(1/3)── 拾壱 ── 枕返し
「まだら、おきて」【おい、もう朝の九時だぞ──起きろ】
とても艶やかな、腰に直接クる声。
それに起こされて、ぼくは目を覚ます。きゃん、と椿狐が飛び付いてきたので受け止めて撫でる。
「まだら、おはよ」【おはよう。朝食出来ているから早く来い】
艶やかな声を寝室に残してばたん、と閉められたドア。
──聞き覚えがないんだけれど、誰だったけ? 母さん……はない。みるく……は、どっちかというと可愛い声だしなぁ。それに東京から来るなんて話、聞いてないし。母さんと妹じゃないとしたら……誰だ?
視界外になんか見覚えあるものが映ってた気がするけれど……起き抜けで見逃した。
ボリボリと腹を掻きながらリビングに向かう。ダイニングテーブルには味噌汁とごはん、それに焼き鮭、卵焼きの黄金朝食セットが並んでいた。ぼくと、椿狐と──もうひとりの、分。
【斑、何飲む?】
「あっ、牛乳で……、…………」
我が家の見慣れたキッチン。
そこに、とんでもないナイスバディの美女がいた。F……いや、Gはあるかもしれない。腰もいい具合にくびれていて、お尻の肉付きも良さそうだ。
女性にしてはそこそこ身長があって、きゅっと引き締められた桜色の唇と片耳に掛けられた肩まである黒い髪がまたなんともセクシーだ。
けぶるような睫毛の下には血濡れたように紅い虹彩、が……血濡れた?
「え? せめぐ?」
【ん? ……どうした、斑】
ぼくの呼び掛けに美女が振り返って首を傾げる。血濡れた虹彩で、ぼくをまっすぐ見つめている。振り向いた拍子にたゆたゆと揺れる胸が、なんとも。
【まだ寝ぼけているのか?】
「いや……え? 鬩……鬩なの?」
視界外にポップする文字。それは確かに、鬩の特徴だ。字念だ。けれど……え? どういうこと?
【……斑、大丈夫か?】
体調悪いのか、と美女が……鬩、がぼくに歩み寄って額に手を押し当ててくる。むぎゅ、と胸がぼくの胸に潰される。たまらん……じゃない!
「だ、だいじょうぶ。それよりもきみ──」
額に宛がわれた鬩、の左手を掴んで引き剥がす──と、そこで気付いた。鬩、の左手。その薬指。そこに、銀色に輝く指輪が嵌められている。
そしてそんな左手を掴んでいるぼくの、左手。左手の薬指。そこにも同じく、銀色に輝く指輪、が。
「ぇあ?」
【……おい、斑? 本当にどうした?】
鬩、が怪訝そうにぼくを見上げている。きゅっと顰められた眉がなんとも悩ましくて、正直、ちょっと腰にク──違う!
「えぇっと、そのぉ……きみは、鬩……だね?」
【…………、…………逆に問おう。今は令和何年だ?】
「れいわ?」
【……まさか、平成にまで遡っているのか?】
「え?」
鬩、が何を言っているのかわからなくて混乱しているぼくに、鬩はちょいちょいと手招きしてきてソファに座るよう言ってきた。それに従って、応接間セットの──あれ、なんかソファすっごくふわふわする。いつ新調したっけ……。
【まず、お前の名前を言え】
ぼくの向かい側に──座らず、ぼくのすぐ目の前で空気椅子ならぬ浮遊椅子をした鬩、に見下ろされる。足を組んでいる美女に見下ろされるって、なんか……うん、イイ……。
「えっと……真田羅斑」
【歳は】
「三十歳」
【…………じゃあ、私の名前は?】
「え、っと……神社鬩、なんだよね?」
【いいや】
真田羅鬩だよ、と鬩は言って目を細めた。
まだら、せめぐ。
まだら。まだらせめぐ。真田羅鬩。
「え?」
【三十歳と言ったな。つまり、お前の中での私は十五歳ってわけか。なるほど──それは動揺するな】
「え?」
【お前は三十六歳だし、私は二十一歳だよ】
「え?」
……え?
ぼくが……三十六歳で、鬩が……二十一、さい……あれ? なんか、そんな気がしてきたかも……あれぇ?
……いや、うん。……そう、そうだ。確かにぼくは三十六歳だ。何で忘れて、いたんだろう? それに目の前の美女も……うん、確かに鬩だ。
……なんでぼくの中の鬩、中学生で止まっていたんだろう?
「…………」
冷静になってみると、わかる。
このふわふわソファは去年新調したばかりのやつだ。鬩のおかげで事務所が繁栄しているからと、事務所の移転の話も出ているところだ。
うん、そうだ。ぼくと鬩はここで〝まだら相談事務所〟を営んでいる。あやかしを惹きやすいぼくと、憑訳者である鬩がいるからどうしてもあやかし関連の依頼ばかりで、そこはちょっと不満だけれど。
そう、そうだ。
ぼくと鬩は、ここで一緒に暮らしている。
それどころか。
「……奥さん、だよね」
【何を今更】
鬩が高校を卒業したのと同時に結婚して、もう三年経つ。
そう。目の前の美女は、ぼくの奥さんだ。何でそんな大切なこと忘れていたんだろう。
【〝枕返し〟だろうな】
「まくらがえし?」
聞いたこと、あるかも。夜な夜な寝ている人間の枕をひっくり返して悪夢を見せるとかいう妖怪……。
【そうだ。、まあ、視せるのは悪夢じゃなくて、〝過去〟──あるいは〝未来〟だがな】
「過去……」
……ああ、そうか。
思い返してみれば、寝ている間──昔の夢を見ていた気がする。鬩がまだセーラー服を着ていたころの、どたばた日常の夢。
【ま、夢を視せるだけで大して悪さをしないあやかしだ。──もう、大丈夫か?】
「うん。大丈夫──ごめんね、心配かけて」
鬩の腕を引いて胸に抱き込んで、鬩の小さくも肉付きのいい体を堪能──たん、の……あ、無理だ。
「ごめん、まだちょっと感覚が昔のままみたいだ」
【……みたいだな】
顔が熱い。なんだこれ。むちゃくちゃ熱い。おかしいな。毎朝、鬩にハグしてちゅーするくらいにはいちゃついてたんだけど。なんかすごく恥ずかしい。どうしてだ?
【……そんなお前も可愛いな】
ちゅ、と頬に柔らかい感触が落ちる。ばっと頬を抑えて鬩を見やれば、鬩はくすくす笑いながら冷めてしまった味噌汁を温め直すべく、キッチンへ向かっていた。
……ああもう! 早く感覚戻れっ!
てかそもそも三十歳の時だって童貞じゃなかったのに、なんだこの童貞っぽい恥ずかしさ!!
「いただきます」
結局現代に戻ってくれない感覚をそのままに、鬩と向かい合って朝ごはんを食べる。
結婚して数年。家事も仕事もお互いに持ちつ持たれつつでうまくやってきていると思う。ぼくはだめなおじさんだって自覚しているけれど、そんなぼくを鬩は甲斐甲斐しく支えてくれている。本当に、ありがたいなぁと思う。
ぼくと鬩の出会いは、鬩が中学三年生の時だ。
あの〝大惨劇〟をきっかけにして鬩となにかとつるむようになって……あ、いやごめんなさい。正確にはあやかし騒動に巻き込まれるたびにぼくが鬩に泣きつく、です。
そうしてぼくと鬩の付き合いが始まったわけだけれど……それが〝お付き合い〟になったのは、いつだったかなぁ。鬩が……高校生になって、急激に女性らしくなって……そのあたり、かなぁ。
いや、確かにむちゃくちゃぼく好みだったけれどさすがのぼくも未成年に手を出すなんてしない。それは絶対にだめだ。……だめだと、想ってたんだけどねぇ。
ぼくがルミちゃんと仲良くするのがいやだと、きゅっと眉を寄せて、唇を噛み締めて見上げてきたあの鬩に──やられない男なんているだろうか。
そりゃ、しばらくは抵抗した。未成年だって自覚しろと鬩を突っぱねた。ぼくはもうおじさんだって何度も言った。言ったさ。
でもあんな鬩に勝てるかっ! 瞬殺だよっ! 全力で轍さんに頭下げに行ったよ!! いいわよってあっさり認められたけど!!
いろいろあったなぁ……うん。試練の日々だったね。結婚するまでは手を出すまいって、日々戦っていたよ。いくら親(正確には後見人だけれど)公認とはいえ、相手は未成年。ぼくの矜持として、結婚するまではって耐え忍んだ。えらいよぼく。
……本当にいろいろ、あったなぁ。
【どうしたんだ?】
「いや、昔を思い出してね……鬩と結婚するまではいろいろ大変だったなあって」
【ああ……私がいくら迫っても手を出さなかったものな、お前】
「本当にヤバかったです」
だってこの奥さんだよ? このたまんない美女だよ? そりゃ迫られたら理性吹っ飛びそうになるっての。
【そう言いつつ、私が他の男にモーション掛けられた時はお前、割と容赦なかったよな】
「…………」
いや、うん。
だって、ねぇ?