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【せめぐぅ~~~~】
「…………」
ぴよぴよと行進するひよこのように斑の文字がフェードインしてきた。
無視する。
《鬩くん、裏門まで一緒に、行ってもいい?》
《いいよ。行こうか》
頷いた僕に嬉しそうに笑ういちずちゃんを連れて、体育館裏の裏道をゆっくりとした足取りで進んでいく。高松市立聾学校は裏口から出た方が駅に近くて、電車通学の生徒たちはこうやって裏道を通って裏口へ向かうのだ。
《あのね鬩くん、今度の土曜日、予定は、ある?》
《ないよ。仕事が入ったら分からないけれど》
《ほんと? じゃあ、じゃあね。お仕事がなかったら、映画、見に行かない?》
最近公開されたばかりの、とある有名なアニメ映画を実写化した映画を見たいとのことだった。海外のアニメーション会社なので吹き替え版と字幕版があって、邦画のように字幕上映の有無を気にする必要がない。
僕は二つ返事でいいよと答えて、今夜にでも何時から上映されるか調べて待ち合わせ時間をメールで決めようと約束する。
《えへ、楽しみ》
頬をほんの少しだけ紅潮させてはにかむいちずちゃんに、思わず胸がきゅうっと締め付けられて口が緩みそうになる。
ぞわり
「!!」
思考するよりも早く、いちずちゃんの後頭部に手が伸びた。いちずちゃんが悲鳴を上げながら僕の胸元に倒れ込むのと同時に、僕の真横を空気が切り裂いていった。いちずちゃんの髪がひと房ほどと、僕の頬が切れてあたりを鮮血が舞う。
視界を彩る鮮やかな血飛沫の中──裏道の真ん中に、一体の人形が視えた。
【鬩!! 気を付けて!! 日本人形がそっち行ったかもしれないっ!!】
【──人形神か。またけったいなものを惹き寄せたな。斑】
遠くから届いてくる斑の文字から察するに、今日の斑の絶叫の原因はこいつらしい。
人形神はとても愛くるしい日本人形の様相をしている。が、僕には視える。──とんでもない化物だ。裏道の中央を陣取るように、僕らの通行を遮るように──静かにそこに佇んでいるが、とてもつなくおぞましい念に覆われているのが視える。
人形神という特性を顧みるに、何を想っているかは大体想像がつくものの──僕はそっと数珠を撫ぜた。
【〝憑訳〟】
ありとあらゆる〝概念〟を文字にする僕の、憑訳者たるゆえんとなった能力。
欲シイモノヲ言エ 鬩 シテ欲シイコトヲ言エ 鬩 欲シイモノヲ言エ 鬩 シテ欲シイコトヲ言エ 鬩 欲シイモノヲ言エ 鬩 シテ欲シイコトヲ言エ 鬩 欲シイモノヲ言エ 鬩 シテ欲シイコトヲ言エ 鬩 欲シイモノヲ言エ 鬩 シテ欲シイコトヲ言エ 鬩 欲シイモノヲ言エ 鬩 シテ欲シイコトヲ言エ 鬩 欲シイモノヲ言エ 鬩 シテ欲シイコトヲ言エ 鬩 欲シイモノヲ言エ 鬩 シテ欲シイコトヲ言エ 鬩 欲シイモノヲ言エ 鬩 シテ欲シイコトヲ言エ 鬩 欲シイモノヲ言エ 鬩 シテ欲シイコトヲ言エ 鬩 欲シイモノヲ言エ 鬩 シテ欲シイコトヲ言エ 鬩 欲シイモノヲ言エ 鬩 シテ欲シイコトヲ言エ
人形神。ひんながみ。千の骸が眠る土壌を千の人間に踏ませ、踏み固められた土を千の人の血で塗り固めて作った人形。作り方には諸説あるが──ともあれ、多くの人間の念を込めることで人形神ができると言われている。そしてその人形神を祀れば、人形神はどんな願いでも叶えてくれる神として一族を守護してくれる。そう、どんな願いでも。
代償は、願いを口にし続けなければならないこと。
願いを口にし、人形神はそれを叶える。そして次の願いを言えと人形神は強請る。だからまた願いを口にする。叶える。次の願いを寄越せと強請る。願う。叶う。次を寄越せ。願う。叶う。次を寄越せ。
そう、終わりがない。一旦人形神を祀ってしまえば一族が滅ぶその瞬間まで、際限なく願いを口にし続けなければならない。ひたすら、願い続けなければならない。
もしも願うことをやめたらどうなるかって?
死ぬに決まっている。
だから一族が滅ぶまで、なのだ。
例に漏れず、この人形神も願いを叶えることだけを考えている。
【斑。こいつに何か願ったか?】
【願ってないよぅ。願いはないって言ってるのに願いを言えってしつこくて……もう怖くて怖くて、せめぐせめぐって叫んでたらなんか変な誤解されちゃったみたいで……消えちゃった】
【なるほど】
泣き叫びながら僕を呼んでいる斑を、この人形神が勝手に〝鬩を連れて来てほしい〟という願いだと解釈したわけか。
もぞり、と胸の中でいちずちゃんが身動ぎする。が、この状況下で悲鳴を上げられるのも厄介だから殊更強くいちずちゃんの頭を胸に押し付けた。
さて、どうするか。
人形神は相変わらずの愛くるしい日本人形の姿で、裏道のど真ん中に鎮座している。だがその思念は──いや、執念は僕しか視ていない。まっすぐ僕を視て──どんな方法を使ってでも僕を斑の元に連れて行くつもりでいる。
僕が斑の元に行けば、願いを叶えたことになってこいつは新たな願いを言えと斑に強請る。斑と人形神の間に正式な契約関係が、生じてしまう。現時点ではまだ、こいつが勝手に願いだと解釈しているだだけだ──今のうちに、どうにかしなければ。
【全く──斑、お前といると退屈しないな】
【鬩、鬩大丈夫? 大丈夫なの? 鬩っ】
【今からひとりそっちに転移させる。守れ】
そう言うが早いか、いちずちゃんを斑の元に〝転移〟させて身軽になった僕は上に飛び上がる。追い縋るように、日本人形が蜘蛛のように手足を伸ばして体育館の壁を駆け上がってきた。顔は変わらずお姫様のように愛くるしいというのに、千の念が込められた泥で成形された胴体部がただの化物で台無しだ。
と、思った瞬間に顔の方も台無しになった。どうやら顔の方も千の念が込められた泥で作られていたらしい。小さくて愛くるしいお姫様の口が歯を剥き出しにして、細かくびっしりと生え揃っている赤黒い牙を小刻みに噛み鳴らしている。
【言っても無駄だろうが──あの男はお前のあるじではないぞ。それに、あの男はお前に願ってなどいない】
【シイィイイィィィイィィィイイイイィィ】
剥き出しにした歯の隙間から息を吐き出したのだろうか──そんな文字が僕の視界外に映る。同時に空気の動きが変わったことを肌が気取って、僕は軽く体育館の壁を蹴って更に空高く舞い上がる。
僕の残像を斬り刻むように日本人形の髪が鎌鼬のように振り乱された。先ほど僕の頬を切ったのも、あれか。
しかしまずいな。このままだと人目につく。高松市立聾学校は高松市の中心部からは少し外れたところにあるが、住宅街が周囲に広がっている。このままだと変な噂が立つ。
と、またもや日本人形が髪を振り乱してきたので体を後ろに反らして避ける。けれどその拍子にスカートが捲れ上がってざくっ、と切れる。舌打ちして体ごと下方に移動した。スカートだとこういう時間合いに困る。
【〝狐火〟】
念動を日本人形に掛けても物凄い抵抗力で反発されたため、今度は全てを焼き尽くす白藍色の輝きを持つ勿忘草色の炎で日本人形を包み込む。ぢりぢり、と日本人形の纏う着物が焼け焦げていくが日本人形自体には──人形神自体には、大した影響がないようだ。
憑物とはいえ曲がりなりにも〝神〟と呼ばれるだけはある、ということか。
【ギィイイィィィイィィ】
【全く──人間の欲望というのは根深い、ッ!!】
どすっ、と日本人形から伸びてきた腕が脇腹に刺さる。日本人形の小さな愛くるしい指も、人形神の執念が宿って視るも禍々しい人のような質感になっている。ずぶるずぶりと、爪先が脇腹に抉り込んできて思わず呻く。
【鬩!? 鬩大丈夫!? 今どこにいるの!?】
──ああ、斑に伝わってしまったか。大丈夫だ、と返すが続け様に日本人形の髪が断頭台の如く落ちてきてまたもや焦燥の思念を斑に伝えてしまう。
【鬩っ! せめぐっ! ──聾学校? 高松市立聾学校にいたの?】
──いちずちゃんと話しているのか。
【言っておくが聾学校には来るなよ。お前が来るとさらに面倒なことになる】
【でもせめぐっ】
【大丈夫だ。すぐそっちに行く】
ふう、と大きく息を吐いて脇腹から日本人形の腕を強引に引き抜く。ぶしゅりと血が噴き出たが構わずその血を指に絡める。
相手は曲がりなりにも〝神〟──ならば神を調伏するのは神、だ。胸ポケットから筆談用に常に携帯している小さなメモ帳を取り出して〝天狐〟〝地狐〟〝人狐〟の血文字を三枚の紙に書く。
〝六字法〟──六字明王を本尊として修される調伏法。真言宗だと六字経法、天台宗だと六字河臨法と呼称されるが──ともあれ、仏教において魔除けとして使われる術式だ。僕はどちらかというと神道だが、宗教にこだわりはない。宗派が違おうとその力を信じてさえいれば、力を能力として使うことができる。
人の想像で生まれたあやかしに対抗するのもまた、人の想像で作り出した呪法なのだ。椿狐が傍にいて、かつ狐火も扱う僕はこの六字法を好んで使う。
血文字を媒体にして作り出した三枚の式神、それを飛ばして日本人形を──人形神を囲む。
【〝狐火〟!!】
天狐、地狐、人狐。六字法においてはこの三類が三毒、つまり悪しき厄災とされている。この三類を書き記した人形を燃やすことで厄災を祓う──それが本来の六字法だ。
だが僕の六字法は、違う。
天狐、地狐、人狐。三類の力を借りて〝狐火〟の退魔の炎を強化する。さすがに妖狐族の奥義である〝滅犠怒〟の炎には敵わないが、それだってこの程度の〝神〟を焼き尽くすには十分だ。
【ギイイィィイイィィィィイイ!!】
勿忘草色よりも濃い、瑠璃色の炎に包まれて絶叫を上げる人形神を眺めて──僕はふう、と軽くひと息吐いた。