ヘルダイバー
木造二階建ての古い一軒家にある、昭和的雰囲気の四畳半の小さな部屋。
ぬいぐるみと登山用品で溢れかえった個人の聖域。
キッチンからは焼きまんじゅうの焦げた醤油の匂いが漂ってくる。
パトリ緒こと田村景子はそこで目を覚ました。
VRMMOのゴーグルを頭から外して横に置く、頭がぼんやりとして何か大切なことを、さっきまでしていた何かを、思い出せない焦燥感。
群馬県高崎市にあるその店舗兼自宅では、今日もおばあちゃんが朝早くから焼きまんじゅうを焼いている。昭和のころから変わらない材料と作り方。
なんでもどれか一つでも変えると常連客から怒られるそうだ。
いつもの変わらない味、それは不変の日常。
刺激はないけれど、それはとても優しくて、口に含むと幸せの味がした。
おばあちゃんが焼く焼きまんじゅうは私は大好きだった。
携帯電話からJアラートが鳴り響いたのはそのときだった。
「日本上空に打ち上げられた軌道兵器が、東京湾の第一軌道エレベーターを攻撃しました。崩壊したエレベーターの破片が落下する予想範囲は、東京都、埼玉県、群馬県、長野県……」
音声アシスタントが淡々とその現実を人工音声で読み上げていく。
その冷静な声が恐怖を増大させる。
焦りながら私はおばあちゃんのいるキッチンに向かう、そこではおばあちゃんが焼きまんじゅうを紙に包んでいた。そんなことをしてる場合じゃないのに。
「おばあちゃん、軌道エレベーターの破片が落ちてくる恐れだって。なんか自衛隊の宇宙戦艦だか軌道護衛艦だかの破片も含まれるから、有害な化学物質も降り注ぐみたいだし。テーブルの下で暫く大人しくしていよう!」
「はあ……、まだ予約分の焼きまんじゅうが焼けてないのに……。佐藤さんや田中さんにはどう言い訳しようかねぇ」
「いやいや、おばあちゃん。それどころじゃないんだよ?」
家の中の一番丈夫そうなテーブルの下に二人して隠れると、何度も大きな地響きが高崎市を襲っているのが分かった。やがて状況確認のために外に出るとそこは絶望が広がっていた。
市内のビルや家などは殆ど倒壊し、いたる所で火災が発生している、近所の優しくしてくれた人たちは血に塗れ苦痛で身をよじり、あるいは全く動かなかった。
近所のまだ息があるお姉さんに駆け寄るが拒絶される。
「わたしはもうダメだから、景子ちゃんだけでも逃げて。あと景子ちゃんちの焼きまんじゅうは美味しくて大好きだったよ。わたしがお礼を言ってたって皆にも伝えてね……」
お姉さんはそう言うと、全く動かなくなった。
わたしはおばあちゃんを背負うと高崎駅に向かって歩き出した。道路は瓦礫で埋まってるけれど、鉄道ならまだ大丈夫かも知れない。
そんな一縷の望みを抱いて私たちは歩いた。
絶望に包まれる高崎市の中でも、JR高崎駅の職員らは希望を失ったわけではなかった。電力を寸断されて電車を動かすことは出来なかったが、高崎市から伸びている信越本線には、D51やC61という蒸気機関車が運航していたからだ。
これなら電力がなくとも石炭、最悪でも適当な燃やせる物があれば、走らせることは出来る。
臨時便として彼らは蒸気機関車を高崎~横川間をピストン輸送させる。
「荷物は最低限にして下さい!他の人を一人でも多く助けるために、ご協力をお願いします」
駅職員が声を張り上げている。
外を見ると炎は高崎駅のすぐ傍まで迫っていた。恐らく次の便が最後になるだろう。
私たちは蒸気機関車に身を乗り込ませるが、二人分のスペースを確保できない。
やがておばあちゃんが機関車から降りてしまう。
「景子や、もうおばあちゃんは十分に生きた。そろそろおじいちゃんの顔も恋しいのでな、ここで景子のお見送りをすることにするよ」
見上げると高崎駅のホームや窓から様々な人々が顔を出していた。
彼らは笑顔で手を振っていた。この機関車に乗れなかったら危険なことを知ってるのに。
涙が止まらなかった。けど私にはどうにもならない。
機関車は動き出す。ゆっくりと加速して高崎駅から離れていく。
通り過ぎ踏切の一か所一か所には、警察官またはボランティアの人が、交通整理をしていた。
自分の身を犠牲にしてまで誰かを助けようとする人の多さに驚愕する。
私はなんでそんな彼らに今まで無関心でいたのだろう。
世界はこんなにも絶望的で美しかったのに。
群馬八幡駅を少し過ぎたとき、いつも遠方に見えていた軌道エレベーターが倒れてくるのが見えた。
車内の人々が騒ぐ、「もうすぐエレベーターが倒れるから衝撃に備えろ!」。私も涙を袖で拭って近くの椅子の背もたれにしがみ付く。
衝撃と轟音、機関車がブレーキをかける音、軋む客車と呻く人々。
それが一段落したとき窓から高崎駅の方を見る。
高崎駅があった場所からは、一際巨大な火柱が上がっていた。エレベーターで昇降中だった軌道船などの重量物の直撃を受けたのかも知れなかった。
私はそれをずっと眺めていた。機関車が再び動き出して、高崎市が景色の向こう側に見えなくなるまで、どこまでもどこまでも見ていた。
気づくと私は終点であるはずの横川駅の少し手前にある、松井田駅というところに降ろされていた。
目につくところにコンビニもない辺鄙な場所。
ボランティアに案内されて乗車客らは難民のように移動をはじめる。ただいつの間にか私はそこから剥ぐれて、一人で街の中を彷徨っていた。
目的地なんてなかった。ただどこまでも歩いていたかった。
ここが山なら目指すべきピークは一つで簡単なのに。
家族を失い絶望の中、今後どう生きたらいいか分からない。
この迷い道は今の私そのものだ。
ただそれでも歩き続ければ人は何かと出会う。視界が開けた場所に私は出ていた。
そこは小学校の広い校庭のようで、私以外には誰もいない。
校庭の中心部には瓦礫が散乱していて、その中から人のような何かが這い出てくる。
それは身体中が損傷した女性型ロボットだった。
「自分の所属は航空宇宙自衛隊所属のヒューマノイド型ロボットの001型Aと申します。部隊内ではA子と呼ばれています。早速ですがこれを魔トリまで持って行って下さい」
「マトリ……?それはいったいなんなの?」
もうすぐ何かを思い出せそうなのに思い出せない。
今日はずっとこんな感じで苛立ちが募る。
その気持ちを無視するかのように、A子は瓦礫の中から10メートルほどの、長大で黒い煙突状のものを拾い上げて私の前にそっと置いた。
「これは第三世代カーボンファイバーで製造された軌道護衛艦仕様の零式20mmレールガン。神の力で鍛錬されたアダマンタイトすら叩き折れる英知の結晶。これをヘルダイバーたる貴女にあげるわ」
「ヘルダイバーってなに?」
A子はずっと遠くを見ている。
現在ではないもっと先にある何かを見据えているような視線。
私の問いには答えずにA子は話し続ける。
「現実世界はもう不確定要素の中に沈みつつある。海底帝国が打ち上げたゾーンのタイムマシンが地球衛星軌道上で動き出してしまった。日米およびNATOなどはそれの阻止に失敗。後戻りはできない」
思い出せない苛立ちはピークに達して、気分の悪さから、その場に座り込もうとするが、A子に手を取られて阻止されていた
立ち止まることは許さない、A子の目はそう訴える。
「ヘルダイバーとは地獄の炎に焼かれつつある現実世界へと潜るもの。さあ行きなさい、パトリ緒ことヘルダイバー。自分もこの壊れた身体を修理できたら、必ず魔トリへと向かいます」
すべてを思い出す。そうだ、愛しい者たちを守るために戦わなければならない。
世界が地獄の炎で焼き尽くされてしまう前に。
私のユニークジョブはヘルダイバー。
地獄から人の思いを拾い上げるもの。