クーガとレナ
それから、六年の歳月が流れた。
人間と月徒の関係はさらに悪化していき、ついに、両者の間で本格的な戦争が始まった。
開戦の原因が何なのか、それは様々な説が流れ、正確な事は誰にも分からない。そんな事は誰も気にしなくなるほど、両者の憎しみは深まっていた。
多くの国家が団結した、人間達の連合軍。それに対し立ち上がったのは、特に強力な力を持っていた月徒、レムオンと呼ばれる男だった。その力はまさに規格外であり、彼は程なく人間から『魔王』と呼ばれるようになり、それを知った本人もまた、畏怖の象徴として魔王を自称するようになった。
後に〈人魔世界大戦〉と呼ばれるこの長い戦争は、人間も、月徒も、多くの命を奪っていった。それこそ、双方共に滅びかねないほどの規模で。
だが、どちらも退けなかった。これは、どちらがこの世界に生きる権利を持つか、それを賭けた戦い。負けられない戦いだったのだから。
そして、レナとクーガ。『人間』と『月徒』である二人にも、決断の時は間近に迫っていた。
「………………」
戦争が始まって、一年近くが過ぎたある日、クーガは秘密基地で、空を眺めていた。
幼かった身体も、間もなく成体と呼べる状態だ。牙や爪は剣のように鋭くなり、体躯は同年代の人間と比べて明らかに逞しくなった。
何より一番の変化は、身体の一部を金色の鱗が覆い始めた事であろう。その頭部は、鱗と角のせいもあり、まるで竜のようにも見えるようになった。しなやかな尻尾は、強靱な鞭として敵を打ちのめす事が出来るだろう。戦うために洗練された肉体、そして月徒に特有の強大な魔力。年若くも、彼は月徒でも有数の戦士となっていた。
「まだ、ここは変わらないな……けど」
この付近は辺境であるため、戦争の被害はそれ程大きくない。だが、いずれは戦火がこの山や麓の村を焼く事になるのだろう。その風景を想像し、『人間の村が焼けること』に心を動かされている自分を滑稽に思いながら、クーガは強く目を閉じた。
と、後ろの茂みから、草をかき分ける音が聞こえた。誰の立てたものかは明らかであり、クーガは特に慌てることもなくゆっくりと振り返る。
「もう来てたんだ、クーちゃん」
「……おう」
聞き慣れた少女の声に、クーガはひらひらと右手を振った。レナはそれに対して笑顔を見せると、彼の隣に並んで座る。
白いロングヘアーを揺らす彼女は、見事な美少女に成長した。少し胸が小さい事が軽くコンプレックスではあるらしいが。持ち前の明るい性格は変わっていないものの、昔のような慌ただしさは感じられない。
「ひと月ぶり、だね。ごめんね、あまり来れなくて」
「気にするなよ。昔みたいに簡単には抜け出せないんだろ? オレだって同じだし、それで拗ねるほどガキじゃないんだからさ」
「ありがと。ふふ、でも、少しぐらい拗ねてくれたほうが嬉しいかも」
「……何言ってるんだよ」
呆れたようにクーガが溜め息をつくと、レナは愉快そうに笑った。二人の絆は、戦争が起こった今であっても変わっていなかった。
「あ、今日はお弁当作ってきたんだ。一緒に食べよう」
「お、サンキュー」
レナは持ってきた二つの包みを開くと、片方をクーガに渡した。クーガの尻尾が、ぱたりと揺れる。蓋を開くと、そこには色とりどりの料理が並んでおり、そのどれもがクーガの好物だ。
「しかし、最初は握り飯が限界だったお前が、ずいぶん進歩したもんだよな」
「……余計な事言ってたら、食べさせないよ?」
「ああ、悪い悪い。一応、成長したって誉めたつもりなんだぜ」
「もう、クーガの馬鹿。そっちは全然成長しないよね、デリカシーの無さが」
「うるせ。お前にくらい気楽に本音言わせてくれよ」
そんな会話を繰り広げながらも、お互いに気分を悪くしているわけではない。クーガの言う通り、相手を信頼しているからこその軽口だ。
いつものように風景を眺めつつ、食べ始める。その間レナは、何を思ったか余計に身体をクーガに寄せてきた。
「……食うときぐらい、離れても良いんじゃないか?」
「んー、でも、このフカフカな毛並みとすべすべの鱗は、どれだけ触っても飽きないもの」
「お前なあ……」
文句を言いつつ、無理やり引き剥がすような事はしない。むしろ、クーガも満更でもなさそうだ。
二人きりで楽しむ食事。それは、出逢ったあの時から二人がずっと過ごしてきた、かけがえのない時間。
「クーちゃんって……大きくなったよね」
「何だよ、藪から棒に」
「何となくね。逢ったばかりの頃は私とそんなに変わらなかったのに、もうこんなに逞しくなっちゃって」
「おいおい、過去を振り返って懐かしむような歳じゃねえだろ。お前らしくねえぜ?」
「あはは。本当に……ね」
彼らは何も変わっていない。変わったのは、世界だ。
「……ねえ、クーちゃん。あのさ……今日は、大事な話があるんだ」
「………………」
そう切り出してきたレナに、クーガは何も言わなかった。ただ、静かに続きを頷く。
「クーちゃんも分かってるはずだけど……戦線がね、村にどんどん近付いているの。このままだと、村は近い将来、確実に闘いに巻き込まれる」
「……そうだな。そして、そうなったら、小さな村にはどうしようもない。いくらお前が強くても、な」
村で有数の戦士だったレナの父は、とっくに前線へと駆り出されている。その勇名はクーガにすら届くほどであったが、結果として村を守れるような戦士はレナだけだ。
そして、村に戦線が届いたとすれば、その時点で手遅れだ。守りに入ったらところで、成す術などあるはずがない。もしも可能性があるとするならば、村に敵が押し寄せる前に押し返すしかないのだ。
「分かっているよ。私ひとりが何を選んだって、きっと大きなものは変わらないって。それでも、戦って抵抗しなきゃ、私の村が燃えちゃうの。だから、だからね……!」
「連合軍に志願するために、村を発とうと思ってる。だろ?」
先んじてそう口にすると、レナは目を見開いた。クーガは、そんな彼女の頭を、掌で叩く。
「あんまりオレを舐めるなって。お前がそれを考えてる事ぐらい、前から気付いてた。……お前ならいつかそう言うだろうって、ずっと思ってた」
「……クーちゃん」
彼女の言動に振り回されていたのは、昔の話。今のクーガには、彼女を誰よりも理解している自信があった。
「お前は、昔からそういう奴だっただろ。自分の力を誰かの為に使いたい、誰かを助けたい。いつもそう考えてるような、筋金入りのお人好しだ。そんなお前が、今の世界で何も考えないわけがない」
「………………」
「だけどお前は、相手が月徒でも戦いたくはなかったんだろ? だから迷ってたんだ、ずっと。村の事が無くても、いつかはそう決めてただろうけどさ」
「……やっぱり、クーちゃんはすごいよね。うん……当たり」
レナは観念したように、笑う。クーガが始めて見るような、悲しい笑みで。
「私もさ。いろいろと、考えてはみたんだ。どうすれば戦争を終わらせる事が出来るのか……だけどやっぱり、私にはどうしようもないってのが分かっただけだった」
「だろうな。一人の力で止められるほど、戦争は単純じゃない。それにこの戦いは、人も、月徒も、後には退けなくなっている」
互いの憎悪が爆発した結果の戦争だ。最早、ただの休戦という事は叶わないであろう。それこそ、決定的にどちらかの勝利が確定し、決着がつくその瞬間まで。
「本当は、クーちゃんの言う通り、相手が月徒でも戦いたくなんてないよ。月徒とだって分かり合えるって事は、よく知ってるつもりだから」
「ああ……」
それは、自分達が証明している。だが、多くの人間と月徒は、そうは考えていない。お互いを理解出来ないものだと決めつけてしまったのだ。クーガも、レナに出逢わなければ、或いはもう少し出逢うのが遅かったら、そう考えていただろう。
「それでも……私にも、守りたい場所がある。守りたい人がいる。私が戦う事で、何かを守れるなら。それがどんなにちっぽけなものだっていい。私には、そのぐらいしか出来ないから」
「……そうか」
言葉とは裏腹。クーガは、レナがまだ迷っている事を、その声音から感じていた。そして、その迷いの原因が何であるのかも。
(……ふう。迷ってるのは、オレも同じか)
だからこそ、今日、クーガはここに来た。彼女の為にも、自分の為にも。
「オレも、さ。魔王軍に、参加しようと思ってる」
「……うん」
その言葉に、レナが驚いた様子はなかった。クーガと同じように、彼女も予想はしていたのだろう。
「レナに守りたいものがあるように、オレにも守りたいものがある。家族、友……オレにも、そういう存在はいるからさ」
「……分かってる」
クーガが『人間として』のレナを知らないように、レナも『月徒として』のクーガを知らない。だが、そこに各々の大切なものがある事は、お互いに理解していた。
「いつか、私達は、戦う事になるかもしれないね」
「そうだな。お互いに生き残っていけば、そうなる事もあるかもな」
無論、多くの命が衝突する戦場で、直接にまみえる事など、限りなく低い確率だろう。だが、少しでも可能性があるのならば、そこに迷いを残す訳にはいかない。
「レナ、約束してほしいんだ。もしもオレ達が戦場で出逢い、殺し合ったとしても……躊躇う事はしないって」
「……クーちゃんって、けっこう残酷な事言うよね」
「悪い。オレ達は、人間に比べてドライなんだよ。こういう時に、気遣った言い回しは出来ない」
半分は嘘だ。今は、敢えて冷たい言い回しを選んでいる。
「オレも、レナも、自分で考えて選んだ道だ。だから、そこに迷いや情けを持ち込むのは、相手の覚悟に対する侮辱だと思う。それに、お互いに譲れないものがあるだろ?」
「……そうだね。私も、負ける訳にはいかない。うん、約束する。あなたに誓って……何があっても、私は戦い抜く」
「それで、いい。躊躇うなよ? お前が本気で何かを守りたいって思うなら、敵を斬る事をな」
二人は、肩を並べて、同じ景色を眺める。明日からは、その視線が見据えるのは、違う未来だ。
「レナ。一つだけ、オレのワガママを聞いてくれるかな」
「何?」
「オレの方を、真っ直ぐに向いて、よく顔を見せてほしい」
「……うん、分かった」
二人は互いに向き直り、お互いの瞳を見据える。クーガの金色の瞳に、少女の姿がはっきりと映っていた。
そして、不意にクーガが、レナの顔に手を添えたかと思うと――静かに、その唇を奪った。
「……ん……」
人同士と違い、どうしても不格好な形ではある。だが、それすらも感じさせないほどに、優しい口づけだった。
レナは、僅かな抵抗も見せる事なく、逞しい魔物にその身を委ねた。互いの鼓動が、確かに伝わる。
このまま時間が止まってしまえば良い。二人はそう願ったが、それが叶わぬ事も分かっている。クーガの中で、抑え込んでいた欲求がかけ上がってくる。彼女を連れてどこかに逃げてしまえ、と。だがクーガは、それを呑み込んだ。
(……本当は、何もかもを捨ててでもいいくらい、お前が欲しかった。だけど……オレはお前を、惑わせたくないから。優しいお前に、オレの為に何かを捨てるなんて、させたくないから。オレを捨てたなんて、思ってもほしくないから)
クーガはゆっくりと、愛しい少女から身体を離した。本当に望むもの、何よりも大切なもの。大切だからこそ、彼は離れた。自分の意志で離れることが、彼女のために最後にできる精一杯の事だった。
「これで、オレの心残りは無くなった。ありがとう、レナ」
「……クーガ……」
立ち上がったクーガは、その翼を広げる。その表情に、もう迷いはなかった。
「お別れだ、レナ。君の事が、その優しさが、ずっと……大好きだったよ」
「私も……あなたの事が、好きだった。今まで、ありがとう。さようなら……クーガ」
二人は、穏やかな微笑みを相手に向ける。そして、クーガはその翼をはためかせ、飛翔した。
舞い散った黒い羽が一枚、レナの手のひらに残されていった。