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◆◇◆
昼時。
昼食を求めて道を行き交う人々が、ぼくを見下ろして怪訝そうな顔をする。
人がいる。アーケード街の方からはより騒がしい音もする。人の気配が濃い。
でも、鬩がいない。
さっきまでひびの向こう側から必死に、ぼくに手を伸ばしていた鬩の姿がどこにもない。椿狐も、貞子ちゃんも、メリーちゃんも。
「──せめぐ」
名を呼ぶ。
けれど、返事はない。
「せめぐ」
また呼ぶ。返事はない。また呼ぶ。応えはない。呼ぶ。来ない。呼ぶ。何もない。呼ぶ。道行く人々が不審そうにぼくを見る。呼ぶ。視界外に何も映らない。
「っ、あ……」
げほ、と無意識のうちに吸い込みすぎてしまっていた息が吐き出される。けれどすぐ肺が空気を取り込もうと痙攣して、すぐ胸がいっぱいになる。苦しさで、いっぱいになる。
指先がとても冷たい。はあ、と肺に溜まった空気を無理矢理押し出しながら指先を手のひらの中に握り込む。手のひらが、汗でひどく濡れていた。手のひらだけじゃない。顔も、脂汗なのか冷や汗なのか走り回ったがゆえんの汗なのか、あるいは涙なのか鼻水なのか。わけわからぬ液体でぐしょぐしょに濡れていた。
立ち上がる。がくんっと膝が折れて転がる。また、立ち上がる。膝が震えてうまく力が入らない。はあ、とまた肺に溜まった空気を吐き出す。
「せめぐ」
膝に手をついて、呼吸を整えながら名を呼ぶ。応えはない。代わりに、ぼくの長ったらしい錆色の髪がばさりと重力に従って落ちる。ゴムが、切れてしまったみたいだ。
「せめぐ」
応えはない。
当たり前だ──鬩は渡ったのだから。
ぼくの身代わりになって。
ぼくにタッチされて。ぼくに〝鬼〟にされて。
「っ……」
だめだ、今は自分を責めている場合じゃない。どうすればいい? 考えろ、考えるんだ。鬩は渡ってしまった。あの鬩でさえ、空間にひびを入れて腕を通すのがやっとだった〝あっち〟の世界に。
「誰か……誰か、詳しいひと」
──そうだ、轍さん。
霊能力者ではないけれど、神職として、鬩の保護者としてそれなりに〝あやかし〟と付き合いのある人だ。轍さんなら。
そうと決まれば、あとは動くだけだ。ぼくは震える足を鞭打って、ぐっと顔を上げて駆け出す。
◆◇◆
フィットシャトルを走らせること、二十分。焦る気持ちを抑えつつ運転していたつもりだったけれど、飛ばし気味だったかもしれない。
九尾神社の表参道ではなく、裏側から回って社殿すぐそばの駐車場に停める。鍵をかけるのも忘れてぼくは九尾神社の境内に駆け込む。
「あれ? まだらだ!」
戦ちゃんがタイヤでジャグリングしていた。いや、もう突っ込まない。
「戦ちゃん、轍さんは──お母さんは!?」
「おかあさん? いま、ほんどうにいるぞ」
「──真田羅さん」
戦ちゃんがそこ、と指さした本殿──まさにその中から、轍さんが出てきた。胸に、木彫りの犬のような──いや、狐だ。木彫りの狐を抱いている。
「轍さんっ……!」
「さっき、聾学校から連絡がありました。鬩が授業中にいきなり教室を飛び出して姿を消したと。──何かあったのですね?」
「っ……」
授業を放棄してまでぼくを助けようとしてくれて、そして助けてくれた鬩にまた涙が出そうになる。けれど今は泣いている場合じゃない。
「鬩がぼくの代わりに〝鬼〟になって、渡ってしまったんです!! 轍さん、渡る方法に心当たりはありませんか!?」
「……渡るつもりなの?」
「そうしないと鬩がっ、鬩が危ないんです!!」
「鬩はプロよ。貴方と違って」
轍さんの冷静な、いっそ冷徹ともいえる視線がぼくを射抜く。その通りだ。鬩はプロで、ぼくは素人だ。素人が渡る方法を知って、どうしようというのか。
それでも。
「──鬩を置いていくなんて嫌だっ!」
あれはヤバい。
それがわかるからこそ、鬩を置いていくなんていやだ。
何もできないまま終わるなんて、いやだ。鬩はあんなに必死になって、ぼくを助けてくれたんだ。なら、ぼくだって必死になりたい。このあやかしを惹きつける体質だって利用する。囮になれるんならなる。身代わりになれるんならなる。なんだってやる。そう、なんだって。なんだって──
──せめて。
せめて死ぬんなら。
死ぬんなら、いっしょに──
「……探しなさい。〝鬼〟になったということは、〝鬼ごっこ〟の最中というわけよね? では、探しなさい。貴方の前の鬼を。探して、辿りなさい。辿り着きなさい。最初の鬼に」
「……!」
轍さんはそう言って、ぼくに木彫りの狐を手渡してきた。ぼくの腕ほどもある、大きな九尾の狐だ。ほんの少しだけ、椿の香りがする。──けれどなぜだろう。心なしか、くすんで朽ちてしまっているように見える。
「本尊さまを持ってお行きなさい」
「えっ、本尊って……」
ここ九尾神社の祀神さまである椿狐の、本体。
そんなものを持って行っていいのかと轍さんを見やる。けれど、轍さんは薄く微笑むだけだった。
言葉はなかったけれど──轍さんの気持ちは、わかった。
「──ありがとうございます」
この本尊さまが何の役に立つのか、それはわからない。わからないけれど──でもきっと、持っていたほうがいい。
「なんかしらんけど、これやる! せめぐにいちゃんがつくってくれたくみひもだ!」
そんなことを言いながら戦ちゃんが差し出してきたのは、朱色の組紐だった。髪を縛るために、と鬩が戦ちゃんに作ったようだけれど戦ちゃんは縛らないほうが好きらしい。鬱陶しかったのでありがたく受け取って、錆色の髪を後頭部でひとつに纏める。
「まだらー! またこんどこいよー! こんどはぜったいあそべ!」
戦ちゃんのとても力強い〝次〟のある言葉を背に、ぼくは椿狐の本尊とともにフィットシャトルに乗り込む。
あのクソ大学生を探し出す。
人探しは、ぼくの本領だ。まだら相談事務所所長、真田羅斑。戦ちゃんの〝次〟を請け負って、それを実現させるべく、まずは鬩を探し出す。
◆◇◆
前の〝鬼〟を見つけるのは存外、簡単であった。
高松中央商店街のネットワークはとても狭い。そして、濃密だ。〝どこにだれが行った〟という情報なんて、そこらに転がっている。噂好き、人好きのおばちゃんたちの力侮り難し、だ。
ぼくの事務所に入るお客様というのは意外と、目立つ。〝昨日おたくんとこに行ってたお客様、とっても別嬪さんだったわねぇ~〟なんて普通に世間話でポンポン出てくる。
そんな高松中央商店街なのだ。
ぼくのところに入った大学生ひとりごとき、特定できないはずがない。
「ちょ……ちょっとマジになりすぎじゃね? ちょっとしたイタズラじゃん?」
「いたずらじゃ済まないことをしたろ? きみら」
──どこに行ってたんだ?
つい数時間前に見たばかりの顔を見下ろして、ぼくは自分でも驚くほど底冷えした声で問い詰める。
ここは讃岐学院大学構内のとある会議室。〝オカルドッキリサークル〟なんていうくだらないサークル活動が行われているところだ。所属部員は十二人。そのうち、活動に積極的に参加しているのはぼくにタッチしてきた男子大学生含め、四人。
最近、高松中央商店街に出没しては心霊系の噂話を広めているんだそうだ。ま、サークル名からしてくだらないことを考えてそういうことやってたんだろうけど。
「きみのあの〝タッチ〟──呪詛返しだろ? どこで〝呪い〟を貰ってきたんだ?」
「なんでそんなことおめーに言わねンとならねーんだよ。帰れよおっさん」
「二万円」
こういう輩には、金を出すのが一番手っ取り早い。
──あっさりとぼくにタッチするまでの経緯を吐いてくれた男子大学生に侮蔑の一瞥を投げかけてから、ぼくはフィットシャトルに乗り込んで再び走らせる。




