11
「おい! 佐々木!」
涼子さんの背後にピッタリついて走りながら、孝之はあたしの口で怒鳴った。
その声に驚いた涼子さんは一瞬、ビクっと体を震わせるとギョッとした顔で振り返る。
ピッタリ後ろについているあたしを見て、幽霊でも見たように顔を引き攣らせた。
体はあたしでも、中にいるのは幽霊なんだからその表現は言い得て妙だ。
孝之は振り返った涼子さんの顔を見上げてニヤリと笑った。
ニヒルなその表情は35歳の女子のあたしには似合わないってのに……。
「見ろ、追いついたぞ! お前、油断し過ぎだよ。兎と亀じゃないんだからもっと真剣に走れよ」
「な、あ、あなた、まさか……!」
驚愕の表情のまま、彼女はその場に立ち竦んだ。
あれだけ走ったのに、急に止まっても息も切れてないのはさすがだ。
孝之は突っ立っている彼女の前に出ると、走っていた足を止めることなく話しかけた。
「そーだよ、俺は井沢だ。今、こいつの体借りてる」
「せ、先輩? 本当に?」
「当りめーだ。こいつが自力でお前に追いつけるもんか」
「う、嘘はもう止めて! もう信じられない! あなた、メイドの傍ら、本当はアスリートなんでしょ?最初から自信があったからマラソンで勝負しようなんて言い出したのね? 先輩が憑依してるだなんて、この期に及んでまだ白々しい茶番劇するつもり?」
「茶番じゃねーよ。本当に俺だって……って、言ってもお前には俺の姿は見えないんだよな」
「当たり前よ! 先輩はもう死んでるんだから……もういい加減、くだらない冗談は止めて!」
己の存在を全く信じてくれない涼子さんに、孝之がだんだんイライラしてきているのが分かった。
完全に傍観者のあたしは、二人のやり取りをただハラハラしながら見守る事しかできない。
人の頭をグシャグシャと掻きながら、孝之は涼子さんを見上げる。
「あーもう、めんどくせーな! どうしたら俺だって信じるんだよ?」
「そうね。本当に先輩だったら、あの駅伝の時にあたしが言った事、覚えてるでしょ?」
「………」
涼子さんは挑戦的な視線であたしを見下ろした。
バツが悪そうな顔で視線を泳がせている孝之。
その表情から、あたしの「女の勘」レーダーがピクッと反応した。
『ちょっと! 何よ、それ? 覚えてるんでしょ、孝之! 何があったか言いなさいよ!』
「うっせーな。お前に関係ねーだろ」
『関係ないとは何よ!? あたしがここで走ってるのは広義で言えばあんたの為でしょ? ホラ、早く言わないと、涼子さんキレるよ』
「分かったから、お前は黙ってろってば!」
一人でブツブツ喋ってる(ように見える)あたしを涼子さんは気味悪そうに見て顔をしかめた。
あたしの声が聞こえない彼女には、あたしが自問自答してるようにしか見えないだろう。
しばらく唇を噛んで黙っていた孝之は、やがて意を決したかのように涼子さんを見上げた。
「覚えてるよ。自己ベスト出たらキスしてくれ、だろ?」
「……!」
涼子さんの顔がサッと赤く染まった。
両手で口元を押さえて硬直している姿はまるで中学生だ。
でも、それは彼女だけではなかった。
ギャグマンガみたいに、あたしの頭の上には「ガーン!!」というふきだしがついていたに違いない。
や、やっぱり、この二人はそういう関係だったんだ!!
ハンカチがあったら口に咥えて「キーッ!!」ってやってたところだ。
ヒートアップしているあたしをよそに、孝之は穏やかに笑った。
「信じてくれた?」
「……」
「俺だよ」
「……それは認めます。でも、してくれませんでしたね、先輩」
少女のように顔を紅潮させて、涼子さんは自分より小さいあたしを俯き加減に見つめる。
その恋する乙女な眼差しに、あたしまでドキドキしてしまう。
だけど、彼女の最後の「してくれませんでした」を聞いてメチャクチャ安心したのは間違いない。
本音を言えば、嬉しかった。
孝之があたしに対して一途を貫いてくれた事が。
孝之は少し困った顔で照れ笑いした。
その笑顔に釣られて、固かった涼子さんの表情もフッと和らぐ。
そして、その顔にはにかんだ微笑みが浮かんだ。
二人は何の言葉も発しないまま、どちらともなく並んで走り出した。
そうやって走るのが習慣だったみたいな自然さだった。
認めるのは悔しいけど、ビジュアル的にも二人はお似合いだ。
少なくとも、あたしなんかよりずっと孝之に相応しい女性に思われた。
並んでジョギングしながら、やがて、孝之は前を向いたまま口を開いた。
「あの時はゴメン。応えてあげられなくて」
「いえ、もう過ぎたことですから。それより、先輩がその後に私に言った事、覚えてます?」
「……」
「私はそれがずっと心残りだったんです。私、一言、先輩に謝りたくて……それで、あの占いカフェに行ったんです。先輩ともう一度話しがしたかった。謝りたかったんです」
「なんだよ。俺の仇討ちが目的だったんじゃないのかよ」
「だから、それはお詫びのつもりでした。せめてもの供養になるかと思って……」
「供養に仇討ちって、お前、すごい事考えるね」
「でも、本当は私にもそんな資格はないのかもしれません。だって、私も先輩に言われた事、できなくなっちゃんですから」
二人はお互い前だけを見つめて黙々と走り続けていた。
気持ちいいくらいのペースで二人は風を切って行く。
その間に流れる穏やかな空気に、あたしは嫉妬するも羨ましかった。
青春時代を共有した者にしか分からない、恋愛感情を越えた絆が二人には確かにあった。
「知ってるよ、結婚するんだろ? おめでとう」
孝之は自分より大きい涼子さんを見上げてニヤリと笑う。
聞き捨てならないその言葉に、あたしはナヌっ!?と目を見張った。
涼子さんは前を向いたまま、顔を紅潮させた。
でも、その顔には幸せそうな微笑みが浮かんでいるのをあたしは見逃さなかった。
「……今の職場の上司なんです。彼が来月、ニューヨークに転勤になるのを期に結婚する事になりました。
私は退職して、彼について行きます。だから、最後にもう一度だけ、先輩と話したかった。話して自分の気持ちを確かめたかったんです。だって、私はずっと……」
そこまで言いかけた涼子さんの腕を、孝之は突然立ち止まってグッと掴んだ。
驚いた顔で振り返る涼子さんに優しく笑った。
「俺たちは仲間だし、お前は俺の後輩だからな。天国で見守っててやるよ。だから、心配するな。お前はその人と幸せになれよ」
「はい、ありがとうございます。先輩……」
涼子さんの花が綻ぶような笑顔にポロポロ涙の粒が零れた。




