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「……孝之、何よ、アレ?」
あたしは彼女が出て行った扉を向いたまま、姿の見えない孝之に話しかけた。
「……なんだよ?」
意外にすぐ後ろから、孝之の低い声が面倒臭そうに返事をする。
あたし好みのそのけだるい声も、今、この状況にあってはムカつく要因にしかならない。
くるりと振り返って、彼の声が発せられた何もない空間に向かってあたしはギャアギャア喚き始めた。
「しらばっくれないでよ! 誰なのよ、あの美人?」
「知らねえよ」
「知らないわけないでしょ、嘘つき! あんたの仇討つんだって言ってたじゃない。どーゆー関係の方なのよ! 大学時代っていったら、あたし達まだ付き合ってたじゃん!? も、もしかして、あんた、あたしとあの人二股掛けてたんじゃ……!?」
そこまで言った時、やっと孝之の姿がユラリと現われた。
声と同様、面倒臭そうに腕組みして、あたしを見下ろしている。
背の高い孝之から小柄なあたしを見ると、いつも見下ろされるのだが、今日はその自然の摂理さえもムカつく!
何なの、その上から目線は!?
「……ちげーよ。あんな人、知らねえって言ってるだろ? お前、大学の時、俺が浮気してたって思ってんの?」
「思ってるわよ! そーじゃなかったら、なんで、あんたの仇討ちする必要があるのよ!?……ってか、あんたの死因って何? 交通事故じゃなかったの?」
彼女が言った「自殺した先輩」という言葉が、あたしの頭をよぎった。
孝之の死んだ時の事については、何となく本人に聞くことも憚られて、あたしはまだ知らないままだったのだ。
同窓会で聞きかじった同級生の話では、彼は確か事故死だったような……。
「死因」という言葉に、彼はピクっと反応した。
甘いマスクが強張り、眉間に皺が寄る。
「言いたくない。お前に関係ないだろ。俺がどう死のうが俺の勝手だ」
「関係ないことないじゃん! あの人は孝之が自殺したって言ったじゃない。孝之、まさか、あたしと別れたショックでトラックの前に飛び出したとか?」
その途端。
パン! と何かが破裂するようなラップ音が耳を劈いた。
ついでに棚に飾ってあったコーヒーカップが一組、突然、目の前で破裂した。
棚の上でバラバラになったカップの破片を見つめて、あたしは恐ろしくなって硬直する。
出たあ、ポルターガイスト!
孝之を怒らせちゃったあ……。
恐る恐る見上げた孝之の顔は、やっぱり怒ってた。
色素の薄い目が細くなり、あたしに冷たい視線を落としている。
うわあ……。
イケメンが怒ると無駄に怖い!
幽霊が怒ってる事より、イケメンが怒ってる事実はもっと怖い!
これは先に謝っとくに限る。
あたしは仏様に合掌するように、パン!と両手を合わせて、ガバっと頭を下げた。
「ご、ごめん!あたし、もしかして、無神経なこと言ったよね? 謝る! 怒んないで! これ以上、モノ壊さないで!」
「別に怒ってねえよ。ただ、死んだ時のことは、あんまり思い出したくないんだ。ヤバイ気がして」
「ヤバイ?」
あたしの問いには答えず、孝之は両手で顔を覆って髪をグシャグシャと掻き混ぜる。
その姿が一瞬、光に照らされたかのようにスっと消えそうになって、あたしは目を見張った。
「孝之? 今……」
「俺ね、死んだ時の事は言いたくないと言うより、実はあんまり覚えていないんだ。ハッキリ思い出せないし、思い出したくない。多分、思い出したらヤバイと思う」
「どうして?」
「もういいだろ! これ以上聞くな!」
突然、逆ギレした孝之はいきなりあたしを怒鳴りつけると、苦しそうに顔を歪めたままスっと姿を消した。
呆気に取られたあたしはバカみたいに口を開けたまま、彼が姿を消したその空間を見つめていた。
朝からなんなの、この状況……。
間違いなく、嵐の前触れだ。
その途端に疲れが襲ってきて、あたしは肩を落として溜息をついた。
◇◇◇◇
「ははあ、それでケンカになっちゃったんですね?」
通常営業が終わった夜の8時、あたしは客のいなくなった店のカウンターでオールバックの執事・結城さんに向かってクダを巻いていた。
基本的に人の事はどうでもいいこの執事は、愚痴を零すにはもってこいの相手だ。
執事が淹れてくれたココアをチビチビ啜りながら、あたしは酔っ払いよろしく、グダグダと今朝の一連の顛末を話していた。
「だって、気持ち悪いじゃないですか。涼子さんがどういう人か、孝之のナンだったのか、孝之がどーして死んだのか、結局、何にも教えてくれなかったんですよ?絶対、何か隠してるのに……」
そうなんだ。
今朝のことが少なからずショックだったのは、孝之があたしに嘘をついたからだ。
すぐ分かるような嘘ならつかないで欲しいのだが、そこが昔から彼の不器用なところだった。
「知らねえ」と孝之は言ったけど、そんな見え透いた嘘は高校時代から付き合ってたあたしにはバレバレだ。
問題は、どうして彼が下手な嘘までついて隠そうとしてたのか……。
「そりゃ、二股かけてたから言いにくかったんじゃないですか?」
あたしが一番聞きたくないその一言を、執事は、サラリと涼しい顔で言い切った。
「う……、やっぱり?」
ガクっと肩を落としたあたしの頭をポンポン叩いて、執事さんはクスクス笑う。
「まあまあ。その女性についてはこれから話を聞いてみないと何とも言えませんが、彼の死因について触れたのは地雷でしたね」
「どうしてですか?」
「霊はね、死んでる自覚がないんですよ。と、いうより、自覚してたら現世に留まっていられないでしょう。生に対する執着が強い方が強いエネルギーを持って存在する事ができるんです。それが、死んだ事を思い出すと、自覚してしまうんです。自分はここにいるべき存在ではないってね」
「あ……、じゃあ?」
「井沢君がはっきりと自分の死の状況を思い出したら、消えてしまうかもしれませんね。それは彼にとっては良い事なんでしょうけど」
時折見せる神秘的な霊能力者の顔で、執事さんは切れ長の目を細めて意味深な笑みを見せた。
……孝之が消える?
あたしは思いがけないその言葉に背中が寒くなった。
その時、嵐の来訪を告げるが如く、店の扉の呼び鈴がチリリ・・・ンと鳴った。