「炎の魔女は働き者!」11
「じゃあこれに名前書いて」
話は異様なまでにトントン拍子。拒否権などはどこにも存在していなかったようで、早速契約書の段階まで来てしまった。
どんな内容なのかは目を通していないが、大丈夫だろうか。不当に働かされたりしないだろうか、などと不安は過ぎるのだがアイリスもここで働いているのだし良いだろう。相変わらず昴は即断即決である。
「そんなに心配しなくても変な事は書いてないよ? 就業時間はきっちり働く。休む時は休む。急な用事でも連絡してくれればいいし。それに期間も短いからね」
「……ホワイト企業……泣けてくるぜ」
自身の労働環境と比べてみると随分と素晴らしい待遇だ。休む時はなるべく代わりの人員を用意したり、微妙に残業してるのに残業代が出なかったり。辞めてしまえと思うのは簡単だったのだが、自分から逃げるのは腹が立つという面倒な性格。
そんな昴とは対照的、字面と睨めっこ状態を続けているのはレイセスだ。一言一句を飲み込むようにじっくりと契約書と向き合っているではないか。
そこで昴はふと疑問に思う。
「レイは別にやらなくても良いんじゃ……?」
呼ばれていたのは昴だけだったはずだろうし、レイセスまでここで働く必要は無いだろう。その辺りを気にせず契約書を出されていたが。
「せっかく来たんだしやっていけばいいんじゃない? 社会経験は大事だよ。ああ、そこには私が名前を書くから開けておいて」
「いえ、やりたくない訳ではないんですよ? ただ申請とか……」
「そんなの後でも通るんだよ。特に総合一科は」
ほんの少しだけ嫌味っぽく、苦い顔で言うアイリス。彼女の所属場所ではそうもいかないのが普通なのだろう。
その後出し申請を毎回利用させて貰っている昴としては居心地が悪かったりするので、今後は気を付けようと密かに心に誓うのみ。
「それで大丈夫なんですか……で、でもこれも経験ですし……わかりました! 私もやります! ここに名前を書けばいいんですね!? あ、そう言えば」
踏ん切りが付いたレイセス。急にやる気を出したらしく、署名欄と思しき箇所にさらさらと一筆。斜めになったりする事もなく、一直線で可愛らしく小さめに纏められた文字だ。レイセスらしさが出ている、と言えるかもしれない。それを書き終えると同時、何かに気付いたようである。
「あの、貴女のお名前伺っても……?」
「そういや俺も聞いてないっすね」
「なんだアイリスから聞いてないの? そのくらいは説明して欲しかったんだけど」
それは、目の前のカウンターを挟んで何か色の濃い液体で口を潤す女性の名前。かなり重要な情報だ。
言われた本人は目を丸くした後、溜め息を吐きながらアイリスにじっとりとした目線。
「え、そこまでやらなきゃいけないんです……?」
だがこれにはアイリスも困惑気味。普段見せないようなきょとんとした顔で女性に言葉を投げるではないか。これはこれで貴重だな、と一人思う昴。
「要求はしないけど手間を省くっていうのも仕事の方法だよ。まあそれはいっか……こほん、じゃあ改めて名乗らせてもらうわね」
わざとらしく咳払いをするとグラスを置いて、妖艶に、笑む。
「私はドミナ。この酒場で店長をやってるの。これからよろしくね」