透明人間
「誠也…誠也、どこなの」私は暗闇のトンネルで叫び続ける。
「誠也、誠也…」
暗いトンネルを見渡し、闇の底へ続く道を歩き続ける。一歩一歩歩くたびに、ヒタ、ヒタ、と不気味な音がトンネルに響いた。水がたれているのか、それとも風が吹いているのか、ひどく肌寒い。
私は裸足だった。その足から伝わってくる冷気は、体の芯まで、浸透してきた。おかげで鳥肌が立ち、腕を抱いて歩く破目になった。なぜこんなことになっているか分からない。誠也を探して歩いているということだけは分かっているが、なぜいなくなったのかは分からなかった。私は闇の中を、一人腕をさすりながら歩き続けた。
そしてしばらくすると、一つの小さな影が見えた。それは子供のように見えた。私は急いで駆け寄り、子供の肩に手にかけた。
「誠也…誠也なの…」
私はその子供をこちらに向けようと、軽く肩を引いた。その時であった。子供の頭がゆれたと思うと、頭が地面に落ちた。
「い…いや…何…これ…」
私は肩から手を離し、しりもちをついた。手には黒い泥がついた。するとその子供はみるみるのうちに色が変わり、さらに溶け出したように顔の形が変形し、溶けた粘土に変わった。そしてその粘土はそのまま私に向かって倒れこんできた。
「い…いや。イヤー…」
私は目を覚まし、すぐさま布団を投げ出した。そして息が荒いのに気付くと、平静を保とうと、必死に呼吸を整えた。
いつもここで夢が終わる。いつもあの暗闇の中で、あの寒さで、あの格好のままで。そしていつもあの粘土に出会って叫んだら終わり。いつも分かりきっているはずなのに、なぜかあのトンネルをさまよい続ける。
頭を抱えて、今起こっている現実と夢の中で起こった世界を照らし合わせると、不思議と住んでいる世界が変わってくるようである。最近こういう夢をよく見る。しかしこの夢を見るたびに、現実か夢なのか、分からなくなってくる。正夢とは何か。現実のことが夢になって出てくることか。それは違う。
そして私は横になるが、なかなか寝付くことができない。布団の中であのことをめぐらし、ひっそりと泣く自分の姿を上から見下ろすと、つくづく悲しくなり、現実の私も涙を流す。
一人でいるのがこんなに辛く悲しいことだなんて、思いもよらなかった。
これが始まったのは、絶望の底に住み始めてからであった。
私は暗闇の王になりかねない。
天井をまんべんなく照らす光は、このリビング一室を照らし、私の背中も見続ける。
私はバッグの中を確認すると、リビングを出て階段の前まで来た。
「誠也、行くのか行かないのかはっきりしなさい。置いていくわよ」
さっきから呼びかけているのだが、まるで動じない。
「行くよ。もう少し待ってて」
ようやくの返事。誠也は少し気だっているようであった。私のほうだって気だっていると思うが。
私はリビングに戻り、ソファーに深く座った。そしてひとつため息をし、時計に目を向け、時間を確かめる。すでに十時半を回っていた。これからの予定がだんだん崩れていくのを、唇を噛みしめてただ時計を眺めることしかできなかった。
二階はあわただしい様子で、このリビングにジタバタとした音を響かせた。そしてその音は遠くなったかと思うと、階段に移った。
「行こう」
誠也はドアを開けると、元気な声で言った。
「トイレへ行かないでいいの?」
「あ…待ってて」
誠也はリビングを出ると、トイレへ向かった。
私はソファーから立ち、バッグを持ってリビングを出た。
玄関で靴を履き替えていると、誠也はトイレから出てきて、飛ぶように玄関に向かって走ってきた。靴を履き、私よりも先に外へ出た。
私はその後を追い、車のドアを開け、誠也と一緒に乗り込んだ。そして車はデパートに向かって、ゆっくりと走り出した。
空は雲で覆われ、太陽を隠していた。私の心は晴れていたが、嫌な天気である。しかしこの天気はこれから何を暗示しているのか、この後どんなことが起こるか、今の私にはまだ知る由もなかった。
「待ちなさい、誠也」
誠也は先へ先へと進み、私が買い物に連れて行ってもらっているようであった。しかし誠也の進行は間違っていない。今日は誠也の服を買いに来たのだ。ついでに食品も、であるが。
子供服売り場に着くと、誠也は靴下売り場の前にいた。そして一つの靴下を手に取り、私に差し出した。
「母さん。この靴下がいい」
何かのキャラクターのロゴが入っていた。きっと高いに違いない。私は見て見ぬふりをした。それでも誠也は駄々をこねていた。
そのままでいると、やはり少し恥ずかしくなってきた。周囲の目が、一気に私に注がれたような気がしたからだ。私は誠也の目線に合わせて座り、優しく言った。
「誠也、今日はTシャツを買いに来たんでしょ。だからそんなものは置いてきて、一緒にTシャツを買いましょ、ね」
誠也は靴下をしばらく見つめ、心の中で密かな葛藤を行っているようだ。そしてその決着がついたのか、顔を上げて私のほうを見た。
「うん。僕、置いてくる」
そう言うと誠也は今まででは考えられないほど、バカに素直に靴下を置いてきた。
というのは、誠也はいつも置いてくる時に、その売り場の前で置こうか置かないかを迷うのだ。やはり買って欲しいという気持ちは残っているのだろう。しかしそれはある程度私と言い合ってからのことである。こんなバカに素直に言うことを聞いたのは初めてであった。成長したのか、これからTシャツを買う時に、なにか企みでもあるのだろうか、今の私に分かるはずがない。
そして誠也が戻ってくると、また先導するように先へ行ってしまった。
「これがいい」
「本当に一人で大丈夫なの?」
「大丈夫。一人でできるもん」
「じゃ、試着してきなさい。終わったら呼ぶのよ」
「うん、分かった。」
やはり予想通り、誠也には企みがあった。あの靴下にあったキャラクターがTシャツにあったのだ。しかも値段が高い。しかし文句など言えるはずがなかった。
誠也の足取りは軽く見えた。試着室までその背中を見送った。
試着している間に私は他のTシャツを見回った。次にどんな服がいいか。なるべく安いもののほうがいい。また誠也に選ばれたら厄介だ。
そしてあれから三分ほど経ったが、時々その試着コーナーのほうを見るも、一向に出てくる気配はなかった。不可解に感じた私は、すぐに誠也のところへ駆け寄り、カーテンを引いた。
その時である。そこにはいるはずの誠也はどこにもいなかった。あのTシャツを残して、その箱の中には誰もいなかった。確かにここに入っていったはず。
私は急いで辺りを探し回ったが、この洋服売り場のどこにもいなかった。何分も同じところを探し回り、ついにデパート中を回った。
どこにもいない。
サービスカウンターまで行き、迷子の知らせはないかを聞いた。しかし店員はないと言う。店員はその言葉で分かったのか、すぐに迷子のアナウンスをしてくれた。
そのまま三十分経った。状況は変わらずに、いまだ捜索は続いていた。私は再びこのデパートの隅々を探したが、どこにもいない。そんな時、私の頭をよぎる言葉があった。その言葉がよぎるたびに、私の足は止まった。
そして一時間が過ぎ、ついにデパート中が騒いだ。店員も共に探しだしたのだ。一人の子供のために、これだけの団結力を目前にして、少し感動した。
二時間が経ち、これだけ探しても見つからなかった。そして一つの結論に達した。それはデパート外に出た、ということだ。駐車場、各フロア、関係者以外立ち入らない場所、デパートの近辺のどこを探してもいなかった。
ついに警察に通報をして、警察が来ると、すぐに取調べが始まった。取調べはいたって簡単であった。そして警察は誠也の捜索を始めた。私ももう一度デパート内を探した。あてのない捜索だが、わずかな希望だけが私に光を照らしていた。
「ん…どうしたものか…」
私が捜索から戻ってきた時、刑事らしき男が頭を抱えていた。私はどうしようもなく、ただそこで呆然としていた。またいなかった。どこ、誠也。戻ってきて。私はその言葉を心の中で繰り返した。
顔を上げた刑事は私に気付いたのか、私の方を見て、さらに苦い顔をした。そしてそわそわとした様子で、ゆっくりと私の方に歩み寄った。
「あの…大島、明子さんでしょうか」
男はすらっと背が高く、若い男性で、無精ひげを生やした賢そうなおじさん、のようなドラマに出てくる想像通りの刑事ではなく、背は私よりも背が高めだが、ひげはしっかり剃っている、結構生真面目そうな中年のおじさんであった。しかしこんな刑事もどこかで見たことがある。
私がはいと答えると、男は物寂しそうな顔で言った。
「そうですか…息子さんは、いらっしゃいましたか」
「いいえ」
「そうですか」
男は深いため息をつくと、首をひねった。
そんな姿を見て、私はすぐに問いかけた。
「ところで…あなたは」
「あ、申し遅れました。私はこういうものです」
男はふところから警察手帳を取り出した。その後すぐに名刺ケースを取り出し、その中の一枚を私に差し出した。
「連絡はこちらにお願いします」
鶴見源三。大和警察署刑事課の刑事。その課の電話番号。刑事の電話番号
これだけの情報が名刺にあった。
私は名刺を財布にしまい、刑事に一つ尋ねた。
「すみませんが…捜査の方は…」
「現在、全力を挙げて捜索中です」
「そういうことではなくて、どういう状況なのですか」
「意外と…難航です。もしかすると…言いづらいのですが…」
鶴見は私から目を離した。
「何ですか。覚悟ぐらいはできています。言ってください」
私は知らずのうちに懸命であった。
鶴見の顔は一瞬にして険しくなり、頻繁に首を掻いた。いまだに私の顔を見ようとしない。そしてゆっくりと口を開けると、タバコを取り出して静かに言った。
「ちょっと失礼します…非常に言いづらいことですが…我々は誘拐の線と見て捜査を進めています。今、この周辺の住民に聞き込んで、怪しい男が一人の子供を連れていたとの情報を入手しました。これからどうなっていくかは分かりませんが、いち早くの発見を急いでいます」
私の足は急に力が入らなくなり、ヘタッとその場に座り込んでしまった。もう何も考えられない。考えたくもないのに、信じたくもないのに、すでに私の頭の中では、誘拐という言葉が固定化されている。いつの間にか、私の頭は想像に張り巡らされていた。そう、それは誠也が不審な男に連れ去られる場面であった。
声も出せず、泣くこともできず、私はその場に座り込んでいた。そんな私を見かねて、鶴見は手を差し伸べた。しかし私はそんな手に気付くはずなんかなかった。目の前が真っ暗になったように、眼中には何も映っていなかったのだ。
「立てますか」
鶴見は私の腕をつかんで立たせようとすると、私は操り人形が立つように立ち上がった。そして近くにあるベンチまで連れて行き、そこに腰を下ろさせた。
その時であった。私の見えないはずの目に一つの人影が横切った。それは小さく、まるで、誠也のようであった。
「誠也…」
私は頭を上げ、その人影を追った。しかし、そこにはあるはずの姿がなかった。今のは錯覚だったのだろうか。私の耳にはあの足音だけが残った。
鶴見もそんな私の行動を見て、私の目の先を見た。そして再び私のほうを見た。
「どうしたんですか、息子さんの名前なんか呼んで。こんなところにいたら、捜査する意味なんかないでしょう」
鶴見は口元だけが笑っていたが、決して目は笑わなかった。それは私に対する当然の仕草なのか、もしくは私を逆上させないための行動だったのかは分からなかった。私が見る限り、今日二本目となるタバコを取り出して口に加えると、ライターを内ポケットから取り出しながら、声を殺して言った。
「我々も全力を尽くすので、あなたもあきらめないで、最後まで見つかると信じていてください」
タバコに火をつけ、ライターをポケットにしまうと、鶴見は私に背を向けた。そして最後に一言を残した。
「いち早く見つけるので。では」
その後、警察署で事情聴取をし、しばらく拘束された状態となった。署を出る時、すでに外は暗く、家に向かう車の中は険悪なムードであった。行きは二人で帰りは一人と、どうにも計算が合わないことに、唇を噛みしめることしかできない自分が情けなかった。それよりも、次々とあふれてくる悲哀の気持ちが、私を覆いつくし、ついにあふれ出して、車中を覆った。家がやけに遠くに感じる。
家に着いた時は、すでに辺りは夜となっていた。ポーチにつながる階段を上がると、ポーチの電灯は黄色く、仄暗く点灯していた。誰かがこの家の中に居る。夫の昇か、もしかしたら…。
私は扉を勢いよく開け、ドアを開けっぱなしで、土足のまま家に上がりこもうというような勢いで廊下を走った。そして居間から温かい明かりが薄暗い廊下に照らしているのを確認すると、私はそのドアを開けた。
「お帰り…」
昇は机にひじを突き、頭を抱えながら嗄れた声で言った。
私は肩を落とし、イスに身を任せた。そしてしばらくの間、沈黙が居間を流れた。どちらも切り出そうとしない。時計がむなしく時を刻み続ける。
その中で私の頭には、もちろん誠也のことしかないはずであった。しかし、あの時、ベンチで見た人影のことも浮かんでいた。あれは確かに誠也だった。しかしもしそうだとしたら、そこに誠也がいたはずだ。そんなものも、誠也に会いたい、抱きしめたい、返して欲しいという思いに押しつぶされた。しばらくそんな風に、私の目は一点を見ていた。
テーブルを一様に照らす、天井から釣り下がった電気が炎のように燃え、揺らめいていた。部屋のすみはひっそりとしている。電気は静寂を包む。
そんな時、突如に昇がゆっくりと口を開いた。一回大きく息を吸い、鼻から息を出し、決して落ち着いたようには見えなかった。そしてあぐあぐと口を動かすと、かすれたような声で言った。
「…なぁ、これからどうするよ」
その言葉からは、何も感じられなかった。温かみ、悲しみ、励ましさえもなかった。鳥の声のように、やっと出せた弱い声は、まさに地獄に生きる屍のようであった。
その言葉で、やっと私は我に返れた。
「どうするって…どういうこと?」
私の声も、水がないまま砂漠を歩いて三日目といったような、どうも上手く声が出なかった。
「どうするって…これからのことさ」
「これからのことって?」
「それは…夕飯とか、風呂とか、明日の用意とか…」
「それだけ?誠也のことは考えないわけ?」
昇の言葉に、私の頭に血が上った。なんで今の状況が分からない。なんで自分の子供のことを考えられない。なんで誠也のことを考えていない。私は興奮を抑えきれず、机を叩いて立ち上がった。
「まぁ…落ち着けよ」
昇は私の目を見ず、うつむいたまま言った。
「なんで?なんであなたはそんな風にいられるわけ?信じらんない。自分の子供でしょ」
「いいから座れ」
昇の声は不気味なほど落ち着いている。
しかし私の感情は、そんな言葉でおさまるはずがなかった。
「あなた正気?我が子がこんな状況なのに、心配ないの?何一切?それってただの狂気じゃない。誠也は…」
「いいから座れ!」
怒声が居間中に響いた。昇の言葉は威厳があり、さっきとは大違いであった。
そんな言葉にやっと説得力を感じたのか、私はなぜかイスに座っていた。
そして昇は続ける。
「俺達に今できることは何だ。誠也を助けるか。誠也はどこにいる。どこで何してる。当てもなく探すか。なにが楽しい。そんな意味のないことやっても、警察の邪魔か、また違う事件に巻き込まれるか、もしくは楽しいピクニックか。それは楽しそうだ。確かに今、どこかで誠也は泣いているかもしれない、怯えているかもしれない、殺されそうになっているかもしれない。でもな、俺達は今、ここからそんなことが起こらないように祈ることしかできないんだよ。分かってるか。そんなことを言っても、何も始まんないし、変わんないんだよ。お前だけが悲劇のヒロインじゃないんだ。お前だけが可愛そうなわけじゃないんだ。誠也は俺達の子だ。思いは一緒なんだよ。それだけは憶えてろ」
悲しみと絶望にどっぷりと浸かっていた私は、顔をくしゃくしゃにしながら、いつの間にか、目から涙がほろりと流れ出していた。頭をくしゃくしゃに掻いていたが、それは無意識でやっていることであった。昇の言葉を聞いている時も無意識であったが、心に残される言葉はいくつかあった。しかしそんな言葉を何回も聞いていると、脳裏で誠也が喜ぶ顔、怒った顔、哀しそうな顔、楽しそうな顔、そして私たち家族そろって並んで写っている写真さえも映し出された。それはこの上なく幸せそうな顔で、温かみがあった。そのせいだったかもしれない。涙はテーブルの上に滴り落ち、円を描くように波紋を広げていく。
昇はそのままイスから離れ、ドアを荒々しく閉めて部屋を出て行った。そして玄関が閉まる音さえも聞こえた。
私は一人残された。暗闇と静寂が部屋を時間を制し、部屋の中を人魂のように照らす電灯がゆらゆらと揺れていた。そしてしばらく泣きは止んでいたが、ゆっくりと時が流れると、再び涙腺が緩んで涙が止まらなくなった。
何も考えずに、ただ自分のことだけがいっぱいで、昇に当たってしまった。長年一緒に暮らしてきた夫、家族なのに、思いやりのかけらさえもなかった。誠也がいなくなった辛さ、昇から見放された自分。どちらか一つがなかったとしても、どちらにしろ、心の奥底にいることには間違いない。言い合っている時はこんなことになろうとは思ってもいなかった。しかし今、改めて一コマ一コマ確かに思い出していくと、こんなことになることは明確であった。声を高らげ、一人で荒れ、そして人を傷つけるような言葉。自己中、身勝手な発言、周りを見ていない、ひどい仕打ち。そんなことをしていた自分が嫌いになった。今日は過去にもこれからにもない、最悪の一日に間違いない。
電灯はまだ揺れ、この部屋には何もなかった。窓を叩く風が、静寂を連れ去った。
私は一人そこで、何もすることがなかった。することができなかった。ただ、テーブルに頭を拉がれているだけである。時間をも忘れて、ずっとピクリとも動かなかった。意識があったかと聞かれれば、どうかは分からなかったが、何も考えられる状況ではなかったのは確かであった。
少し電灯が薄暗かったせいだったからかもしれない。私の目にはもう、涙が流れてはいなかった。目は赤かった。そしてまぶたは妙に重く感じられた。
「…おい。おい、起きろ…おい」
その言葉を耳にして目を開けようとすると、まぶたにのりをつけたようになっていて、まぶたが重く感じられた。しかも目がスーッとしていて、涼しく感じられた。しかし目が痛い。今も変わらず、目が赤いことだろう。
頭を起こそうとすると、頭蓋骨と背骨が同時に砕けたかのように痛みが走り、そのまま静止して、この痛みがこれからどうなるかなんて想像さえもできずに、痛みが引くのを待った。悲しくも、こんなことになっている自分が、腑がないようでしょうがなかった。
痛みが少し引くと、まだ痛みに耐えながらも、うめき声を上げながら昇に返事をした。「う…何」
「お前、大丈夫か」
昇は心配そうな顔で私の顔を覗いた。そして続ける。
「これ、買ってきたから、晩御飯。昼から何も食ってないだろう。何かのどを通しとけよ。腹の足しにもなるし。俺は外で食ってきたから、ここに置いとくな。早く食って、早く寝ろよ。もう十一時なんだ。さもないと体がもたないぞ。じゃ、俺、先に寝るから。おやすみ」
そう言い残すと、昇は私の返事を聞かずに、静かにドアを閉めると、躊躇せず階段をしのび足で登って行った。
その後、再び一人になり、イスに座って秋の買ってきた弁当を見つめていた。なんか食べるのがもったいなくなってきた。お腹は空いていたが、昇の優しさに度肝を抜かれ、その証でもあるものを食べてはいけないような気がしたからだ。
そういえば、一方的であった。この弁当も押し付けの形であった。その時の昇の姿を思い出し、笑った。つくづく思うのだが、やはり昇は変わっていない。結婚前の告白の時もそうだった。不器用そのものだった。カッコつけようと思ったら、上手くできない。そんな昇に惹かれてしまったのか、もしくは守ってやりたかったのか、私は昇と結婚した。
そんな昇が買ってきた弁当を食べないのは、せっかくの思いを踏みにじることになる。昇はいつまでも悲しみばかりに打ちひしがれていたわけではなく、第一に私を心配に思い、こうして弁当も買ってきた。過ぎたことに浸りっぱなしで、いつまでも悲しみに浸っていたのは私ではないか。そして今度は悲しみが形相を変えて私を襲う。
そんなことに構わず、私の手は弁当に伸び、私のもとに引き寄せると、無意識でふたもろともビニールを引き剥がしていた。そして箸を包装から抜き取り、犬が食べる、いわゆる「喰う」を演じるかのように、私は弁当をがつがつと食べ始めた。手が止まらない。次々と口に運び込まれているのが、自分でも驚いた。自分が作る料理よりも、自分の好物よりも、そして昇の今までの愛情の中で、一番おいしい物であった。そしてあっという間に空になった。容器の隅から隅まで舐め回した様に、きれいに食べられた。
私は箸を置き、一息つくと、時計の方を見た。すると時計はぎこちなく針を動かし、今にも外れそうなほどであった。はあ、とため息をつき、外から差し込む月明かりが私の思いを包むように、優しく明るい気持ちになれた。何と言えばいいか、健やかというか、吹っ切れたといった風に、今まで立ち込めていた煙が暗く冷たい闇の空へと出て行った。二酸化炭素で密閉された部屋から明るい外へと出て行くかのように、私ののどを通る空気がやけに澄んでいた。
すると私はボーっとしている自分に気付き、重い腰を持ち上げた。腰は持ち上がったものの、後からくる尻がなかなか思うように持ち上がらないのが、少し理不尽だった。そしてテーブルの上に散らばっている残骸をかき集め、それをまとめてゴミ箱に押し込んだ。しかし、なぜかその残骸を捨てた後、心に大きな穴が開いたような気がした。たかがゴミなのに、それに何かが入っていた。その証拠に、捨てる時に、私の手が躊躇うかのようにゴミ箱の上で止まり、そのゴミはたまたま手を滑らせてから入ったのだ。そして山のように溢れたゴミが落ちないように、ふたで思い切り押した。そんなことをして、クリスマスプレゼントの包装だけを解いて、その中身を確認せずにいつの間にか年を越して、部屋の隅に置くと知らず知らずのうちに押入れの奥へと移り、何も知らずに一年二年と過ぎてしまうような、何か物悲しいものであるが、しょうがないという後ろめたい気持ちが心のどこかにあり、しかし結局は忘れ去られる。そんな気がして私はふたを開けて自分の気持ちを再確認をしようとしたが、ふたに触れたところで私の手は止まった。こんなことをして、何になるか。勝手な妄想にまんまと飲み込まれるところであった。
私は台所から出ると、電気を消し、居間を後にした。
廊下はひんやりとしており、もう一枚着ていないと風邪を引きそうであった。肌に触れる月明かりだけは冷たくなく、暖かくもなかった。その月明かりを頼りに階段を登り、主寝室に入った。
部屋に入ると、廊下のように月明かりがこの主寝室に差し込み、空気が澄み切って浮いている埃さえも見えるほどであったが、少し酒の臭いが充満していた。さっきは気付かなかったが、昇は酒を含んでいたのだ。自棄のみをしたのではないと思うが、そのおかげで考えられる猶予ができたのだろう。昇はぐっすりと眠っており、静かにいびきを立てていた。
私は静かに自分のベッドに潜り込み、酒のにおいを我慢しつつも、外で点々と町に灯る、眩いばかりの星をボーっと眺めていた。この部屋よりも、外の空気は澄んでいるように見えて、星が一段と煌いていた。しかしその星の中でも、月だけは雲に覆いかぶされ、池に月が映ったようにぼうっと浮いているようであった。今、ベランダに出て、あの月の雲を掻き分けることができたら、どれだけいいことだろう。しかしその前に、ベランダに通じるガラス扉を開けた時点で氷とぶつかり、それ以上外前出れないことだろう。
そんなことを考えながら、こんなに落ち着いている自分に気が付き、体が熱くなったような気がした。よく分からない恥ずかしさ。誰もそんなことは知らないのに、自分だけしか知らないのに、自分の好きな人がばらされていないのにばらされたと信じ込んだ自分、そんな感じであった。自分の中で閉じ込められているその羞恥心は熱となって、あの暗くひんやりとした夜空へと包み込まれていくことだろう。
そしてまた気付く。また変なことを考えてしまった、と。人間の感情はまるで海のようで、時には嵐が吹いて荒れ狂い、時には波もなく平然と穏やかの中、強い日差しを海面に照らす太陽と空に架ける虹色の大きな橋を作り、その下をトビウオの群れが宙を舞う。まるで今の自分のようだ。そして私は体を布団の中でうずくまらせ、再び背中に一本の背筋を凍らすような神経がゆっくりと通った。
こんな時、なぜ私はこんなに落ち着いていられるのだろうか。果たして今、どういう状況なのか分かっているのだろうか。本来、切なく、寂しく、悲しく、脱力感や無力感、頭が真っ白になっているなど、マイナスのイメージが体内でうごめき、それらが体の表面にイボのように出てくるはずなのだが、それがない。なぜだろう。私が勝手に自己防衛しているようで、無理やりそのような感情を閉じ込めようとしている。元気を装い、気取ろうとしている。甘えていいはずなのに、私がここで生きていることを証明してもいいはずなのに、私はこうして一人、一対千の明らかに無謀で、何の意味もなさない戦いに挑もうとしている。虚しく、孤独な戦い。初めから意味のない行動だってわかっていても、それをしてしまう。こんな自分が時々嫌になる。
一つの部屋を大きな闇と共に閑静をも加勢しているようで、なぜだかこの部屋の空気は不穏な空気に変わっていた。もしかしたら、この空気は私が求めていたものかもしれない。
はるか遠くの山に住んでいる樵が薪割をし、その音が山々をこだましてやってきたような、私は今、そんな遠くにいるような気がした。
静寂が制するこの暗闇の下、私は存在する。
暗闇は閑静を一時も忘れないかのように、雲の動きも風も制す。窓を叩くことさえも許さなかった。
そんな時、何故こんな夜にあんなことを考え、こんなに穏やかでいられるのか、自分でも不可解で不思議でしょうがない気持ちに襲われた。今すぐにでも解明したいという気持ちも同時に芽生えている。というより、自分でもこれから解明しようとしていることが分かっているはずなのだが、その上に布団を掛けたいので掛けているだけだということを知っていた。隠したい。とにかく今の私を隠したいと深く望んでいる。
今、頭に浮かんでいるのは、好きな音楽、好きな映画、好きな本、たった一つの宝物、長く世話になった恩師、初恋の人、思い出の場所、昔の幼馴染、懐かしい親友、故郷にいる親族、母親、父親、祖父、死んだ祖母、そしていなくなった誠也であった。
誠也の顔が思い出され、頭に浮かんだ時、ほろほろと涙が目いっぱいに溢れ出た。布団の中で膝を身に寄せて、優しく足をさすった。足の中に顔を沈め、さらに小さくなる。今、私の気持ちはどうなのか、もはや理解できなかった。めぐる思いが体内を駆け巡り、それ以上のものは何もなかった。いつしかは誠也のことだけしか考えられなくなった。
もう、嫌だ。死にたい、今すぐにでも。早く死なせて、もう人生なんてないのと同然だ。なぜ冬の寒く冷たい日陰をいつまでも歩く必要があるか。日のあたるところに出たい。ああ、神様、私をお救いください、神様。
いくら願ったり、思いを自分にぶつけても、何も変わらない。そして行動に移す。だが私は無力だ。鉄アレイを持って、戦場の焼け野原のど真ん中に一人立っている。どんな気持ちで立っているのだろうか。何も感じない。何も思わない。何も考えない。せみの抜け殻のような存在であろうか。
そんな見えない存在を私に移入して、私は抜け殻となるのであった。
いつの間にか、風が家に訪ねているのを知らずに。
目が覚めた時は、日がまだ昇っておらず、うっすらと暗かったものの、まさに『春はあけぼの』の言葉が似合う空が広がっていた。まだほのかに酒のにおいも部屋じゅうに充満している。背後からは、昇が小さないびきを鳴らしていた。
寝相が悪い私なのだが、今日は何事もなく、布団さえも乱れていなかった。私は居間から聞こえる冷蔵庫の振動音に耳を傾けながら、起きなきゃと思いつつも、まだこのままじっとしていたいという気持ちもあった。その葛藤は、当たり前だが、後者が勝った。こういう時、人間のぐうたらがしみじみと思い知らされる。
久しぶりだ。こんなに早く起きて、一人のんびりと布団の中で過ごすなんて。独身の頃、どうでもいいような晴れ渡った空が広がっている日曜日を、同じく、布団の中でこもっていた時以来だ。どこからともなくやって来るふくろうのさえずりさえにも耳を傾けたり、外を羽ばたくスズメの数を、一瞬にしては数えられないほどなのだが、無理にでも数えようとした自分が悲しく感じられたが、逆に嬉しくも感じられた。自由な開放感が味わえたし、それにそうやって過ごす時間が楽しかった。なぜだかは分からない。ただ呆然と無心にいるだけが幸せに思ったのかもしれない。ただ生きているのは疲れることだが、何もしないというのは心体ともにリフレッシュする。どうやらあまり区別がないようにみえて、意外と大きな差異があるようだ。
そんな懐かしい過去に浸りながら、私は時計を見るために寝返った。そして眠っている昇の顔と向き合った。少し照れた。久しぶりに昇の寝顔を見たからだ。新婚時代以来、こんなにはっきりと向き合ったことはない。あの時もそうだ。たまの同じ日に休みがあった。そんな日に、どこも出かける当てもなく、前夜、私は遅く起きることに心決めた。そして翌朝、目を覚ましたら、昇の顔が合った。突然のことに戸惑った。こんな朝早くに起きるわけでもなかったし、今日一番に見たものが昇の寝顔の予定でもなかった。今にも崩れそうなぼろアパートの天井か壁か、もしくは昇の背中で、これは予想外だった。別に不愉快でなかったにしろ、愉快でもなかった。しかし今もそうであるが、不思議で不気味に穏やかだったのは間違いなかった。こんな朝で大丈夫だろうか、などと思いながらも、私は冷えた外へは出ずに、猫のように丸くなっていたのも覚えている。まったく今の状況と同じ。何の目的もなく、あえていうならば、その何もしないというのを目的で、今ここから出るのを拒んでいる。
時計の時間を見て、まだ時間に余裕があることを確認し、再び静かに眠る昇を見た後、だんだん日差しが強くなる窓に向き直った。そのままもう一眠りしようかと思えば、あまりのまぶしさに勝手にまぶたは光を閉ざした。しかし真正面に明かりを浴びる時、どんなにまぶたを閉ざそうとも、雨漏りのように、目に染み込む。
そんな誰もが無駄だと思うような時間を過ごしていると、背後から目覚まし時計のアラーム音が聞こえた。
突然のことに、私は目を全開に見開いた。そして不意に日差しが私の目に洪水のようにどっと注がれた。顔を伏せ、目を手で覆い隠す。そのまま体を反転し、あいている方の手で目覚まし時計を止めた。眩しい日差しもなくなったので、手を目の前からどけ、目をゆっくりと開けた。昇はまだ息を殺して寝ていた。静かに眠れ、とう言葉がふさわしい。このまま一日、何事もなかったかのように寝かせたいと思っている。
そしてゆっくりと起き上がろうとしたその時、昇のベッドから一本の手が伸びた。その手は私の腕をつかんだ。
「今日は…会社行くから…」
突然のことに、私は驚いた。誠也の行方不明の翌日に、普通に会社に行くなんて、到底考えられないだろう。心の底から怒りがこみ上げてきたが、不思議にその怒りは引いていった。昨夜、私は誠也のことより、大体を別のことを考えて過ごしていた。嫌なことから目を背けたい、現実逃避、そんな気持ちを持っている昇の心を、私は見据えることができた。
そして私は優しく微笑んで言葉を返した。
「うん、分かった」
昇はうなずき、手は布団の中へ戻っていった。
もう朝早くから、手がかじむような季節になってきた。まだ冬は迎えていないはずであるが、いよいよ本格的に寒くなりそうだ。手をこすって寒さをしのぐにも、そんなことでしのげるはずがない。
そんなことを分かっていても、私は手をこすりながら階下に降り、まだ二回しか使っていないヒーターの電源を入れた。
ヒーターが点く前に、居間に太陽が飛び込んで、一様を照らし始めた。着実にリビングを暖め始めてはいたが、私の心のどこかはすっぽりと穴が開いているようであった。
昇を送り出し、一人寂しくイスに座って上の空でいた。というより、落ち着いていたといったほうが正しいだろう。これから何をしようか、なんて考えながらも、警察からの連絡を待っていた。小さな望みだとは思っていたが、もしかしたら、という気持ちが私を後押ししてその場所から離れさせない。
こんな時、誠也のことをずっと思っている。一心不乱に思い続けているはずなのだが、いつかしら乱れが生じ、拉致された子供の親の心情は、といったニュースを思い出す。あの母親は可哀想、と他人事に思ってそれで終わりなのだが、今再び思うと、可哀想どころか、その姿に自分を照らし合わせ、共通点、いわゆるどんな共感を抱いているかを探している自分がいる。辛い、切ない、懐かしい、怨めしい、口惜しい、など、きっとこんなことを思っていたことだろう。
そんなことを考えて、時間は刻々と刻み、あっという間に一時間を過ぎた。電話は一向に鳴り出す気配はない。なんとなくそんな気がしていたが、希望を失ってはいなかった。
しばらく電話を見つめていたが、遠くから竿竹屋の声が聞こえてくると、やっと節目がついた。
私は立ち上がり、廊下を通って、洗面所に向かった。そこで洗濯機を回し、次は薄暗い倉庫部屋に向かい、掃除機を取り出した。そしていつものように二階の各部屋から一階の居間へとかけた。
しかし居間の掃除が終わると、掃除機をそのまま放り出して、再びイスに座った。
「なーにやってんだろ、私」
自分以外誰もいない空間でつぶやくのが、少々虚しく感じられた。自分の無力さにため息が後から出た。頭を腕の中に埋め、テーブルにのしかかった。
その時は何も考えずに、ただいればいいと思っていた。しかしそうにはいかなかった。私の頭の中で、誠也のことが終わらない輪廻のように駆け巡るのだ。頭から離れない誠也。おかげで何もできない。まるで操り人形のように、誰かに言われるまで動きたくはなかった。
すると不意に電話の音が鳴り響いた。私の背中が脊髄反射のようにピクッと動いた。
すぐさま電話のところまで飛び、受話器をむしるように獲った。
「はい、大島です」
「あ…大島さん?大丈夫、誠也君のこと」
近所で仲のいい柴原さんであった。どうやらもう、誠也のことが知られているらしい。このようだと、この近辺、いや、町内じゅう知れ渡っているかもしれない。
私は熱が急に冷めたような気がして、突き放した言葉を吐いた。
「あ、柴原さん。こんにちは。私は大丈夫です。でも、変に電話がかかってくると、私としても神経がとがっているので、その辺はご考慮願います。おかげで寿命が縮みました」
「そう…分かったわ。他の人にも言っとく…じゃ、お元気で」
「はい、お気遣い、ありがとうございます。では」
受話器を柴原さんが切る前に置いた。
なんて冷たいのだろう、私。ただ思い通りにいかなかっただけのことで。しかしこんな自分も自分で理解している、つもりだ。冷たく当たったのにも訳があり、その訳も知っている。
後の祭りと分かっていながらも、ソファーに倒れこみ、やはり後悔をしていた。再び電話が鳴っても、ここで後悔を挽回できると思っていながらも、出る気にはなれなかった。悲しい自分の現状に、私はただ、その思いを押し殺すことしかできなかった。
そういえば、何回目のコールだろうか。すでに七回は鳴っていると思われる。どうせまた近所の人からだろう、と思い、まだ出る気にはなれなかった。
くどいと思いながら、十二回目のコールを聞いていた。ついに骨が折れて、十四回目のコールで受話器をとった。
そして強い口調で応答した。
「はい、もしもし」
「あ…大島さんのお宅でしょうか」
男の声だ。もしかしたら、と思い、受話器は左耳から右耳に移った。
「はい、そうですが」
「あ、良かった。大和警察署、刑事課の鶴見です。少しお話の時間を設ければ、と思いまして」
やはりそうだ。私は興奮を抑えきれなかった。
「もしかして、誠也のことですか」
「まあ、そうなんですが…このことを、報道してみますか」
なんだ。私はため息をつき、ガクッと肩を落とした。急に年をとったような、それほど肩が重く、さらにこってしまった。
「ああ、そうすれば、早く見つかるんですね」
「まあ、そう思います」
「なら別に、構いません。そうしてください」
「はい、分かりました。では、後日、記者会見を開きます。また連絡するので、では、失礼します」
受話器を置く頃には、すっかりやつれたようになってしまった。
私は再びソファーに身をまかせ、音のない声を出していた。目をつぶって、なるべく疲れない姿勢を保とうとした。とにかく、これ以上疲れたくはなかった。昇と違い、他のことをして、気を紛らわせるなんてできない。
もうそろそろ十時だ。本来ならば、とっくに洗濯物を干してあり、とっくに掃除も済ませ、買い物へ行こうと車に乗りかかっている時刻である。しかし今日の私はそんなことにも構わずに、すっかり堕落している。
あーあ、このまま人生が終わればいいのに。そんなことを思いながら、耳に入ろうとする全てを謝絶していた。
「すいませーん。大島さーん」
チャイムが鳴って、声がした。あれは近所のおばさんの声だ。こんな朝早くから何の用だろうか。
出たくもないが、居留守をするわけにもいかない。きっと粘り続けることだろう。
私が玄関に行くまでチャイムは鳴り続けた。煩わしい限りである。
「どうしたんですか」
「どうしたんですかじゃなくて大丈夫?聞いたわよ。誠也君のこと」
近所のおばさんの後ろにさらにおばさんらが集っており、この町内の一部だろうという人数だった。
きっとどこかのおばさんが昨日、デパートに居合わせて、警察と泣きながら話している私を見たのを近所中に立ち話などで連環し続けたのだろう。
「これ、私たちから」
「あ…ありがとうございます」
「それに、本当に大丈夫なの?」
「あ…はい」
「でも本当に大丈夫?顔色悪いわよ」
「はい…大丈夫です」
「私たちもいるから、何かあったら頼ってね」
「あ…はい…」
「あ、そうだ。洗濯してないみたいだけど…」
「はい…してないですが…いいですよ」
「私たちがやってあげるわ」
「いいですよ…」
「あ、そうだ。なら掃除も…」
「いいです。一人にしてください。自分のことは自分でやりますから。もう来ないで下さい。では失礼します」
「あ、ちょっと…」
私はすぐにカギを閉め、ドアによりかかった。
「何よ…いきなり…ねえ」
しばらく躊躇していたが、直にぶつぶつと批判の言葉を残して各家に帰って行った。
なぜだか悪い気はしなかった。私は気持ちを理解してもらおうという気はない。私は別に助けを乞おうとも、今並べられた言葉に感銘を受けたわけでもない。素直な話、邪魔で早く帰って欲しくてたまらなかった。おかげで鬱になりそうだ。
それに、疲れた。リビングに戻り、ソファーの横に立った。
起きてからそれほど時間が経っていないのにも関わらず、ひどい疲れだ。その疲れに耐え切れず、ついに屈服してしまった。
もう肌寒い冷気を感じる、まだ旻天が広がっていた時季の出来事であった。
「それで、そのお子さんがいなくなった時は、どういう心境ですか」
「それは…あの時は突然のことで、もう驚きで、パニック状態に陥っていました。今はあの時よりかは落ち着きましたが、まだ、なんで私だけっていう念は抜けませんね。でも、あの時のことを思い出すと…目から…涙が…」
「そうですか…では、今日は一人ということですが、昇さんはどうですか」
記者会見なのに、昇は来ていない。いつも通り会社に行ってしまったのだ。こうなってしまったのにはもちろん訳がある。
私は昇が来ていないことを体調が優れないことにして、今の昇の様子を明確に言ってみた。
「なんか、本人は平然でいようと思っているみたいですけど、それが逆に、私にとって、見るたびに、少し痛々しいです。無理しているのが、今日だって…いや、なんでもないです」
その時、私の脳裏であの時のことを思い出す。そう。昇に記者会見のことを話した日である。
別に何の変哲もないことなのだが、その時の昇の態度が、驚くほど不可解で、心配で、構ってやりたかった。しかし今日は昇がいない。こんなことがあったのも、昇が壊れたからだ。
誠也がいなくなるだけで、これほどの影響を与えるなんて、想像なんてできるはずがなかった。台風の過ぎ去った後ではなく、辺りを迂回している。修学旅行やお泊り会でいないのは、なんか寂しく、心配ねと昇とリビングで話していたことだろう。そんな私たちが微笑ましい。
今は悩みの種が増え、誠也のこと、昇のことが気がかりだ。ひどい雷に打たれたようで、自分の胸が絞まる。
ついに、脳裏での出来事が、目頭が熱くなると、網膜にくっきりと映された。
「警察から電話があって、記者会見しないか、て」
「そうか…」
昇はイスに整然と座っていて、少しの隙も見せなかった。
「どうする」
私はイスに座りなおした。
代わって昇は、手のひらに頬を乗せ、大きなため息をついた。
私は当然の返事を期待していたので、そのため息の理由が、その時の私には、当然理解できるはずがなかった。
「俺が決めていいって言うんなら、頭がイカれているって思われるかもしれないけど…俺はしたくない」
その言葉を聞いて、そのため息の理由が分かったものの、そのことには決して気をとられなかった。意外な返答に驚いていて、もう無我夢中であった。そして私は身を乗り出して言った。
「なんで。見つかるかもしれないのに」
昇は頭を抱え、強く圧力をかけているようであった。
「なんか、誠也が…もうここ…この世界にはいないと…いや、忘れてくれ。何か、俺、頭がおかしくなってる。なんでだろ。もう、嫌だ。俺、おかしくなってる」
私は昇の異変に気が付いた。
「ねえ、大丈夫?」
「今の俺がいなくなりそうで、怖い。俺の中のもう一人の俺が、いつ目覚めるか、それが怖い。俺、一生このまま眠りそうで…怖い。なんで…なんでこんな目に…」
昇が吐いた言葉通り、今の昇は、昇ではなくなっていた。怖かった。近寄り難かった。変人、という偏見の目で見ているわけではない。正直に怖かったのだ。
私はその時、どういう手解きをすればいいのかを知っていた。しかし、今の昇と同様、目の前で起こった突然のことに、私もパニック状態になっていた。今の私は、目を凝らして昇を観ていることしかできなかった。
昇の背中は小刻みに震えていて、私は寒いのかな、と馬鹿なことを考えてしまった。未来の私であったら、確実に今の私を殴っていることだろう。
しばらくの間、私はどうすることもできなかった。昇をしばらく眺めて何の感情も芽生えなかったが、昇の唇がわずかに動いているのが見えた。
そして耳をよく傾け、昇の言っている言葉に耳を傾けた。しかし私は後に、その言葉を聞いて、聞かなかったほうが良かったと思った。
夜の聖者が私を睨んでいる。私はその場から聞くことしか許されなかった。ただ昇の言葉が耳に入るのを待っているだけ。
「お前の…せいだ…お前のせいだ」
その言葉が耳に入ってきた時、夜風が吹いて葉が揺れるように、私の体は震撼した。
そう、こんな何だかんだで昇の心は誠也のことを考えるだけで苦になっている。誠也さえいなくならなければ、昇もこんなにはならなくなったはず。
確かに誠也がいなくなったのは私のせい、かもしれない。私の不注意で、監視ミスでいなくなった、失踪したのは紛れもない事実であるが、こうなってしまった以上、今は探し出すしかない。
私はそう心で密かに誓いながらも、昇のことを懸念に思い、記者の応答を続けていた。苦にはならなかったものの、それは長く、代わりに肩をこってしまった。延々と続く記者会見の中で、使われるのはごくわずか。私はそれを知っていながらも、一生懸命に応答をした。それをすることが最善の方法だと分かっていたので、今は時が流れていくままに身を任せて、やはり待つことしかできない。辛く悲しいことがあっても、例え私が犠牲になったとしても、死ぬ前までにはしかとこの体で抱きたい。
私は脊髄に切実な思いという大きな剣で刺されているような思いであった。
やっと終わった。長かったなぁ。
そう思いながら、私は控え室らしいところでホッと一息をついた。しかしそんな一息も、後に後悔の念と変わるのであった。さらにその上に、重い錘がのしかかっている。しかしそれもしょうがないことである。
しかしそんなこともあり、逆に、白く包まれた控え室のようなところは、私の心を浄化してくれ、だんだん落ち着いてくる。無駄な邪念を取り払い、身もすっきりとなっていくようである。
とりあえず、くたびれた身体を楽な姿勢でイスに身をまかせた。
その時である。他人に見せるにはちょうど無様な格好をしたところで、あの刑事が入ってきたのだ。私はすぐさま足を引っ込め、姿勢を整えた。そして顔が瞬時に紅潮したのが分かった。
鶴見は失礼しますと言って体半分だけを部屋に入れると、なぜだか少々上がっているようで、床を見つめていた。
「すみません、お疲れのところ。少し時間を割いていただいてよろしいでしょうか」
「ええ、はい、いいですが、何ようですか」
「ありがとうございます」
しかしそれにしても失礼である。ノックもしないで入ってきたからだ。いくら面識があり、急ぎであっても、礼儀は忘れてはいけない。私はそう思いながら、鶴見の行動をボーっと眺めていた。
鶴見は顔を上げ、静かにドアを閉めた。そして壁に畳んで立てかかってあるパイプイスを手に取り広げ、それに座った。
そして鶴見の話が始まった。
「えっとですね。お話というのは、ちょっと言いにくいのですが、今日やった記者会見の報道を、三日後まで待ってもらえないか、ということなんですね。ご理解いただければと思いまして、私自らが説得に参りました」
「え…つまり、三日後までは、今日やったことは、だんまりですか」
「まあ、そういうことになりますね」
私はよく分からない鶴見の言い分に腹が立った。なぜ待たねばならないのか。心の底から怒りがこみ上げてくる。私はついに感情を抑えきれず、大声を上げてしまった。
「なんでですか。誠也は、誠也はどうなるんですか」
「まあまあ、抑えて下さい。これから説明します」
鶴見はやけに冷静な姿勢で私をなだめようとしたが、そんなことでなだめられる私ではなかった。
「誠也は、今もどこかで一人寂しい思いでいるかもしれないんですよ。そんなんで…」
「ちょっと静かにしてもらえませんか」
鶴見は静かに言ったが、私はその言葉から大きな威圧が感じられ、肺に酸素が送られなくなった。
威厳を背景に、鶴見は話を続ける。
「すみませんね、いきなり。実はですね、正直の話、誘拐の線、身代金目的の方はないと見ているんですよね。しかしですね、まだ仮定の段階で、はっきりとしたことが分からないんですよ。そこでですね、少しそういうことをすれば分かるんで、どうか協力をお願いしている訳です。でもですね、これが違うとなれば、少し厄介なことになります。どちらかといえば、こういっちゃ悪いですけど、誘拐の方がマシだと思えます」
私は静かに耳を傾けていたが、途中からハッとして、胸がいっぱいになった。そしてその思いを、言葉にしてぶつけた。
「それってどういう意味です?」
鶴見はいまだ冷静だ。
「えっと、それは…うーん、言っても大丈夫ですか」
私はもとより決意が固まっていた。
「…はい」
「じゃあ、これから言うことに驚かないでください。冷静でお願いします。もし、身代金目的ではないと、あのぐらいの子の行動範囲を徹底的に調べて捜索しましたが、いないということは、行方不明の線は消えました。ということは、やはり誰かに連れて行かれたと考えるでしょう。そこで身代金目的が出ますが、それはすぐに分かります。そしてそれが無いと分かった時、最後の線が見えてきます。それはですね…やはり言いづらいのですが、言います。それはですね、どっかの頭のイカれた野郎か尼がどんな子供でもいいと連れて行った、線で、そういう時…遊ばれて…殺されて、放置…かもしれないです」
「あ、そんな…」
その後の言葉が出なかった。衝撃が体の中でこだまして、振動は体中に伝わる。私は手首を抑えて抑制をするも、手首から逆の手へ、さらに挟むように逆の手からもとの手へと振動を追い込み、手が据えられている手首とその逆の手の指先が交わったちょうど一点に電気が流れ込んでいるようであった。
私はそのまま、しばらく麻痺して、やがてゆっくりと口を開くのであった。
「後は…委任します。引き続き、よろしくお願いします」
もう私が出る幕ではないと思った。今は身を引いて、さらに待っていなければならないと思うと、胸がひしひしと痛む。
私は待つことに、苦痛を感じた。
私が感じる三日間は、三年に感じる、みたいな事はなかった。一秒、また一秒過ぎるのが、体に肌に、直に感じたのだ。しずくが一滴、また一滴と、大きな器に満たされていくまでをずっと見ているような、じわりじわりとやってくる時間を一つ一つ綿を摘むようにして、私は無垢で空虚な世界で生きていた。
その世界は、言うなれば、何もない、無の世界である。この世の何にも変えられない、本当の無の世界。そこは喜怒哀楽や他の感情を何も受け付けさせない。そこにいると、私が私でいられなくなるような、そんな空間に私は一人でいた。いや一人ではなかった。昇がいた。私との距離はかなりあったが、同じでいることは間違いない。もしその空間に大きな壁が私と昇の間に隔てていたなら、私は昇の存在に気が付かなかっただろう。
そして私は今ここにいる。ぽかんと口を開けたまま天井を見上げ、手足が四方に投げ出した格好でイスに座っている。何もない毎日が過ぎていたのに、リビングはいつの間にか脱ぎっぱなしの衣服が散乱していた。
今日も昇はいない。昇は変わらずに会社に行っている。その理由は私が刑事の言っていた可能性を昇にはまだ話していなかったからだ。というより、敢えて話していない。
あの日、私が帰ってきた時、ひどくやつれた私を心配した。その時私はその日の出来事を話そうとしたが、とっさに口ずさんだ。それもそのはず、もし昇がこのことを耳にしたら、昇の中のエゴが完全に崩壊していたことであろう。長年付き合ってきた仲だ。それぐらい私には理解できる。自分が自分でいられなくなるのは私だけでいい、と私は思っていた。
人間は本当の恐怖を知らない。背水の陣、四面楚歌、虐待、幽霊、飢え。他にも多種様々だが、これらは真の恐怖ではない。これらを長く経験し、やっとのことで辿り着いた領域、エゴの崩壊が誰もが恐れて、そしていつも背中の後ろに隠して、いつも見えないところに置いている。本来一般の人では誰も知らない、知ることができないその恐怖は、リスの棲みかのように、小さく暗い穴の奥のまた奥の住処に潜んでいる。誰も見ず、誰も触らずに育ってきたその生き物は、穴から出てきたと思うと、一気に襲い掛かってきて、戦意を喪失させる。そんな恐怖を、私は背後から襲われたようだ。
そして一人というのは何かと喪失感から遠ざけてくれる。時間という波に身を任せて、過ぎてゆく時の刻みを聞きながら、私は私でいることを確認する。そんなことを考えたことはなく、どうすれば今の状況を脱し、元の自分に戻ろうとするのは、やはり自分が良く知っている。経験と慣れで、すでに体に染み付いている。
脱力状態の私は、いつまでそんなことをしていたことであろうか。私は覚えていない。ただ憶えていることといえば、白いが時々黄色いしみのような波紋が広がる空を一様に見ていたことぐらいだ。
私は再びため息をついた。今日は何回目であろうか。無論、私はそんなことを意識していない。
そして昼下がりの太陽がやや傾いてきた頃であった。
私はその音を聞いても気付かなかった。ドアの開閉する音だ。私はまだイスに寄りかかっていた。
「ただいま…」
昇が帰ってきたというのに私が昇に気付いたのは、視界に昇の姿が入ってきてからだ。
昇はあっという間に視界から外れ、ソファーに沈むように座った。そして机の上に足を投げ出し、天井を仰いで大きなため息をついた。そしてその姿はなぜか声とは裏腹で、落ち着いているようであった。
私は突然帰ってきた昇に対し、別に早く帰ってきた理由も聞かずに、昇とは逆の方を向いて顔をテーブルにつけた。テーブルはひんやりとしていて、私の体温を奪っていったような気がした。
すると、後ろから大きな音がして、夢から急に引き戻されたような気がした。そして振り向くと、足を机に叩きつけている昇がいて、そして大きな声で喚くように言った。
「クソッ、クソッ」
昇と目が合うと、昇が私のことを睨んでいるような気がして、私は目をそらすようにまた顔を腕の中に沈めた。しかしその目を見た時、昇の気持ちが私へと流れ込むようにすべてが伝わってきた。
その日を境目に、私と昇の関係は悪化したように思えた。関わりがなくなったというべきであろう。しかしこの日はこれから続く悪夢の序章だとはまだ知る由もなかった。
その夜、私は地方ケーブルのテレビを見て、私がテレビに映っているのを見た。しかしそのもう一人の自分を見ていると、少し複雑な気持ちになった。
「あーあ…」
今日は疲れた。テレビの中の私を見て、前より一層迷惑な電話が増えた。大丈夫とか頑張ってねとか、まったく意味のなさない言葉を吐き捨てて電話を切ってしまう。その対応を繰り返すことが、電話がかかってくることが憂鬱でしょうがなかった。
昇はすることがないらしく、先に寝てしまった。というより、私が取り上げた形になっていて、これまた憂鬱な気分だ。
しかしある程度、私は自分が落ち着いているのを知った。昇がああなってしまっては、自分がしっかりせねばと目的が見えたからだ。今まで何の目的がなく、時間が進むまま身を任せていた。
寝るのにはまだ早すぎる時刻であるが、今日は食パン二枚だけの一食で、稼働時間が一時間四十五分の体を休めるために、私は主寝室へ向かった。
窓の外を見ると、星がやけに瞬いていた。
明日から新しい生活が始まるような気がした。
昇はまだ寝ている。どこへ行く果てもなく、ただごろごろしている。
私はもとの生活とは少し違う、新鮮な感じを手に入れ、今、掃除機をかけている。洗濯機も回し、たまった洗濯物はすでに外に干されている。今日は二回目の洗濯である。その上、久しぶりにまともな朝食を食べた。しかしテーブルの上に、まだもう一人前がぽつんと残っている。
そんな生きる希望を取り戻しつつある朝の情景に、電話が妨げた。
「はい、もしもし」
「ああ…私です。鶴見です。朝早くからすみません」
私は無意識のうちに、顔をこわばらせ、受話器の握る強さも強くなっていた。
「で、どのようなことで」
声もこわばっていた。
「じつはですね、まあ、喜んでいいのか悪いのか…そちらの判断に任せますが、複数の誘拐だと思われたグループから電話がありました。しかしそれは四種類のグループでした。それで、まったく違う、まったく距離が離れている場所から電話があったので、誘拐での身代金目的はなくなりました」
「…そうですか」
私は鶴見の言う通り、喜んでいいのか悪いのか分からなかった。しかしどちらかというと、これは恐ろしい出来事の序章だと思った。
「では、また情報が入っ…」
そして受話器を耳からゆっくりと離し、静かにもとの場所へ戻した。最後に何か鶴見が言っていたが、何も覚えていない。
私は再びもとの生活を奪われたような気がして、ソファーに腰掛けた。
今日あったことは何だったのであろうか。洗濯機を回し、朝食を食べ、挙句の果てに家中を掃除機でかけ回した。しかし今は昨日の昇が帰ってくる前と同じ、まるで成虫になりかけたさなぎがまた殻の中へ戻っていくような、結局決心が弱かった。
霧の中で、雲ひとつない大空に、私の決意が虚無に砕け散った。
あの日の晩から私の夢は例の夢に変わった。暗い洞窟のようなところをさまよい、何か人影かと思ってその人影に近づくと、年度のように崩れるといったものだ。恐怖が作り出した夢なのか、私は寝る前にいつもその夢を、今度こそ見ないようにと願っている。しかしおびえて布団に入る私の姿は、外から恐怖を引き寄せる効果のようなものがあるのだろう。そして見えない恐怖が、雲が空を覆う闇から私のもとへと忍び寄る。
恐ろしい体験は心に残る。しかし体験ではないものは記憶として残る。どちらが怖いといえば、どちらも怖い。思い出すだけでも身震いするような、そんなものが一生まとわりつくのだ。違う恐怖がこみ上げてくる。
恐怖からは逃げられないことは知っていたが、恐怖から遠ざかろうとしていた。あえて恐怖を受け入れて誠也のことをずっと考えていたとしても、やはり恐怖が私を覆って、結局は自分が自分でいられなくなることだろう。
もしかしたらそれを恐れていたのかもしれない。だから恐怖を受け入れることができない私がここにいる。
長い夜が苦痛になり、そして悪夢に変わる。そんな想像するだけで頭が痛くなるような毎日をよく暮らしていると自分でも感心する。
早く誠也を見つけ出して、この体で抱いて、新たに三人で生活を送りたいと思う。今ではなんで私だけと思わなくなり、代わりに少しでも早く、ほんの一秒でも早く会いたいと思っている。
その表れなのか、時々誠也が近くにいるような気がする。信念がそう感じさせたのかもしれない。誠也が私に触れているような気もする。
私はいないことを分かっていながらも、理解できずに苦悩でいた。いつかは自分の存在意義さえもなくなってしまうような、そしていつか自分が光の粒子となって消えてしまうのではないかと考える。誠也と会うまではそうなりたくない。いや、ならない。そう信じることしかできない私が切なく感じられた。
いつの間にか一ヶ月が経った。
警察の捜索も難航し、もう見つからないのでは、という声も上がっているほどだ。殺人の逃亡者よりもはるかに捜索は簡単なはずだと思う。まして時効を過ぎるまで逃げる者もいる。しかしその者というのが子供一人だ。行動範囲は限られている。その上、捜査の範囲も狭まっている。しかしその中で最悪のパターンである死体遺棄、いわば死体で見つかるというのが耳に入っていないというのが幸いであった。入っていないだけなのかもしれないが、毎日テレビに貼りついているのでそんなことはない。
それにしてもあれから一ヶ月経つとは遅いようであっという間であった。身も知らない世界に入り込んで、現実からかけ離れてしまったような、そんな生活は辛く、孤立していた。暗闇に潜む恐怖が私の心を蝕んでいる。すでに昇の背後にはその兆しが見られている。その証拠に頭を抱え、一人何かぶつぶつとつぶやいている。
そしてさらに昇の背後から忍び寄る影は大きくなるのであった。
「なんなんだ…」
ドアを開けて入ってきた昇は弱々しい声でそう言った。今回は本当に頭を悩ましている様子であったので、何があったのか気になった。洗面所に行ってほんの数分の出来事であるが、何が起こったのだろうか。昇は抜け殻になったようにまだつぶやいている。
「何かあったの?」
昇は気付いたように、こちらを睨んだ。睨んだというよりも、やつれた顔でそうなってしまったようであった。前まで見ていた昇の原型をとがめない顔である。
しばらくまともに対面していなかったので、その顔を見た私は少しぎょっとした。
そして昇は口をゆっくりと開けた。
「ああ…ちょっとな…」
昇はイスに座り、頭を抱えて続けた。
「洗面所で…誠也を見た…」
私はものすごい勢いで立って、すぐさま洗面所へと向かった。しかし当たり前だがそこには誰もいず、ただがらんとしているだけであった。私は興奮したまま、居間に戻った。
「誠也は、どこ」
私は気持ちを抑えきれず、爆発寸前だった。
「誠也は…分からない」
昇はまだ頭を抱えていた。しかし挙動不審そうに体が少し震えている。そのことに私は気付かず、自分のことだけを考えていた。
「え…どういうこと」
「…なぜだか知らないけど、見えた。鏡を通してだが、そこにいた。俺を見てた。トイレを出て手を洗っていた時だった。俺は、ぼーっと手を洗って蛇口を閉めて、その後ふと顔を上げたその時だった。俺の後ろに誠也が立ってたんだ。俺、驚いて後ろを見たんだ。だけどいなかった。俺は幻覚を見たんだと思って、手をタオルで拭こうとまた鏡のほうを向き直った時、また俺の背後に誠也がいて、見つめてたんだ、俺を。俺はまた後ろを見たが、またいなかった。もう一回鏡を見たんだが、もうそこにはいなかった…」
私は愕然とした。幻覚を二回も、しかもそんな短時間に見えることなんてないと思った。しかしその話し方に、私は昇がウソをついていないように感じた。確かに見たのだが、昇自身がその不可思議なことを目の当たりにして信じていない。というよりも信じることができないようであった。
先ほどよりかは落ち着いていた私はその昇の気持ちを察して何も言わずにいた。
そして昇は言う。
「もう、寝る…」
昇は立ち上がり、居間を静かに出た。
うっすらとしている居間の光は部屋を照らしているが、裏の部分は隠しているようであった。私はその部分を見ることができない。しかし昇はそれを見ていたのかもしれない。
一週間、昇は頭痛に襲われていた。ベッドに寝込んでいたし、前よりも食べなくなった。私はもうすでに遠くにいるような気がする誠也のことよりも、一番近い存在である昇のことばかりを心配していた。頭の中にあるもやもやをかき消したいと思ったのかもしれないが、追い詰められている昇を放っておけないという気持ちもあった。もう寂しい思いをしたくないし、他の人にも味あわせたくはない。
私は身の回りの家事やなんかをいつものようにこなし、昇の面倒も見た。会社も誠也もいない昇にはもう私しかいないと思った。奈落の底にいる昇に手をさし伸ばし、届かないと分かっていながらも希望だけは与え続けようとしている。
そして看病だか看護だか介護だか、よく分からない日々がさらに一週間経った。昇は相変わらず元気を取り戻すことができず、ベッドから起き上がっていない。
しかしそんなある時である。昇がベッドから起きて居間に来た。その時私はそこで洗濯物をたたんでいた。そして昇は言った。
「なぁ、しばらく考えたんだが…少し、離れて暮らさないか」
「へ…なんで」
私は自ら起きてきた昇に疑問と尊敬の念を抱いていたが、それは疑問のみに変わった。不思議でたまらないのだ。昇はもう私しかいないはずなのに、自分から去ってしまうなんて、何故だか分からなかった。
「どうして…なの」
「なんか、俺、一人じゃないとだめになっていくような気がするんだ。しばらく離れて暮らせばどうにかなると思って…さ」
私はその時初めて昇の言ったことが分かった。そして自分の今いる場所も分かった。
昇は決して私のことを頼っていなかった。一人で考え、一人で決断した。本来なら私がいなくても全て一人でできていた。それよりか、逆に私のほうが昇に依存していた。昇の面倒を見ることで、昇がいることで自分が保てた。誠也の事を見ないで、現実を見ないで、私は昇を見ることによって現実から逃げていた。
私はもとの自分に戻れなくなるようで怖くなった。
「いやっ、行かないで」
つい出た言葉だ。のどからぽんと出た。
「いやっ…無理だ。落ち着いたら、戻ってくる。大丈夫だ。安心しろ」
何も分かっていない。
昇は微笑んで私を和まそうとしているようだが、それはまったく逆であった。私をさらに恐怖に陥れた。
私は泣きつくように言った。
「ほんとに、ほんとに行かないで…」
「いや、決めたんだ」
今の昇に何を言っても何も聞きいれないだろう。こうなってしまった昇にはどんなことがあろうと今の気持ちから変わることはないことを私は知っている。
私は一人泣くことしかできなかった。もしかしたらその涙を通じて昇に伝えられるだろうと少し信じてしまいたかったからかもしれない。そうすれば救われると勝手に思い込んでいた。
そして昇は外に出て、新しい自分の生活を探しに出かけた。
私はまだ部屋探しかなんかで今の段階では出て行けないことを分かっていたが、その姿が最後のようで、さらに私に追い討ちをかけた。
玄関からかすかに来る寒風が頬をたたいた。
私は一人でいた。
これから一生一人、と感じて、今度は私が引きこもっていた。こうしていればかすかな希望でも、昇が面倒を見てくれると思っていた。甘えたいと思う気持ちもあったが、帰ってきて欲しいという気持ちのほうが強かった。まあ、どちらにしろ、同じ事なのだが。
しかしその可能性もなくなってしまった。昇は出て行った。アパートを借りて、必要な日用品を買って出て行った。しばらくの間、帰ってくることはないだろう。
しかし三日坊主で帰ってくるだろうと推測した私は引きこもりを脱し、ひたすら昇を待った。しかしそれは一週間続き、やっと私は悟れた。
私はそのおかげである意味生活に弾みをつけることができたが、一人でいる生活が苦になり、心が蝕まれていくのが分かってきた。今度は私の番だ。早く昇のように解決法を見出さねば私が壊れる。恐怖におびえながら生きる生活なんて嫌だ。
その日から、私は一生懸命に前向きになろうと努力をした。しかしこれではだめだと分かっていた。結局は緩和させようとしているだけだ。やはり私には誠也しかいないと思った。
そういえば、ここで…。
私は未だ誠也の残像が残っている公園に訪れていた。ベンチに座り、そういえばここで誠也が転んだっけ、と思い出して微笑んでしまう。そういえばあそこで、よく泥だらけになって遊んでたっけ。そういえばであそこで、ブランコを押してあげたっけ。そういえばあそこで…。
他人から見る私なんて、どうせ滑稽で面白いことだろう。変人で変質者。通報されても仕方がないことだと思う。
小さな子供が変な人と私を指差して、母親が見ちゃだめと言って、その指を収める。いるはずもない想像を勝手にしてしまう。私は変だ。そんな固定観念を持っていた。道行く人を眺めて、特に子連れの人たちを見て、ああと感嘆し、誠也と手をつないで歩く私を想像する。実際、その感嘆と同時に涙も出てくる。
こんなに穏やかな気持ちになれたのは久しぶりだろう。
こんな時なのに、穏やかな気持ちになれている自分が憎くて、悔しくて、汚くて堪らなかった。
その時、私の心に一つの種がまかれた。
死にたい。死のう。
目から溢れ出す涙。滴る涙。重力に逆らわず、地面に不時着する涙。
すべてを思い起こして、生きることを見つめ直す。生まれてから何が起きたか。どういう生活を送ったか。生きていた心地がどんなものだったか。
生きる大切さを知るのは一期一会。しかし私はたった一度のチャンスさえも逃してしまうようだ。尊い命を捨てて、私は自由になる。
迎えに行くよ、誠也。
その帰り。広い空に大きな雲が浮かんでいて、いつもの帰り道が長く、道幅は広く思えた。
その生活はむなしく過ぎていった。空虚で閑静で、音も生物も空気もこの家の中では死んでいるように思えた。苦しく辛い日々はもうたくさん。早く死んで楽になりたい。誠也の笑い声も聞こえなくなっていた。
そんな時、私は思い立ったように思いついた。
「そうだ。母さん家に行こう」
一人で言っている自分が恥ずかしい。昇がいなくなってからの生活はだいぶ慣れたが、やはり寂しいものはあった。いつかまた、家族でこの食卓を囲むことを夢見て生きてきたが、もう終止符を打ちたい。その前にと、最後に母さんに会うのもいいだろう。
そうなればと、まず母さんに電話をした。そしたらあっさりいい返事をくれた。
「うん、うん…ありがと。うん。うん、すぐ行くね。じゃあね」
あのニュースはもちろん母さんも知っていることだろう。その時の私の心境も知っているだろう。昔だってそうだった。私のことだったら、透視をしているかのように、何でもずばりと言い当ててしまう。私が落ち込んでいる時、想いを隠している時、恋をしている時。しかし今の私の心境は知っているだろうか。死にたいと思っている娘なんかを。
事実、私は今すぐにでも死ねる。だがこの母さん家に一時変えるというのは、最期に一度だけでも母さんの顔でも拝んでも罰は当たらないだろうということである。
私は母さん家に行っても、この思いは打ち明けないつもりである。
財布を入れたハンドバッグだけを助手席に放り、カギを回した。その時、後ろのドアが勝手に開いた。私は一旦車から降り、後部席のドアを閉めた。
車を発進させ、無我夢中で運転していた。他の車をどんどん追い抜き、スピードも加速する。赤信号も無視で、どんどん突き進んだ。もうこれも最期の楽しいドライブになることだろう。もしかしたらこれが最期の天国へのドライブかもしれない。こんなスピードを出していたら、警察に捕まるのも時間の問題だ。だがスピードは落とさなかった。逆に加速を続けた。運よくパトカーは母さん家に着くまで見ることはなかった。
高速道路に上がり、さらにスピードは加速する。もう我が車に連いてこられまいという勢いで走っていた。
どうせ死ぬのだから、関係ない。どうせ死ぬのなら、大きく死のう。車と車が思い切り衝突して、マイケル・ベイもビックリの凄い爆発シーンを撮って、炎上した車の煙に捕まって、天まで連れて行ってもらおう。そうしよう。
何だか楽しくなってした。愉快な気持ちになれた。
一時間ほどすると、パーキングエリアに寄りたくなった。あと一キロ先とある。そういえば朝も昼も、何も食べていない。もうすぐデジタルの時計は午後二時を回る。何を食べようかと思いながら、パーキングエリアに入った。
車を降りると、また後部座席が開いた。半ドアだったのか、もしくは車の接触が悪いのか。しかしもう何盗まれても構わない。どうせ死ぬのだから。
売店でフランクフルトを買い、自販機でお茶を買おうとした。ボタンを押すと、お茶は出てこない。だが代わりに、誠也の好きだった飲み物が出てきた。
何で。何で。また涙が、溢れてくるじゃない。誠也…誠也…。
思い出してしまった。こんなところで違う飲み物が出てくるなんて。
私は再びお茶を買いなおし、誠也の好きな飲み物は自販機の横にお供えのように置いといた。
涙をこのままにしておくと、ドライブに支障をきたす。何で涙なんか出てくるのか。私はこれでもかと目をこすった。もう涙は出てこないだろうというぐらいまでこすった。ひたすらこすった。それしかできない。だが目が真っ赤になるだけで涙は止まらなかった。
車内で泣いた。泣き止むのを待った。しかしこすったのが原因で、目がかゆい。止まらない。涙もかゆみも。
必死だった。早く母さん家に行きたいのに、こんなところで足止めを食らっている。
ああ、誠也…誠也…。
勝手な感傷に浸り、自分の厄介な心を相手した。どう慰めればいいのか。その方法を分かっていても、今はできない。
よし、と一呼吸つき、落ち着いてからキーを回した。また後部座席が開いたので、私は一瞬でドアを閉めた。
渋滞することもなく、事故もなく、車通りも少なく、無事、母さん家に着いた。
「ごめんね、いきなり。会いたくなってさ」
「いいって、いいって。父さんも会いたがってるよ。早く行ってあげなさい」
「…うん」
父さんは今、仏壇で息を殺して眠っている。もう起きることはないのだが、どこかで私のことを見守ってくれていると母さんは言う。この世界で生きていると、私もそう実感している。
「ただいま」
手を合わせて、チーンと高鳴らせたのは、私が叩いた輪であった。それは天からの声のように聞こえ、父さんの遺言にも聞こえた。通じているわけではないが、まだ父さんは生きていて、確かにここにいることを気配が教えてくれる。
無宗教の私はこの日だけは父さんが信教していた仏教に助けを乞おうと思っていた。救われるのならそれでいい。私を神の元へ導いてくれるのならそれでいい。今日は特別。私の絶命日。
父さん。誠也。待っていてね。
どんなわけか。人が自殺する前は、心が寛大になるようだ。もうどうだってもいい。どんなことでも受け入れる。しかしそれは、実は寛大ではなく、すべてを放り出すような、どうでもいい精神であった。世界に破滅が来ても構わない。自分以外の人間は眼中に入れなかった。
「今日は帰るの?」
「うん。そうする気。六時には出ようかな」
「そう…ご飯ぐらい、食べていかないの?」
私を阻むものが現れた。
「お父さんとばっかじゃ、飽きちゃうわ」
ご飯食べた後でもいいかな。ただ死ぬ時間がずれるだけだし。
「たまには…いいかもね」
「そう。良かった」
「何か手伝う?」
「いいわ。疲れてるだろうし、休んでいなさい」
「うん。じゃ、お言葉に甘えて」
和室の真ん中で、大の字になって寝た。昔懐かしい畳のにおいがする。
そういえば、ここで、よく叱られたっけ。父さんは厳格で厳かな人だった。ただしく怒ってくれたことには感謝している。昔、遊園地に連れて行った頃の思い出がある。乗ってみたかったジェットコースターに身長制限で引っかかり、泣いている私に代わりにアイスを買ってくれ、その帰りには父さんが断固入ろうとしないが私は一度だけでも行きたいと憧れを持っていたファミレスに連れて行ってくれた思い出がある。その時の父さんの顔ったら、ぎこちなくてしょうがなかった。母さんと二人でクスクスと笑うと反論する父さんが可愛くて、いつもと違う一面を見れた瞬間だった。それだけじゃただの思い出だが、その時の父の笑顔が強く印象に残っていた。時には厳しく、時には優しい人だった。今には世に亡き人だが。
こうやって私は父さんを慕っているが、私は誰かから慕われるのだろうか。もし自殺なんかをしたら、誠也はこんな母親を許してくれるだろうか。母さんは自殺した親不孝の私を許してくれることだろうか。せっかく産んでくれ、育ててくれたのに、こんな仇返しでいいのだろうか。天国の父さんに説教されるかな。
畳のにおいと共によみがえる過去の記憶は、私の心をこぢんまりとさせた。そして、涙がそれを支えた。涙が畳に染みこむ。そんな音さえ聞こえたような気がした。
そういえば誠也。まだ生きているのだろうか。
あの後、警察から見つかる可能性は低いと言われた。金銭目的の誘拐でもない。行方不明でもない。事故で死んで、死体として出てきたわけでもない。ならば狂乱で酔狂な人がどこかに連れ去り、その後は分からないと言った。解放することはないだろうとまで言った。どこにいるか分からないので、奇跡でも起きなければ再会は果たせないと言う。
私は辛い現実を背負って生きているんだ、と自己意識の世界に入っていた。なんて可哀想。なんでこんなことが私にだけ降り注ぐのか。これは自己満足の言葉か、自慰なのか。
今日は疲れたな。
さっきから懐かしんだり、哀れんだり、慰めたりという、自分が追い込まれている時、人間の調子の波長は変わりやすいらしい。しかしまだこんなことを考えられる私は落ち着いているのか、それとも今の自分を遠くで見たいのか。
涙が溢れながら、涙腺はきゅっと締まった。まるで涙腺が切れたような勢いであった。
疲れた、と思いながら呼吸を整えていると、睡魔が私を襲ってきた。体力を奪われていた私は、魔に従軍した。
「…起きなさい。先に風呂入っちゃって」
どうやら私は風呂を入るらしい。母さんは私が泊まるとでも思っている。ちゃんと日帰りだと言っておいたのに。
それにしてもひどい夢だった。皮肉にも、父さんと誠也が一緒に公園で遊んでいる。私もそこに行こうとするのだが、歩けない。私自身は、そこにいない。第三者の目としてみているが、体はない。呼びかけようとするが、口がない。二人は仲良さそうに手をつないで、首だけがこっちを向いた。その顔は恐ろしく、笑みもない、恐ろしい顔だった。そして前を向くと、光りが二人を照らし、光の向こうへと消えていった。私は行っちゃだめと叫んだが、口がないから、心からの叫びであった。
その叫びが頭に残っており、空を切るように消えて、また現れる。
私は風呂場に向かいながら、あの夢を再び思い出していた。いや、無理やり思い出されていた。本当は思い出したくないのに、勝手に思い出している私の頭を叩き続けた。
風呂に入っても落ち着かない。落ち着くことはなかった。このどうしようもないもどかしさ。どうぶつければいいのか、そのすべが分からない。
体を洗えばきれいにそういう厄介な僻なようなものも剥がれ落ちるだろうか。それともこの入浴剤が疲れを癒すのと同時に、ひねくれた心を癒してくれるのか。
そういうことを信じて救われるしかなかった。そんなちっぽけなことを信じて救われるなら誰でもやるだろう。だがこの気持ちがどうにかなれば、誰か制圧してくれればその他に嬉しいことはない。
出る間際に冷たいシャワーを浴び、滝に打たれる僧を想像した。僧はこうやって邪念を払っているらしい。それと比べるとずいぶんスケールが小さいが、それはそれで効能は感じられた。
「あとちょっとで出来るから待っててね」
「うん。何か手伝おうか」
「いいわよ、お客さんなんだから」
嬉しそうに台所へ入っていった。
私は母さんに出された服に身を包んで、髪の毛を拭きながら、久しぶりの子供とのご飯が相当嬉しいのだろうなと、母さんの背中を居間の開いたドアを通して見ていた。私も久しぶりの母さんとの食事にウキウキしてきた。
食事ができるまで、テレビを見て過ごした。昔よく使っていたクッションを抱いて。
このクッションには思い出は特にない。毎日、いつもと言ってもいいほど抱いていただけである。テレビを見ている時、話している時、家族団らんとしている時、悲しい時、泣いている時。
「できたわよ」
キッチンから快活に聞こえる母さんの声を耳にして、私は立ち上がった。
「そうなの…あ、もうこんな時間。そろそろお布団しかなきゃ」
「待ってよ、母さん…それで、さ…ぁあ」
すっかり酔わされていた。母さんと話してはや二時間。時の流れは速いものである。
それにしても、母さんはいくら飲んでも酔わない。豪酒である母に比べ、私は父さんに似て弱い。やはり遺伝の問題だろうか。
「今日は泊まっていきなさい。アンタ、すっかり泥酔なんだから」
「私ゃ、まだゃ大丈夫ょ。今からゃ帰りゅんだゃ」
「そんなこと言って。すっかり千鳥足じゃない」
母さんは笑いながら布団を敷く。
「ふぁふぁるぁじゃなきゃよ。けえれるょ」
もう意識が薄くなり、今なら車に乗って十秒で事故になる自信がある。しかしそれでは死ねない。
「ほら、敷いたからここに寝転がりなさい」
私は母さんに支えられながらも、千鳥足でその布団の前まで来た。そして母さんは私自身を布団に投げた。
「私ゃかえりぇりゅもん」
「はいはい。おやすみ」
母さんは和室を暗くして、ドアを閉めた。
エアコンは付いているようだが、まだ部屋は暑かった。体が火照ってきた。布団を押しのけ、足をばたばたさせた。
「暑ぅーいー」
大きな声を出して暑さを紛らわせた。一度体を起こし、勢いよく布団に戻った。
「暑ぅーいー」
また大きな声を上げた。まるで立ち上がれない怪獣のようなうめき声だった。体から出る熱と汗がエアコンの冷風によって冷やされ、瞬時に体温が冷めるような気がした。その寒さに身震いした。
ここは和室で、この部屋は仏壇の部屋と隣り合わせにある。父さんの部屋はしんみりと閑静で、真っ暗である。
やっと私は寒さに落ち着くことができ、それとも凍ってしまったのか、頭が急に機能しなくなった。うめきながら、鳥肌になっているのを感じた。
すると仏壇の部屋から扉を抜けてすっと出てきた、白い光りが見えた。それには見覚えがあり、懐かしかった。
「…元気か?」
酔いはすっかり醒めていた。健全そのもの。
「うん…これは…夢?」
「違う…お前の中にいる、私だ」
父さんだ。顔も、声も、すべてが合致している。唯一違うのは足がないことだ。懐かしくてたまらない。目から涙が溢れる。
「こんな夜分にどうしたんですか?」
「お前…死のうとしただろう」
「…そんなことないです」
「嘘をつくではない。そんなことを教えた覚えはないぞ」
父さんは恐い。いくら久しぶりでも自殺願望の娘を見られたくない。だから目を背け続けた。
「こっちをみろ。こんな姿になっても、私はお前のそばでいつも見ている。お前が今すぐにでもしたいこと…自殺をしたいこと」
「そんなことはありません」
この言葉に、ついに父さんは喝を入れた。
「嘘をつくな。貴様、まだ嘘をつくというのか。私はいつもお前を見ているのと同時に守っている。だから分かるのだ。お前がやりたいこと、悲しんでいること、誠也のこと」
「その誠也は、もう…いないんです」
私を見下ろす父さんが何だか酷だった。えらそうで、嫌悪感を漂わせて、その場にいるのが嫌だった。
しかしその父さんはそんな気もせず、落ち着いた口調で言った。
「ばか者。お前の気持ちはそんなに小さいものではないだろう。誠也が産声を上げたあの時、私も心底喜んだ。だがその喜びは私以上だったはず。それならなぜ今は誠也に対する思いが死人より小さいのか、答えて見せよ」
頭に強く響いた。いや、震撼したと言うべきか。何と表現するべきか、心に響いた。それが適語だろう。
「お前は何をするべきなのか、お前は分かっているはず。ならば私はもう用がない。もう行くぞ」
「あ…父さん…」
そう言い残して、煙を立ててその場から消え去った。煙は一旦天井をグルグル回っていたが、直に仏壇の部屋へとドアの隙間に吸い込まれていった。
その一部始終を見ていた私は、パタッと布団に倒れこみ、父さんに聞きたかったことを考えた。
私が何をするべきか。そんなこと、分からなかった。自殺願望からせねばならないという使命を預けられて、しかもその内容が分からない。どういうことか聞こうとしたが、それを自分で考えろとでも言っているかのように、早々と消えた。どういうことなのか分からないから助言を求めたのに。
さらに分からなくなってくる。会話を沿うと、私はもっと誠也を思えということか。だが誠也の現在地は不詳。見えない姿をどう思えばいいのか。そのすべが分からない。
会話を思い起こしてみる。父さんが言うには、私は誠也のことを愛していない。だがそんなはずがない。そして父さんは、今では私よりも誠也のことを愛し続けている。
あれ。私が誠也に込める愛って、何だ。
以前には分かっていたものを、すっかり忘れていた。いなくなってから、誠也を見なくなってから、いつもの生活が当然だと思っていたからこそいつもどおり愛を振舞えばいいと思っていた。その愛を振舞う相手がいなくなると、この思いはどこにぶつければいいのか、どこにぶつけていたのか。答えはない。いつの間にかなくなっていったのだから。
それが、父さんが言いたかったことなのか。いや、これは自分が決める指針だ。
しかし実際、どこかでまた誠也に会える日を願っている自分がいる。誠也と一緒にいる時を想像している自分がいる。
まだ、誠也が諦め切れていなかったことに、気付いた。
そして小さく、また涙を流して、つぶやいた。
「まだ…また…会いたい…誠也に…会いたい…」
今日はこれで何回泣いただろうか。あそこで一回。あそこで一回。あそこで一回。それに誠也がいなくなってから何回泣いたことか。それよりも誠也と過ごした日々の思い出が強くなった。あそこで走り、あの時一緒に楽しみ、あんなことで笑った。
私は決心することができた。誠也との日々を取り戻すこと。
私は涙を拭いた。
「あんた、いつまで寝てんの。いい加減にしないと、追い出すわよ」
まぶたが重い。体が重い。動かない。二日酔いからの体のだるさ。
母さんの目がうっすらと開けたまぶたの間から見えた時、どうやらあれは夢だったようだと気付いた。
「おはよー…」
目を閉じたまま、私は声のする方を向いた。
「あんた、いつまでそんなことやってんの。お父さんに見られていますよ」
まぶたを開けると、そこには煙が見えた。仏前からだった。
「母さん。煙が…」
「あら、本当。火事にならなくて良かったわ。それより、どうしてかしら」
母さんは仏前の煙を消そうと水を持ってこようとした。
だが、私にはそれに見覚えがあった。もしかしたら、ということで。
「だめよ、母さん。これは…」
続かなかった。まさか父さんだなんて言えない。バカにされるに決まっている。
しかし母さんは予想外の事を言った。
「…そうね。父さんがいるもんね」
その時、私は昨日、母さんが私に大量の酒を飲ませた理由が分かった。私を改心させるための賭け。それが本当の理由だ。
やっぱり私のことは何でもお見通しなんだな、としみじみに思った。
母さんの家にしばらく滞在して、母さんに励まされ続けた。そのこともあって、決心もあって、家に帰るとこれからどうするかと考えた。
そして私は一つの案を案じた。あのデパートに行くことだ。もしかしたら私も警察も見落とした、何か手がかりがあるかもしれない。この世にいる金色のアリを探し出すような話だと思うが、その確率にかけてみようと思った。何もしないで心を蝕まれていくなら、最後まであきらめない気持ちでいたほうがいいからだ。
しかしいつまでもそんなことはできない。昇だって自分のことでいっぱいだ。つまり仕送りなんて期待できない。私も働かなければ。そこでまたひらめいた。誰でも思いつきそうだが、デパートで働けばいいと思った。
私はこれを機に新たな自分のきっかけを手にできそうな気がした。そして誠也にも会えるような気がした。
それを考えたのは、誠也がいなくなって一ヵ月半のことであった。
「あ、テレビで見たことある人だー」
「ねえねえ、誠也君、どうなの?」
「あなた、こんなところにいて、大丈夫なの?」
あーあ、やっぱり働きに出るんじゃなかった。
こんなことになるのは目に見えていたはずなのだが、いざとなると、やはりため息をついてしまう。嫌な空気にいるのは辛いが、今が辛抱どころだと思うことで私の中にある柱が倒れないでいてくれる。ある意味自分に支えてもらっているという変なことなのだが、私はそれでよしとしている。まるでもう一人の私が私の中にいるようであった。
しかし二週間の日を過ごすと、さすがにヤジはなくなった。どちらかというと同情の念が言葉から変わってできたものが今の状態だと思える。半ば同情のような目で見られるのが逆に首を絞めているのも気付かずに、彼らは眉間にしわを寄せるなり一瞬こちらを見るだけで何もしようとはしない。私は今までの苦痛の蓄積をさらに増すきっかけを、さらに作ってしまったような気がする。
そんな時、誠也のためだ、と思うだけでそんなことを忘れてしまう。最近分かったことは、私が弱いということ。誰かに依存していないと生きていけない、そんな人間だ。
私は自身に自信がもてないでいても、扉の前で一呼吸をし、私の担当売り場へと足を進めるのであった。
「あー、疲れた」
居間に入り、すぐにイスに座る。机に突っ伏し、またため息をつく。
私の服が揺れる。私はそのことに気付かない。何かが私の頬を優しくなでる。
「いつになったら…」
その時、後方でバタンという大きな音がした。私は即座に振り向いた。居間のドアが閉まったのだ。
「何だ、風か…」
私は再び机に突っ伏した。そのまま眠ってしまった。
その日、私はひどく疲れていた。いつも来る人が多く休んで、そのため人手不足で、いつもより多く働かせられたのだった。
その時も、それからも気付いていないことだが、帰ってきたばかりで、部屋はまだ窓を開けていなかった。もちろん風も吹くはずがなかった。私は頬を何かになでられていたことによって、風だと思ってしまっていた。
私はすっかり夢の中にいた。
「あーあ、今日も疲れた」
今日も変わらず、偏見な目で見られて苦痛を十分というほど味わった。
「どうしたんですか。また何か言われたんですか」
渋野は唇をなめて、鏡に向かって化粧の確認をしていた。
「いえ、別に…ただ今日も疲れたなって」
渋野はここに来て二年目という。最初にここで友人になった人で、他の人に比べて人と関わるのに、唯一抵抗がなかった人物でもあった。顔立ちもよく、どちらかというと美人で、私よりも五つも年下であるが、私よりも仕事の能率がはるかにいい。覚えもよく、性格もいい。ここにいるのが申し分ない人材である。なんでこんなところにいるのだろうか、と顔を見るたびに思う。一流の会社にでも入れたであろう。あえて言うなれば、唯一の欠点は少々自己中なところと毒舌ぐらいであろう。
私は渋野が化粧を終えたことを知り、一声かけた。
「今日はどこかにお出かけ?」
「まあ、そうです。彼とちょっと」
渋野は満面の笑みだ。
「お疲れ様」
「お疲れ様でした…そういえば、今日、彼が大事な話があるって言ったんですが、何だと思います?」
渋野はドアノブを握り、ドアを半開きにしたまま立っていた。最近、渋野は私にそういう相談や話をする。付き合って二年目という。私が既婚者で、人生の先輩であるという理由なのだろうか。他にもそんな人はこのフロアだけで二十人はいるだろう。
私は思いついたことを渋野に話した。
「もしかして、デート先は高級なレストラン?」
「え…なんで分かるんですか…」
渋野は不思議そうに私を眺めていた。
私は話を続ける。
「男ってね、単純なの。高級レストランの後は…ってことよ。その後は自由に想像しなさい。別に悪いことなんてないから」
「はー、分かりました。ありがとうございます」
渋野はまた微笑み、ドアを開けた。
「じゃ、気をつけて行ってね、渋野さん」
「では、お先に失礼します。それと、私のことは下で呼んでもいいですよ、霧生って」
渋野はそれじゃあと言いながら扉を締めた。
私は渋野の若々しさに少しうらやましかった。ただ戻りたいというわけではないが、あの新鮮な感じが、ただうらやましかった。
私は制服を着替え、身支度をすると足早にその場を後にした。
もうすっかり寒い時季になった。その寒い空の下に出てきたのは場違いのようで、一度はデパートの中へ戻ろうとも考えた。しかし逆に考えれば私はそこに居合わせても同じような気がする。それで今自転車にまたがってショッピングモールを走っている。
もう外は暗く、街灯が点々と点いているその中で、人は人と手をつないで歩いている。店も華やかな飾りで、見事に夜の街を演出している。
そんな時、ふとある店の光がまぶしく、その店から目を避けようとしたら、一瞬視界に誠也を連れた昇の姿が映った。
私は再びその店の前を見てみたが、やはりそこには昇の姿が見えた。しかし誠也はいなかった。今ではもう誠也の姿が亡霊のように映るようだ。それより今一番会いたい人と会いたくない人が同時に見えたのが、なぜだか嫌に感じられ、さらに嫉妬心にも駆られた。
私は昇に声をかけられるはずがなく、そのまま見てみぬふりをして帰路に着いた。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
私は夢で目覚めた。またあの夢だ。今までこんなことはよくあったが、こう立て続けに同じ夢を見るのは初めてのことであった。もう一週間になる。その夢を見始めてから毎日見ないよう祈った後に寝ているのだが、寝るたびに苦しめられ、首を絞められ上げながらあの夢を見る。そんな夢を見るぐらいなら寝ないほうがましなのだが、そんなわけにはいかない。まったく皮肉なものだ。
こんな時、私は起きて一度居間に入り、そこでのどを潤す。そして落ち着いた時にはもう、居間を出ようとしている。向かうところは決まっている。
主寝室に入りベッドに腰をかけると、その横にある小さな机の上の写真を手に取る。三人が写っている写真だ。家を建てた時、記念として一枚、皆が笑っている。私は誠也の顔を指でなで、じっと写真を見つめた。そしてため息のように出てくる一言。
「誠也…」
こんな時、決まって無意識に目から涙が溢れ出し、誠也の顔が歪む。目をいくらこすっても隙間から溢れ出てくる涙は、写真を見る私をやめさせたいのか、または目が早く寝たいというつもりでやめさせたいのか、とりあえず写真を元の机に置き、ベッドに寝転んだ。しかしまだ涙は溢れ出してきて、目をつぶってもなかなか止まる気配はなかった。
窓からカーテンを透かして入ってくる月明かりは、涙の中を屈折して私の瞳に到達したその時、私は再び夢の中へ落ちた。
まるで美しくも、永遠の眠りに陥ってしまったかのように。
誠也がいなくなってから三ヶ月半、警察からの連絡がない。昇が出て行ってから一ヶ月、もうすぐクリスマスだというのに何も連絡をよこさない。
もう誰からも連絡を途絶えてしまった私の背後には、孤独という崖があるだけであった。
三ヵ月半、私は誠也の消息があるのを信じて必死に祈って生きてきた。しかしその可能性は日々が過ぎることに薄れていくことぐらいは分かっている。同時に祈る時間も長くなるのも知っている。やらないよりましであろうという考えが私の理性を押さえつけ、私をあがかせる。
もし、今、ここに誠也がひょっこりと現れたら、私はどんな行動を起こすだろうか。幻影を見たんだと誠也から目をそらすであろうか。思いっきりひっぱ叩き、激怒し、睨みつけ、最後にこの胸いっぱいに血が止まるほど抱きしめるだろうか。もしそうしたら、映画のように上手い具合に涙が出るだろうか。昇にすぐ連絡できるだろうか。そして昇はすぐに仕事を放り出して飛んでくるだろうか。
しかし実際にはそんなことはありえない。それは映画の中だけの話。私は再び現実を見つめ始めた。
昇のように仕事をしていると忘れはしないが、昇の気持ちも分かってくる。あの時はこんな気持ちだったんだ、みたいに。確かに仕事に打ち込むことで寂しさを紛らわすことができる。悲しいことだが、これが人間の本性であろう。
人には夢中になれる一つのことが大切だと思う。そうすれば私みたいに崖に近づかなくてすむ。
しかしそんな私に手を差し伸べる、一つの事件が、勤めているデパート、近辺の店で起こった。
「もうそろそろこの仕事に慣れたでしょ。明日から夜勤にも回って頂戴」
その一言から始まった。私の人生が大きく揺れ起こったのだ。
副支店長らしき女性は機嫌悪そうに控え室を出ていった。
「なんか嫌な感じですね」
その場に霧生は居合わせていた。霧生は嫌悪感を顔に丸出しに、周りに私以外誰もいなかったからいいものの、私は苦笑いで答えた。
「そんなことより、明日から夜勤って何?」
霧緒は髪を結びなおしながら、少しの間考えていたが、後に納得したように言った。
「あ、そうですね、まだ知らないんですね。というより、これは夜勤じゃなくて、どちらかというと夜警ですけど、なんか、この辺のスーパーやこのデパートでですね、毎晩お菓子の袋とか歯ブラシとか洋服とか、とにかく色んなものが落ちてるんです。お菓子なんかは全て中が空で、日用品なんかがなくなるそうです。物騒ですよね。というよりも変わった泥棒ですね。でも三ヶ月ほど前ぐらいからですから、もうとっくに捕まってもいいんですがね。警察も何やってんだか…もしかしたら幽霊だったりして」
私はぼーっとしながらその話を聞いていた。そんなことがあるはずがない。姿が見えないわけではないのに。
そして私はあちらこちらへと意識を浮遊させているうちに一つ疑問にたどりついた。
「ねぇ、監視カメラとかには何も映ってないの?」
霧生は機敏に反応した。
「いや、まあ、機能しているはずなんですが、映っているのは…物が棚から勝手に落ちるところとか、ポテチとかが宙を浮いて、ポテチ自体は見えるんですが、いつの間にか中身は殻で、袋がその場に捨てられたり、しかもそこを調べてみると、ポテチのカスとかが落ちているんですよ。それ以外は何も。何でしょうね、本当に幽霊だったりして」
霧生は子供のように喜んでいる。まあ、その気持ちを分かってやらないわけでもないが。
しかしそんな余裕も後にやってくる不安には勝てなかった。
じつは、私は幽霊とお化けとかというのが嫌いであった。いないというのは分かっているのだが、いないという理性が逆に怖いと思わせているようだ。
すると突然、新たな疑問が浮かび上がった。
「もしかして、夜警って一人でやるの?」
「いや、なんか私とみたいですよ」
私はほっと胸をなでおろした。
霧生は化粧を終えると、私に呼びかけた。
「早く行きましょう。またあの人に怒られますよ」
霧生は先に出て行った。
私もその後を小走りでついていった。
その夜、私は布団の中であの夢を見ないよう祈っていると、ふと一つのことに気付いた。それは明日の夜勤のことであった。
この夜勤が始まったのは約三ヶ月前、誠也がいなくなったのは三ヵ月半前、そして相次ぐ窃盗のような事件はデパートの近辺とデパート自体で起こっている。ということはもしかしたら、という希望が湧き上がってきたのだ。
私はその希望を胸に知らずのうちに眠りに落ちていた。
その日から、あの夢は見なくなった。
「さっさとやって帰りましょうよ」
「…そうね」
霧生は私を急かし、今にも行きそうになっている。
希望は確かに胸にあったものの、やはり暗いデパート内を歩き回るのは怖い。私は足をがくがくしているのを抑えて霧生についていった。
「そういえば霧生さん。なんで私たちがやらなきゃいけないの。警備員とかいないの」
「いますけど、少ないより多いほうがいいってこのデパートの支配人が」
霧生は微笑んだ。
暗く狭い道を懐中電灯一つで照らしてゆっくりと歩を進めた。コツ、コツと足音が通路じゅうに響き、空気はまだ生暖かい。
私は霧生の肩を持ち、腰を引かしながら進んでいる。
すると、遠くで音がした。カーンという音だ。缶でも落ちたのだろうか。霧生は興味津々のようで、その反対にびくびくしている私がいる。
そして霧生は言った。
「大島さん、何でしょう、あの音って。行ってみませんか」
私はその言葉に対して、またびくっとした。
「いや、私は…」
「行きましょ、行きましょ。何か二人だと楽しくなってきますね。私、いつも一人でしたから」
霧生は私の手を引っ張り、私はされるがまま引っ張られた。本当は行きたくないが、腰が引けて力が出せなかった。抵抗できずに私は前のめりで歩いた。
「結局…何もなかったですね」
「あら、何だか嬉しそうじゃないわね」
「それはそうですよ。出なかったらこれやってる意味ないじゃないですか」
霧生はどうやら幽霊やらが出てきて欲しかったらしい。何を好き好んでオカルトに走りたくなるのか分からない。
「出なくて何よりじゃない。平穏な日が続くって」
「そんな殺生な…」
「でも、また今度あるじゃない」
「そうですね。それまでめげなければ…」
次の夜警は一週間後であった。霧生はそれまで待てないようで、すぐにでもできないかぶつぶつと呟いていた。
だがそのたった一週間の間に、私が勤めているデパートで四度も騒動が起こった。盗まれ、食べ散らかせ、挙句の果てには者が宙を浮くなど、幻覚極まりないことだ。
しかしそれが私にとって、変に頭の中をくすぐられる。かゆくて仕方がない。
霧生も一日が過ぎるごとに興奮が収まらなくなってきている。
そして今日は二回目の夜警の日。何もなければいいと思っていたが、心のどこかで、何かを期待していた。大きな期待だった。
食品売り場に着き、音のした方へ向かった。飲み物置き場と踏んだ私たちはそこへ急行したものの、そこには何もなかった。
そこで霧生は一つの提案を出した。
「大島さん、別れて捜索しませんか」
私は驚いた顔をして霧生を見た。
「では、私は右へ行くので、大島さんは左へお願いします。では、また」
「あ…」
霧生は懐中電灯を持って、足早に行ってしまった。まるでスキップをしているようであった。
私はそこに取り残された。周りは暗く、もちろん誰もいない。しかも懐中電灯は一つしかないのに、霧生はそれを持っていってしまった。本人はそのことを知っているのか知らないのか。まったく笑い事ではない。私にとっては一大事だ。
どうすることもなく、私はしばらく近くにつかめるものを握って、姿勢を低くしていた。しかしそれもつかの間で、誠也のことを考えると、確かに一歩を踏み出した。
左へ曲がり、一つ一つの列を通り過ぎる度に、辺りを見回しながらゆっくりと前へ進んだ。遠くのほうで足音がするが、それはもう誰のものなのかは分かっているので、その音だけに気に留めれば、他の音はまったくというほど怖く感じられなくなっていた。
そしてある列を覗いた時、私の目に異様な光景が映った。
それはポテチの袋が宙を舞い、そこからポテチが出されたと思うと、まるで人が食べているかのように、音も出さずに消えていった。
それを凝視していた私は、悲鳴なんかより驚愕のほうがはるかに大きかった。そこですっかり腰を抜かしてしまった私はその場に座り込んでしまった。
そしてポテチの袋はそこに落ちると、私の声を駆けつけた霧生がやってきた。
「どうしたの。何か見たの」
もう年の差なんて関係がない。すっかり夢中だ。
すると霧生の後ろから警備員もやってきた。まだ中年の少しおなかの出た男性であった。
「どうしたんですか」
私はそのことに気付かず、ポテチの袋を指差していた。
その指先を見た霧生と警備員は、今度はそこへ歩み寄った。
「ははーん、まだこの辺にいるかも。大島さん、もしかしたらまた、ここに来るかもしれないから、ここにいてください」
そう言い残すと、霧生はそそくさと行ってしまった。その後を警備員がついていった。私は一人になった。
しかし私は霧生の言うとおり、その場にいた。腰を抜かしてそこにいるのが現実なのだが。
すると肩を軽くたたかれたような気がして私は振り向いた。しかしそこには誰もいなかった。
私はしばらく何か出るまでじっと通路を見つめていた。何を期待していたのか、よく分からない。しかし何か出るまで止めようという気もしなかった。ただ、何かを望んで待っていたかっただけのことかもしれない。
しかし期待通り、次の瞬間、再び不可思議なことが起こった。
それは棚からアメの袋が一袋取られ、開けられたと思うと、その場に一つのアメを落とした。そして少し離れたところにまた一つ、また一つと落とされた。
さすがにまた驚いてしまったが、今度は悲鳴を上げなかった。なぜだか知らないが、やけに落ち着いていた。私に危害を加えないと分かったから。私自身がその行動に何だか分からない共感を得たから。両方の、また、他のことも考えられるだろう。
そのままアメを落とし続ける得体の知れないものは、何だか私を誘っているようで、私に何か伝えたいというものも心に強く感じる。私はそのアメ玉の先に何があるのか気になった。私に伝えたいことはなんだろうか。
私はその後をついていくことにした。立つ時、私の体は素直であった。
通路を抜け、アメが落ちてあるとおりに歩いた。まだ前のほうにぽつぽつと落ちている。通路からレジへ、レジからまた通路へ、今度は止まっているエスカレーターまで上ることになった。そこからは遠くのほうで光がゆらゆらと動いているのが見えた。暗くて足元がよく見えない。その光が欲しいぐらいだ。私は時々転びそうになりながらも、最後まで上りきった。
そしてアメは洋服売り場の中に入っていった。あの洋服売り場だ。誠也がいなくなった、あの洋服売り場だ。私はそこに入るのを少し躊躇しながらも、ゆっくりと歩を進めた。アメはあの試着室の前まで続いて、もうそれ以上はなかった。
そして私は胸の鼓動を抑えながら、その試着コーナーのカーテンを開けた。
悲鳴であった。私はいつの間にか、また叫んでいた。そして次に出た言葉に私は驚いた。
「誠也…誠也…」
誠也は立っていた。そこには誰もいない。どちらも正解。誠也は鏡の向こうにいたのだ。
「大島さん。どこ…」
遠くの方で霧生が叫んでいたが、私は気付かなかった。
「誠也…誠也…」
私は鏡にへばりつきながら、その時何かを押しつぶしているような気もしたが、涙を勢いよく流していた。まるで涙腺が切れたかのように、面白いように出てくる。心がはちきれそうであった。胸が爆発しそうであった。その裏には何も感じられなかった。
私は鏡をたたいて割ろうとしたが、私の肩をたたく影に気付いた。私は鏡を見直した。
誠也が二人、そこにいたのだ。なぜ二人いるのか、私は分からない。
二人の誠也のうち一人が白い息を鏡に吹きつけ、文字を書き始めた。
ぼくは だいじょうぶだよ
すべての文字は逆であったが、それは私への会話するための手段であることに気が付いた。
私も息を鏡に吹き付け、文字を書き始める。
なんでそっちにいるの その子は
文字を書く途中で気が付いた。誠也は鏡の世界にいる。こちらの世界にはいない。つまり鏡の世界にはこっちの世界の誠也と鏡の世界の誠也と二人いる。なぜだか分からないが誠也はこちらの世界では透明人間として生きているらしい。よくよく見てみると、一人の誠也のトレーナーにポテチのカスがついている。
このこは ぼく このこ ひとりで かわいそう
いろいろと考えている間に誠也は文字を書いていた。
パパは どうしたの パパとママは どうして ぼくを みないの
私はまだ泣いていたが、文字を書いた。目の前が見えなくても、誠也に思いをつづることはできた。
みてるわ ママはいつも みてるわよ
そして私は鏡の中の誠也を見て、二人の誠也を抱いた。見えなくても、実際に触れなくても、ここにいるという意識だけで幸せだ。もうこのまま、一生いたい。一生、抱いていたい。もう離したくない。私の脳裏にはあの辛い思い出がよぎり、その記憶が消えたと思うと、新しい新生活、つまり未来の私たちの幸せな生活が映った。今の私なら何でもできるだろう。
「大島さーん。どこですか」
霧生の声と足音は近づいてくる。
その声を聞いていた私は誠也たちを放し、急いで鏡に息を吹きつけ、指を走らせた。
せいやはやさしいのね すぐかえるから そのこをつれて いえにもどっておいで
わかった ママもはやく きてね
誠也はそう書くと、試着室を出て行った。
そのすれ違いに、霧生と警備員は到着した。
「大島さん、どうしました」
私は涙を拭き、霧生のほうを向いた。
「もう…解決したわ…」
「え…何がですか」
私は優しく微笑んだ。
「秘密よ」
私の鼓動はまだ高かったものの、しゃくり声のおかげで何も気付かれなかった。霧生は私に事情を聞こうと何回も聞いていたが、私の耳に入ってくるはずがなかった。私は鏡を見ていたのだ。鏡の奥にある、未来と希望を、私は感じていた。
その後、まず最初に警察に捜索の中止を申告した。そして私はすべてを受け入れた。誠也が鏡の中にいる理由は分からないものの、私は誠也のすべてを受け入れた。透明人間で、鏡を通してではないと見えないけれども、こういう生き方と二人の誠也を。昇はこんなことを信じないであろう。私は昇との関係を断絶させて、私は一人で誠也を育てる。辛い日々は戦争が終戦したように終結した。もう、何も恐れない。恐れることができない。あの日々を思い起こせば、もう。
もう、私は一人ではないからだ。
梅雨の明けたある夏の昼下がり。空は水が澄み切ったように青く、いつもより高く感じられた。少し時期の早い蝉が遠くで鳴き出していた。アスファルトからはムッと熱い気泡が込み上がるように打ち上げられた。
私は家へ帰る途中であった。左手には一つの買い物袋、右手には自分のバッグ。私は一つの水溜りをよけて歩くこともせず、ぴょんと飛び越えた。
太陽は地面を強く照らしつけていた。水溜りを反射し、鏡のように見える。そして空と一緒に映っていたのは、三人の人影だった。
これからの参考にしたいと思いますので、良かったら感想をお願いします。よりよい作品作りにご協力ください。