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肌を撫で上げる空気がとても生ぬるい。ぞわぞわと全身が粟立つ。どこに、どこに行けば。鬩──鬩は確か、タッチしないと戻れないって。
とりあえず、駆け出す。
人のいない高松中央商店街──それはショッピングモールができて以来、悲しいことにさして珍しくもない光景となっている。が、今日のは違う。明らかに毛色が違う。
〝人のいない高松中央商店街〟じゃない。
〝人が消された高松中央商店街〟なんだ。
「どうしよう──」
誰かを、探さないと。探して──タッチしないと。
これは、〝鬼ごっこ〟なんだ。
とりあえず人が集まりやすい瓦町駅を目指して駆け出す。昼時、高松中央商店街はシャッターを開けて営業している。飯処からはいい匂いが漂ってくるし、店内からBGMも流れてくる。それなのに、人間がひとりもいない。人影も、人の気配も。
カフェのオープンテラスでは今しがた出されたばかりであろう珈琲が湯気を立ち昇らせている。それなのに人がいない。アーケード街を出てすぐのところにある、瓦町駅へと通じるエスカレーターもちゃんと稼働している。〝人〟の痕跡はあるのだ。それなのに、肝心の〝人〟がどこにもいない。
「くそ……!」
エスカレーターを駆け上がってデッキに出る。瓦町駅は駅ビルの二階部分に改札があり、表デッキから歩道橋を伝って瓦町の各所に行けるようになっている。
ここも普段ならば人で賑わう場所だ。けれどやはり、いない。
いや。
いた。
瓦町駅に向かう、ブレザーの制服を着た高校生のカップルの後ろ姿が見えてぼくは思わずほっとする。
「きみら!」
──と、呼びかけてはっとする。呼びかけて、どうするんだ? タッチするのか? タッチして、この子のたちを〝鬼〟にするのか?
伸ばしかけた手を戻して、ぼくは改めてすみません、と声を掛ける。けれどカップルは、振り返らない。そこでまたもや、はっとする。
こっちの世界にいる〝人〟が人なわけがない。
「あ──」
「ざ呪ネン、も呪少シ呪タッチ呪キたの呪」
きいきいとガラスを擦り合わせたような、甲高くて不快な声を出しながらカップルが揃って振り返る。
顔がなかった。
「──うわああぁああぁっ!!」
顔に濃塩酸をかけて、そこだけ溶かして穴を開けたような。何かがどろどろに溶け込んでいる、赤黒い液体が穴の底に溜まっている。黄ばんだ白い何か──歯のような、何かがいくつも浮かんでいて。
走った。
走った。
脇目もふらず、エスカレーターを滑るように駆け下りて走った。走った。
涙が零れ落ちる。悲鳴が喉を突きたくても、肺が痙攣して出ない。
鬩。鬩。鬩。せめぐ。せめぐ。せめぐ。
「うううぅうぅうっ……」
涙が止まらない。涙で視界が歪む。見づらい。泣いている場合じゃない。場合じゃないのに。
「うわっ!」
がくんっと右足が止まって、つんのめるように転がる。体をしこたま地面に打ち付けて激痛が全身に走る、けれど痛がっている暇なんて今は、ない。即座に右足を見る。
夥しい数の髪の毛が絡まっていた。
髪の毛を辿った先には、地面に這い蹲っている血まみれの女の姿。
絶叫を上げながら、狂ったように足を振り回して髪を引き千切る。ぶぢぶぢと女の頭から髪が皮膚ごと抜けて、血が噴き出る。けれど構ってなんていられなかった。
自由になった右足に髪を引っ掛けたまま、ぼくは立ち上がって走る。駆ける。死に物狂いで駆け抜ける。
ぞぞぞぞぞ、と蠢く音がする。忍び寄ってくる。何かが、忍び寄ってくる。何かが──追い掛けてきている。
「っ……」
車。そうだ、車。車に乗って逃げよう。九尾神社──九尾神社、あそこに行けばいいかもしれない。
そう思ってしんべえうどんの先の、角を曲がる。錆びて色褪せた案内板の柱に手を掛けて、グリップを効かせてターン、しようとして急ブレーキをかける。角を曲がった先に中年サラリーマンと若い女性が腕を組んで立っていた。すみません、と言いかけてはたと気付く。
サラリーマンたちはぼくを見つめているのに、背中がこちらを向いている。
「──うわああぁあああッ!!」
みしみし、ぎゅりぎゅりと嫌な音を立ててサラリーマンたちの首がねじれていく。皮膚が、肉が、骨が裂けていく。血が、血が、血が。
がぼり、とサラリーマンたちが口を大きく開けて汚泥のような、けれど錆臭い濁りきった液体を吐き出す。口内では、多肉植物のような憎々しい花弁が蠢いていた。
「〝鬩〟!!」
ぱぁん、とサラリーマンたちの頭が弾かれたように大きく反る。
その隙に体を反転させて逆方向に駆け出す。ぞぞぞぞりぞりぞり、と鼓膜を撫で上げる不快な音が強くなっていく。さっきよりも、近くなっている。逃げないと。逃げないと。どこに?
誰かに、誰かにタッチしないと。誰に?
きゃんっ
小さく、けれど確かに。聞き慣れた鳴き声にぼくははっと顔を上げる。アーケード街から外れた路地、その先に椿狐がいた。きゃん、とまた椿狐が鳴く。九本の尾を警戒しきったようにぼわっと膨らませて、眉間に皺も寄せて、危機感いっぱいの声でぼくを呼んでいる。
「椿狐っ!!」
「ぉん!!」
ぼくが椿狐を追って路地に入ったのを確認して、椿狐も駆け出す。付いてこい、ということらしい。
ぼくは椿狐を見失わないように、必死で椿狐を目で追いながら右折、左折、左折、右折と路地をくねるように駆けた。ぞりぞりぞりぞりぞり、ともうすぐそこまで音がやってきている。
ヤバい。
「あぁん!!」
「っ──」
右折、と路地の角をまたひとつ曲がった先で椿狐が一際高く鳴き、止まった。
「まだら!!」【斑!!】
角を曲がった先、そこにはひびがあった。
何もない空間に割れたガラスのようなひびが入っていて、一部に穴が開いてしまっている。その向こう側に。
「せめぐっ!!」
焦燥しきった顔の、鬩がいた。
鬩がいた。せめぐが。せめぐが。
ぼくを視認した鬩が腕を穴に差し込んで、必死にぼくに伸ばしてくる。穴はとても小さくて、鬩の腕が通るのでやっとだ。
「まだら!!」【斑!! 僕にタッチしろ!!】
鬩の手に伸ばしかけた腕が、止まる。
タッチ。それはつまり、〝鬼〟が鬩になるということで。
ぼくの脳裏に、〝大惨劇〟の時の鬩の様子が蘇る。傷だらけで、血まみれになりながらもぼくを死に物狂いで助けてくれた鬩の、姿が。
「──だめだ」
【斑?】
「だめだ、だめだよ鬩。鬩にタッチしたら、鬩が〝鬼〟になっちゃう」
ぞりぞりぞりぞりぞりぞり、と犇く音がすぐ背後にまで迫ってくるのがわかる。わかるけれど、わかるけれど──
「いやだ。ぼく、鬩が傷付くのはいやだ」
矛盾してると、思う。いつだってぼくは鬩に頼りきりで、何かあればすぐ鬩って叫ぶ。傷付いてほしくないって思うんなら呼ぶなって、ごもっともな指摘があると思う。わかってる。わかってるんだ。でも、でも。
鬩に助けてほしい。鬩に助けてもらいたい。鬩に縋りたい。鬩に抱き縋りたい。
でも、でも、でも。
傷付く鬩を見るのはいやだ。
「きゃんっ!!」
「まだら!!」【斑! 急げ!! 早く手を取れ!!】
椿狐と鬩の切迫した声が、いよいよ危険だって知らせてくる。知っているけれど。
でも、わかるんだ。何も知らないし何もできないぼくだけれど、わかるんだ。
このまま鬩にタッチしたら──鬩が、危険な目に遭うってこと。鬩が傷付くってこと。〝大惨劇〟の比にならないくらい、鬩が危うくなるってこと。
──わかるんだ。
「──ごめん、せめぐ」
助けてって呼んでおいて、ちゃんと助けてもらわなくてごめん。
でもぼくは、ぼくが怖い目に遭ったり痛い目を見たり──死んでしまうよりも。
鬩が傷付くのが、いやなんだ。
「その鬩ちゃんへの重すぎる想い、とっても素敵だし萌えるけどぉ──ごめんねぇん」
「斑さま、ごめんあそばせ──どうか恨むならば、鬩さまではなくわたくしたちにしてくださいませね」
「え」
ぐい、といつの間にかぼくの両脇に立っていた貞子ちゃんとメリーちゃんが、ぼくの手を引っ張る。
引っ張る。
引っ張って、鬩の手に届ける。
鬩の手に。
タッチする。




