中に心配するを苦と云ふ♪ 焼けた箸を水の中へ入れるとジューと云ふ♪」
男性の声に合わせていくつもの、おそらくは十人以上いるであろう子どもたちの声が上がる。けれどその声はとてもいびつで、なんというか──〝声の出し方〟を知らぬ声だった。
「まだらさん?」
これだけ響いている唄声に、隣の少女は反応しない。元々耳が悪いとはいえ、これだけの声量だ──少女ならば聞こえているはずである。それが本当に響いている唄声ならば。
そこで、気付いた。
少女の隣にもうひとり。五、六歳と思しき、おかっぱ頭のあどけない少女。木綿の着物に大きな前掛けをひっかけた、古めかしい出で立ちの少女。
ああそういえば、この学校は明治時代に創立されたんだったか──そう考えながら、からからに乾いた喉をいびつに震わせる。
ぼくの手を握ってくれている少女が首を傾げる向こうで、幼い少女の首がスライドするようにぼくを見上げる。そこに、目はない。
喉が、引き攣れる。体が、竦み震える。心臓が、弾けんばかりに脈打つ。
「──っ、せめぐぅううぅぅぅぅうぅぅぅ!!」
ぼくは絶叫した。
鬩は──いない。
── 憑訳者は耳が聞こえない ──
在る。
其れは在る。
何処にでも在る。
其れは何処にでも在る。
だが決して視てはならない。
決して其れを識ってはならない。
視て、識り、認め、渡ってしまえば──
もう、其れが亡い世界には還って来れない。
── 壱 ── おばけはこわい。
もすっ、と頬に押し付けられた柔らかくも弾力があり、温かくふわふわとしていて、それでいて幸福感を引き上げてくれる感触にぼくはしばし幸せな心地に浸る。
うとうとと、意識が心地よいさざ波に呑まれていく。
咬まれた。
「ぉん」
「……おはよう、椿狐」
無駄に大きな体に合わせて奮発したキングサイズのベッドで、いつもと変わらぬ朝を迎える。ぼくの顔を覗き込んでぱたぱたとしっぽを振っている仔狐の頭を撫ぜてやってから起き上がり、ぼりぼりと腹を掻く。
──ぼくの名前は真田羅斑。
三十歳。独身。童貞じゃないけど彼女なし。香川県の高松市中心街に広がる商店街の片隅に〝まだら相談事務所〟を構えている何でも屋。
そして、渡った人間。
「今日もオムレツでいい?」
「きゃん!」
椿狐が弾んだ声で鳴く。この仔狐こそ、ぼくが渡った証である。一見白い仔狐にしか見えないけれど、お尻から生えている豊かな朱色のしっぽをよくよく見れば、何本もあるのがわかるだろう。そう、狐は狐でも──九尾の狐だ。八本の朱尾と一本の金尾を持つ、九尾の狐。
椿狐はここから三十分ほど車を走らせた場所にある九尾神社の祀神さまであり、境内に数多く咲き誇っている椿の化身だとも言われている。
そうなのだ。椿狐は神さま──つまり、〝あやかし〟だ。普通の人間には視えないのである。ほんの数ヶ月前まで、ぼくもその〝普通の人間〟側にいた。
あの〝大惨劇〟でぼくの人生が大きく狂うまでは。
「クロワッサンとトースト、どっちがいい?」
「きゃぅん!」
「クロワッサンね」
シャツにトランクス姿のままキッチンに立って、てきぱきと朝食をこしらえていく。くぁ、とあくびが出る。もう少し寝ていたかった。
と、スマホが鳴る。画面には非通知の電話受信。時間は朝の七時前──依頼が来るには早すぎる時間帯だ。誰だろうと思いつつ、スマホを取る。
「はい、もしもし。こちらまだら相談事務所の真田羅です」
『…………』
返事はない。
何だ、とスマホを耳から離して画面を見やる。
目が遭った。
半狂乱でスマホを放り投げてキッチンを飛び出した。ばちゃり、と足が水を蹴る。はっと床を見下ろす。
水浸しだった。
心臓が痛いほどに脈打っている。こぽこぽと、何処かから水が零れ落ちる音がする。がちがちと歯が小刻みに鳴る。見たくないのに、顔が勝手に音の出処を向く。テレビから水がどぽどぽと溢れ出していた。テレビには、砂嵐が映っている。
指先が冷たい。足にも力が入っているかどうか心許ない。もしかしたら震えているのかもしれない。が、感覚がない。はあっと息が吐き出されて、苦しい。吸わないといけないのに、痙攣してうまく空気を取り込めない。
ぞくりぞくりと、冷気と悪寒と恐怖と気味悪さとが、背筋を凍らせる。そうっと音を立てぬよう後退したつもりが、ちゃぷっと波が立ってギュッと心臓がねじれる。ひゅうひゅうと喉が鳴る。テレビは、変わらず砂嵐を映し出しているし水を零し続けている。
音を立てぬよう、立てぬよう。必死に震える足を左足から滑らせる。水面が揺らめく。足を滑らせれば水面が揺らめいて波立つ。足を浮かせれば水音が立つ。どちらが、いいのか。数秒ほど逡巡して、摺り足を選ぶ。
心臓が痛い。指先が氷のように冷たい。顔から脂汗なのか冷や汗なのか、あるいは涙なのか鼻水なのか──液体が伝って顎先に溜まる。落ちる前に腕で拭う。ひい、と歯間から空気が抜ける音がする。
目指すは、玄関だ。玄関にさえ着けば、外に逃げられる。
震えでどうにかなってしまいそうな中、眼球は動かさない。テレビに固定したまま、動かさない。手も壁から離さない。壁を背に、焦点はテレビに合わせて、摺り足で移動する。視線を外せば、次の瞬間に〝何か〟が起きる。壁から背を離せば、次の瞬間に〝何か〟が迫る。だから細心の注意を払って、震える体を奮い立たせて、唾を飲み込むのも堪えて。
ひたすら、玄関を目指す。
ざりっと、ひと際大きなノイズを立ててテレビ画面が切り替わる。心臓が潰れる。画面に映し出されたのは──最悪なことに、いつもの用水路ではなかった。
最悪だ。
これで用水路であってくれたら、まだ幾分か余裕は持てたのに。用水路じゃないってことは、つまり。