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3月になったとは言え、まだまだ極寒の早朝7時。
あたしは寂れた昭和の雰囲気のアーケード街を早足で歩いて、勤務先に向かっていた。
まだ開店前のアーケード街は、昔ながらのシャッターが軒並み閉まっていて、廃墟のような雰囲気だ。
そのアーケード街の一角、自転車屋と乾物屋に挟まれて建っている一店舗。
昭和の雰囲気のシャッター通りの中で、その一角だけ中世ヨーロッパの雰囲気なのが、寧ろ滑稽だ。
オープンしたばかりなのに、蔦が絡まるレンガ造りの外壁。
重厚な木製の扉には鉄板でできた看板がぶら下って、風に煽られる度、ガッタンガッタン騒々しい音を立てている。
『占い&執事カフェ・ロザリオ』
そう書かれた看板をあたしはチラリと見て、溜息をついた。
勤務先とは言うまでもない。
胡散臭い事この上ないこの『占い&執事カフェ・ロザリオ』で、あたしはウェイトレス兼メイドとして勤務しているのだ。
「人生、妥協が大事」
それを人生のモットーにしている店長・結城頼将に、金銭的理由で、半ば脅迫されるように働く事になったわけだが、気が付けばもう一月が経とうとしていた。
店の前であたしは手に息を吹きかけてから、ダウンジャケットのポケットに入っていた店の鍵を取り出す。
店を開けるのはあたしの仕事になってしまったので、鍵を開けるのももう慣れたものだ。
重い扉を開け、店内に入ってからまず灯りを点ける。
こんな時間から喫茶店に来る人間なんている筈ないと思うのだが、この地方には『モーニング』なる制度が昔から存在している。
早朝7時から大体10時くらいまでの間、ドリンクを一つ頼むとトーストとゆで卵に、サラダのセットがサービスでついてくるのだ。
それ故、この地方の人間は、わざわざ早起きして喫茶店に『モーニング』を食べに来る。
その多くは年金暮らしの暇な年寄りなんだけど、この収益もバカにならないので、あたしは敢えて決行する事を結城店長に進言した。
ただ、棺桶に片足突っ込んでいるような年齢の方々に『降霊』は勧められないので、朝はシンプルに喫茶店として営業している。
この店の店長・結城頼将は、オールバックが似合うスラリとした長身のイケメンで、彼を目当てに不味いコーヒー飲みに来る女性客も多い。
このイケメン店長の経営能力が非常に低く、元来、怠け者だという事が分かったのは就職した後だった。
店長のくせに出勤してくるのは、大抵、昼の3時以降だ。
本人曰く、株のデイトレをしている為、東証が閉まる3時まではコンピューターの前から離れられないのだとか。
本職はこの町内に昔からある神社の神主らしいが、この不景気な御時世に神主業だけでは心もとない為、株に手を出したらしい。
儲かってるのかどうかは、よく分からないが、とにかく、彼がいない間はあたしが喫茶店を一人で切り盛りしていく事になってしまった。
いや。
厳密に言えば、一人ではない。
明るくなった店内を見回すと、中央にドーンと構えた半円型のカウンターの中央に、頬杖をついて座っている男が見えた。
天然の柔らかそうな茶髪。
シャープな顔のラインに、整った目鼻立ち。
髪と同じように色素の薄い瞳は、悪戯っぽい外国の子供みたいだ。
いつもの黒いパーカーが、彼の青白い顔をより際立たせている。
長い手足を持て余すように、ダラリとカウンターに座っているその男・井沢孝之はあたしを見て、軽く手を上げた。
「おはよ、恵理」
「……おはよう、孝之」
あたし好みの低い声。
この声だけで、あたしはドキドキしてしまう。
外見だけはイケてるあたしの彼、井沢孝之。
実は彼が3年前に死んでいるなんて、誰が想像できるだろう。
チャラい外見に似合わず、口が悪くて、執念深くて、鬱陶しい性格だった孝之を、あたしは一度フってしまった。
あたし達はクリスマスに再会を果たし、バレンタインに再び愛を確認し合い、また付き合う事になったのだ。
死後3年も経っている元彼と、また付き合う事になるとは思ってもみなかった。
未来のない彼と付き合っていては婚期が更に遠のいていくのが正直、気に掛かる。
でも、あたしはまだ孝之の事が好きなことに気付いてしまったのだ。
もちろん、孝之は死んではいるんだけど、彼曰く、あたしの『見える』霊感体質のせいで、この店になら長時間滞在する事が可能なんだそうだ。
ヘタレな店長の『憑依』体質も手伝って、霊にとっては居心地の良いくつろぎ空間になっているらしい。
注文もしない幽霊にくつろがれても一銭にもならないので、経営側としては、ありがたくも何ともない。
「今日も頑張ろう、恵理!」
「頑張ろうって、あんたが何か手伝ってくれるの?」
「あいつが出勤してきたら、体借りて肉体労働してやるよ。後からあいつが筋肉痛で動けなくなるくらい」
「相変らず、性格悪いわね」
呑気にカウンターで微笑んでいる孝之に一瞥して、厨房に入る。
8時の開店に合わせて、コーヒーとゆで卵の準備はしておかなければ。
その時、ガスコンロの前に立ったあたしの体が突然、動かなくなった。
こ、これは……!?
孝之お得意の金縛りだ。
最初は激しいラップ音とともに店内を破壊するほどの勢いだったポルターガイスト現象が、最近じゃ大分慣れてきて、パワーセーブも上手くなった。
硬直しているあたしの背中から、彼の低い声が囁く。
「恵理、まだ、おはようのキスしてないんだけど……」
だから、そーゆーの反則だってば!
こんな所もイケメン故にかわいいんだけど、度が過ぎると付き合うのが面倒臭い。
こんな冗談が許されるのは、ジャニ顔の20代男性だけだ。
イケてるとは言え、生きてたらあたしと同じ年のくせに図々しいにも程がある。
硬直している体を後ろから抱き締められたあたしは、口だけパクパクさせて、必死に抵抗を試みた。
その時。
ガタン!と入り口の方から、誰かが木の扉を開く音がした。
その瞬間、孝之の金縛りもフっと解けて、彼の姿もその場から消えた。
営業妨害はしたくないのか、幽霊の孝之も一応、空気は読んでいる。
消えても消えなくても普通の人には見えないのに、律儀なヤツだ。
自由を取り戻したあたしは、急いで店内に戻った。
「すいません! 開店は8時なんで、まだ準備中なんです」
あたしがいい終わらない内に、既に店内に入っていたその客は物珍しそうにキョロキョロと店内を見回していた。
「ここって、死んだ人を呼んでくれるんですか?」
ぶっきらぼうにそう尋ねたその客……。
彼女が春の嵐を巻き起こしてくれるとは、まだあたしは気付いていなかった。