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現在35歳のあたしが20歳だった頃。
あたしとは別々の大学に進学した孝之は、陸上部に入っていた。
高校の時、あたし達は付き合い始めたんだけど、その当時既に陸上部だったからきっと子供の頃から走り続けていたに違いない。
あたしが覚えている高校時代の孝之は、体育祭のヒーローだった。
こんな時しか見せ場のない陸上部だが、ルックスも抜群だった孝之がクラス対抗リレーのアンカーで走ると学校中の女の子から黄色い声援が上がったっけ。
運動全般が苦手なあたしにとって、体育祭は嫌がらせのような行事だったけど、この時期だけ輝いている孝之に羨望の眼差しが注がれるのは悪い気はしなかった。
この時期だけの俄か孝之ファンが急増して、ライバルに恨まれるのも寧ろ優越感だった。
何しろ、当時から孝之はあたし一筋だったんだから。
大学に入ってから、バイトしたり、サークルに入ったりとチャラい青春を謳歌していたあたしとは反対に、孝之は硬派に陸上部に入って走り続けた。
高校時代の専門は中距離だったのが、ある時、大学の代表で駅伝に出るから見に来てくれと言われてあっさり断わった記憶がある。
理由は寒かったからだ。
その当時、既に倦怠期に入っていたあたしは、孝之の真剣な気持ちを邪険にしてきたと思う。
大学が別々になった事で、二人の距離が広がってしまったのも事実だ。
勿論、その後、こんなに早く死んでしまうって分かってたら対応の仕方も変っただろう。
でも、その時はあたしも自分の大学生活が充実していて、思えば、この頃から孝之の存在は薄くなり始めていた。
あたしに断わられた孝之は明らかにムカッとしていたが、唇を噛んで黙っていた。
孝之のアスリートとしての思い出は、そこからプッツリなくなっている。
多分、孝之はガッカリしたんだろう。
あたしに陸上部の事を話さなくなったのはそれからだった。
◇◇◇
その空白の期間の孝之を知る人が今、あたしの目の前で敵討ち宣言をしている。
その仇が目の前にいるとも知らずに……。
こ、これはマズイ展開だ。
あたしはこのままバレる前にバックれようと少しづつ後退りをした。
「教えて下さい! 私、先輩を裏切って自殺にまで追いやったその女を殺してやりたいの!」
カウンターに身を乗り出して、涼子さんは孝之が憑依した執事さんの手を取って縋りついた。
裏切って自殺に追い込んだなんて、酷い言われようだ。
どんだけ悪女だと思われてんだか。
でも、涼子さんさんの必死な目を見ていると、仇であるあたしが黙ってフェイドアウトしていくのはちょっと武士道に反するような気もする。
もう少し様子を見ようと、あたしは立ち止まった。
カウンターから涼子さんの手を取ってそっと押し返すと、孝之は優しく笑みを見せた。
あたし以外の人に向けられたその微笑に、胸の奥がギュッと痛む。
あれ?
あたし、今、ムカッてした?
「心配させてゴメンな。でも、俺は自殺じゃないと思う。結婚しようとしてた女にフラれたのは事実だけど、死んだのはそれから何年も後だし、死因は自分でもよく思い出せないんだ。でも、佐々木はそんな事心配しなくていい……」
「嘘! 私、知ってるんです! 高校の時から一途に愛してた先輩をその女が捨てたんでしょ? 駅伝の時だって、優勝したらプロポーズするんだってずっと練習頑張ってたのに、その人、見に来てもくれなかったじゃないですか! あの時、先輩がどんな思いで走ってたか、私達、知ってたんです! ここにいるのだって、その人に未練があるから成仏できないんじゃないですか? だったら、私が殺ってやります! 遠慮しないで言って下さい!」
「遠慮なんかしてないって……。あー、でも、そんな事までバレてたんだな。俺、みっともね……」
孝之は、執事さんのオールバックの前髪を照れ隠しにガリガリ掻いた。
彼の視線がチラリとこちらに注がれて、あたしの視線とぶつかった瞬間、さっと逸らされる。
孝之がメチャクチャ照れてるのが分かった。
あたしには聞かれたくない話だったに違いない。
勿論、当事者のあたしは覚えていた。
あたしは……。
あたしはその時、ガーンと殴られたような衝撃を受けてその場に立ち竦んでいた。
だって、あたしにも全部分かっちゃったんだから。
孝之が駅伝を見に来てくれって言ったのは、あたしにプロポーズする為だったんだね。
その為に、極寒の中、何キロも走って練習して、頑張ってたんだ。
あたしの為に……。
そんな孝之の思いを考えもせず、あたしは「ゴメン、寒いし無理!」の一言で断わってしまった。
孝之はどんなに悔しかっただろう。
涼子さん、いや、孝之と一緒に走ってた陸上部の仲間達は皆知ってるんだ。
孝之がどんなにあたしを好きで、その為に頑張ってたかを。
知らなかったのは、恋人だったクセにあっさり拒否したあたしだけだったんだ。
涙がツーッと頬を伝っていくのが分かった。
あたしの視線を避けるように、孝之は興奮している涼子さんを宥めている。
さっきまで、涼子さんの事知らないって言ってた理由がやっと分かった。
きっと、駅伝の事は孝之が墓場まで持って行きたい秘密だったんだ。
それを何よりもあたしに知られるのが嫌だったに違いない。
見栄っ張りで強情な孝之らしい。
でも、今、全てを知ってしまったあたしには、逃げる事はできなかった。
あたしはカウンター越しに殺す、殺さないの攻防を繰り返している二人の前まで歩み寄った。
涙をポロポロ落としながら佇むあたしに、二人はギョッとして硬直した。
その二人の前で、あたしは神のお告げを託された巫女のように厳粛な顔で宣言したのだ。
「涼子さん、あなたの殺るべき仇の女が誰だか分かりました。今度の日曜日の朝、市の陸上競技場にその女は現われます。孝之さんの霊を慰め、成仏に導く為にも、あなたはその女とマラソン対決をしなければなりません。それが、駅伝で思いを伝える事ができずに逝ってしまった孝之さんの心残りを取り除く事になるのです。
いいですね、次の日曜の朝八時に陸上競技場ですよ!」
ポカンと口を開けたまま、孝之と涼子さんは神がかったあたしの口上を呆然と聞いていた。