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「きみ、は……」
【神社鬩。高松市立聾学校中学部三年生】
かみやしろせめぐ。
神社、鬩──昨日、住職が紹介してくれた人物の名前だ。じゃあ、住職が言っていたのはこの子の、ことなのか?
視界外で意識にフェードインしてくる文字にも慣れてきたぼくは体を起こして地べたに座り込み、相変わらず浮いている少女を──神社鬩を、見上げる。
「え、っと……とりあえず、きみはおばけ……じゃない、んだよね」
【しつこい】
頭をはたかれた。
でも、人間だ。ぺしんって頭をはたく手の感触が、あった。おばけじゃない。この〝文字〟はなんなのかとか、なんで浮いているのかとか、さっきぼくを車から引き摺り下ろしたアレはなんなんだとか、いろいろ疑問は尽きないけれど──とりあえず、ちゃんと人間の感触があることにぼくはほっと安堵する。
そして改めて思考する。昨日、住職は〝うちでは取り扱えない〟とぼくを追い払った。そして〝どうにかできる人を紹介する〟と、神社鬩なる人物を紹介してくれた。
それと目の前にいるこの少女を照らし合わせて、思考する。
「──、……もしかして、霊能力……と、いうやつ?」
【まあ、そんなところだ。霊能力、超能力、神通力。魔術、法術、呪術、妖術──呼び名は尽きないが、僕を呼称するのに一番使われているのは〝憑訳者〟だな】
え? 通訳者? いや、漢字が……なんか漢字が、違った。
憑……訳者? と書いて、つうやくしゃ……?
【人と妖の橋渡し役、とでも言えばいいか……まあ、やることはお前の想像する霊能力者と変わらん】
「あやか、し──」
あやかし。アヤカシ。妖。つまり、おば【違う】
遮られた。
【人ならざるモノという意味では確かにそうだが、お前の想像している〝おばけ〟とは違う。あんな陋劣なモノと同列にしてやるな】
「……わざわざルビふってくれて、ありがとう」
頭の中にフェードインしてくる文字を読み進めて、けれど〝陋劣〟が読めなくて止まったぼくに神社鬩はルビをふってくれた。ありがとう。ぼく三十歳なのに情けない。
【そんなことはどうでもいい。おい、お前】
「え、ぅえ、はいっ」
【ソレを出せ】
それ?
それ、って……。
「きゅいっ!」
「きゃあっ」
幼い子どものような、振り切れて高くよく響く声が真横から飛んできてぼくは思わず眼前に浮いていた神社鬩の足に縋る。ほどよく肉のついたふくらはぎ、ちゃんと人間の足だ。やっぱりこの子、ちゃんと人間だ。よかった。いやよくない。なに女子中学生に縋ってんだぼく。変質者じゃないか。
と、おかしなところで安堵と動揺を覚えつつ、けれどやはりばくばくと鳴り響く心臓がぼくに神社鬩から離れることを許してくれなくて。変質者じゃないと内心叫びながら声のした方向を──フィットシャトルの運転席を、見やる。
そこには一匹の、白い仔狐がいた。雪のように真っ白でふわふわな毛皮に包まれた白い仔狐。けれど目元には朱色の隈取がワンポイントであって、しっぽのほうも──なぜかもっふりたっぷりの朱色の毛皮だった。とてもかいらしい仔狐に暴れ狂っていた鼓動がほんの少しだけ落ち着く。が、よくよく視線を凝らしてみれば仔狐の小さくかいらしいお尻から伸びているる朱色のしっぽは、一本だけではなかった。何本ものしっぽ──それに、朱色だけじゃない。朱色に混じって一本だけ、菜の花色のしっぽもある。
かいらしいけれど、なにあの仔狐。なんでぼくのショルダーバッグ咥えてるの? なんでショルダーバッグ咥えて運転席でドヤ顔してるの? かいらしいけど。
【──椿狐が視えるのか?】
「つばき、きつね?」
【椿狐。九尾の狐だ──視えるということは、なるほど。もう遅かったか】
つばきつね。椿狐……九尾……え、妖怪?
「ぎゅいっ!!」
「うわっ!!」
【妖怪じゃない。神だ。椿の化身──椿の精、と言ったほうが近いか。僕が居候している九尾神社の祀神だ】
椿の、神さま……このちっちゃくてかいらしい仔狐、が。ああ、でも椿の精と言われると、確かにそれっぽく見えるかもしれない。かいらしいお尻からもっふり伸びている朱色のしっぽと菜の花色のしっぽがそこはかとなく、椿っぽい。
【──ふむ、適応力がない奴だと思っていたが……存外、受容するのが早いな。いいことではあるが、だからこそ間に合わなかったんだな】
「──間に合わなかった、って」
【こっちの話だ──まあ、それはいい。おい、真田羅斑】
「えっ?」
今、ぼくの名前を言った? 〝言った〟ってか……書いた? 打った? 形にした? ともかく今──ぼくの名前を、言った? うん、言ってる。確かにある。視界には映らないけれど、意識には映っている視界外の文字に──真田羅斑って、ぼくの名前がある。ぼく、名前言ったっけ?
てかそもそも──この文字は何なんだ? この子がやってる……と、いうのは分かるけれど。なんでこんな。
【〝字念〟だ。思考を文字にしてお前に送っている。そして僕もお前の思考を〝字讀〟で文字に変換して讀み取っている。生まれつき聾唖だから音声による思念のやりとりができないんで、こうしている】
「あ、え、えっと」
字念、に字讀。霊能力の……ひとつ、みたいなもんかな。つまりこの子はぼくの思考を文字として読み取って……自分の思考も、文字としてぼくに伝えている……ってこと、かな。
そうか、だからぼくがさっきから何も言っていないのにこの子ぼくの言いたいこと理解していたのか……待て、ぼくの心読んでいるってことはぼくの【うるさい】
また遮られた。この子、本当にぼくの心読んでるんだ。
じゃあ、浮いているのも──霊能力の、えっと……憑訳者? の、力のひとつかな。さっきぼくを車から引き摺り下ろした、のも。
【〝念動〟──そのままだ】
あ、やっぱり。
この子──本当に、霊能力者なんだ。おばけは怖いし嫌いだけれど、霊能力者なんて胡散臭いものは少しも信じていない。おばけの存在だって心の底から信じていたわけじゃあない。じゃあないけれど、怖いものは怖い。そういうものなのだ。
昨日だって、本当にあのお寺が除霊できるところだなんて信じちゃいなかった。けれど、それでも安心したいと思うのが人間という生き物だ。信じちゃいないけどおばけは怖い。胡散臭いけれど霊能力に頼って安心したい。そういうものだ。そういうものなのだ。人間は、何かに縋らないと生きていけない。
──けれど今、確信した。
〝霊能力者〟は存在する。テレビに登場する霊能力者なんて胡散臭いことこの上ないけれどこの子は、本物だ。本物の、霊能力者だ。
【……適応力はない。が、浸透力が高いんだなお前は。その浸透力の高さで、よく今まで渡らずに済んでいたものだ】
「とお、る?」
【真田羅斑。その鞄の中にあるモノを出せ】
「え? あ、っ」
そこでようやく、自分の目的を思い出したぼくは慌てて白い仔狐の──椿狐、の咥えているショルダーバッグを取り上げて封筒を引き摺り出す。
「ぼくっ。依頼人から、写真の供養を頼まれてっ。でもだめでっ」
【知ってる。昨日、連絡が来た。危ういモノを持っている奴がいたからこっちに回したと】
さっさと出せ、と文字に急かされてぼくは封筒を乱雑に破いて写真の束を取り出し、手渡そうとした。けれど神社鬩は首を横に振って上から四枚目の写真を出せ、と指示してくる。
【それ以外は全てフェイク写真だ。もしくはただの勘違い。あるいは下手なだけ】
上から四枚目の、写真。
一枚ずつ数えて、ちょうど四枚目の写真を取り出して──ぼくは首を、傾げる。怖いもの嫌いなくせにうっかり見てしまったその写真には、何も写っていなかった。そう、何も。ただ黒いだけの──失敗写真。こんなの、混じっていたっけ?
ヴヴヴ、と唸り声がしてはっと運転席を見やったら椿狐が真っ黒な写真に向かって威嚇していた。眉間に皺を寄せて──牙と警戒心を剥き出しにして。
【──よくもまあ、こんなモノを享け負ったものだ】
「これ、は……何も写っていない、ように見えるけれど……心霊写真、なのかい?」
【この世におばけはいない】
在るのは、人間だ。
神社鬩は──鬩は、そう言って血濡れた虹彩を細めた。
【悪用されたな、斑】
──それが〝ぼく〟真田羅斑と、〝僕〟神社鬩の、出会いだった。
同時にぼくの凡庸でつまらなく、けれど平穏で長閑やかな人生は華やかなフィナーレを設えることのないままエピローグを迎え、Dana DanaをBGMにしてスタッフロールが流れた。
そして──戦慄と震撼と狼狽と恐慌と、畏怖と絶望と──ひとしずくの拠り処で構築された人生が、幕を開けた。
── 在るのは、人間。 ──