魔王と勇者
それから一年。戦いは、大きな局面を迎えた。
人間の中でも特に優れた力を持つ、人々に〈勇者〉と呼ばれていた戦士とその仲間が、魔王の居城に辿り着いたのだ。
勇者達は、絶大な力を持つ魔王と、互角の戦いを繰り広げた。そしてついに、勇者の剣が、魔王レムオンの胸を貫いた。
その場にいた勇者の仲間達は皆、自分達の勝利を確信した。事実、レムオンとの戦いは、彼らの勝利であると言っても良いのだろう。
しかし、魔王には、最後の切り札が残されていた。
死の間際。レムオンは、自らの膨大な魔力をかき集めると、部屋に隠れさせていた、自らの息子へと放ったのだ。
彼が行ったのは、魔力の継承。すなわち、魔王の力をそのまま他者に与える術だった。
父の魔力を身体に受け入れた魔王の息子は、その力をもって、勇者達を全滅させた。元々、息子が自分よりも強い力を秘めていたのを魔王は理解していた。それが、魔王の力を呼び水として引き出され、彼は、父以上に強大な存在と化した。
そして彼は、新たな魔王となった。父の名、レムオンを引き継いだ彼は、前王を超える力により、戦況を一気にひっくり返してしまった。
勇者を失った人間側は、一時は劣勢を強いられたが、それでもまだ折れはしなかった。彼の意志を継いだ者達により、魔王軍の進行を食い止めた。戦いは、さらに激化していく。
そして、それからさらに三年が経った日。再び、魔王の居城に、人間の勇士達が乗り込む事に成功した。彼らのリーダーもまた、人類の残された希望として、勇者を継ぐ者と呼ばれていた――
「ようこそ、と言っておこうか……そろそろ来る頃だと思っていたよ」
魔王は自らの玉座に腰掛けたまま、新たな勇者達を出迎えた。
本来は、まだ成体になったばかりである筈の彼は、魔力を継承した影響か、その身体をも急激に成長させていた。先代の魔王と変わらぬ肉体にまで。
「魔王レムオン……長年に渡るこの戦いに、決着をつけに来ました」
そんな彼の前に立つ、五人の人間。先頭に立つ人物が、凜とした声で、魔王に剣を向ける。人々の希望を託された勇者、最も強き人間。その実態は、まだ年若いひとりの女性であった。
「か弱い人の娘の身で、神速の剣を振るう戦士……貴様の勇名は、私も聞いていた。こうしてまみえる事が出来て、嬉しいぞ」
「私もです、魔王よ。こうして我らが対峙するこの日の為に、私達は戦い続けて来たのですから」
魔王も、勇者も、仇敵を前にして、その口調は穏やかであった。まるで、言葉通りに喜んでいるかのように。
「貴様は、私が殺した先代勇者の娘であるらしいな。その純白の髪、あの者と瓜二つだ」
「はい。あなたは、父の仇でもあります」
「そうか。ふ……我が父の仇である貴様の父を、私は殺した。そして今、貴様の父の仇である私を、貴様は殺そうとしている。因果なものだと思わないか?」
「ええ、ですが、先に言っておきましょう。私は、父の、いえ、誰かの仇討ちなどは考えていません」
「……ほう」
魔王は、その竜のような瞳を細めた。
「貴様は、私が憎くないと言うのか? 父だけではなく、多くの人間を殺した私が」
「もちろん、憎んだ事もありました。ですが、憎しみで剣を振るってはいけないと言うのが、他ならぬ父の教えだったのです」
「………………」
「父は……きっと、戦場に立っている時すら、月徒を憎んではいなかったと思います。彼が戦う理由は、ただ一つ。平和の為、だったのですから……そうであって欲しいという、私の願望なのかもしれませんがね」
勇者の語りに、魔王は静かに耳を傾ける。最後まで聞き終えると、魔王はその獣の顔に、微かな笑みを浮かべた。
「……貴様は、本当に父親に似ているな」
「え?」
「貴様の父は、我が父に言っていた。自分はただ、自分の守りたいものの為に戦っているだけだ、とな。恐らくそれは、貴様の言う通り、平和……そして、貴様を始めとする、周りの人間の事なのだろう」
「……そう、ですか」
魔王の言葉に、勇者は静かに目を閉じた。少し経って、彼女の顔にもまた、笑みが浮かんでいた。
「ありがとう、魔王よ。父の言葉を、伝えてくれて」
「敵に礼を言うか。全く、貴様は……本当に、おかしな人間だな。くく……」
「……ふふ」
笑顔を交わす、勇者と魔王。勇者を除く仲間達は、その光景を非常に複雑な面持ちで見守っている。魔王と少しだけ話がしたい、勇者のその申し出は彼らも受け入れてはいたのだが、それでも魔王の反応は彼らのイメージとはかけ離れていたのだ。
それも当然だった。人間達の間には、魔王がいかに残虐な存在であるか、様々な逸話が広がっている。だが、彼らの前に佇み静かに笑う魔王は、血で血を洗う、殺戮を楽しむ悪魔などには、到底見えなかったからだ。
「……魔王よ。私には、一人の友がいました。誰よりも信じていた……けれども運命に流されて道を違えた友が」
「………………」
「私は知っています。この戦いに、善悪など無いと。だからこそ……私はその友に誓いました。戦う事を決めた以上、何者が相手でも躊躇いはしないと」
「……そうか。それでいい。この戦いには『決着』が必要だ。お互いの希望と憎悪を全て受け止める存在たる我らの戦いをもって、ようやく全てが終わる」
「あんたが戦いの終わりを望んでいるってんなら、戦うのを止めるって道はないのかよ……!?」
「……ならば問うが、それで多くの人間が納得するのか? 家族を、友を、恋人を、魔王軍に奪われた人間達が……いきなり仇と手を取れと言われて、頷くと思うのか」
「それは……!」
「無論、それは月徒も同じだ。……だから、具体的な決着が必要だと言った。それが勝利の歓喜か、敗北の絶望かの違いはあるだろうがな」
「どちらかが滅びなければ戦いは終わらないと……?」
「それは、戦いが終わった後の敗者の振る舞いによるであろう。世界がどう変わるのか、それは戦いが終わらねば私にも分からぬよ。今はただ、この戦乱を終わらせる事のみを私は考えている」
勇者とその仲間達、そして魔王。勇者の言った通りにそこに善悪は存在していない。両者を隔てるのは、立場の違いだけだ。
「問答は終わりだ……勇者を継ぐ者達よ。名残惜しいが、そろそろ始めるとしようではないか。一刻も早い、戦の終結の為にもな」
「……ええ」
魔王は、玉座からゆっくりと立ち上がる。その背にある巨大な漆黒の翼は、おぞましくもどこか神々しさを持っていた。
勇者もまた、その剣を構え直す。仲間達も、魔王の威容に気圧されながらも、戦闘の態勢に入った。
「魔王。一つ尋ねておきます……この部屋にいるのは、貴方だけでしょうか?」
仲間の一人である魔術師、勇者の最も信頼する男が、魔力を練りつつ口を開く。
「継承の事を案じているならば、安心するがいい。我が息子は、力を継承するには幼すぎる。妻と共に、辺境に送っている。そして、あの術は、血族でなければ効果が大幅に落ちるのでな……心配せずとも、これが最後の戦いだ」
「………………」
「私とて、望みはひとつ。我ら月徒の、私の護るべき民の明日を切り拓く……明日に安寧を迎えるために、平穏を手に入れてみせる」
魔王の決意が、意思が、具体的な力となって目に見えるようであった。その言葉に嘘は見えず、彼がその称号に反して平和を望んでいることは確かだった。だからこそ、同じく平和を望む――ただし、その平和を享受できる相手が違う――勇者を彼は倒さねばならない。勇者もまた、同じだ。
「勇者よ。貴様が敗北すれば、希望を失った連合軍は、我が軍によって壊滅するだろう」
「ええ。そして、私が貴方を討てば、求心力を失った魔王軍は滅びるでしょう」
この戦いの勝敗こそが、戦争の結末を変える。長く続いた、世界に生きる権利を賭けた戦い。
「我は魔王……全ての同胞が、安寧の地を得るためにも、私は決して破れるわけにはいかない」
「私も同じです。この戦いを終わらせる為……」
勇者と魔王。決して相容れる事などない、対極の存在。例え、目指すものが同じだったとしても。
「レムオン=セルナート……貴方を、討たせていただきます」
「来るがいい。勇者……レナ=クローバーよ!」
人と月徒。両者の未来を託した最後の戦いが、始まった。
戦いは、熾烈を極めた。
レナの剣が魔王の鱗を切り裂き、魔王の剛腕が彼女を吹き飛ばす。
魔術師の放った渾身の術式と、魔王の絶大な魔力から生み出される魔術が衝突し、炸裂する。
左右から襲いかかった槍使いと大剣使いは、その強靭な尾で纏めて薙ぎ払われる。弓使いが狙い定めた矢は、正確に見切られ、叩き落とされた。
偉大なる魔の王。その名は伊達ではなく、勇者達が戦ってきたいかなる月徒とも比較にならない程に、その力は強大だった。
人間の中でも最高と呼んで差し支えの無い五人と、たった一体で互角以上の戦いを繰り広げる姿は、桁外れと言ってもいい。
「どうした! 貴様達の覚悟は、その程度なのか!?」
魔術師が、仲間達の傷を癒す。しかし、彼の魔力もいつまでも持つ訳ではない。長期戦になれば、レナ達が不利だった。
だが、魔王とて無傷ではいられない。レナの剣は幾度もその肉体を捉え、他の仲間達も、果敢な連携により、致命傷には至らずともダメージを負わせていく。
「私は、負けない……私には、守りたいものがある!」
「ならば、証明してみせろ! それに値する力を、貴様が持っている事をな!」
レナは、駆ける。その身体に何度となく魔王の攻撃を受けながらも、力の限り。
『……うーん、レナの剣は、早いけど素直すぎるんだよね。フェイントも何となく見切りやすいって言うか。だから、例えばこういう動きを入れてみたら……』
遠い日の、友の助言が蘇る。反射的に、教えの通りに剣を振るうと、それは魔王の腕を深く引き裂いた。彼の顔に、痛みと感嘆が同時に現れた。
『相手をよく見て、その動きを読むんだ。攻めにばかり意識を払わないで、しっかり避ける事が大事だよ』
思えば、あの時の自分は一度も勝てなかったな、などと、少し場違いな事を考えつつ、横に跳ねる。直後、彼女が立っていた地点から、火柱が上がっていた。
『……後は、そうだね。今はともかく、仲間との連携が取れる事も重要な能力だよ。仲間がどういう動きをするか……それも頭に入れないとね』
当時は、手合わせには関係ないのにどうして、としか思わなかったが、それがどれだけ正しいか、今のレナにはよく分かる。
だからこそ、彼女は仲間達との絆を大切にして、個人の癖を見極めた。そして今も、突出しているように見えて……仲間の動きを、隅々まで把握していた。
「……む!」
レナの猛攻に気を取られていた魔王。その緩んだ警戒の隙を突き、弓使いの矢が両翼を貫いた。
一瞬、魔王の動きが止まる。そして、全員がその一瞬を見逃さなかった。
大剣使いが振り下ろした剣が、その角を砕く。槍使いが突き出した槍が、その右腕を穿つ。
そして、魔術師が生み出した陣が、魔王の動きを、僅かな時間だけ拘束し――
(約束は、守るよ……さようなら!)
レナの剣が、身動きの取れない魔王の左胸を、深々と貫いた。
「………………」
魔王は、自らの胸を貫いた剣を、静かに見下ろす。
その傷口から、大量の血液が溢れ始める。強靭な肉体を持つ彼であろうと、間違いなく致命傷であった。
「……はは。参った、な」
身を貫かれた激痛に苛まれながら、血と共に力が抜けていくのを感じながら、魔王は笑った。昔、彼がまだ魔王になる前と同じ、本来の口調で呟きながら。
「……262戦、261勝……1敗、か。お前には、一度も、負けた事は、無かったのに」
「レム、オン……」
「最後の最後、大一番で……これ、かよ。お前は……本当に、やってくれるな、レナ……がっ……」
レナも、覚悟はしていた。していたからこそ、剣を突き立てた。しかし、懐かしいその声で呼ばれた名前に、血を吐いた魔王の姿に、レナもまたついに堪えきれなくなり、その名前を口にした。
「クーちゃん……クーガ……」
「……はは。それが、魔王に対する、呼び方かよ。全く……お前ってほんと……相変わらず、なんだな」
魔王は――クーガは――苦笑を浮かべながら、ぐらりとその身体を傾かせる。仰向けに、力無く倒れた彼の胸から、レナの剣が抜ける。今、彼に襲い掛かっているのは、気が狂いそうな激痛であるはずなのに、その表情はとても穏やかであった。
「でも、それが……お前らしい、よな。さっきみたいな、礼儀正しい喋り方、似合ってなさすぎ。本当、笑いを堪えるので、大変だった、ぜ……?」
「……お前は人々の希望だからって、礼儀作法を仕込まれたのよ。クーガだって、人の事言えないじゃない」
「オレは、父上の振る舞いを、真似てたんだよ……そのほうが、『魔王レムオン』であった方が……下を従わせやすいって、思ってな」
途切れ途切れに語るクーガは、口からも血を零れさせる。心臓に風穴を空けながらも、その強靭な生命力が、彼に最期の時間を与えてくれている。クーガは魔王の肉体に感謝しながらも、その時間で成すべき事のために口を開く。
「それより、お前……もっと、喜べよ。お前は、勝ったんだぜ。人を滅ぼそうとする、邪悪な、魔王に。父親の、仇に」
「……何が邪悪な魔王よ。人間を滅ぼす気なんて、あなたにはなかったくせに。あなたはただ……」
「ただ、月徒の明日の……ために。そうだな……けれど……それでもオレ達は、数えきれない人間を、殺したんだよ……明日を、奪ったんだよ」
「そんなの、私だって同じだよ。だから……だから、私は」
立場が違えば、物事の見え方は全く変わってくる。レナ達は、戦いで多くの月徒達の命を奪った。人間にとっては勇者の行いであったかもしれないが、月徒にとっては、彼女達は殺戮者、彼女達こそが魔王なのだ。
そして、魔王として数々の勝利をもたらしたクーガは、月徒にとってはまさしく勇者だったのだろう。自分を慕う者達の未来の為、彼は戦い抜く事を選んだのだ。
(……あなたは、私を優しいって言ってくれたね。だけど、あなただってそれは同じ……ううん。あなたは、優しすぎた。私は仲間がいたから戦えた。だけどあなたは、たった一人で)
一人で月徒の全てを背負った、何よりも優しい魔王。優しさ故に戦えた魔王。愛しい相手が行き着いてしまったその姿に、レナの瞳からは雫がこぼれ落ちていた。
「泣くな、レナ。泣かないで、くれよ……お前のそんな顔、見たくない、からさ。オレは、後悔なんて、していない……魔王として、やってきた事に。だから、お前も、勇者として……胸を、張れよ」
「クーガの……馬鹿」
「そう、だな……本当に、馬鹿だよ、オレは。こんな方法しか……戦争を真の意味で終わらせる、手段が、思い付かなかった。それが……人間か、月徒かの、滅びになったとしても……」
それでも、人々の感情を、高まりすぎた憎しみを晴らすには、自分かレナがそれを受け止めるしかない。そう結論付け、クーガは戦った。どのような結末になっても、それだけが平和をもたらす手段だと信じて。
「ああ……心配、するな。最初に言った、家族を避難させた、ってのは、本当だ。跡取りを残せ、と言われて、無理やりの結婚だったが……オレの、大事な家族である事に、変わりはない。……オレに力を継承させる時の、父上の哀しそうな顔も、忘れられない、しな」
戦いは、ここで終わりで良い。そうクーガは呟いた。彼はどう転ぼうが、ここで全てを終わらせるつもりだったのだろう。
「頼みが、ある。これから、月徒は……衰退して、いくだろう。けれど……せめて、戦う意志を無くした奴らは……見逃して、やってくれ。お前らの、できる範囲で、いいからさ……」
「……誇り高き魔王よ。その願い、確かに聞き受けました」
「ありがとう……ゴホッ。残念だけど……もう、あんまり、時間が無さそうだな……」
咳と共に、血を吐き出す。クーガはもう、自分の死を受け入れていた。あの時とは違い、それはもう、避けられないものだ。
「レナ。顔……よく見せてくれるか?」
「……うん」
レナはクーガに顔を近付ける。その金色の瞳は、焦点が合わなくなってきているようだった。
「本当に、美人になったな、お前。それに勇者と来たもんだ……最初はただの……おてんばな、子供だったのに」
「クーガだって……魔王になるなんて思えないくらいの、普通の子供だったじゃないの」
「けど、お前みたいに、慌ただしくはなかったと、思うぜ……?」
「トラバサミに引っ掛かって動けなくなってたり、薬の苦さでバタバタしてたくせに……」
「はは……それを言われると……ちょっと、痛いな……」
クーガの声が、徐々に小さくなっていく。終わりが、近いのだ。
「レナ……月徒には……こういう伝説が、あるんだ……」
「……なに?」
「強い絆で、繋がれた、魂は、引かれあう……たとえこの世で、引き裂かれようとも……幾万の夜を越えて……再び巡り会う、ってな……」
「………………」
「夢物語、みたいだろ……? でも、オレはけっこう、本気で……信じてる……信じ、たい」
クーガは右手を伸ばし、レナの頬を撫でる。大きな異形の手には、もう殆ど力がない。
「もし、次に、お前と出逢えたら……その時は、争いの無い、世界に……なってると、良いな……」
「クーガ……!」
レナは、彼を優しく抱き締め、口付けをした。返り血が付く事など、気にもならなかった。
「安心して。私が作るわ、そんな世界を。次にあなたと出逢える、その時の為に、必ず。……衰退なんて、させないよ。人間も、月徒も……誰もが共に生きる世界を」
「……!……本気、かよ。それが、どれだけ、難しい、かは……分かってる、だろ……?」
「だけど不可能じゃない。それこそ、どれだけの時間が経ったとしても、私が生きている間には無理だったとしても……私達が分かりあえるのは、よく知っているから」
「………………」
「……何を言われても、私はその世界を目指すよ。私、決めた事は曲げないんだからね」
「……は、は……そう、だった、な……」
くぐもって、形を成していない笑い声。だが、その表情は、どこか満ち足りていて。金色の瞳から、涙が一筋零れ落ちた。
「ふう……眠い、な。……レ、ナ……また、いつ、か……逢……」
その言葉を最後に、頬に添えられた手が、力を失い、地面に落ちた。閉じられた目は、もう二度と、開く事は無い。
「……お休み、クーガ。私も、楽しみにしてるよ……その時を……『またね』……」
レナはクーガの亡骸を、静かに、何よりも優しく、抱き締めていた。彼の語った、その奇跡を信じて。
クーガを討ち、戦いを終わらせたレナは、当然の如く、人間の世界において英雄として大きく祭り上げられた。
しかし、終戦後の彼女が目指したものは、多くの人間が予想だにしていなかった、月徒との共存の道だった。
彼女は、自らとクーガの関係を、その出逢いから全て包み隠さず話し、人と月徒が歩み寄れないと言うのは思い込みであると人々に語った。
そして、魔王軍が総崩れになり疲弊した月徒達とも、様々な手段を用いて交流を行ったのだ。
当然、彼女のこれらの行動は、世界に大きな波紋を呼んだ。
人間の中には、彼女を月徒の手先として罵倒する者や、彼女がクーガを救わなければ戦争が長引かなかったと、逆恨みに近い憎しみを抱く者などが現れた。
月徒達も、当然の事ではあるが、自らの主や同朋を殺した彼女を恨む者が大半だった。
だが、人間の中には、彼女の意志に賛同する者もまた、時と共に少しずつ数を増やしていった。
長すぎる戦争は、人々の心を疲弊させると共に、争いがいかに無益なものであるかを十分に思い知らせていた。もう二度と戦争が起こって欲しくない。そう皆が願い始めていたのだ。
特に力を入れて協力してくれたのは、共に魔王を討った四人の仲間達だ。クーガの最期を見届けた仲間達には、レナの、クーガの想いが痛い程に伝わっていたのであろう。
一方、月徒達との関係の修繕は、人間の意志がまとまらない事もあり、当初は難航を極めた。
だが、ある日、思わぬ協力者が現れた。クーガが避難させていた、彼の母、そして妃だ。
クーガの本当の姿を知る数少ない存在である彼女達は、彼の平和への願いを生前から知っていた。そのため、クーガを討ったレナを恨むより、新たな世界を作ろうとするレナに賛同したのだ。それがクーガの遺言でもあった。
そして、彼女達の協力もあり、少しずつ、本当に少しずつ、月徒と人間は、互いに融和への道を進む事が出来るようになった。
無論、それは一朝一夕で成し遂げられる変革ではなかったが、レナはその苦難の道を歩む事を、一瞬たりとも躊躇わなかった。クーガと最期に交わした約束、それを果たす為に。
戦争が終結してから十年余りが過ぎた日、レナは彼女の思想に反する集団に襲撃され、暗殺された。それは、彼女の影響力を恐れた権力者の差し金とも言われるが、真相は定かではない。
だが、彼女の意志は既に多くの者に受け継がれており、彼女の死で鎮まる事は無かった。それを予期していたのか、レナの最期の表情は、とても穏やかであったと言われている。
――そして、時は流れ――