表と裏の境界線
—退屈だ。
ふと、窓の外を眺めながらそう思う。
時計の針は午前九時を指している。
一時限目が始まったばかりだ。
眼下では、車やバスに乗る人々が、これから始まる一日の仕事へ向かおうとしている。
いつもと同じつまらない風景。
明日も、明後日も、そのまた次も、
この窓から見える景色は変わらないだろう。
そんなことを考えていると、
「...私の授業はそんなに面白くないですか?橋本大輝くん」
先生の声が聞こえた。
僕は慌てて目線を黒板に戻す。余りに急いだため、消しゴムを机の下に落としてしまった。そのことに、先生は気づかず話を続ける。
「いいですか?春休みはもうとっくに終わっていて、あなた達ももう1年生じゃないんですよ。しっかりその自覚をもって、勉学に励んで下さい」
そう言って背を向け、授業を再開しようとする。
僕は曖昧にうなずいて、落ちた消しゴムを目で探す。
消しゴムは隣の席の下に転がっていた。
僕は隣の男子に言った。
「ごめん。それ取ってくれない?」
しかし、彼は黙って目をそらす。
「......」
僕は諦めて体勢を低くして、自分で手を伸ばして消しゴムを取る。
そう。
僕は周りの皆から避けられている。
僕— 橋本大輝は成績も、運動も平凡な中学二年生だ。
平凡な家庭に生まれて、中学に入るまでは他のモブと変わらないような普通の生活を送ってきたつもりだった。
でも、あの日を境に、全てが変わった。
きっかけは去年の夏、上級生にいじめられていた男子を僕が助けた事だった。
それからというもの、僕はその上級生に目を付けられている。
「橋本と関わると、自分も目をつけられる」
そう思って周りの人は僕に近づかない。
チャイムが鳴った。
授業が終わった合図だ。
先生が教室から出て行って、席を立とうとすると、教室の外から声をかけられた。
僕をいじめている張本人。
黒井康太だ。
「おい橋本、放課後ツラ貸せよ!じゃあな」
それだけ言って、黒井は教室を去っていった。
はぁ、またかよ。
そう思い、僕は深いため息をつく。
「大変だね、いつもいつも」
この声は同じクラスの中川斗真。
天使のような笑顔をこちらに向けている。
トカゲのように細い目を持つ彼は、たまに眠っていると勘違いされる時がある。
そして、何故か僕に話しかけてくる唯一の人物。
「うるさいなあ、そう思うなら助けてくれよ」
僕の言葉に対して彼は答える
「勘違いしないでくれよ。僕は君を助けるつもりなんてないんだから。それに僕じゃなく、先生に助けを求めればいいじゃないか」
「......無理だよ」
僕は呟いた。
黒井はとても卑怯で狡猾だ。
決して先生達の前で行動は起こさない。
だから例え密告したとしても、証拠もないし、先生も注意だけで済ましてしまう。それゆえに、皆見て見ぬふりをしている。
僕は斗真に言う。
「でもどうして僕に話しかけるわけ?」
彼はただでさえ細い目をさらに細くしてこう言った。
「おもしろそうだからだよ」
おもしろそうだから?
僕がこの言葉の意味考えている間に、彼はさっさと何処かへ行ってしまった。
ボソッと言う。
「......ったく、一体なんなんだよ」
僕が呟いた声は、誰にも届く事なく消えていく。
HRも終わって放課後になった。
「黒井くんの所へ行くのかい?」
いつの間にか、斗真が僕の席の隣に立っている。
僕はフンッ、と鼻を鳴らして言う。
「そんな訳ないだろ。見つからないうちに帰るよ。これまでも、何度かそうしてきた」
鞄を持って席を立つ。
教室から出ようとすると、
バンッ
と、大きな音を立ててドアが開いた。教室の入り口には黒井が立っている。
「橋本はいるかー‼︎」
大きい声が教室内に響く。
暗い顔をしている僕と黒井の目が合った。
「おい、何だよいるじゃねーか。あ? 隣にいるやつは誰だ?」
斗真のことだ。
「ち、違うんです。彼は—」
僕が言う前に斗真は口を開いた。
「ああ、僕は彼とは関係ないですよ。
じゃあ僕はこれで失礼します。少し用事があるので」
斗真は笑顔で教室を出て行った。
え?
それはないだろ。いくら助けるつもりがないからって酷くないか?
呆然としている僕の首根っこを黒井が掴む。
「来い」
そのまま僕は、抵抗虚しく連れて行かれた。
連れてこられたのは、いつもと同じ場所、体育館の裏だ。
建物の中では、バスケ部や剣道部が練習しているが、中はかなりやかましく、おまけに窓も開いていない。
大声で助けを呼んだ所で、誰も来ないだろう。
逃げようとしても、黒井の隣にある非常階段が邪魔で通れない。それに、もし逃げれても、僕の脚の速さじゃすぐに捕まってしまう。
僕は黒井とその仲間二人に囲まれた。
「さあ、お楽しみの時間といこうじゃねーか」
そう言って彼らは拳を握った。
「ちょ、ちょっと待ってください!こんなこといつまで続けるんですか!」
僕の言葉も聞かず、彼らは一歩ずつ近づいてくる。
「いつまでって?俺たちの気がすむまでだよ!」
ゴスッ‼︎
黒井の言葉が聞こえたと思ったら、腹部に強い衝撃。
僕はたまらず膝をつく。
お腹を押さえてうずくまっている僕を見下ろして、彼は言う。
「良いサンドバッグだな。少し脆いがそこがまたいい。」
はっはっはっ、と笑いながら、もう一度拳を振り上げる。
その姿を見て僕は覚悟を決めた。
「はーい、終了ー。そこまでですよ」
突然上から声が聞こえた。
非常階段の上に斗真が立っている。
「...斗真?なんでここに」
僕の言葉に黒井が反応する。
「お前、さっきこいつと一緒にいた奴か。何の用事か知らないが、お前もこいつと同じ目にあいたいのか?」
「こいつ」のところで僕を指差し黒井が叫んだ。
「そんな態度でいいんですか?僕がここで何をしてたかも知らずに」
そう言って、斗真が取り出したのはスマートフォンだった。
「撮影していたんですよ。今までの様子をずっと」
斗真は続ける。
「僕はSNSもやっています。そこに撮った動画をUPすれば、すぐに拡散されて、あなた達三人のことは多かれ少なかれ、この辺では有名になりますね。」
「てめぇ、何が目的だ!そいつをよこせ‼︎」
黒井の声が響き渡る。
斗真は階段を降りながら言う。
「やだなー。冗談じゃないですか。
そんなことをして一体僕に何のメリットがあるんですか? 安心して下さい。このデータはすぐに消しますよ。その代わり—」
カツーン、カツーンと、彼が階段から降りる音だけがその場に響く。
最後の段を降りた時、彼の口が開いた。
「僕をそちら側に入れてください」
「!?」
僕は叫ぶ。
「斗真、お前僕を助けに来てくれたんじゃな—」
言い終わる前に、ムグッと僕の口が斗真の手で塞がれる
口に何か感触がある。
なんだ?これ?
「勘違いしないでくれよ。前にも言っただろ?僕は君を助けるつもりはないんだ。」
僕の口を押さえたまま彼が言った。
......なんて薄情な奴だ。
黒井が言った。
「いいだろう。お前を仲間に入れてやるよ。」
その瞬間、黒井の腕が伸びて、斗真の手の中のスマホが消える。
「なんてな!俺が欲しかったのは最初からこのデータだけだ。お前みたいな奴は信用出来ない。お前ら二人まとめて、ぶっ潰してやるよ!」
グシャッ
黒井の手の中で無残に砕けるスマホ。
あぁー‼︎
僕は声にならない悲鳴を上げる。
叫ぼうとしても、口を塞がれていて叫べないからだ。
それがあれば、もうこんなことされないと思ったのに。
「二人まとめてぶっ潰す?とんでもない。そんなこと出来ませんよ」
こんな状況で斗真は笑顔だ。
まるでこうなることがわかっていたみたいに。
「なにを言ってる。
お前が持っていたデータはもう—」
「そっちこそ何を言っているんです?
誰がデータがスマホの中にしか無いと言いました?」
黒井の言葉を遮って、斗真が言った。
僕は驚いた。彼の言葉にじゃない。
いつも糸みたいに細い彼の目が、大きく見開かれているからだ。
「スマホに入っていたデータは今日のだけですよ。最初に言ったでしょう?
僕は撮影していたんです。
. . . . . . . . . .
今までの様子をずっと」
「なっ⁉︎」
黒井たちの顔がサッと青くなる。
それに構わず斗真は続ける。
「あ、ちなみにそのデータは家のパソコンに保存してありますよ。
あなたたちは手を出せないし、僕はどうしようと自由です。
大変ですねぇ、これまで彼にやってきたことが全てばれたら。
姿と顔だけならまだしも、名前も一緒に拡散すればどうなりますかね。
当然学校側にばれて、停学、もしくは退学処分。悪ければ少年院に送られて、これから一生『暴力少年』のレッテルを貼られて過ごすことになります。そうなれば、あなた達は社会に出てもまともに就職さえ出来ません。
つまり、僕はあなた達を社会的に消す事だって出来るんですよ」
「っ、貴様‼︎何が目的だ⁉︎」
黒井の怒鳴り声。
「目的?そんなものありませんよ。
僕はただ、おもしろいと思うからやっているだけです」
相変わらず斗真は笑顔だ。
黒井が斗真の胸ぐらをつかむ。
「ふざけやがって!タダで済むと思うなぁ‼︎」
拳を握り、斗真に向かって突き出す。
「やめろ‼︎」
僕は口を開いて叫んだ。しかし黒井は止まらない。
その時、僕の口から何かがこぼれ落ちた。
それは、地面に赤い斑点模様を描いた。
......え?
これって、血? 僕の?
見上げると、周りも固まっている。
まるでここだけ時間が止まっているようだ。
「う、うわぁー!」
しばらくして黒井の仲間の一人が叫んだ。
それを合図にして、時間は動き出した。
黒井は斗真を離し、仲間二人を連れてすごいスピードで逃げていった。
状況が理解できない。さっき吐いた血は僕のものだ。
でも、どうして......?
「いやぁー、おもしろかったねえ。滑稽だったよさっきのは」
斗真の声が聞こえる。
僕は驚いた顔で彼を見る。
斗真の目はすでに、いつもの細い目に戻っている。
「『意味がわからない』っていう顔してるね。あ、安心してよ。さっき君が吐いたものは血じゃないよ。僕が片栗粉と食紅で作った、血糊だから。君の口を塞いだ時に入れておいたんだ。次に喋った時に、口から溢れるようにね」
確かに、鉄の様な味はしなかった。
「でも、どういうこと?どうして奴らは逃げて行ったの?」
僕の質問に彼は答えた。
「ああいう輩は以外と小心者が多いからね。言葉で脅して、追い詰めたら、逃げていくと確信していたよ。きっと今頃、色々考えているだろうね。まあ、君への嫌がらせとかはしばらく無くなると思うよ」
でも、まだわからない事がある。
「なんで斗真は僕を助けてくれたの?」
「勘違いしないでくれ。何度も言っただろう?僕は君を助ける気なんてないと。
結果的にそうなっただけだ。それに、
僕がこの現場を見たのは、今日が初めてだよ」
斗真の言葉に僕は驚く。
「え?だって、言ってたじゃないか。
今までの様子をずっと撮影していた
って...」
「ああ、言ったよ。確かに今日は、ずっと撮影してた。嘘はついてない」
平然ととんでも無いことを言う斗真。
「まあ、なんでもいいじゃないか。僕は楽しかったし、君もついでに助かったんだから」
僕はその言葉に頷く。
やっと解放されたんだ。僕は。
自分の変わらなかった退屈な日常が、変わっていくのを感じた。
「でも残念だったね。スマホ、
僕のせいで壊れちゃって...」
僕の言葉を聞いて、斗真はニヤッと笑う。
「ああ、いいんだよそんなこと。
だってあれは僕のものじゃないから」
満面の笑みで、僕の方を向いて言った。
ん?
嫌な予感がして、僕は自分の身体をパタパタと調べる。
......無い‼︎
僕のスマホが!
砕け散ったスマホを見る。自分が使っているものと同じ機種だ。
まさか、まさか......
斗真は相変わらず僕の方を向いて、天使のような笑みを浮かべている。
「......いつ獲った?」
僕の質問にも彼は笑って答えない。
その笑顔を見て、なんかそんなことどうでもよくなった。
はっはっはっは、と、僕は笑い出した。
それを見て斗真も一緒に笑う。
優しい風が僕らを包み、
オレンジ色の太陽が、体育館の長い影をつくる。
明日からは
少しおもしろくなりそうだ。